ホドロフスキー「エンドレス・ポエトリー」の劇中でも言及されていたが、
実在のチリの詩人で、ノーベル文学賞受賞者でもあるパブロ・ネルーダ。
残念ながらネルーダ作品には接したことはなく、
またその人生についても同様全く知らないのでので実話度数は不明。
でも劇中でのキャラクター描写を見るとどうにも食えない灰汁の強いオッサンなのだ。
貧しい人に寄り添う共産主義者で現政権へ反動的でありながらも、
同時に芸術と女、酒をこよなく愛する享楽主義者でもあるという矛盾を抱えた多層な人物像だ。
崇高な芸術家であると同時に自分勝手な俗人であり、
どこか憎めないけど、単純に愛すべき善人でもない。
そして本作も台詞にポエムが飛び交い、言葉を自由に操る詩人の華麗なる自伝映画ではなく、
奇妙な屈折した追跡劇となっている。
追われる詩人と追う警官という追跡劇が物語の根幹にあり、ふたりの奇妙な関係性こそが主題だ。
反体制として大統領から逮捕命令の下った詩人を確保するために、
うだつの上がらない下っ端警官が執拗に後を付け回す。
ふらりふらりと行方をくらましながらも、決して捕まることなく逃げ続けるが、
逃亡劇としての善玉と悪玉の対比やハラハラドキドキの緊張感や予想外のサスペンスはない。
追手に対して、わざと手掛かりや痕跡を残したりと、半ば愛憎が入り混じった追跡劇が展開される。
彼こそが物語の語り手(視点)であるが、最初は上からの命に従ったはずが、後半に向かい、
何としても我が手で詩人を手にしたいという屈折した愛情を抱き始め、戯れと化す。
追跡という名のゲームであり、物語の定石のひとつだろう。
相手を捕まえることは、同時に相手に捕まることと同義であり、憎しみと愛情は半ば一体と化す。
詩人自身もゲームを楽しみ、その過程から最高傑作と称される「大いなる歌」が創作されたらしい。
警官を演じるガエル・ガルシア・ベルナルがいい味を出している。
捨てられた子犬のような頃からはちゃんと成長して、年を食いいい役者になっている。
バイクを押す姿から出世作「モーターサイクル・ダイアリーズ」を思い浮かぶ。



偏愛度合★★★

※ネタばれなしが理想だろうけど、この際、仕方がないので結論にふれる。

この映画を観るまで、
全く原作やシドニー・ルメット版を未体験で新鮮な気持ちで体験できたい人は幸せかもしれない。
既に結末を知っていると、そこから逆に物語をどう組み立ててあるのかという
構造観察となってしまい、本来とは物語の楽しみ方が全く異なる。
そもそもアガサ・クリスティってミステリー初心者がまず手に取る作家でありながらも、
映画におけるシャマラン監督みたいな位置づけなのだ。
「オリエント急行殺人事件」「そして誰もいなくなった」「アクロイド殺し」と正統派トリックというより、
反則技に近いトリッキーなドンデン返しを連発する。
もちろんごく普通のトリックもあるけど、とりあえずは疑ってしまう、
あるいは常にラストでの予想外の大技を期待してしまう、正統であると同時に異端なのだ。
ミステリー界のシャマランであるクリスティ原作をシャマラン自身に監督、脚本して欲しいものだ。
妄想はさておき、今回はケネス・ブラナーが監督なので安心してられる。
だって基礎がシェイクスピアなんだから、最後のトリックなど予想外の改変やアレンジよりも、
現代の豪華俳優を揃えてアップデートさせてたゴージャスな雰囲気ミステリーだろうと予想していた。
結果は想定内通り。
本来は雪で閉ざされた列車内という密室劇でありながら、カメラを長回しで自由に動かし、
時として列車内外へと踏み出し、テンポ良く物語を展開し、きっちり2時間の尺でまとめ上げている。
無駄のない的確な語り口と(要所要所ではCGを使用しているだろうけど)隅々まで
配慮された豪奢な画面構成は見事でお腹いっぱいに堪能できる。
ただそのテンポの良いスピード感が裏目に出たのか、個々のキャラクター描写は薄っぺらい。
探偵役のポアロ視点で、13人の容疑者を観察するという物語の構造上仕方がないが、
最後で明らかになるある事件という悲痛な背景を共有しながらも、
物語上は誰に感情移入できず、単なる群像と化している。
だから種明かしをされても、「あ、そうなんだ」程度の衝撃しかない。
確かに名優13人を次々とさばいて、それぞれに見せ場を演出しながら、
観客をトリックへとミスリードするのは至難の業ではないので、十分に健闘はしているけど。
ケネス・ブラナーのポアロはシリーズ化するらしいけど、果たしてどうなるのか?


