Peaceful Love -5ページ目

Holy Night

Holy Night  (Manchester Cathedral)

Josefina de Vasconcellos


ジョセフィーナの作品、どこかで更新されていないかなと思って、久しぶりに検索かけたら、

出遭ったことのない作品に出逢えました♡


マンチェスター。

彼女に会いに行ったとき、1泊したところではないか…

帰りも、エディンバラから帰る予定が、

ラジオでテロの予告があった為、

結局同じルートで帰国。

2度も降り立った地なのに、彼らに会わずに帰るとは。。


それでも、知ることができてよかった。

ここで紹介できることにも感謝です☆

愛おしさ

こんにちは。
長い間、更新していないのに
なぜだか先日、アクセスの桁がすごいことに!
どうしてだろう。。
こんなに音沙汰のないブログを
わざわざ覗きに来てくださった方に感謝です。
ありがとうございます♡
 
コンクリートから顔を出している植物は
いつも涙が出るくらい愛おしい。
 
あなたにも
そんな愛おしさや、大切に感じる誰かや何かが、きっとあるはず。
 
そんなあたたかい気持ちになったとき、
たまには立ち止まって考えてほしい。
 
これと同じだけ、自分をあたたかく見守れているかどうか。
 
さっき、耳からの音が、どれだけ脳に影響を与えるか、
という記事を読んでいたら、
日本人の8割が、自分の声が嫌いだというデータがあると書いてあった。
他の国で、こんな数字を表す国はないらしい。
この事実を、まずは、しっかり認識する必要があると思う。
悲観にとどまらないで、前に進むべきだと思う。
 
自己犠牲が美徳という考えは
絶対に大きな間違いだと、私は想っている。
犠牲を伴う愛は、純粋な愛にはなり得ない。
 
何度も書いていることだけど、
自分とどこまで仲良くなれるか、に
「本当の幸せ」や「本当の自由」はかかっている思う。
 
どうか、親友や愛する人と同じように
自分を、心から愛してほしい。
それができると、もう本当に、魔法がかかったように
自分の中から、言葉で言い尽くせないほどのあたたかいものが
あとからあとからあふれてくる。
自分の中に、果てしない宇宙が見えるようになる。
 
あなたが、自分の命を、魂を、
愛する人たちと同等に、慈しむことができますように。
 
自分だけをのけ者にしないで、
大切にすることができますように。
 
 
 

天国のジョセフィーナへ


写真はInstagramよりお借りしました。

日付が変わってしまいましたが
きのうはジョセフィーナ生誕113年でした。
天国に還られてから、12年も経ったのか。

ジョセフィーナ
12年経った今も、
魂が不滅だと、私に教えてくれて
今日もありがとう♡

広島の彼ら(Reconciliation)、
埃かぶったりしていないかな。
誰か代わりに綺麗にしてくれていますように☆

エゴの奥にある本当の自分

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パキラのあかちゃんたち。
5本に落ち着いたようです^^
すくすく育ってくれています♡♡
 
本日2つ目の投稿。
湊真帆子さんのメルマガ転載のあと
書き連ねていたら長くなった為、
別記事として出させていただきます。
冒頭は、そのメルマガの内容についてのことなので、先に前記事「あるがままの自分とは」を読んでいただけると嬉しいです。
 
 
 
自分に価値がない=愛に価値がない
の部分に、思わず笑ってしまいました。
全くその通りだな、と。
 
もともと長年、私は、性悪説ではないものの、
性弱説、もしくは、性愚説であったので、
まさに「愛に価値がない」と言っていたも同然だったというわけですね。
 
自分の中にある愛を、本当の自分を、
心から信じること。
この「本当の自分」との信頼関係は、
そっくりそのまま、目に見えない大いなる力と自分との信頼関係に繋がります。
というより、同じ意味を持つのだと思っています。
 
自分の中に、果てしない宇宙がはっきりと見えて以来、それは確信になりました。
 
あれは間違いなく、
宇宙からの、大いなる力からの、
大きな大きなメッセージだったと思う。
 
宇宙からの贈り物は、さらに続きました。
 
孤独感とは、
紛れもなく、自分自身が作り上げたものであって、
自分(エゴ)以外の誰にも作れないのだということ。
 
人生の、どの瞬間を振り返ってみても、
どこにも「ひとり」であった時間は存在していないこと。
 
そして今この瞬間も、この先も、
それは変わらないのだという事実。
 
そういうことを、身を持って知ることができました。
 
、、、にもかかわらず...
 
