『瞳をとじて』 (2023) ビクトル・エリセ監督 | FLICKS FREAK

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いやぁ、映画って本当にいいもんですね~

 

1980年代から2000年代にかけてのミニシアタームーヴメントの旗手、シネ・ヴィヴァン六本木の最大の功績の一つはビクトル・エリセを日本に紹介したことだった思う。スペイン映画の最高傑作であり、映画史の金字塔として残る作品が『ミツバチのささやき』。1973年に制作されたその作品を、12年の時を経て日本に持ち込んだのがシネ・ヴィヴァン六本木だった。当時大学生だった自分は、映画監督を目指す友人が絶賛していたので慌てて観に行ったことを覚えている。

 

『ミツバチのささやき』は、少女アナが移動興行の映画で観た『フランケンシュタイン』(31)のイメージと姉イザベルが語る精霊のイメージを脱走兵に重ね、アナの現実とも幻とも分からない体験を、スペインの荒涼とした風景を背景に描いた作品。荒野の小屋を目指して遠く小さくなるまで少女二人が駆けていくシーンは、あまりに美しかった。そしてその作品が、フランコ独裁政権に対する批判を込めたものであり、ミツバチや全員同じ場面には揃わない家族が抑圧されたスペイン国民の暗喩であることや、精霊=奇跡を信じるアナに独裁を打ち破る新しい力を象徴させていることを知り、更に自分の中での評価は高まり、DVDを購入してこれまでに幾度か見直してきた作品だった。当時6歳のアナ・トレントが、元々は別の役名だったのに「なぜ自分はアナなのに違う名前なの?」とエリセに問うたことから、実名で役を演じたことはあまりにも有名な話である。

 

それから10年の時を経て作られた次作が『エル・スール』。当初「北」と「南」の二部構成で2時間半の作品となるはずが、予算の関係で「北」パートのみの監督の意にそぐわぬ形で「完成」させられた作品。「エル・スール」はスペイン語で「南」を意味するが、作品はアンダルシアの太陽が燦燦と降り注ぐイメージではなく、むしろ冷涼なイメージなのはそのため。ただ、シューベルトの交響曲第7番が未完成でも完成されているように、父親の影を求めて少女が南に旅立つエンディングはむしろ余韻たなびく効果を生んでいるように思う。そしてその9年後に作られたのがドキュメンタリー映画の『マルメロの陽光』。こうしてみると、完全に完成した劇映画は1本しか撮っていないにも関わらず、ビクトル・エリセは巨匠と呼ぶに相応しい名声を得ていることが、今更ながら驚かされる。

 

そのビクトル・エリセの31年ぶりの新作が本作。劇映画では40年ぶり、そして完成された作品としては実に半世紀ぶりというのがこの作品。

 

結論から言えば、この作品は今年84歳を迎えるビクトル・エリセの集大成の作品であり、フィクションのストーリーに彼の映画人としての半生、そして映画観が投影された作品だった。

 

主人公ミゲルは元映画監督。監督2作目で、主演俳優フリオが失踪してその作品の撮影が中断となり、以来22年間作品を作れないでいる。その人物像がエリセ本人であることは明らかだろう。また本作は、『別れのまなざし』と題するミゲルが制作途中で頓挫した映画の一部から始まるが、劇中劇の主人公が住む館の名前「悲しみの王(トリスト・ル・ロワ)」の王とは、スペイン映画界での彼自身のことを指しているのだろう(『別れのまなざし』は、かつてエリセが制作を試みてなし得なかった『El embrujo de Shanghai(上海の呪文)』 に題材を得ていると思われる)。

 

本作は、失踪した主演俳優のフリオを探すミステリー風なのだが、ミステリーとしては、フリオが記憶喪失だったという設定はありきたりなもの。そしてその発見のきっかけは、映画制作中断の経緯を紹介するTV番組を偶然見た人がフリオの近くにいる人だったというのだが、フリオが有名でなければ成り立たない番組なのに、誰も22年間フリオに気付かないというのも不合理ではある。しかし、この作品ではそうしたストーリーの矛盾は全く問題にならない。この作品を観る意味は、ストーリーの面白さに求めるのではなく、「エリセの映画」を観る体験だからである。

 