偏愛度合★★★

ほんと人は自分の見たいものしか見ない。
原題は肯定のない「Denial」。こんな時には辞書が重宝する。

1.〔相手の主張や陳述などの〕否認、否定
2.《法律》〔罪状の〕否認
3.〔物や関係などの存在の〕否認、否定
4.〔要求などの〕拒否、拒絶
5.《心理学》否認(受け入れ難い状況を認めようとしない防衛機制)
6.自制、克己

まさしく原告、ホロコースト否定論者であるデイヴィウッド・アーヴィングの行動そのままだ。
彼は自分の見たいようにしか歴史を見ず、
著書にてそれこそが正論であり、あたかも真実であるかのように既存の歴史を否定する。
ちょっとややこしいのは、この映画がホロコーストという史実の有無を法廷にて争っているのではない。
ホロコーストは歴史学者、世間における周知の史実であることが前提である。
「ナチスによる大量殺人は真実か、虚構か」というチラシに躍る文句自体がおかしい。
歴史を自己都合で歪曲して、自分が見たいように改変する者が否定論者だ。
だからホロコースト否定論の著書を非難したユダヤ人歴史学者デボラ・E・リップシュタットを
あくまでも名誉棄損で訴えている。
訴えられた側に立証責任があるという英国の司法制度が更にややこしくする。
リップシュタットはアメリカ人なので、原告側に立証責任があるのが通常なので全く逆。
また陪審員制ではなく、判事による公判と裁判劇であり、原告側が弁護士を立てずに
自ら論証をおこなうという原告と被告(弁護士チーム)、判事という三者による絞られた展開となる。
事前に知らないとちょっとややこしい設定かもしれない。
どうしても映画で登場する法廷劇といえば、弁護士同士の弁舌一本勝負、
あるいは陪審員を絡めての娯楽として善悪を誇張した活劇性の高さが思い浮かぶが、全く異なる。
名誉棄損をネタに論争を引き起こし、自分の主張する否定論に注目させ、発言や事実関係の矛盾を
これ見よがしに追及して、世間を騒がせることが目的。
その結果、自説こそがまるで真実であるかのように世間へアピールすることなのだ。

映画は非常に誠実な語り口で物語を進める。
開廷にあたり、アウシュビッツの現地への見聞を描くことで、
ここで実際に起こった史実を観客へと突きつける。
英国人や欧州人によってこの地へと足を運ぶことが、ダークツーリズムではないが、
どれ程度の頻度なのかはわからないが、少なくとも世界の多くの映画観客たちは、
歴史として認識していたり、映画の舞台として収容所が登場したりと、
一見馴染みなようで、実は殆どが未体験ゾーンであることは確かだろう。
まずはその現場を突き付けて、事実としての認識を植えつけてから、物語をスタートさせる。
目の間にひろがる光景を疑うことが目的なのではなく、その映像こそが全てを語るのだ。
そして、ちょっと特異な裁判劇として法廷での弁護士団の手腕の見せ所が続く。
通常の裁判劇と異なるのはリップシュタットは何も語らない。
裁判中はひたすら黙秘を貫く。
また論議となっているホロコースト生還者もまた一切証言台に上がらせない。
ホロコーストそのもののへの否定、肯定という言及からは距離を置く。
多弁ではなく、沈黙こそがものを言う裁判劇には驚いた。
裁判での弁護士の論点は、アーヴィングの著書の記述と残されている客観的な記録(アーカイブ)
との矛盾箇所を指摘して、意図的な改変を指摘して、その表記の信ぴょう性を突く。
その事実から、意図的な改変、即ち隠された彼の嘘を暴き出す。
常に沈着冷静なトム・ウィルキンソンとふてぶてしいティモシー・スポールの役に徹した存在感が
常にぶつかり合い、映画的にはベテラン二人による演技合戦でもあり、観客を退屈させない。
逆に静かな裁判劇が多くを語るのだ。
最終的に否定論者の告訴を取り下げ、判決が出て、ようやく彼女は口を開く。