すぐに忘れてしまったり、
どうにかしようとしてしまったり、
を繰り返してしまうけれど、
そんな自分を笑いながら、
 
既に許されていることへの感謝や、
本当は、はじめから満たされているのだという事実を、
思い出しながら生きていければいいかなと思います。
 
ひとりで生きている人なんて、
本当は、どこにも存在しません。
 
わたしたちは、ひとりひとり
いつでもどこでも、
目に見えない力に、愛に、守られています。
 
それは、
遠い雲のかなたにあるのではなく、
わたしたち自身の中にあるのです。
 
あなたが
あなたの中にある、その
この上なくあたたかいものを認め、
本当の意味での自己一致をし、
すべては繋がっていて「ひとつ」であるという真実を
知ることができますように。
 
あるがままの自分でいることに
心から安心していられますように。
 
エゴの、ずっと奥にある
本当の自分を知ることができますように。

 

 
 

あるがままの自分とは

いつも楽しみにしている、湊 真帆子さんの
今日のメルマガを貼らせていただきます。
どうにかしないと」というタイトルでした。
 
あるがままの自分を
受け入れることと、
あきらめることは、まったく違うこと。
 
あきらめるのでも、否定するのでもなく
受け入れることができるのは、
その奥(先)にある「本当の自分」でしかない。
 
あるがままの自分について、
とても分かりやすく書いてくださっているので
ぜひシェアしたくて、転載させていただきました↓
 

 

 
ほとんどの人が、「あるがままの自分」がどのような存在であるか理解できていません。
 
あるがままの自分でいるとは、思い通りに振舞うことだと思っており、
自分が「思い通りに考えている」ことが、愛ではないとわかっているので、
 
「あるがままの自分でいるなんて、とんでもない!!!」
 
と思っています。
 
そのため、職場に、友達関係に、学校に、社会に、恋人関係に合わせて、
自分を「ちゃんとして」いる状態にさせなければならず、
自分をいつも監視し、どうにかしようとしています。
 
自分を外側の状況に適合させるためには、モラルや、常識や、他の人が普通どうしているか、
という知識が必要となり、自分がそれに合っているかどうか、常にジャッジして、
適合しないものを抑圧し、間違ったと感じたときには、すかさず、自分を責めています。
 
ほとんど誰もが、「あるがままの自分 = エゴの自分」だと思っているので、
自分を表現しないように、自分を無理矢理コントロールしているのです。
 
それは、誰もがしていることなので、「社会人として、人として、当たり前」のように見えますが、
私たちの愛の本質から遠ざかる行為に他ならないことがわかるでしょうか。
 
私たちの愛の本質を、エゴの厚い層が覆って見えなくしていて、
私たちは、エゴの自分が本当の自分だと思い込んでいます。
 
自分をどうにかしようとする行為のほとんどは、自分の気に入らないエゴを、モラルを大切にするエゴで、
社会に適合するエゴにしようとしているだけなのです。
 
それは、自分自身と常に戦っているということであり、自分の中にある戦いは、当然、
外側の世界に顕現します。
 
でも、自分自身との戦いがあまりにも当たり前になっている私たちは、
自分の内面にある戦いのことは忘れて、自分にいつもしているのと同じように、
外側の世界の戦いを批判し、やめさせようと働きかけます。
 
この世界で起こるどのようなことも、自分自身の内面と無関係ではなく、
自分自身を癒せば、外側の世界を変えることができるのです。
 
もちろん、どのくらい世界を変えられるかは、自分自身の力への信頼度と比例していて、
信頼度を高めるためには、自分を癒すことがどれほど周囲に影響を与えるか、体験していくことが大切です。
 
 
だとすれば、私たちにできるのは・・・・
 
常に自分をどうにかしようとしているのに気づくこと
 
自分が思っているエゴの自分が、あるがままの自分ではないと知ること
 
エゴを否定し、抑圧し、作り上げた別の自分を被せるのでなく、理解し、受け入れること
 
・・・・でしょうか。
 
そうやって、自分が癒されていき、自分の愛の本質にほんの少しでも触れられたとき、
私たちは、自分の価値を思い出すことができるはずです。
 
もしそれでも、自分に価値がないと言い張るのなら、愛に価値がないと言っていることになるのですから・・・・
 
 
あなたは、私たちは、
 
常に監視し、どうにかしようとしていなければいけないほど、酷い存在ではなく、
どうにかしようとすることを止め、否定することを止めた先には、
ただ愛の本質が存在しているだけなのです。