予告編では、カサイ・オールスターズの印象的なアフロビートな音楽とその歌姫の恋や人生を
描いたポップなヒューマンドラマかと思っていたら、後半からどんどん転調して、思わぬ方向へと向かう。
てっきりフェリシテという名の通りの幸福への日々泡のような淡い物語かと思えば、
現実的で同時に非現実的なマジックリアリズムいっぱいの作風に戸惑う。
素直に音楽映画を期待していると、過酷な現実が立つふさがる。
女手一つで息子を育てているが、反抗的な息子がバイクの事故で足を骨折して、手術代がのしかかる。
多額の金が必要となり、借金に駆け回る。
挙句の果てに物乞いのようなことまでするシビアさ。
バーの常連でヒロインに好感を抱く修理工の男(実はポエマー)が何かと気にかけてくれるけど、
なかなか直球の恋愛ものの展開にはならない。
まるでいつまでも修理が終わらない冷蔵庫のようなものだ。
更に本筋とは関係のないエストニア生まれの作曲家アルヴォ・ペルトの
シンフォニックな曲の演奏シーンが挿入される。
ワールドミュージックのとクラシックの対比が不思議なリズムとなる。
加えて後半に至り、現実的なシビアな物語の中に、
闇と動物が交錯するマジックリアリズムなインサートが加わる。
現実と非現実が混沌となっていながらも、それでも日々が続く。
最期にはカオスを音楽がバランスを保ち、かろうじて両者を結びつける。
てんやわんやの後に再びステージへと戻るヒロイン。
息子も片足を失ったけど、再び一人で歩き始める。
音楽がハッピーエンドばかりをもたらすわけではないけど、それでも人生は続くのだ。


偏愛度合★★★

フランスの文豪モーパッサンによる不朽の名作で、
フランスでも、日本でも何度も映画化されてきた物語なのに、不思議と全く縁がなく今作が初体験。
前知識なしだったので、そもそも物語自体を知らない。
基本時系列でプロットを追い、細部描写を丁寧に積み重ねながらも、緩急をつけ、端折って飛ばし、
未来や過去の断片を唐突にインサートするという特異な語り口のため、ちょっと流れに乗りにくい。
全体の物語構造として、人の記憶のランダム再生に近いような編集リズムとなっている。
明るい光に満ちた至福の時の直後に青黒い過酷な未来の断片を繋ぐなど、
人が過去を振り返る時のように、時系列に縛られない、断片が散逸している。
ヒロインを演じるのはジュディット・シュムラは何となくジュリエット・ビノッシュを思わせる顔立ち。
17歳から40代後半までの人生を演じ切る。
決して幸福に満ちた生涯ではなく、男運の悪さが目立つ。
恋愛、結婚、出産、子育てという人生の裏に繰り返される夫の浮気とその結果の死、親を看取ること、
息子との別離など厳しい裏面が挟み込まれる。
映像もそれに準じた自然光とあふれんばかりの緑を活かした光の季節と、
薄暗い雲に覆われ、暗い青を基調とした闇の季節を交錯させる。
映像そのものが心象風景になっている。
それも過去の記憶の再生に近い。
良き思い出は明るく清々しく記され、悪しきことは暗い闇にどんより記憶される。
同性ではないので女としては感情移入はできないが、救いのない部分も多く、いたたまれなくなる。
でもそれもまた”Une Vie”という原題通り人生なのだ。
いろいろあってもそれでも、生き続けて、日々を過ごしていく。そんなことを年の瀬に痛感した。