どんな民族、国家にも黒歴史が存在する。
歴史は戦争や侵略、略奪、大量殺戮など人の持つ暴力性故に常に血塗られている。
特定の民族や国家のみに起こりうることではない。叩いて埃の出ない国はない。
確かに歴史とは、文書や記録など客観的な事実を積み重ねた最大濃い約数なものであるが、
勝者によって確定された主観的な事実に過ぎない。
でも、なぜそれを否定するのだろうか?
意図的に見たい歴史のみを見たがるのだろうか?
自分のみたいように屁理屈を並べて、事実を捻じ曲げるのだろうか?
この問題は決して他人事ではなく、現在の日本においても、
歴史を改変したがる、史実とされているものを否定したがる輩が目立ち、
ネットによる情報交換手段の高速化も伴い、
尾びれ背びれが付け加わったデマや暴論の流布速度、範囲も加速度的に進む。
見たいものしか見たくないのは人の本性であっても、理解不可能で同意できることではない。
現在の邦画において、同じような歴史否定論者をテーマにした作品は厳しいだろう。
もちろんつくりたいという誠実な人はいても、
思想的、興行的なリスクを冒してまでその一歩へ踏み出す人はどれ程いるのだろうか?


偏愛度合★★★

「人生は祭りだ」と言ったのはフェデリコ・フェリーニ。
アレハンドロ・ホドロフスキー監督の歩んできた人生をシリーズ作品として再現する、
過去の再構築の自伝映画はまるで祭りのようだ。
正確にはフェリーニの言葉の後には「共に生きよう」とある。
88歳で作品を撮り続けているホドロフスキー監督から、同じ時代を生きる観客へのメッセージに思える。
もちろんホドロフスキーとフェリーニは10年くらいの年齢差があり、
彼がフェリーニをフォローしているわけでも、作品から直接影響があるわけではないだろうが、
映画監督が記憶に潜む自伝的な断片をリアリズムラインでなく、イマジニティブに再構築すると、
夢や幻想、虚構と現実子機、過去と現在が境界線なしに繋がるマジックリアリズムな作風へと向かう。
不思議と見世物小屋やサーカス、大道芸人、小人、カーニバルといったモチーフも共通する。
「エンドレス・ポエトリー」は、幼年期を描いた前作「リアリティのダンス」から続く、自伝映画の第二部。
全何作で完成するのかは不明だけど、失礼ながら88歳という御年を考えれば、本人はお元気そうだが、
祭りをいつまで続けられるかという死神とのチキンレースを繰り広げている状況かも。
何とか最後まで完遂して欲しいものだ。
少なくともホドロフスキーの作品と共に生きてきた者たちにとっては、
心の底からの念願であり、第三部以降の公開をひたすら待ち続けるしかない。

生まれ故郷からチリの首都サンティアゴに場所を移し、そこでの日々を成長通しながら、
ポエマー青年のポエム開眼と筆おろしの物語だ。
青年ホドロフスキー演じているのは血縁の息子という身内。
当然顔立ちもそっくりで、監督自身もは彼の黒子として、時として人生を導く役柄で劇中に登場する。
他にもエンドクレジットでも「ホドロフスキー」姓が延々と流れ、身内で固めている血が濃ゆすぎる作品。
いったい誰が監督とどんな属性の身内なのか全く見当がつかない。
まるでホドロフスキー家のホームムービーのようだ。
またチリ、フランス、日本の合作ながら、クラウドファンディングで製作資金
を集めるなど、
ほとんどノリは自主映画に近い雰囲気があり、人生という祭りの終えるにあって、
過去と向き合い、自分が思うがままに製作した、
後世の観客へ残す映画の形をとった遺言書のつもりなのかもしれない。

