嘲笑と抱擁の狭間。
いちいち。
ちょっとした一言に喜んだり、ムカついたり、失望したりする自分が、面白い。
理性で動く、悪く言えば頭でっかちだと思っていた自分が全く嘘になる瞬間。
何を望むから、こんなにふらふらするのか、ごく簡単なことである。
愛されたい、誰からも。認められたい、全てにおいて。
そんなあり得ない欲望が、心の中で堂々と巣食っているのだ。
これは、もう私と一体化してしまっているのだろうか。どす黒くこびり付いている。
しかし。
誇り高くありたい。それが私の願うこと。
誇り。それとは全く相反するもの、この卑屈な欲望。
文章を綴るときのみ、無理のない力で抑えられている。
憐れな私を唯一許してくれるのは、自分なのだ。
だからこそ、文に生きることを願う。
何を伝えたいわけでもない。
ただ、人にすがらずに、薫り高く、誇りをもって生きて行きたいだけなのだ。
ちょっとした一言に喜んだり、ムカついたり、失望したりする自分が、面白い。
理性で動く、悪く言えば頭でっかちだと思っていた自分が全く嘘になる瞬間。
何を望むから、こんなにふらふらするのか、ごく簡単なことである。
愛されたい、誰からも。認められたい、全てにおいて。
そんなあり得ない欲望が、心の中で堂々と巣食っているのだ。
これは、もう私と一体化してしまっているのだろうか。どす黒くこびり付いている。
しかし。
誇り高くありたい。それが私の願うこと。
誇り。それとは全く相反するもの、この卑屈な欲望。
文章を綴るときのみ、無理のない力で抑えられている。
憐れな私を唯一許してくれるのは、自分なのだ。
だからこそ、文に生きることを願う。
何を伝えたいわけでもない。
ただ、人にすがらずに、薫り高く、誇りをもって生きて行きたいだけなのだ。
のぼせるということ
Aとは、留学先で出会って半年間を良い友達として過ごす。
それから2年半、変わらずにメール、手紙、贈り物をくれていた。
私は失礼なほどにほとんど返事をしていない。
香港にわざわざ会いに来る。
いつでも変わらないその誠実さに心を打たれる。
こんな私に、卒業後、一緒にアメリカに移住しないか、と言ってくれる。
その申し出は、私の夢なのだから、本気ならとても嬉しい。
誰にでもえらく優しい。国では相当の金持ちの息子らしい。
みんな、からかい半分に、玉の輿、と囃す。
金持ちという言葉に惹かれる卑屈な自分が嫌だけれど、そんな腐った一面、否定できない。
顔も男らしさも心の深さも、彼氏の方が、と比べたりもする。
それとは全く関係なく、香港での一件により、大感動。
変わらぬ誠実さに応えるほど大事にしたいと思った。
でも。
単純に、良く見える条件、優しい言葉、輝かしい将来、それで勝手に熱くなっていた。
そんな単純なことに、はまり続けている私。
彼氏がかなりの好条件であることを合理的に計算したことも否定しない。
そしてその変わらぬ愛情、幸せな将来を、確信したはずなのに。。
ふと、気づいた、彼氏にある当たり前のセンスがAにはないこと。
責めていいわけない。勝手な思い込みで彼をパーフェクトとのぼせていた訳で。
それ故にむしろ普通の言葉に過剰に反応する私。
なんなんだろう。
彼の誠意に応えるほど優しくなりたいと思ったばかりではないか。
真摯な態度がありさえすれば、冷静な判断が出来れば、あんな手紙を贈るべきではない。
一見誠意を尽くしているように見えるが、実は自分像を巧妙に造らせ、思わせぶりな言葉で逃がさないようにする、全く独り善がりな手紙。
Aを、理想的伴侶、私の夢を叶えてくれる・・・と眩くも仕立て上げてしまった。
この5年間、彼氏に変わらず愛された結果、その愛情は無償でかつ、誰からも得られるもののように勘違いしている。
私のわがままを、自分の話を理解してくれることを、当然と思っている。
何ておこがましい態度。