偏愛度合★★★

全編通して松岡茉優ひとり劇場。
物語として脇に配されている人物はいても、それらは虚実が入り混じったキャラクターライズされた
妄想に過ぎず、原則的には殆ど彼女のひとり芝居に近い。
身勝手な絶滅危惧種の暴走の行方を見守るのが観客なのだ。
それを楽しめるか、否かなんだろう。
夫婦50割引きなるサービスを活用し、時々時間を合わせて一緒に劇場へ行く。
もちろん妻が興味のないホラーやSFなどのジャンル映画は単独行だ。
嗜好があって一緒に行く作品に関しては、大概似たような印象を抱くけど、
今回は珍しく夫婦で評価が真っ二つに割れた。
「つまらん、観んかったらよかったわ」に対して、実は自分は結構好きなんだよな。
「ひょっとして、2017年邦画ベスト10入りかも」というくらいに天と地。
まずは松岡茉優という女優が面白い。
「ちはやふる」で主役を食った敵役で一躍名を売ったのだろうけど、
「問題のあるレストラン」でのパーカーちゃんの印象が最初。
顔立ちに特徴がないけど、役柄で印象を全く変えてゆく、手堅い演技力がある若手のひとりだろう。
関係ないけど、件の坂元裕二脚本のドラマって、真木よう子や二階堂ふみは
既にブレイクしていたけれど、松岡茉優に高畑充希、菅田将暉、臼田あさ美、東出昌大など、
後々の個々の活躍を見れば驚くほどの青田買いキャスティングなドラマなのね。
余談はさておき、今作の松岡茉優は恐ろしい文字量の台詞を間合いを無視して、
ひたすら早口でわめきたて、挙句に歌って、踊ってしまうから、もう勝手にしてやがれって感じなのだ。
同性ではないので役柄への感情移入は必要ない、
というより多分不可能なので、こじらせまくった痛さも物見遊山で客観視できる。
脳内動物園で身勝手にうごめく絶滅危惧種の珍種を他人事のように柵越しに眺めればいいのだ。
原作は未読なので、台詞や展開がどの程度脚色されているのかは不明だけど、
個人的には「ファックファックファックファック………!!!」というのがツボだった。
原作も監督も女性で、女性による女性映画なんだけど、女性向きかは微妙なのかも知れない。
基本的な展開は少女漫画的なふたりの王子様をめぐる恋愛ものだけど、同性なので容赦はない。
男性監督にありがちな女性妄想性はなく、生々しく痛いところを突いてくる。
垂れ流される自意識を痛いと感じるか、否かが作品の印象を決定するのかな?
多分男性主人公で同じく垂れ流し設定ならば、受け付けないかも知れない。
いちいち描写が細かい。
外から部屋に帰ってくるとうがいをする、走る前にコンバースのかかとを直す、いちご牛乳など
本筋とは関係のないようなディテールと小道具を繰り返し、ひたすら積み重ねる。
この執拗さが単なる妄想譚を映画の物語としてドライブさせるのだ。
反対に主人公以外の登場人物造形は一方的で主観的な類型で、事実を妄想化して歪曲する。
実はリアルで生身の人物は誰もいない。
まさしく書き割りの背景をバックにひとり芝居を繰り広げている感じ。
歌って、踊ってというシーンは他の映画でも何度も引用されている「フェリスはある朝突然に」風だけど、
きちっとミュージカル映画として技巧を凝らさずに、あくまでも妄想内でもがき、足掻いている感じで流す。
またヘッドフォン女性フェチ(?)ならば、最上級ヘッドフォン映画として味わえるかもしれない。
もう松岡茉優を存分に堪能できる……っていうか、それしかない映画か。
あゝお腹いっぱい♪