記憶とは常に自己都合で改変されているのが常である。
生きるためにあるがままの事実は必要なく、記憶のフォルダーに収まられる前に、
必ずフィルタリングされ、情報の取捨選択、部分強調と削除、事実歪曲、隠蔽などの過程を経る。
思いでは必ずしも事実ではない。
それをさらに映画的な「物語」として再構築するのだから、
さらなる事実変更やドラマツルギーな誇張が加速するため、
さすますリアリズム(事実)から離れ、マジックリアリズムへと接近する。
語り口の手法もそれに準じて、リアルさを強調しない。
張りぼての列車や書き割りの商店など、殊更舞台劇のような背景に登場人物たちを置く。
でも薄っぺらい舞台装置だからこそ、そこに息づく人物の言葉や内面が切実に浮かび上がる。
詩の言葉に魅せられ、言葉が世界を変えると信じて、詩人(ポエトリー)の道へと進む主人公。
社会から外れた異形の者たちと出会い、恋をして、筆おろし、少しだけ大人になりつつ、
やがて現在自分が身を寄せている狭い世界からの脱出を試みることを思う。
最後には商売を営む息子に厳格な父に支配された父権性を断とうと両親との決別を試みる。
描写の細部は幻想的でナンセンス、監督自身が劇中で登場して観客に語り始めるなど、
リアリズムからは大きく逸脱した構成だけど、物語の基本はビルドゥングロマンの王道を貫く。
人生は祭りだとの言葉の通り、
最後には生者と死者が、髑髏と深紅が踊り狂うカーニーバルシーンへとなだれ込む。
本来脚本にあったわけでなく、ロケ地で偶然に出会い、
そのまま劇中のクライマックスとして流用したそうだ。
それなのに狙ったかのような物語の整合性は映画も人生もまたは祭りなのだ!
物語のラストシーン、両親と別れ、船で一路パリへと旅立つ。
実世界ではそれ以来再会を果たせなかったわだかまりを抱いていた父との
ありえたかもしれない姿を再現して見せる。
その意味では悔やんでいた過去の改変でもある。
桟橋を離れ、徐々に船(到底パリにはたどり着けない張りぼてのようなポンポン船)が進んでいく姿は、
またしても偶然の一致でフェリーニ「そして船は行く」なのだ。

