お宝映画・番組私的見聞録 -125ページ目

「男はつらいよ」シリーズ その2

前回の続きだが、「男はつらいよ」シリーズは全作、山田洋次が監督だと思っていたのだが、必ずしもそうではなかった。
3作目「男はつらいよ・フーテンの寅」(70年)は森崎東、4作目「新・男はつらいよ」(70年)は小林俊一がそれぞれ監督しており、山田洋次は脚本での参加である。
森崎は1作目「男はつらいよ」(69年)に山田と共に脚本で参加、小林はテレビ版「男はつらいよ」で監督を務めた人物である。
渥美清は森崎のことを気に入っていたらしく、1作目「男はつらいよ」の直後に、森崎の監督第1作となる「喜劇・女は度胸」(69年)に特別出演扱いで出ている。森崎自身も渥美が出なければ監督はやらないと言っていたそうだ。
3、4作目については、山田洋次によれば、会社がどうしても続けたいというので、脚本だけ書いて監督は森崎氏、小林氏に頼んだが、出来上がった映画がどうしても納得いかなかったという。良い悪いではなく、寅さんのにおいがしない。このまま終わらせるのはしのびないないので、もう1回自分が撮って終わりにしようと、5作目の「望郷編」(70年)を作ったのだという。
つまり、山田的にはこの「望郷編」で最後と考えていたわけである。実際に、ゲスト出演者が長山藍子、井川比佐志、杉山とく子というテレビ版でそれぞれ、さくら、博、つねを演じた面々を集結させたのである。
山田本人も自負しているとおり、力のある作品が出来上がり、観客動員も過去4作全てが50万人前後だったものが、この「望郷編」は72万人を記録したため、やめるにやめられなくなってしまったのである。
6作目「純情編」は翌71年の正月映画として公開されることとなり、マドンナ役には大映から若尾文子を招き、東宝喜劇の顔であった森繁久弥も出演という力の入れようで、観客動員も85万にまで伸び、ここにおいて「男はつらいよ」は定番シリーズ化したといえるかもしれない。
話は前後するのだが、4作目から5作目の間に渥美は、森崎が監督した「喜劇・男は愛嬌」(70年)にも主演している。小林信彦によれば、下品なパワーのある松竹的ではない作品とのこと。本作でも「女は度胸」でも森崎作品では、渥美はアドリブを多様していたのだが、寅さんに集中するためか以降はほとんどやらなくなったという。
渥美には気に入られていた森崎東だったが、頬一面のひげと映画の中に必ず便所を出すことから、社長である城戸四郎には「下品だ」と好かれていなかったようで、75年に契約を打ち切られ松竹を去っているが、以降はフリーとして活躍している。

「男はつらいよ」シリーズ

2014年である。前回書いたとおり、このブログも10年目に突入ということである。とはいっても、新展開があるわけでもなく、今までどおり思いつきで展開していくことになると思う。
さて、正月映画のイメージといえば、かつては「男はつらいよ」という感じだったのではないだろうか。個人的には、正月どころかこの48作もあるシリーズを、ほとんどまともに見たことがないのである。DVDなどに録画した映画は千本は超えていると思うのだが、「男はつらいよ」シリーズはなんと1本も録画していないのだ。特に嫌っているとかではないのだが、あまりにも国民的映画すぎると避けたくなる傾向があるようだ。まあ、見たいと強く思ったこともないのだけれども。
そんな初心者の自分が、「男はつらいよ」シリーズ(69~95年)について触れてみたい。こう思ったのは年末に古本屋で小林信彦の「おかしな男 渥美清」という本を手に入れたからである。よく調べると、2000年の発行で文庫化もされているようなので、割合手に入れやすい本なのかもしれないけれども。
映画化の前に、テレビ版が存在したことは現在では有名で、最終回で寅次郎がハブに噛まれて死んでしまうというのも有名になっている。このラストには抗議が殺到したといい、その反応に山田洋次はいけるのではないかと思い、映画化を主張したが、周りは当然のように反対したという。当時もテレビドラマの映画化というのは必ずといっていいほど失敗していたのである。
当時の渥美清は映画では「拝啓天皇陛下様」(63年)以外、これといったヒットのないコメディアンであり、山田洋次は大ヒットのない監督だったのである。
結局、反対を押し切って製作されたので、当然これ1作の予定であった。テレビ版と同じなのは渥美と森川信、津坂匡章(秋野太作)、役柄は違うが佐藤蛾次郎だけであった。マドンナ第1号となるのはこれが映画初出演だった光本幸子。70年代半ばから80年代半ばまでの役10年休業していたこともあってか、知名度が高いとはいえない気がするが、このシリーズには同じ役(坪内冬子=笠智衆演じる御前様の娘役)で本作(69年)と7作目の「奮闘編」(71年)、そして46作目「寅次郎の縁談」(93年)の3度登場している。実に22年を経ての登場であった。前回の回顧録では書き忘れたが、昨年69歳で亡くなっている。

本作でさくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)が結婚するのだが、最初からシリーズ化の予定があれば、こんなに早く結婚させなかったと山田洋次が述べている。
この第1作は爆発的にヒットしたというわけではなかったが、シリーズ化の決め手となったのは大船撮影所に「とらや」のセットが残されていたからだったという。この後、約一年の間に5作が製作されるが、いずれもコンスタントな興行成績を残した。こんなハイペースで製作されたのは、当時の松竹には他に興行成績を残せる作品がなかったという事情もあったのである。