偏愛度合★★★★

フランスを代表する二世代名女優の競演という割には、火花が散る演技合戦というより
二人とも演技を超えて、現実に実在しそうにナチュラルすぎて流れてしまう。
男性脳からは理解しにくい正反対の母と娘という関係性もあり、どうにもしっくりこない。
物語の流れにチューニングできず、取り残されていく感じがあり、睡魔との闘いでもあった。
難解な物語運びや奇を衒った演出があるわけではないのに、どこか居心地が悪く、
ひょっとして女性ならばと思えば、監督、脚本が男性というのに驚いた。
この種の映画は言葉として感想をまとめにくい。
ネットにあった監督のインタビューを読み、ようやく何となく繋がった。
ます監督自身が母、祖母、姉妹に囲まれた女系家族であり、
実際に誕生時に助産婦に救われた経験があるということ。
女性監督が描く女性は時として、同性故に容赦なく、残酷なまでに生々しいことがある。
一方通常の男性監督は女性を夢想的に美化する傾向があり、単なる妄想キャラクターと化する。
男性監督でありながら、女性を身近に育ち、リアリズムが備わっている。
だから女性をちゃんと実在する人物として、生々しく描くことができる。
二人のカトリーヌが演じるの対照的な人物を明確に描き分けている。
酒とギャンブルが大好きで自由奔放だけど、身勝手な孤独なドヌーヴと
真面目で質素だけど、助産婦として息子を育てあげたフロを巧みに対比させる。
正反対の性格で、30年も別に暮らしていて突然の再会。
ここで血の繋がらない親子、血縁ではない疑似的な母と娘という設定が活きてくる。
二人に共通するのは元の夫であり、実父が不在の絆となっている。
過去へのわだかまりがあり、反発する娘が徐々に病魔に侵されている義母と心を通わせる。
後半で、ある小道具を使って、不在の人物を見事に浮かび上がらせる。
またクレジットで助産婦への献辞があるのでも明らかなように、
監督自身が助産婦という職業に対する敬意を抱いている。
出産シーンも実際の現場に俳優が立ち会ってリアルに撮影したらしい。
監督自身の言葉によると、新しい生命の誕生を担う助産婦と病魔は生と死の対比らしい。
これで物語の構造がようやく理解できた。
監督が作品について多くを語るべきでないという意見もあるだろうが、
時としてその言葉によって作品の姿がはっきりと見えてくることもあるのだ。

偏愛度合★★★

アメリカのホラー映画がしばしば陥る後半失速系。
大体その原因は脚本セオリーとキリスト教というふたつに由来する。
物語としての合理性、整合性を理論として追及した前者に対して、神と悪魔という不条理な要因。
ホラーというジャンル映画に、不思議とこの相反する両極を同居させるのがアメリカ映画の特徴。
前半から中盤にかけてネタフリを繰り返し、脅かす演出という心理操作を駆使され、
ようやく物語に没入し、これからの展開を期待した頃に何故か、
物語を映画脚本的に整合的に終わらせようとする力、即ちこれまでの種明かしを始め、
何故かそこに見え隠れするキリスト教的な世界観が神と悪魔、罪と罰、戒律などの宗教観が
オチに紐づいてくるので興醒めも甚だしく、消化不良で最後には失速するものがかなり多い。
大概神が実存し、信仰するならば、もれなく悪魔もついてくるとばかりに、
「ははは、実は全部悪魔のせいでした」とばかりにこじつけて終わる。
今作もその落とし穴に陥っている。
臨死体験での個々のビジョンというネタフリ部分はそれなりに面白く観た。
臨死によって研ぎ澄まされる昇華する一部の感覚(主に記憶に付随する能力)と
逆に副作用とも言うべき幻影、幻聴などを伴う現実崩壊的な不可解な現象が起こる。
これを解決しようと、論理的に試行錯誤し始めるあたりから、物語は失速し始める。
もちろんこのプロットはオリジナル版に由来するものだろう。
同タイトルでキーファー・サザーランド、ジュリア・ロバーツ、ケヴィン・ベーコン、
ウィリアム・ボールドウィンなど、その後大活躍する若手俳優を揃えた1989年の作品。


