愛か怖れか
すべてを選んでいるのは自分自身であること、
その選択肢は、愛か怖れかどちらかでしかないことを、どんなときも思い出すことができますように。
以下、湊 真帆子さんのメルマガの転載です↓
「選択肢」
私たちは、日常的に、多くの選択をしなければならないように思えます。
仕事に行くか、休むか、
何を食べるか、
誰と何をするか、
どのような職業に就くか、
告白するか、
引っ越すか、
小さなものから大きなものまで、あらゆることを選択しています。
自分の目指したい道や、今目の前の選択が、正しいかどうか、
うまく行くかどうかを気にしながら選択するには、多くの場合重圧を伴います。
だから、私たちは、天使たちに答を求めます。
この世界には、無数の選択肢があるように見えますが、本当は、
私たちの選択には、たったひとつしかありません。
愛に戻る道か、そうでないか。
「愛に戻る」を、「本質的に幸せになる」と、言い換えることもできます。
自分の未来が明るく感じられる方に行く道かそうでないか、と、言うこともできるでしょう。
もし、癒されたいとか、幸せに向かう意図がなければ、この世界のどのような選択も結局は同じです。
例えば・・・・
仕事を休むかどうか悩んだ結果、休んだとしても、休んだ自分を責めるなら、あまり意味はありません。
嫌な職場を辞めて仕事を変えたとしても、退職するに至る原因が癒されてなければ、
同じ悩みを抱えることになります。
聖なる愛は、私たちに、戻って来るようにと、常に呼びかけています。
私たちが、天使たちに助けを求めるとき、彼らは、私たちが癒しや、幸せを受け入れるように、
愛の本質に気づけるように導きます。
でも、私たちは、ついつい、自分でなんとかしようとし、委ね、頼れる多くのことを、
自分自身で選択しています。
その理由のひとつは、私たちが、聖なる導きの先にあるものが、本当に幸せかどうか、
疑っているからです。
私たちは、聖なる無条件の愛のことを忘れてしまっていて、
それが、犠牲を求めたり、試練を与えたり、罰を与えたりする、と、思い込んでいます。
愛(神)をそのような恐ろしいものと認識していながら、頼ったり、委ねたりすることなど不可能です。
だから、聖なる存在たちは、私たちに無理に信頼するように言うことはなく、
優しい道を用意してくれています。
私たちは恐れを間違いだと認識し、安心して委ねられるように、
天使たちに些細なお願いを繰り返しながら、
愛が愛でしかないことを思い出して行くことができるのです。
この世界は、自分の力では、どうしようもないことばかりに見えます。
だから、私たちが幸せになり、安心しているためには、
私たちの力の及ぶ範囲を超えたところからの助けが必要です。
私たちの本当の安心は、無条件の愛が、ただ幸せをもたらそうとし、
常にサポートしてくれるのだと知ることでのみもたらされるのです。
Happy birthday Josefina♪
先日ひさしぶりに インスタでジョセフィーナの名前を検索。
見たことのない写真がひとつありました♪
Escape to light /Josefina de Vasconcellos
(jbxhtさんよりお借りしています)
写真がいつのものかはわかりませんが、
投稿は5日前になっていて、
ちょうど検索した日あたりに新たにアップされていたものだと、今日知りました。
今日はジョセフィーナのお誕生日です。
生誕114年。
計算ちがいでなければ、22年前に
彼女に会いに行ったころの写真がこちら↓
前に載せたかもしれません。
こちらも画像はお借りしました。
当時この作品の制作中で、手前がジョセフィーナ。
奥は、この時すごくお世話になったRose。
宿の手配など、何から何までお世話になりました。
一緒に私も掘ってと言われたけれど、
恐れ多くてほんの気持ちしか削れなかったことは残念ですが、
それもいい想い出です。
大切なものは、すべて自分の中にちゃんとあるので、
形が残らなかったことが、そんなに大きな事じゃないと、今は思える。
ジョセフィーナ
心からおめでとう。
彼女と出逢えたことは、
これからもずっと、この世界で受け取れた
特別なプレゼントです。
大きな感謝と、心からの祝福を込めて。
自分を尊敬する
「ありのままの自分でいる」ことが、
「自分をあきらめている」ように見える度に、
どうか自分を大切に扱ってほしい、と願わずにはいられません。
まずは自分自身を責めることを一切やめてみること。
大切な誰かを想うのと同じように、自分を想ってみる。
それが難しいなら、少しの時間でも、
自分を丁寧に扱う時間を作ることから始めるのがお勧めです。
例えば、コーヒー1杯を、
自分の為に、心を込めて淹れてあげる。
そんなことからでいいと思うのです。
神様は、空の彼方、遠いところにいるんじゃない。
宇宙と一体である自分自身を
あなたも感じることができますように。
