22歳。無くすということ。 | Acoustic Note*

22歳。無くすということ。

何かをなくした時、感じる喪失感というものはどこから来るのか。
物がない事で生じる不都合等の合理的打算を引いた、喪失感。
知り合いが亡くなった時、感じる沈んだ気持ちと同じところだろうか。
時間を無駄に過ごしてしまった時、気だるい苛立ちから自己嫌悪を差し引いたものだろうか。
近くにいた人が別れを告げて去る時、寂しく思う気持ちと根本は同じだろうか。

お金なり、時間なり、隣人なり、流れるように無くなってしまうものは特に価値が高いようである。
(ところで、大事といえば、人の信用も堅くもあり脆くもある。
人の信用というものを失うときの喪失感は挫折感に近いといっても衝撃であるのは、私が“真面目”だからだろう。)

大人になるにつれ無くしたくないものが増えると思っていたが、少し違うかもしれない。
大人になること、すなわち無くしたものに意識が向く事、捕われる事、のように思える。
何を無くしたか、どれほどの価値があったか、等と悔やむ、もしくは反省する、アグレッシブにすれば、推算して代価を割り出す。
メリット:経験として堆積される、失敗のダメージを和らげる、次は上手くいくように振舞うなど。
デメリット:次への恐れとなる、意志の方向性を制限するなど。

少し前まで、近しい人が去っていくのが恐ろしいものであった。
まるでタブーのように身構えていなくては許容できないものであった。
今現在、忙しさにかまけて一期一会の精神が欠けて、日頃の扱い(人であれ物であれ)が粗くなっている。私自身の話。
それにともなって、別れなり出会いなりは、擦り切れて輝きが減ったように思える。
特に感受性が強くまたは気が小さかった以前、一人たりとも疎かにできなかった。
それは確かに背負いきれない負担であったが、
しかし。
大事な人というものも、同じように見過ごしてしまいそうである。

時間についても同じく、流れていくものに惰性で動くことを覚えた。
一分足りとも疎かにできなかった頃が、懐かしい。

私は、無くなっていくものの価値を測る。
喪失感というものはどこからか現れるのであるが、擦り切れた回線は全てを一緒くたにしてすぐに飽和し、ヒューズを落とし流してしまう。
合理的な価値に動じ、打算する私。
喪失感には、極力動じないようにする私。
この先に、くたびれた神経の陳腐な結末が続いている、そんな気がする。
ところが、すでに、恐ろしくは無いのである。
大きな喪失感を覚えるべきところに、回線がつながっていないのである。
これが、成長なのか倦怠なのか、いいのか悪いのか、判断するのも既に億劫なのである。