公開時にリアルで観たはずだけど、それ以降の再体験の記憶はないので、細部は覚えていない。
余談になるけど、80年代半ばから90年代前半にかけての風俗描写には耐えがたいものがあるのだ。
同時代を体験した世代にとっては懐かしいほど古くなく、どうしても恥ずかしさが先立つ。
独特のファッションやメイク、髪型、小道具など、全ての風俗描写がこっぱずかしいのだ。
余程のことでない限り、21世紀に振り返ってもう一度観る気にはなれない。
細かい比較はできないけど、ググってみるとどちらも、
臨死体験者に相次ぐ不可解な現象は、本人が抱いている過去の罪悪感の表れであり、
それに赦しを乞うことで解消できるというのだ。
まさしくキリスト教における罪と罰であり、罪を悔い改める懺悔であり、
改悛すれば、神の赦しを得て、めでたしめでたしというキリスト教啓蒙映画と化すのだ。
神も悪魔も直接表現はされないが、
天空のまばゆい光や黒い雲状の闇など,関連するイメージが各所でちりばめられる。
安易だけど、根の深い展開と失速感には寒いものを感じる。

そもそも今作はリメイクあるいはリブートなのだろうか、それとも27年後の後日譚なのだろうか?
前作の実験首謀者であるキーファー・サザーランドが引き続き、医学生たちの担当教授として登場。
当然27年分年食っているが、役名が異なるので、別人と判断すべきだろうが、
秘密裏に行う臨死実験をあたかも知っているかのように思わせぶりな態度を示しながらも、
結局それは伏線として回収されない。
単なる前作のファンへ観客サービス(接待)か?どうにも中途半端な印象だ。


【以下ネタバレあります】


唯一のツイストとしては物語の冒頭から登場して、視点となる人物が中途であっけなく死ぬことだろう。
だから中盤から突然視点が複数(そのほか大勢)に変わる。
通常ならば、視点人物が最後まで生き残るのが定石。
そのために周囲に配された雑魚キャラが、トライ・アンド・エラーで犠牲になり、
その結果ようやく正解へとたどり着く。
如何にも捨て駒風なマッチョで金持ちのボンボン野郎とか、
ビッチな尻軽女とか類型キャラクターを並べているにもかからわず、何故か彼らは生き残る。
この予想外の逆転ツイストをやりたいがための、再生産なのかもしれない。


偏愛度合★★★

途轍もない閉塞感が覆う。
それも地方都市特有の逃げ場のない閉鎖感に満ちた空気感。
そこで偶然ではなく、ある種の必然として起こる容赦のない暴力が運命を狂わせていく。
埼玉版「ミスティック・リバー」という評は誠に的を射ているだろう。
暴力は世代を超えて連鎖する。
一度でも暴力を受けた者は、それを拒否しながらも、身体が覚えていて、否定することができず、
ましてや両親など血縁の場合、それは世代を超えて、受け継がれ、繰り返されてしまう。
幼児虐待が母子で繰り返されるのは、決して映画だけの物語ではない。
閉塞空間で展開される暴力の連鎖は観客にとっても相当きつく、逃げ場がない。
映画として都合の良いハッピーエンドに仕上げるための、安易な救いや癒しも一切提示しない。
救いは全くないが、今年の邦画では屈指の傑作の一本であることも間違いない。
あゝ相当痛いぞ。後を引くタイプの作品だ。
いちおうは虐待にも、暴力にも、地方コミュニティやヤンキー流儀にも無縁でいたはずだが、
何かしら封印したはずの記憶がよみがえる。
良きに悪しきにせよ力のある物語は、
人が無意識に歪曲、隠蔽したはずの記憶の欠片を突如として表層化させれることがある。
作品タイトルである「自警団」の顛末から、前に住んでいた郊外の住宅街で、
年末に火の用心のため柏木を打ちながら町内を自治会で見回りした記憶が蘇ってきた。
若かりし頃の良い思い出はなく、町内会自体を避け、仕事を理由に当時の家族に、
会合などを全部押し付けていた自分の身勝手さも同時に気が付き、心を掻きむしりたい衝動に陥った。