・・・このままでは、私は、どこにも行けない。そんな気がする。
距離的なことでも、彼氏から離れるかとかいうことでもなく、
ただ、自分の心の弱さへの拘泥から逃げられない気がする。
他人を弱さを押し付ける受け皿として、利用しているその態度から、向上心が見られないのだ。
なんとも、言いがたい。
このままぬるま湯に居続けることは、私の心を堕落させるだけではないか。
彼とは全く関係なく、一人の人間として強くなれるように、独り立ちすべきではないだろうか。
それで、彼氏なり、Aなりに真っ向から接してみた方がいいのではないか。
もともと、彼氏と会うまでは、誰に対しても見返りを期待せず、真摯に対する意志が強かった。
孤独と自信喪失からくる謙虚な心。
そんな状況に陥るわけもなく、怠惰でわがままな心が変われるのだろうか。
気づいているうちはまだいい。
気づかぬうちに、人に嫌悪され、いつしか捨てられることへの恐れ。
そもそも、人を傷つけたくないという思いさえ、嫌われることへの恐怖からの裏返しである。
このことに初めて気づいた12年前から、この偽善への認識はぐるぐると何度も巡ってきて、自己嫌悪に陥らせる。
私を好くあの人は、神の道しるべに侍る心の美しさを見ているのだろうか。
それとも、すがる心の弱さを愛しく思ってくれるのだろうか。
人を利用しようとする汚い心、怒りとともに人をも殺しかねないこの凶暴な感情、それぞれに私のコアだろうけど、これをどこの他人が理解してくれるだろう。
暗く重すぎて、いつまでも囚われていることに、自分さえ辟易するのに。
オプティミストな彼氏は、滑らかにかわし、私の見ている道しるべを信じてくれている。
私が今更言うのも何だが、信じていい人に、出会ったと思う。
それを今更、本当に今更。
彼の恐れたように、あっさりと夢のためなら、絆を踏み捨てていきそうな私。
しかも、Aのことを彼より好きになる自信は全くないのに、ただ利用しようとしているの?
私の心はわからない。
フラフラと流されている。義理や思いやり、理性などなく、漂っている。
新しい接近者、Aの登場、再認識にのぼせている。
嫌われたくない、そんな思いで誠意が生まれるというのなら、どんなに楽だろう。
神の道しるべ
非常に人間関係に不器用な人が、
素晴らしい絵を描く、
素晴らしい音を奏でる、
素晴らしい味を創る、
素晴らしい文章を生む。
そんなことが多々ある世の中。
そんな感動に出会ったとき、その出会いに感謝する。
その人たちが受け入れられているのなら、その世の中に感謝する。
受け入れられていないのなら、その人たちを愛しく思う。
卑屈に暗い心を持った人に、同情する。
その心を作った境遇は、幸せに育った人には背負いきれないものだから。
そんな苦しみの中にありながら、心の奥で、凝り固まっていた愛情を、
精一杯出そうとしている、
そんな愛情の形。
「神様が、いい人間になるように、才能を与えてくれたのだろうね。」
言葉に出せなくて、態度に出せなくて、人に愛される自信がなくて、
それでも、あなたのこと、愛します。
そんな想いが五感を通じて、伝わってくる。
テレパシーのない世の中だから、こういう人達が、いる。
そして、意固地な私がいる。
美味しい料理を作るとき、カードを作るとき、誰かの部屋を掃除するとき、無意識である。
見返りなど考えるわけもなく、ただ、その人のコンディションを考える。
そんな純粋な気持ち。
それを少しでも受け入れられている境遇に、感謝する。
ともに、そんな愛情表現をいつまでも、発し続けられる人間でいたい。
素晴らしい絵を描く、
素晴らしい音を奏でる、
素晴らしい味を創る、
素晴らしい文章を生む。
そんなことが多々ある世の中。
そんな感動に出会ったとき、その出会いに感謝する。
その人たちが受け入れられているのなら、その世の中に感謝する。
