アメリカのホラー映画がしばしば陥る後半失速系。
大体その原因は脚本セオリーとキリスト教というふたつに由来する。
物語としての合理性、整合性を理論として追及した前者に対して、神と悪魔という不条理な要因。
ホラーというジャンル映画に、不思議とこの相反する両極を同居させるのがアメリカ映画の特徴。
前半から中盤にかけてネタフリを繰り返し、脅かす演出という心理操作を駆使され、
ようやく物語に没入し、これからの展開を期待した頃に何故か、
物語を映画脚本的に整合的に終わらせようとする力、即ちこれまでの種明かしを始め、
何故かそこに見え隠れするキリスト教的な世界観が神と悪魔、罪と罰、戒律などの宗教観が
オチに紐づいてくるので興醒めも甚だしく、消化不良で最後には失速するものがかなり多い。
大概神が実存し、信仰するならば、もれなく悪魔もついてくるとばかりに、
「ははは、実は全部悪魔のせいでした」とばかりにこじつけて終わる。
今作もその落とし穴に陥っている。
臨死体験での個々のビジョンというネタフリ部分はそれなりに面白く観た。
臨死によって研ぎ澄まされる昇華する一部の感覚(主に記憶に付随する能力)と
逆に副作用とも言うべき幻影、幻聴などを伴う現実崩壊的な不可解な現象が起こる。
これを解決しようと、論理的に試行錯誤し始めるあたりから、物語は失速し始める。
もちろんこのプロットはオリジナル版に由来するものだろう。
同タイトルでキーファー・サザーランド、ジュリア・ロバーツ、ケヴィン・ベーコン、
ウィリアム・ボールドウィンなど、その後大活躍する若手俳優を揃えた1989年の作品。


公開時にリアルで観たはずだけど、それ以降の再体験の記憶はないので、細部は覚えていない。
余談になるけど、80年代半ばから90年代前半にかけての風俗描写には耐えがたいものがあるのだ。
同時代を体験した世代にとっては懐かしいほど古くなく、どうしても恥ずかしさが先立つ。
独特のファッションやメイク、髪型、小道具など、全ての風俗描写がこっぱずかしいのだ。
余程のことでない限り、21世紀に振り返ってもう一度観る気にはなれない。
細かい比較はできないけど、ググってみるとどちらも、
臨死体験者に相次ぐ不可解な現象は、本人が抱いている過去の罪悪感の表れであり、
それに赦しを乞うことで解消できるというのだ。
まさしくキリスト教における罪と罰であり、罪を悔い改める懺悔であり、
改悛すれば、神の赦しを得て、めでたしめでたしというキリスト教啓蒙映画と化すのだ。
神も悪魔も直接表現はされないが、
天空のまばゆい光や黒い雲状の闇など,関連するイメージが各所でちりばめられる。
安易だけど、根の深い展開と失速感には寒いものを感じる。

そもそも今作はリメイクあるいはリブートなのだろうか、それとも27年後の後日譚なのだろうか?
前作の実験首謀者であるキーファー・サザーランドが引き続き、医学生たちの担当教授として登場。
当然27年分年食っているが、役名が異なるので、別人と判断すべきだろうが、
秘密裏に行う臨死実験をあたかも知っているかのように思わせぶりな態度を示しながらも、
結局それは伏線として回収されない。
単なる前作のファンへ観客サービス(接待)か?どうにも中途半端な印象だ。


【以下ネタバレあります】


唯一のツイストとしては物語の冒頭から登場して、視点となる人物が中途であっけなく死ぬことだろう。
だから中盤から突然視点が複数(そのほか大勢)に変わる。
通常ならば、視点人物が最後まで生き残るのが定石。
そのために周囲に配された雑魚キャラが、トライ・アンド・エラーで犠牲になり、
その結果ようやく正解へとたどり着く。
如何にも捨て駒風なマッチョで金持ちのボンボン野郎とか、
ビッチな尻軽女とか類型キャラクターを並べているにもかからわず、何故か彼らは生き残る。
この予想外の逆転ツイストをやりたいがための、再生産なのかもしれない。


偏愛度合★★★