さて本題。
幼少時代、父からの一方的な暴力によりトラウマを抱えている兄弟。
母の死をきっかけに長男が逃亡し、それ以来帰ってきていない。
次男は父の跡を継ぎ政治家となり、
下っ端ながらアウトレットモール誘致、建設という地方都市の利権確保の一端を担っている。
美しいが上昇志向の強気の妻に敷かれ、なんとも情けない男だ。
三男はデリヘル店長というヤクザ稼業ながら、
人の好い三兄弟の仲ではまだ唯一救いともいえる感情移入可能な人物である。
そう、兄弟を取り巻く政治家、役人、地元ヤクザにチンピラなど全てどうしようもない輩ばかりなのだ。
そこへ父の死後、突然帰郷する長男。
借金取り立てヤクザ群のを引き連れての放蕩息子の帰還か?
そう、全編物語を通して、どこか聖書の逸話を思い浮かていた。
最終的に教訓はあるけど、同時に人を残酷までに神の意思次第で翻弄し、破滅へ陥れる、
まさしく古典版フィルムノワールとも言うべき物語が聖書なのだ。
キリスト教徒でもなく、聖書の読み込んでいるわけでもないので、具体的には物語とは繋がらなかった。
しばしググっているとマタイによる福音書18章の

  どんな不正であれ、どんなことであれ、
  全ての人の犯す罪には、ただひとりの証人によって定めてはならない。
  ふたりの証人の証言によって、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。

という記述に突き当たった。
三男の「まぁ近いうちに、三人で焼き肉でも食ってさ、話でもしようや」という台詞へと繋がった。
脚本での意図なのか、偶然のこじつけなのかは不明だけど、
父という呪縛を共有する三人の兄弟という証言者たちの会合が必要だったのかも知れない。
土地を含む遺産の円満な分割があれば、その後の悲劇はなかった。
その欠如こそが、最後の悲劇へと一直線に繋がっていったに違いない。
あの容赦ない地獄絵図はなかったかもしれない。

最期に見事な配役には唸らせる。
大森南朋、鈴木浩介、桐谷健太の三兄弟の見事な配しに勝負あり!
唯一の善人(的)である桐谷クンがおいしい役柄を持っていったかもしれないが、
大森南朋の兄としての捨て身、鈴木浩介の傀儡夫ぶりの情けなさも三人が奏でる
ヤクザなアンサンブルが溜まらない。
また全編で背景や台詞での余計な台詞で多くを語らない脚本も見事だ。
最小限の台詞と光と闇を駆使した映像ですべてを語り切る。
傑作と称されている「SR」シリーズを未見のため、
大手映画製作で他者脚本の雇われ監督作品は評価しないけど、やはり底力のある人だ。
何としても「SR」を観ねばばらないぞ。