偏愛度合★★★

新約聖書「テモテへの第一の手紙」4章4節によると

「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」

とある。全くその通りだ。
現在進行形で神々しいまでに光り輝くエル・ファニング様ならば、
その御口から放たれるゲロだって感謝して受けとめるべきなのだ。
舞台から大音量のパンクバンドをバックに叫ぶ罵声だって、受けとめるべきなんだ。
更には掌で受け取るだけでなく、
さもあれば我が口元でキスしながら飲み干したいとまで、歪んだフェチシズムすら喚起させるのだ。
やがてはいい女優かもしれないが、普通の大人になり、
ハリウッドの通りに手形を刻印する数多ののスターのひとりとして埋もれていくだろうが、
今この瞬間に放ちている光は無敵だ。誰しもそんな一瞬がある。
その一瞬を映画として記録できるかどうかなのだ。
いわゆる男子、男性向きの性的煽動性のあるフェロモンではない。
老若男女問わず、眺めていてまぶしいまでの思わず無条件にひれ伏してしまう神々しさがある。
それが天使なのか、堕天使なのかは気まぐれな彼女の思惑次第でコロコロと変わる。
最近公開された「20センチュリー・ウーマン」「夜に生きる」「ネオン・デーモン」などでの
役柄を選ばない冴えっぷりは突き抜けている。
姉ダコタの子役だったはずが、いつの間にか突き抜けた存在となっている。
ちなみに背丈も175センチと既に自分よりも高く、成長期故にまだまだ伸びるだろう。
そこにエル・ファニングが存在するだけで映画そこにの中身はどうでも良くなってしまう時すらある。
繰り返して主張しているが映画のツボ(偏愛どころ)は人によってまちまちだ。
素晴らしい脚本で美しい撮影で、巧みにストーリーテリングであっても何も感じないときは感じない。
ところが何かひとつでも心を動かすものがあれば、偏愛映画となりうるのだ。
エル・ファニングの団子ヘアー、ゲロ、舌を出しておどける姿だけで全てが赦されるのだ。
そして服フェチならば彼女の着こなすパンクファッション、
特にショート丈のグレーヘリンボーンのツイードコートを絶対羽織たくなるはずだ。
ツイード好きとしては、この冬絶対欲しいアイテム♪
その意味ではこの作品は近い将来、エル・ファニングの奇跡的な瞬間を捉えたカルト映画と化すだろう。
某氏が同じSFとパンクが融合したカルト映画「リキッド・スカイ」を指摘されのには驚いた。
そういえば、かれこれ20年くらい前にレンタル(当然DVDでなくてVHSだ)を探しまくって、観たはず。
でも何も記憶の血肉と化さずに存在すら忘れていたところから、大した作品ではなかったのだろうが、
それがカルト映画のカルトたる由縁だろう。
ググってみると、NYに突如出現したエイリアンがペントハウスの住人を乗っ取り、
SEXやドラッグで操るというサイケデリックでアンダーグラウンドな突拍子もない物語だったらしい。
仮の肉体でローカルの人間と奇妙奇天烈に交わうなどちょっと似ていないこともない。
登場する人物が金髪のデヴィッド・ボウィ風というのも、
劇中で「ラビリンスの」ボウィ姿のまんまの姿のニコール・キッドマンと繋がる。
特に金髪ツンツンの髪型が酷似なのは意図的な引用なのかは不明だけど。
肝心の物語は割とテキトーで行きあったりばったり。
77年という時代背景があり、バックに当時のパンク(有名曲は使用料が半端なく高額で断念したらしい)
が流れ、パンクファッションで街中を駆け巡るだけ。
48時間のタイムリミットで宇宙へと帰還するエイリアンの背景や目的の断片は描かれるものの、
ハードコアなSFマニアから見れば添え物設定程度だろうし、監督もそこはどうでもいい感じ。
設定だけをファンタジー的なマガマフィンとして借り、
パンク時代のボーイ・ミーツ・ガールな青春像として直球に描いている。
自分の片割れを探して、無駄に悩み足掻く主人公エンが、
目の前に突如現れた光か輝くヒロインザンに出会い、2日間限定のパンクごっこを繰り広げる。
現実にはこんな素晴らしい記憶を有する者なんって絶対いないだろうけど、
甘酸っぱく青臭い瞬間をスクリーンで共有できる。至福のひと時だ。
ゲロはもちろん、キッチンでのくねくねダンス、パンクバンドでの絶唱、
その筋のフェチにはたまらないひとつのヘッドフォンカップルでの共有するなど、
全てがカットが映画的なフォトジェニックなしあわせに満ちている。
ストーリーなんかどうでもいいけど、このまま永遠に終わってほしくないとすら感じるカルト映画だ。

余談だけど、仲良しおバカ三人組の自転車三人乗りも青臭くっていいな。やったことないけど。

偏愛度合★★★★

駄目な映画って、冒頭の5分、10分を観れば大概見当がつく。
ここで既に迷走している作品はどうしようもない。
ちゃんとつくりこんでいる作品ならば、最初に観客と接する一番肝心な導入部を疎かにはしない。
最近ネットで多い、冒頭部分の本編映像一部公開って、ある意味捨て身の攻撃で諸刃の剣となる。
逆に言えば、ここで何らかのハッタリをかまして、観客の興味を惹いてしまえば後は何とかなるのだ。
この映画の場合、ジェフ・ミルズのサントラ一発勝負でかましてくる。
海側からの島影を捉えたカメラに全くふさわしくないガンガンに重低音が響くテクノビートをのせる。
予想外のミスマッチが、不穏な違和感を醸し出し、これから始まる物語への期待を高める。
物語は25年前の過去から始まる。
現在は津波でさらわれた離島での回想シーンが綴られる。
うだるような夏の暑さと赤い椿と緑に狂った植生の離島。
主人公である三人の性と死にまみれた忌まわしい記憶が物語全体の基調をとなる。
突然の容赦のない津波によって、物語は一気に25年後の現在へと移る。
そこで三人が再び交錯する。語り口として見事な導入手法だ。