大いなる力を信頼することと、
自分自身を信頼することが、
全く同じ意味であると、
知ることができますように。
湊 真帆子さんのメルマガを転載させていただきます。(タイトルもお借りしました)
☆以下転載です↓
☆1… 自分を尊敬する ……………………………………………………………☆
自分を愛することの大切さは、何度伝えても、過ぎるということはありません。
言葉とは、象徴的なものであり、愛の定義が様々であるために、
「自分を愛すること」の解釈が様々になり、自分にとって、
本当に幸せに繋がることを選択し続けるのは、容易ではありません。
また、成長の段階によって、自分に何をするのが愛することなのかも、変化していきます。
ですから、スピリチュアルな成長のゴールは、誰に取っても同じですが、
どのような言葉が、本質的な理解となり、前に進むための一歩になるかは、人それぞれです。
「ありのままの自分でいる」というのも、自分を愛することの一つの表現です。
ただ、ありのままの自分がどういうものなのか、誰も理解できておらず、
そのために、ありのままでいることを、エゴのままでいることと混同してしまうこともあります。
「私たち誰もが、純粋な光であり、愛である」
これは、真実です。
私たちは、本当は、そのことを知っていますが、エゴに惑わされて、
自分は「悪い」「罪を犯した」「汚れた」存在だと思い込んでいます。
それでも、それらの根拠は、私たちの真実の光と愛には、何の影響も与えません。
私たちは、真実を知ることで、自分を誤って認識していることを知り、
本来の姿に戻っていかなくてはいけないのです。
「自分を愛すること」は、そのために、最初に着手すべき、必須の要件です。
愛は、感謝であり、豊かさであり、慈悲であり、尊敬でもあります。
言い換えれば、私たちが本来の姿に戻ったときには、感謝に溢れ、豊かであり、
慈悲深く、尊敬の念を持っているということになります。
それは、無条件であるので、相手の状態にかかわりません。
このように聞くと私たちは、「自分以外の誰かに対して」感謝したり、
尊敬したりしようとします。
それはもちろん、間違いではありませんが、すべては自分自身から始める必要があるのです。
だから、自分に感謝し、尊敬の気持ちを向けることが大切です。
そう聞くと、あなたは、自分を尊敬するなんて難しい、と思うかもしれません。
または、自分が立派だと思うことをしているときだけ、つまり、
根拠があるときだけ、尊敬しようと思うかもしれません。
一般的な尊敬とは、誰かを自分より上位に置き、敬う気持ちであり、
基本的に、尊敬する誰かと自分を別物として扱っています。
そうではなく・・・・
自分を尊重し、そっと側にいるようなイメージです。
大切なのは、自分に尊敬する誰かにするように触れることです。
例えば、尊敬する人が怒っていたら、その怒りを否定するのではなく、
きっとその怒りには正当な理由があるのだろう、と、
その人の感情を尊重する思考になるものです。
「この人が怒るのだから・・・・」というような。
それと同じように、自分の感情や欲望に対しても、
大切な人の大切なものとして、尊重してみてください。
だからといって、怒りを周囲に好きなようにぶちまけるというのではなく、
実際にどのように行動するかは別にして、自分自身に対して、
尊敬の気持ちを持って、受け止めようとしてみるのです。
やろうとすると難しく、自分に、いやいや、しぶしぶ、
付き合っているということがわかるかもしれません。
でも、それに気づくことも、大切な一歩です。
そんなにあなたに嫌われるほど、あなた自身があなたに何をしたというのでしょう。
あなたが、自分に対して、素直に尊敬の気持ちを持てるとき、
自分にそっと寄り添いながら、自分でいることを楽しめるようになるでしょう。
あなたもおそらく既に知っている通り、宇宙は、あなたをとても大切に尊重し、
守り、多くを与え、導いています。
その大切なあなたを、あなた自身も、大切に思ってください。
Reconciliation
数年ぶりに、ジョセフィーナの「彼ら」に会いに行けました。
いつもの通り、埃を払いたかったのに、
お手を触れないでください、のプレートが設置してあった…
目の前に受付があって人が見てるし、
ブロンズなので、少々では壊れたりはしないだろうに。
ジョセフィーナは、そのプレート、嬉しくない気がします。。
昔、載せてある写真と、ほとんど変わりませんが、あらためて。
出逢いから、23年なんですね。
確か、この2年あとくらいに会いに行きました。
次回行ったら、お掃除させてもらえるか頼んでみよう。
すごく汚れていたわけではないけれど、
あのプレートの話は、ちょっとしてみたい。
作品の上に乗せてあったので、やっぱりかなり気になっています。
次回も立ち寄れますように。
23年経った今も、
変わらない平安を ありがとう。