偏愛度合★★★★

クロエ・グレース・モレッツにとって過渡的な時期なんだろう。
子役で人気を集め、評価されてきたが、余りに小柄で童顔故に年相応の成長が見えにくい。
いつまでも邦画のように中高校生役というわけにはいかず、自ずと役柄も狭まってしまう。
今作では21歳で憧れの「ニューヨーク・ポスト」の新人記者になれた、未来へ希望を抱く女性。
年相応の役柄ではあるが、どうしても小生意気のティーンのイメージが抜けず、
社会人と言われれも違和感は否めない。レオナルド・ディ・カプリオなどと同様だ。
年齢が肌を刻み、段々と役柄的にも成長していけば、
それなりに違和感も薄れてくるのだろうが、今は中途半端な時期でもある。
何故かシャーリーズ・セロンが製作に名を連ねている。
経緯は不明だけど、相変わらず多岐にわたるシャリ姐の活躍には驚愕する。
クロエの一見幼すぎる違和感さえ置けば、2007年というつい最近まで認定されていなかった奇病
「抗NMDA受容脳炎症」を演技として主観的に好演しているのは彼女ならではの実力だろう。
最初誤診されそうになった癲癇や解離性障害は客観的な描写は突き放してしえば明確だけど、
それを観客も共有できる形とし「主観的に演じるのは難易度が高い。
特に映画においては視覚、聴覚、言葉(モノローグを含めた台詞)で当事者の苦しみを表現するのだ。
病名すら明らかにされていない当時、
周囲とヒロインの線引きを単なる正気と狂気という二元論で展開しがちなのだ。
それを観察視点としての周囲の理解もありより、主観部分が理解できる。
今作では周囲の両親や同僚、友人、医師なども概ね理解度のある一方的な排他者としては描いていない。
まずは言葉が先行しながら、コントロールできない衝動を持て余していく。
それが癲癇発作やブラックアウトなど視覚的な混乱として表現される。
一番巧みなのは、聴覚効果だ。彼女が聴こえているはずのノイズが劇中のSEとして再現される。
強調した物音やありえない彼女への揶揄の言葉やノイズが絶えず聴こえ続ける。
病状が進むにつれて、追い詰めれていく、自らの正気すら疑い始める。
意識混濁状態に陥る。
まぁ、ラストには実話通り、あるドクターの機転により原因を発見して、治療を進め、全快に至る。
映画の原作となったのは彼女自身が書いた自伝的な記録なのだ。
観る気もないけど同時公開中の邦画「8年越しの花嫁」も同じ症状を扱っているらしい。
クロエ・グレース・モレッツの健闘でこちらは何とか観れるレベルだけど、
そっちは何となく嫌な予感がいっぱいだ。

偏愛度合★★★

ジェシカ・チャスティン一本買い。
アメリカで一番脂ののった旬の女優だろう。
目を惹くスター性や個性的というより役柄に自然にははまり込み、素が見えにくいカメレオン女優。
「ゼロ・ダーク・サーティ」でCIAアナリスト役で一躍名を知らしめ、諜報員、警官関係者、
「オデッセイ」「インターステラー」と役が重なる宇宙関係者など公僕系が多いかと思えば、
「ヘルプ」で差別主義の主婦を演じていたり、「クリムゾンピーク」の魔物やら
「女神の見えざる手」では「ELLE」のイザベル・ユペールを肩を並る感情移入不可能だけど、
ひたすらかっこいい女性など幅広すぎる役柄を選択している。
今回のアントニーナ役も、「女神の見えざる手」の直後の公開だけにそのギャップには驚くしかない。
常に沈着冷静で超キレ者で自己中心的だけど、突き抜けた生き様が共感を超えて、
目が離せない役柄から、一転してごく平凡のワルシャワ動物園の妻役。
セミショートの金髪(元々チャスティン赤毛のイメージが強い)に花柄の絵ワンピース姿で、
夫と動物たちをこよなく愛するか弱い女性だ。まずはこのギャップに驚く。
見た目だけではなく、声質まで変えている。ドスの効いた恫喝命令口調から、
呟くような甘い声に変えている。一気に続けてみると相当面白いぞ。
ユダヤ人を動物園地下に匿って救ったからといっても、ガチガチの反ナチ思想の抵抗者でもなく、
外面を気にかけた偽善者ではない。
単に母性と言えば語弊もありかもしれないが、目の前に苦しんでいる動物がいれば
助けを差し伸べる(冒頭で伏線として描かれる)との同じであり、
人種や宗教とは無関係に弾圧されている人がいれば、素直に助けたいと願う人物である。
彼女を愛する良き夫の手助けで、数名ずつ収容所からユダヤ人を助け、逃がしていく。
元来自分は、予告編にもあるシンドラー、杉原千畝などの聖人化された偉人の物語が大嫌いである。
どうにも映画としてつくられた美談が苦手で、落ち着きが悪いのだ。
そこはドラマチックに美化せずに、ユダヤ人は傷ついた動物と同じく、手を差し伸べ、
助けを必要をする記号化された存在と描く。ヨーロッパ全土を覆う政治的な暗雲には触れない。
天使としてのアントニーナを強調する。
半面人の本性は基本悪行であり、数多の血の上にこそ歴史が成り立ってゆく。
それを象徴するのがダニエル・ブリュール演じる動物学者である。
優秀なありながらも、ナチス親衛隊という後ろ盾を得て、
あたかも自分の行動が国家(ナチスと総統)のためとなり、歴史に名を刻む偉人なのだと錯覚していく。
増殖するエゴの象徴として、アントニーナと対比される。
人妻の彼女に好意を抱き、何かと便宜を図りながら近寄るとする。
戦局全体とは無関係な善悪のせめぎあいが展開される。
彼女がどんどん強くなり、男を利用しながらも、夫はその変化と自らの弱さゆえの揺らぐ。
結局、有事においては女のほうが圧倒的に強い。
最期には多くを失いないながらも、終戦を迎え、
動物園という彼女にとっての楽園(パラダイス)の再現を目指す。