井浦新と瑛太の男性二人のホモソーシャルな関係性をベースに展開される。
いかにもBL作品出身の三浦しをんらしいのか、男同士の閉じた関係がある。
そこに女性という異物を挟み、過去を共有する離れていた二人が邂逅する。
井浦新の妻である橋本マナミと浮気する瑛太。
偶然の再会ではなく、瑛太が相手に近づくための手段として仕組んでいるのだけど。
Wikipediaでは、ジェンダー研究者イヴ・セジウィック曰く

「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもそのふたり男は、
自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、
はるかにお互いのことを気にかけている」

とあるけど、そのまんまの関係。
揃って交わる時、お互いが相手の女性の足先を舐める。
同じ島の出身であるもうひとりの女、長谷川京子をはさみ、間接的に三人が揃う。
誰かが誰かを動かし、誰かに動かされという閉じた関係性が展開される。
閉じた関係の中、現実と幻想が同じ距離感で交錯する。
表層的な行動や言葉と隠された気持ちが裏腹にうごめく。
ラストに向かってゆっくり加速していく物語が緊張感を途切れさせない。
同様に冒頭でかましたジェフ・ミルズの音楽のハッタリは全編で途切れない。
時としてビートを効かせ、時としてアンビエントな緩急を入れながら、物語を引っ張る。
単独で聴いてもピンとこない音楽だけど、サントラとして映像と一体化すると効果を発揮するのが不思議。
音と映像が「一体となって善悪の彼岸へたどり着く。


偏愛度合★★★★

誰でも知っている偉人の伝記映画ってやはり編集者なセンスを問われる。
2時間程度の時間尺で実在したひとりの人生を再現するのだから、
律儀に揺りかごから墓場までを時系列でエピソードを追う作品もあるだろうけど、
絶対に取捨選択が必要で、どこにフォーカスを当てるかという編集的な切り口が全てとなる。
今作は時代を第二次世界大戦末期のナチスのジプシーへの弾圧を物語の主軸に置き、
彼の人生の断片を見事に再現してみせた。
物語をラストで奏でられる音源も譜面も一部しか残されていない
自らのルーツであるジプシーへ捧げた「レクイエム」へと向かって収束させる構造となっている。
確かにこの切り口は新鮮だ。
ジャンゴの音楽はお馴染みだけど、その人生については多くを知らない。
戦時中でのナチスによる執拗な迫害がユダヤ人はお馴染みだけど、
それがジプシーにも及んでいた史実には意識したことがなかった。
「マイナー・スウィング」に代表されるギターの躍動感を知っていても、
音楽監督ウォーレン・エリスによって再現、作曲された悲痛な同胞への鎮魂歌は知らなかった。
作品の一番冒頭でナチスによる名もなきジプシーの死で物語の先行き不透明感を暗示させながらも、
一転してパリのミュージックホールでの演奏シーンへと繋げる。
ここで登場するジャンゴは既に人気絶頂の天才ギターリストであり、
誰もが知っているお馴染みの曲を響かせてくれる。
オリジナル音源はモノラルで録音が古いため、ローゼンバーグトリオによって再演されたもの。
レダ・カテプの飄々としながらも、ジャンゴになりきりった演技で白熱する。
運指のクローズアップは同じくローゼンバーグトリオらしい。
細かな生い立ちや成功への物語は潔く省き、いきなり物語を頂点からスタートさせる。
やがて徐々にナチスによるジプシー迫害が高まり、ステージの光に影を落とす。
ジプシー狩りが相次ぎ、家族やジャンゴ自身にも危険が迫り、ナチスへの協力か、
ナチスを逃れての国外逃亡、あるいはレジスタンスかという選択肢を選ぶことを余儀なくされる。
その才能を認めながらも、支配して、利用しようとするナチスの圧力。
元来放浪民族で、特定の国家に縛られないジプシーではあるが、
やがてスイスへの国外逃亡と引き換えにレジスタンスに協力していく。
いつの時代も音楽だけが純粋に美しいままで存在することはできない。
常に戦争という背景との絡み合いが生じてしまう。
戦争と音楽のせめぎあいを描き、全てをラストの教会でのレクイエム演奏へと収束させていく。
伝記映画としては、意外な切り口ながらも、見事にジャンゴという人物をリアルに再現してみせてくれる。