受け入れられていないのなら、その人たちを愛しく思う。
卑屈に暗い心を持った人に、同情する。
その心を作った境遇は、幸せに育った人には背負いきれないものだから。
そんな苦しみの中にありながら、心の奥で、凝り固まっていた愛情を、
精一杯出そうとしている、
そんな愛情の形。
「神様が、いい人間になるように、才能を与えてくれたのだろうね。」
言葉に出せなくて、態度に出せなくて、人に愛される自信がなくて、
それでも、あなたのこと、愛します。
そんな想いが五感を通じて、伝わってくる。
テレパシーのない世の中だから、こういう人達が、いる。
そして、意固地な私がいる。
美味しい料理を作るとき、カードを作るとき、誰かの部屋を掃除するとき、無意識である。
見返りなど考えるわけもなく、ただ、その人のコンディションを考える。
そんな純粋な気持ち。
それを少しでも受け入れられている境遇に、感謝する。
ともに、そんな愛情表現をいつまでも、発し続けられる人間でいたい。
22歳。無くすということ。
何かをなくした時、感じる喪失感というものはどこから来るのか。
物がない事で生じる不都合等の合理的打算を引いた、喪失感。
知り合いが亡くなった時、感じる沈んだ気持ちと同じところだろうか。
時間を無駄に過ごしてしまった時、気だるい苛立ちから自己嫌悪を差し引いたものだろうか。
近くにいた人が別れを告げて去る時、寂しく思う気持ちと根本は同じだろうか。
お金なり、時間なり、隣人なり、流れるように無くなってしまうものは特に価値が高いようである。
(ところで、大事といえば、人の信用も堅くもあり脆くもある。
人の信用というものを失うときの喪失感は挫折感に近いといっても衝撃であるのは、私が“真面目”だからだろう。)
大人になるにつれ無くしたくないものが増えると思っていたが、少し違うかもしれない。
大人になること、すなわち無くしたものに意識が向く事、捕われる事、のように思える。
何を無くしたか、どれほどの価値があったか、等と悔やむ、もしくは反省する、アグレッシブにすれば、推算して代価を割り出す。
メリット:経験として堆積される、失敗のダメージを和らげる、次は上手くいくように振舞うなど。
デメリット:次への恐れとなる、意志の方向性を制限するなど。
少し前まで、近しい人が去っていくのが恐ろしいものであった。
まるでタブーのように身構えていなくては許容できないものであった。
今現在、忙しさにかまけて一期一会の精神が欠けて、日頃の扱い(人であれ物であれ)が粗くなっている。私自身の話。
それにともなって、別れなり出会いなりは、擦り切れて輝きが減ったように思える。
特に感受性が強くまたは気が小さかった以前、一人たりとも疎かにできなかった。
それは確かに背負いきれない負担であったが、
しかし。
大事な人というものも、同じように見過ごしてしまいそうである。
時間についても同じく、流れていくものに惰性で動くことを覚えた。
一分足りとも疎かにできなかった頃が、懐かしい。
私は、無くなっていくものの価値を測る。
喪失感というものはどこからか現れるのであるが、擦り切れた回線は全てを一緒くたにしてすぐに飽和し、ヒューズを落とし流してしまう。
合理的な価値に動じ、打算する私。
喪失感には、極力動じないようにする私。
この先に、くたびれた神経の陳腐な結末が続いている、そんな気がする。
ところが、すでに、恐ろしくは無いのである。
大きな喪失感を覚えるべきところに、回線がつながっていないのである。
これが、成長なのか倦怠なのか、いいのか悪いのか、判断するのも既に億劫なのである。
物がない事で生じる不都合等の合理的打算を引いた、喪失感。
知り合いが亡くなった時、感じる沈んだ気持ちと同じところだろうか。