偏愛度合★★★++

ある人は新世代のためのSW聖書の誕生とある人は雑な物語に幻滅と評価が真っ二つに分かれ
賛否両論となっているみたいだけど、個人的には全面肯定ではなくても素直に楽しめた口。
少なくとも映画を観ている最中にあれこれと余計なことを考えさせずに、
ひたすら物語の展開に没頭し、劇場に座っているという現実を忘れさせてくれる力は持っている。
最近ある雑誌で知った

   「物語の中で時間が流れ始めると、物語の外の時間は止まる」

という言葉の通りだ。これって一番大切なこと。
どちらの言い分も理解できる。
確信犯的に既存の価値観の破壊を試みている。
例えば「フォースの覚醒」で重要な小道具となったルークのライトセーバー。
後生大事に抱えて、ようやくマスター当人の前に立ったレイ。
受け取ったルークは「こんなもの意味がない」とポイっと後ろへ投げ捨てる。
かつてのヨーダとルークのような二人の修業が始まるのかも思えば、あっさりと断固するマスター。
思わせぶりに岩山を登っていくので、レイが後を追うと、気色悪いクリーチャーの乳しぼりするだけで、
それをどや顔を飲み干すマスター。
棒で海をひらりと舞い宙を飛ぶのかとも思えば、単に今晩の食料となる魚を突き刺すだけ。
一事が万事この調子なのだ。
思わず「あれ、今回はコメディ?」と疑問視したけど、
散々「フォースの覚醒」で引っ張ったものの梯子をはずしていく描写には、
拍子抜けと同時に「何を拘っていたんだ?」という不思議な爽快感すら感じる。
フォースという能力を有する選ばれし者として、代々受け継げられてきた既存の価値観をことごとく壊す。
それも最後のジェダイたるルーク自身によって。
そもそもフォースを継ぐ者であるスカイウオーカー家による血で血を争う歴史なのだ。
要は単なる全宇宙を舞台とした親子喧嘩に過ぎない。
それを物語を通して真っ向から否定する。
フォース自体を特定のDNAに縛られるものではなく、もっと不変的で誰しもが有する力として説明する。
特権階級から市井の人へとフォースの解釈をひろげる。
確かにその意味では新たなる聖書と言えるかも。
このルークとレイの物語にカットバックさせられるのが、ファーストオーダーと反乱軍の戦闘シーンだ。
戦闘機で巨大戦艦に挑む、爆撃機による空爆とそれなりに見せ場が続く。
無重力空間なのに何故か落下する爆弾など、確かに細部の設定の雑さを指摘されると、
成程と否定できないものばかりである。作戦自体の行き当たりばったりの雑さもその通り。
反乱軍はアホばっかりというのもわかる。
窮地を救うために単独行動でシールド解除のために、カジノ惑星へ向かうフィンと新登場のローズ。
タイムリミットなサスペンスとして展開しているはずなのに、まどろっこしい寄り道には疑問もわいたけど、
それなりに見せ場を、繰り広げて胡麻化してしまう(?)。
まあ、細かい粗の大技での誤魔化しもまた王道手法なので否定はしないけど。
この三つのプロットが交合に進行しながらカットバックさるのだけど、
お馴染みののんきな横ワイプで繋ぐなどもあり、展開自体にまどろっこしいところはあるかも。
空中戦に砂漠を舞台とした地上戦など大技な見せ場を矢継ぎ早に連続させ、
ファーストオーダーのラスボス爺のあっけない顛末やあのキャラクターの登場、ルークの最期など、
つくり手の仕掛けた確信犯的なハズシやスカシに上がったり、下がったりして、
観客も誠に忙しいので、その辺は少なくとも物語の渦中では意識しないだろう。
物語外の時間を忘れるいには。
誰もが望むSWの最大公約数を再始動して具現化した【序】としての「フォースの覚醒」、
大きく舵を切り、新時代へと向けて展開させた【破】としての「最後のジェダイ」に続く、
三部作の結論となる【急】はいったいどうなるのだろうか?
やはり主要キャラクタであるキャリー・フィッシャーの死が気にかかる。
作品毎の多少の出来不出来はあっても、SWシリーズは現代の神話であり、
それが毎年恒例のように公開され、真っ先に劇場へ駆けつけ、
各人があれやこれやと文句をつけるのも至福のことなのだ。これからのサーガは続く。