補足だけど、ナチス高官による演奏会への細かな指示が面白い。

偏愛度合★★★

本当にアメリカ映画って、giftedな子役を抱えている。
子役から老人役まで幅広い俳優層を抱え、役柄に応じて巧みに配してくるシステムがある。
キャスティングディレクターが監督や脚本、撮影などと同格で
通常キャストの直後に1枚看板でクレジットされるのにはやはり訳があるのだろう。
アメリカ映画史には才能のある子役の流れが延々と繋がっているが、絶やさずに発掘して、
継続させるには映画産業としての徹底したプロフェショナリズムな分業と権限がある。
やはり7歳のメアリーを演じるマッケナ・グレイスが突出している。
劇中のgiftedな役柄をgiftedな子役が演じることで成立する映画なのだ。
ちょっと癖のある顔立ちで小生意気で周囲を見下しながらも、年相応の憎めない可愛さを振りまく。
マッケナ・グレイスを中心に配して、脇をキャプテン・アメリカの大根役者のイメージの
クリス・エヴァンスが今回は肩の力を抜いたゆるい感じで叔父役を好演し、
「ヘルプ」でのオスカー受賞以降、その存在感に安定感のあるオクタヴィア・スペンサーが支える。
このキャスティングの構図と演技だけで、もう十分に物語が動き出す。
監督のマーク・ウェブが蜘蛛男の呪縛を断ち切り、元のフィールドに戻ってきたのが嬉しい。
やはり大予算の現場を雇われで仕切るよりも、
スケールは身の回りでもそこにいる登場人物の子細な人間観察と描写が流石に上手い。
叔父と姪、兄と妹、先生と生徒、祖母と孫娘と人間関係の対比を軸に語る。
これらの関係性は現実と同じく、単純な善悪とか、合否の関係ではなく、
それぞれの立場での異なる思いがあり、すれ違い、ぶつかり合いながら日々がつくられていく。
派手な見せ場や仰々しい大ネタはないけど、ヒューマンドラマとして映画的な醍醐味がいっぱいだ。
物語の舞台では、不在の人物を中心に登場人物たちを展開させる脚本が見事。
少女にとっては亡くなった母であり、叔父にとっては妹であり、祖母にとっては娘である。
彼女がいない世界だから、現在の物語があり、そこにある秘密が隠されている。
それがタイトルである、三世代を超えた「gifted」の物語となっているのだ。

偏愛度合★★★

前評判で往年のハリウッドコメディ、ワイルダーやルビッチとか言われると期待でいっぱい。
とんだ肩透かしってこのことだろう。
三谷幸喜流に言えば邦画にも「シットコム」の傑作がついに登場かと、
期待が大きかっただけに、奈落の底へと落ちてしまい、しばし立ち上がれず、即死。
元となった舞台での演出や脚本との比較はできないけど(基本舞台って苦手)、
舞台と同じ西田征史が監督と映画脚本を担当している。キャストも一部重複。
映画と舞台は俳優がいて、演技があり、脚本と演出があり、
物語を動かすという点では似ているようで、やはり根本的な作法が異なる。
抜群に面白い舞台を映画化しても必ずしも抜群に面白い映画にはならない。
スポーツ中継のように舞台を複数のカメラを記録し、スイッチング(切り替え編集)して、
そのまま中継(最近は映画擬きの舞台中継を劇場公開している)するのなら兎も角、
映画は映画としての基礎となる文法があるのだ。
正直そのセンスの欠落した、余りにも陳腐な演出にはうんざり。
中途半端なカメラの動きやアングル、カット割り、
今時ここぞとスローモーション撮影など使うなど、陳腐にも程がある。
三谷幸喜は苦手だけど、舞台と映画は別物として、映画なりの醍醐味が感じられる演出を試みる。
成功しているか、どうかは兎も角、少なくともその誠意は感じられる。
この監督にはそれは全くない。
それなりに劇達者な俳優を揃え、演技させ、形通りにカメラで記録しているだけ。
個人的にはナチュラルでない、舞台的なオーバーアクトが苦手ということもあるけど、
達者だけど、仰々しい芝居に頼り切っりの凡庸な演出には映画的な魅力は感じない。
脚本自体がひどい出来具合というわけではなく、やややり過ぎ感はあっても、
キャラクター描写を積み上げて、伏線を張り、きっちり回収して、物語を動かしている。
それを映画化ならではの切り口で見せるという意気込みが感じられないだけ。
監督作品としては「小野寺の弟・小野寺の姉」に続く作品。
同じく当人脚本の舞台が元で、左程好きな作品ではないが、不思議と映画的な違和感はない。
今回のこの舞台中継臭い違和感は一体何なんだろう?
冒頭に挙げた巨匠は基本引き算で多くを語らずに、最大限の笑いを引き出す手法に対して、
その正反対の舞台の過剰さをそのまま引きずっている気がする。
単なる私見に過ぎないけど、くどさがその要因の様な気がする。
映画って個人的なツボ次第なので、正解なんてない。