この作品のテーマは、一言で言えば「映画の奇跡」だろう。重要な映画のセリフの一つに、ミゲルの相棒だった映画の編集技師マックスが言う「1本の映画が奇跡を起こすとでも?ドライヤー亡きあと、映画に奇跡は存在しないさ」というものがある。カール・テオドア・ドライヤーの『奇跡』や『裁かるゝジャンヌ』が奇跡のような作品であるかは個人の評価だとして(個人的には前者はまだしも、後者には世間の評価ほどには感銘を覚えなかった)、それはあくまで反意的な物言いだろう。エリセこそが「映画の奇跡」を信じる者であり、『ミツバチのささやき』がフランコ独裁政権を倒すきっかけになったとまでは彼も思わないだろうが、1973年の映画公開と、1975年のフランコ独裁政権の終焉に「映画の奇跡」を感じないはずがない。だからこそ記憶を失ったフリオに『別れのまなざし』を見せることをエンディングに持ってきたのだろう。エリセが「映画の奇跡」を信じるように、ミゲルも「映画の奇跡」を信じるからこそ。

 

この作品が、最近のトレンドでもある「映画の映画」であることも興味深かった。サム・メンデス監督『エンパイア・オブ・ライト』のレビューでも述べたところだが、今日、映画人が自分のルーツを見つめ直し、「映画の映画」を同時多発的に制作していることは特筆すべきことである。ミゲルの息子が持っていた蒸気機関車のパラパラめくりの写真は、世界初の映画の一つと言われるリュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895)を思わせる。また劇中でミゲルがハワード・ホークス監督『リオ・ブラボー』の劇中歌「ライフルと愛馬」を歌うのも印象的だった。『リオ・ブラボー』でこの歌を歌うのは、ディーン・マーティン演じる恋に破れて失意の中で酒に溺れるガンマン。彼のカムバックが映画の中で描かれていたが、同じくカムバックの気概をエリセも見せたかったのかもしれない(ちなみに『リオ・ブラボー』はクエンティン・タランティーノが「無人島に持っていく3本の映画」の一本。あとの2本は、ブライアン・デ・パルマ監督の『ミッドナイトクロス』とマーティン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』。そんなことはエリセは知らないだろうが)。

 

この作品にアナ・トレントが出演して「私はアナ(「ソイ・アナ」)」というセリフを言うことは、この作品がエリセの集大成である以上、必然のことだったろう。『ミツバチのささやき』で、姉のイザベルに「目を閉じて『私はアナ』と呼びかければ、精霊にいつでも会える」と言われ、映画のエンディングとなったあのセリフである。アナ・トレントにそのセリフを2回続けて余韻たっぷりに言わせる演出は好みの分かれるところだろうが(自分は「巨匠!サービス精神盛り過ぎちゃいまっか!」と突っ込みたかった)。映画のタイトル『瞳をとじて』はそのイザベルの言葉を受けてのものだろうし、観客に向けて「瞳をとじて映画の奥にあるものを感じ取ってほしい」というエリセのメッセージだろうと思っている。

 

この作品をもってエリセが何をこれからしようとしているかのメッセージには二つの解釈があるだろう。その一つは、『ミツバチのささやき』で映画(『フランケンシュタイン』)を見せて始まり、この作品で映画(『別れのまなざし』)を見せて終わる輪環構造を取ることで、エリセが彼の制作活動に終止符を打つというもの。もう一つは、フリオが失った記憶とは、エリセの中の創作意欲であり、それを取り戻すことでエリセの再始動宣言とするもの。この答えは、これからのエリセを見ていくことで知ることになるだろう。

 

この作品はエリセの集大成的な作品であり、宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』のような立ち位置の作品だと考える。『君たちはどう生きるか』は「宮崎愛」が試される作品であり、宮崎駿の信奉者のみが心底楽しめる作品だろう。それゆえ、この作品を絶賛する人がいても全く不思議はない。それは彼らの「ビクトル・エリセ愛」の表象だから。自分には、この作品は『ミツバチのささやき』や『エル・スール』を越える作品だとは思えなかった。いかにビクトル・エリセ愛があったとしても。

 

★★★★★★ (6/10)

 

『瞳をとじて』予告編