時間を無駄に過ごしてしまった時、気だるい苛立ちから自己嫌悪を差し引いたものだろうか。
近くにいた人が別れを告げて去る時、寂しく思う気持ちと根本は同じだろうか。
お金なり、時間なり、隣人なり、流れるように無くなってしまうものは特に価値が高いようである。
(ところで、大事といえば、人の信用も堅くもあり脆くもある。
人の信用というものを失うときの喪失感は挫折感に近いといっても衝撃であるのは、私が“真面目”だからだろう。)
大人になるにつれ無くしたくないものが増えると思っていたが、少し違うかもしれない。
大人になること、すなわち無くしたものに意識が向く事、捕われる事、のように思える。
何を無くしたか、どれほどの価値があったか、等と悔やむ、もしくは反省する、アグレッシブにすれば、推算して代価を割り出す。
メリット:経験として堆積される、失敗のダメージを和らげる、次は上手くいくように振舞うなど。
デメリット:次への恐れとなる、意志の方向性を制限するなど。
少し前まで、近しい人が去っていくのが恐ろしいものであった。
まるでタブーのように身構えていなくては許容できないものであった。
今現在、忙しさにかまけて一期一会の精神が欠けて、日頃の扱い(人であれ物であれ)が粗くなっている。私自身の話。
それにともなって、別れなり出会いなりは、擦り切れて輝きが減ったように思える。
特に感受性が強くまたは気が小さかった以前、一人たりとも疎かにできなかった。
それは確かに背負いきれない負担であったが、
しかし。
大事な人というものも、同じように見過ごしてしまいそうである。
時間についても同じく、流れていくものに惰性で動くことを覚えた。
一分足りとも疎かにできなかった頃が、懐かしい。
私は、無くなっていくものの価値を測る。
喪失感というものはどこからか現れるのであるが、擦り切れた回線は全てを一緒くたにしてすぐに飽和し、ヒューズを落とし流してしまう。
合理的な価値に動じ、打算する私。
喪失感には、極力動じないようにする私。
この先に、くたびれた神経の陳腐な結末が続いている、そんな気がする。
ところが、すでに、恐ろしくは無いのである。
大きな喪失感を覚えるべきところに、回線がつながっていないのである。
これが、成長なのか倦怠なのか、いいのか悪いのか、判断するのも既に億劫なのである。
トラウマ。
実を言うと。。
手が大きい男、体ががっちりしている、実は武道等していて強い男。
そんな人が、優しく女の人に接するとき、すごい!と好感を持つ。
本気になれば、女なんて好きなようにできるだろうに・・殺せるだろうに。
なんて深層で感じ入っている。
真剣な話。
こういった感情が一般的でないことは、成人するまで知らなかった。
ちなみに姉も同じ感情を持つと言われて気づいた。
殴られることが、特別なことだと知ったのは中学生だったかな。
高校生のころ、笑い話にできるようになった。
「男親が娘を殴ることは、違う意味になる」と誰かの話にあった一言に、今更深く感じ入る。
その場その場で痛みや憎しみはあったけど、恐ろしくはなかった。
ただ、その理不尽さから、強さというものに異常な認識を持つようになった。
恐ろしい訳でもない、敵意がある訳でもない。
理性ではとっくに納得しているはずである。
それなのに、こんなことを思うということは、トラウマというものは一生消えないものなのだろう。
一方で、男はたくましく強いもの、という陳腐な理想像が深層心理に住み着いている。
どうしようもなく、頭に入ってくる印象。現実と噛み合わずヒステリーになる。
解消されるまで満たされた、と思っていたのだが、20代の私達にはあまりに深い。
私は、自分が不幸な境遇であったとは思わない。
これら全て、私自身が解消すべき問題であると思っている。
ただ、こびりついた記憶が惨めで悲しいのである。