唯一の救いは登場は僅かだけど、高畑充希の器用さと可愛さぐらいかな。

偏愛度合★★



ちょうど世代的には東西狂乱の漫才ブームを過ごしながらも、当時は傍観者に過ぎず、
真面目に漫才を舞台はもちろん、放映ですら堪能した記憶がない。
同様に人を壇上から笑かすという漫才師という職業自体に左程興味が薄いため、
最初映画を見終えてもピンとこなかった。
実は映画には観賞中や直後にがっつんと衝撃が来るタイプと後から徐々にじわじわ来るタイプがある。
これは明らかに後者。
漫才という人を笑かす、笑いをテーマとした映画なのに上映中クスリとも笑えないのが可笑しい。
そのことに気が付いた時から、作品の印象ががらりと変わった。
単なる20代から30代に至る10年間の甘苦い青春回想録ではなく、
笑いというオブセッションに囚われた者たちがひたすらもがき苦しむ、青臭くも残酷で悲痛な記録なのだ。
ひたすら笑わせることに執念を燃やす。
全編ガチで張りつめた空気感が漂う。
もちろんそれは笑いの世界の内側にいる板尾創路監督ならでは執念だ。
又吉直樹の原作を自らの演出と脚本(共作)で挑んだのは、
その辺の雇われの職業監督には絶対譲りたくないとう意気込みなんだろう。
同時に単なる凡百の「感動」「青春」物語にはしたくないという強い意志に違いない。
俳優としては一流であっても、漫才師ではない素人の主演二人をプロの漫才師を相方に配して、
演技ではなくガチに漫才をさせたのが画面の迫力から伝わってくるのだ。
ラスト舞台での通しの漫才を細切れにしたカット割りで胡麻化さずに長回しで記録するなど、
演じる方も撮る方も真剣勝負だ。
観客も同様に仕込みではなく、素のリアクションらしい。
漫才で観客を笑かすという行為一見シンプルで反応がストレートで返ってくるだけに、
実にわかりやすいのだけれども、その一瞬のために裏に隠された人間模様がある。
ボケとツッコミという様式美を基本とする漫才を脱構築しようとする異端の天才神谷。
彼に魅せられ弟子として付きまう徳永。菅田将暉のチンピラ感が抜群に上手い。
二人の関西弁での掛け合いも完璧だ。
作品自体が笑いへのメタフィクションとしてとらえればいいのか?
ネタをつくる、練習する、舞台で披露する、名が知れて、興行的に売れるという流れの背景にある、
風呂なし四畳半のアパートの貧乏暮らし、女性に財政を依存するひも生活、
いつまで経ってもなかなか目が出ないことへの焦燥感などがきれいごとではなく、生々しく描かれる。
その世界を目指した者ならば、誰しも思い当たる内側の視点に徹している。
会場での瞬間の笑いのために途方もない人間模様が存在するのだ。
そう、笑いを別の何かに置き換えれば、映画的な普遍性を持つ。
それは例えば映画製作であったり、ボクシングなどの格闘技であったり、
音楽演奏であったり、書くことであったり、何でも置き換えが可能だ。


偏愛度合★★★