『ブレードランナー 2049』 (2017) ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 | FLICKS FREAK

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いやぁ、映画って本当にいいもんですね~

 

いい作品には2パターンある。鑑賞し終えたその瞬間からいい映画だと思えるものと、観終えた時には「よく分からない」と感じながら心に残り、時間の経過とともにそのよさが染み込んでくるもの。SFの名作で言えば、『スター・ウォーズ/新たな希望』(1977年)は間違いなく前者。中学3年の夏に映画館で観た時の興奮は、いまだに忘れられない。それに対して『ブレードランナー』(1982年)は後者である。初公開時に劇場で観終えた時には、深遠なテーマに感動しながらも同時にいろいろな疑問に混乱していた。しかし、それから時間が経って、「一番好きな映画作品は何?」と聞かれれば、「『エイリアン』と『ブレードランナー』、甲乙つけがたい」と答えるようになった。

 

「即おいしい型」のスター・ウォーズ・シリーズでは、プリクエル・トリロジーの後のシークエル・トリロジーの第一作『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』はオーラを失った見るも無残な駄作だった。ルーカス・フィルムが版権をディズニーに売却し、ディズニーが選んだのはコアなファンを喜ばせるよりは新たなファンを作ることにあり、『フォースの覚醒』は、オリジナル・トリロジーとシークエル・トリロジーを知らない若年層とスター・ウォーズ・シリーズの新作であれば無批判に迎合する者以外には全く魅力のない作品だったと言える。それは無難を選択した、J.J.エイブラハム監督の起用の結果だと考えている。

 

対照的に「熟成おいしい型」の『ブレードランナー』。前作から30年後の世界を描く続編を作るにあたって起用されたのはカナダのドゥニ・ヴィルヌーヴ監督。実に渋い選択。『灼熱の魂』(2010年)、『プリズナーズ』 『複製された男』(2013年)、『ボーダーライン』(2015年)、『メッセージ』(2016年)と一貫して単純なエンターテインメントとは一線を画した高水準の作品を作ってきた彼の手によるものであれば、期待も高まろうというもの。そしてその期待は裏切られることはなかった。結論から言えば、歴史的な名作の続編として実に優等生的な答えを出してきた、と感じた。

 

冒頭、Kがサッパーを解任するシーンで壁を突き破る状況は、前作でフォークト=カンプフ・テストを受けていたリオンがホールデンを銃撃するシーンに重なる。そのように前作とシンクロして始まりながら、それから徐々に乖離していく展開がこの作品の構図となっている。それを象徴するのが、前作で印象的だった「ネオン+雨」のシーン。これは近未来SF作品ではもはやステレオタイプとまで定着したイメージだが、この作品でも前半ではお約束のように登場する(30年という時間の経過は、「二つで十分ですよ」というおっさんが自動販売機に置き換わっているが)。しかし、後半では前作との乖離を象徴するように、印象的な情景は砂漠と雪。前作で使われていないそうした情景をモチーフとすることで、新たな境地に踏み込もうとしたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の意気が感じられた。


前作のテーマは、人間とレプリカントのファジーな境界の間で揺れ動く人間 or レプリカントの情感だった。もしその境界が、感情を安定化させるために埋め込まれた記憶が本物でないというだけの差であれば、レイチェルのように自分がレプリカントであるか人間であるかも分からない存在となり、必然その境界はファジーとなる。4年という限られた生命を生き長らえようと葛藤するロイが命の尽きる間際に見せた慈悲は、レプリカントが人間以上に人間らしいものであり、テーマに沿った素晴らしいエンディングだったと思う。

 

その前作のテーマを具現しているのがレイチェルであり、本作では彼女が「奇跡」を見せることで前作との橋渡しがされている。しかし、それはあくまで橋渡しであり、本作においては人間とレプリカントの境界ははっきりとしている。レプリカントが人間になりたいと葛藤することはなく、レプリカントはレプリカントとして繁栄する方向を志向している。そのためにもレイチェルの「奇跡」は必要だった。

 

前作のディレクターズカット版で、デッカードがユニコーンの夢を見るシーンが挿入されたことから、デッカードもレプリカントではないかという憶測がなされた。つまりブレードランナーはもしかしたらレプリカントかもという解釈があり得るものであり、リドリー・スコットもその解釈を気に入っていると伝えられた。つまりあくまで人間とレプリカントの境界はファジーであると受け止められた。しかし、本作では初めからKがレプリカントであることは明らかにされている(ちなみに、デッカードがネクサス6であれば4年の寿命が運命づけられているため、本作に登場している時点で、デッカードはレプリカントではなかったという、前作における憶測の決着はついたと思われる)。

 

そのように人間とレプリカントの境界をクリアにしつつ、ネクサス9がより人間的であるのは興味深い。前作では、レプリカントであるかどうかを見分けるためには共感性をテストするのだが、本作でのレプリカントは共感性を持った存在として描かれている。それは前作のフォークト=カンプフ・テストで、レイチェルが手にとまったハチを殺すと答えているのに対し、本作ではKがミツバチの箱に手を入れ、手にハチを止まらせながらも殺さないことに象徴されている。その結果、レプリカントのネクサス9はより感情豊かであり、愛情を持った存在となった。その点では、ジョイは実体こそ伴っていないAIであるものの実に本作的だと言える。これは前作との間に、現実世界でAIが進化したことに影響を受けているのだろう。30年という時間が経過していても、SFとして重要な脇役であるはずの「ガジェット」の進化にやり過ぎ感がないのは好感が持てた。

 

本作のテーマは「厳然としたレプリカントが人間よりも人間らしく生きることができることを描くことを通して、何をもって人間を人間足りえる存在とするか」ということであろう。「レプリカントがともすると人間よりも人間的である」ということは、前作のデッカードと本作のKを比べてみればよく分かる。前作の難点の一つにブレードランナーのデッカードに感情移入しにくいことが挙げられる。人間に近いレプリカントを物扱いし「解任」する人間のブレードランナーよりも、人間として生きたかったレプリカントのロイの方により感情移入しやすかった。しかし、本作のブレードランナーであるレプリカントのKに感情移入することはたやすいであろう。本作が前作より優れているのは、主人公であるブレードランナーに観客が感情移入しやすい点にあると考えた。

 

前作で素晴らしいのは、音楽が重要な配役とも言えるほどの存在感があったこと。ヴァンゲリスの作り出す世界観が実に作品にマッチしていた。それは『エイリアン』にH.R.ギーガーの造形が与えた影響に匹敵すると言える。本作においては、音楽は脇に控え、重低音のノイズのようなサウンドが多くのシーンに配されていた。そうした音響効果が前作との差異だが、その点においてはやはり前作に軍配は上がると思われる。

 

前作のコアなファンは総じて本作の出来には満足するはずであり、それが、本作は歴史的名作の続編としてドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が作った優等生的な答えと言ったゆえん。しかし、もしコアなファンの間で賛否両論という出来であればこそ、前作を越える可能性もあった。前作が哲学的な「問いかけ」である作品であったのに対し、本作は多くの題材に答えを提供している以上、時間を経ての熟成はそれほど期待できず、確かに前作に匹敵する素晴らしい出来とは言うものの、前作を越えるものではなかったと感じた。

 

ちなみに本作を観るにあたっては、本作の前日譚である3本のショート・ムービーを観ておくことをお勧めする。

 

『2022: ブラックアウト』

『2036: ネクサス・ドーン』