逃げるという選択についての映画。
何かしらが自らを束縛し、抑圧し、他者から区分け、差別される縛りとなっている場合、
それからの逃亡という選択とそれに伴う重荷について描く。
安易に評価できない重いテーマを秘めた作品だ。
残念ながら、洋の東西、時代を越えて、人は常に差別する生き物であることは紛れもない事実。
世界中どこの国でも、人種や種族、瞳や肌の色などの身体的特徴、性別、特定の職業に従事者、
居住地域、社会的階層の下位者など、ありとあらゆる理由を設けて、差別や区別を強いる。
多分これは人類の創生から、消滅まで絶えることなく続くだろう悪習で、決して消えない。
悲しいけれども、それが前提でリアルワールドは成立している。
差別や抑圧に対して、時として世間では安易に叫ぶ。
「逃げちゃダメだ」「逃げずに立ち向かえ」「(要因となる)制度を変えよう」、
あるいは逆に「逃げてもいいんだよ」「そんな時は逃げるべきだ」などとまことしやかに語る。
でもそれは束縛、抑圧、差別されている当事者の声ではない。
意識の高い人ほど、理性的、中立を装い、これらの発言を真理であるかのように繰り返す。
映画「ドリーム」では、白人女性の管理官が職務上差別されている黒人女性に対してこう言う。

「(人種に対する)偏見はないのよ」
「知っています。そう思い込んでいることだけは」

背筋が寒くなるのを感じて、自戒を込めて、リベラルで中立的な立ち位置を改めて考え直した。
当事者とそれ以外の者との温度差、感覚の差は明確なのだ。
自分のアイデンティティを形成する要素(タイトルであるサーミ人としての血筋)を
捨て去るのは並み大抵のことではない。
物語の主軸となるのはその選択を選んだヒロインの内面の葛藤や苦悩だ。
ただしこの映画が巧みなのは、その語り口であり、プロットの構成手法にある。
アイデンティティから逃げるという選択と選んだ結果しか描かない。
その中間にあったであろう人生を一切描かない。
法を犯した犯罪者の逃亡生活には、大概時効があるが、この逃亡には時効がない。
いや、それ以前に差別には罪もなければ、罰もない。
生まれた時から理由もなく一方的に強いられるだけだ。
単に周囲から強いられたものとは違う道を選んだだけなのだ。
選択の当時は周囲と違ったことに挑戦したい、自分の可能性を信じたい、
別の世界で暮らしたいなど、単なる若気の至りもあっただろう。
若者が家出や駆け落ちレベルで、まだ見ぬ未来に期待するのは当然のことだろう。
そして別名を名乗り、サーミ人であること(部族社会)から逃げることを選択した。
結果は、半ば息子に強引に連れられて妹の葬式に出向くまで一度も故郷の地を踏むこともなく、
親姉妹の死に目にもあえずに、密かに生き続けてきた。
物語は帰郷という現在の断片(フラッシュフォーワード)から始まり、
過去の回想シーンを物語の中心として挟み込み、再び現在に戻るという構成だ。
観客は隠されたその空白を想像する。
劇中では描かれない現在に至るまでのこの空白にこそ、途轍もない重荷がある。
自分自身を形成している要素の全てを日々絶え間なく否定し続けてきたのが彼女の人生だ。
安易に「いつでも逃げてもいいんだよ」と言えるレベルの選択ではない。
常に選択にはリスクと重荷が伴うのだ。
スウェーデンのラップランド地方にサーミ人という先住民族がいることも、人種的に劣っているされ、
文明社会で生活できない野蛮人として差別されていることもこの映画で初めて知った。
規模から見れば映画産業の先端ではないスウェーデンという小国が自国の歴史の暗部であり、
現在も継続しているタブーをテーマとして、決して幅広く楽しめる娯楽作品ではないが、
世界的に評価される商業作品として撮ることが出来る懐の大きさには驚いた。
現在の日本でそれが可能かと言えば、悲しいけれども疑問しかない。

偏愛度合★★★