偏愛度合★★★★

想定外には楽しめた。
正直全く期待していなかった。
前作「バットマンVSスーパーマン」の余りの酷さにうんざりしていたので、
WOWOWスルー鑑賞でいいやとすら思っていたけど、やはり映画は劇場というのがあるので。
「ジャスティス・リーグ」への布石とばかりに、よほどのアメコミマニアでないと全く知らない
ニューキャラと敵(今作でようやく説明される羽のついた小鬼)の断片をフラッシュフォーワードさせ、
ただでさえ子供の喧嘩みたいな大御所二人の薄っぺらい物語をさらに混乱させ、
空っぽの2時間半越えに付き合わされた観客の身にもなって欲しい最低の作品だった。
ユニバースものって、ようするに顔見世興行。
単独で人気俳優が一堂に会して、共通の物語で行動するという醍醐味だ。
「ワンダーウーマン」単独公開され、評価を受け、確かにまだ馴染みのない新キャラが三人もいるけど、
壮大な物語のはずが、きっちり2時間の尺で納めている。
濃ゆい内容には中だるみや退屈する暇もなく、一気にそしてあっさりと結論へとまとめ上げる。
冒頭で新たなる強大な敵を提示する。地球侵略が刻一刻と迫っている。
その間、統率者であるバットマンとその右腕ワンダーウーマンが新人リクルートに走る。
三人とまだ単独作のない新登場キャラクターなので、
そのプロフィールや能力を素早く説明しなければならない。しかも三人分均等に。
内面の葛藤や背景が表層的なのは仕方がないとしても、
ここでうだうだしていると前作の二の舞で3時間コースへと陥ってしまう。
後半の全員一丸のバトルへと物語をドライブさせるのに必要な情報だけど絞り、
わかりやすい対立や変化を設けていく。
そしてついに襲来した敵側の圧倒的な武力にある奇策(ネタばれ要件)に出て、
この種のジャンルとしてはあたりまえだけど一致団結で勝利を収めるまでを無駄なく進める。
難を言えば単独作でガル・ガドット人気で名を知らしめたワンダーウーマンがいまいち精細に欠けたり、
肝心のリーダーのバットマンの無能ぶりなど、キャラクターさばきは必ずしも適切ではない。
でも細かいことには気にならないようなスピード感で押し切る。
少なくとも鑑賞中に観客に変な疑問を抱かせず、退屈させないことは大切なのだ。

ただやはりこの手のジャンル映画には興味が薄い。
後にも先にもクリストファー・ノーラン版「バッドマン」のみといってもいいだろう。
マーベルも、DCもどちらであってもアメコミブームはもうどうでもいい。食傷気味。

偏愛度合★★★