2013年回顧録 その2

前回の続きである。今年目立ったのは、声優と言われる人たちの逝去である。
まずは、納谷悟朗(享年83)。長年やっていた「ルパン三世」の銭形警部役が一番有名ということになるだろうか。個人的には、やはり「仮面ライダー」(71~73年)のショッカー首領役か「コンバット」のヘンリー少尉が、その声に触れた最初だったと思う。「声優である以前に俳優である」という考えから、声優と呼ばれることを非常に嫌っていたという。同じく声優の納谷六朗はその名からもわかる通り実弟で、文字通り五男六男である。「仮面ライダー」で藤岡弘が重傷を負った際、変わりにライダーの声をあてたのが六朗であった。首領役の悟朗の実弟とは知らずにキャスティングされたというが、名前を見ればまずわかると思う。
その「仮面ライダー」で、初期の女怪人(蜂女、ドクダリアンなど)の声をほぼ一人でやっていたのが沼波輝枝(享年89)である。その父は明治・大正期の国文学者であった沼波瓊音である。
つい先日まで、その声を聞いていたイメージなのが来宮良子(享年82)。その名は知らずとも「演歌の花道」のナレーションの人といえばわかる人も多いのではないだろうか。実際、亡くなる直前まで現役で活動していた。
やはり、直前まで活躍していたのが内海賢二(享年75)。納谷とは違った種類の太く重厚な声で、代表作といえば、「北斗の拳」のラオウとか「Drスランプ」の則巻千兵衛あたりになろうか。吹き替えではスティーブ・マックィーン。宮部昭夫のイメージが強いかもしれないが、この人が担当することも多かった。ちなみに奥さんは「サザエさん」のワカメちゃん役で知られる野村道子である。
声優ではないが宇津井健や渡哲也などは年齢を重ねて、すっかり声が変わってしまったが、前述の声優たちは晩年もそれほど変わらなかったと思う。
他にも、個人的によくアニメを見ていた80年代に若手声優だった本多知恵子(享年49)、亀山助清(享年56)、壇臣幸(享年50)などが若くして亡くなっている。
もう一人「仮面ライダー」でいえば、東映プロデューサーの平山亨(享年84)。少年の頃見た特撮などには大体この人の名前があった。東映の特撮ドラマなどで原作としてクレジットされる「八手三郎」は、元々は平山個人のペンネームであった(現在は映像本部テレビプロデューサー集団の共同ペンネーム)。
他分野に目を向けると、作詞家の岩谷時子(享年97)、「アンパンマン」でお馴染みのやなせたかし(享年94)、打撃の神様・川上哲治(享年93)と高齢の人も目立つ。
記憶に新しい藤圭子(享年62)、島倉千代子(享年75)や牧伸二(享年78)、ジャガースのリーダーだった宮ユキオ(享年75)、波乱の生涯だった克美しげる(享年75)。克美の死が明らかになったのは(命日から)7ヶ月後のことであった。

今年の更新はこれで最後の予定である。来年でこのブログも10年目に突入するが、ネタに困るばかりである。ではごきげんよう。

2013年回顧録 その1

さて、もうクリスマスも過ぎ去り年末である。ということで毎年、恒例となっている回顧録をやってみたい。
今年亡くなった大物俳優として、まず挙げられるのは三國連太郎(享年90)であろう。このブログでも数回に渡り取り上げたが、全く役者には縁のない生活を送っていた三國がスカウトされ、映画会社を渡り歩いているうちに、大物俳優なっていたという存在であった。
やはり役者になる気はなかったというのが本郷功次郎(享年74)。説得されて大映のニューフェースとなり、スター俳優となっている。文芸映画志向が強く、「ガメラ」や「大魔神」にはイヤイヤでたので、プロフィールからはずしていたところ、いろんな人から指摘されたので入れるようにしたという。一時期低迷していたイメージだが「特捜最前線」(78~87年)の橘警部役で復活した。10年の夏夕介、昨年の二谷英明、大滝秀治、荒木しげるに続く主要レギュラーの死であった。
三國の三日前に亡くなっていたのが西沢利明(享年77)。現代劇、時代劇問わず、知的悪役といえばこの人という感じであった。「黄色い風土」(66年)というドラマでは主役を演じたこともあった。
その扱いが小さい気がしたのが、長門勇(享年81)である。「三匹の侍」(63~69年)が有名で、「斬り捨て御免」などの時代劇では槍の使い手を演じることが多かった。主役をサポートするといった役柄が多かったが、映画「いも侍」シリーズ(65年)では主演であった。
「三匹の侍」と言えば五社英雄だが、その五社が監督した「牙狼之介」に主演したのが、デビューしたばかりだった夏八木勲(享年73)である。慶応ボーイだったが、中退して俳優座花の15期生の一人となっている。夏八木勲は本名だが、一時期夏木勲と名乗っていた。
その俳優座の代表を務めていたのが大塚道子(享年82)。顔からして怖いおばちゃんというイメージが強かった。
顔が怖いといえば、井上昭文(享年84)。ちなみに「しょうぶん」と読む。日活映画で活躍したが、個人的にはテレビの「ハレンチ学園」(70年)や「レインボーマン」(72年)のイメージが強い。後者ではダイバダッタという老人役だったが、当時はまだ40代であった。
突然のイメージが強かったのが坂口良子(57歳)。娘の坂口杏里が売れ始め、親子でよくバラエティに出ていたのを結構、直前まで見かけていた気がしたので驚いた。しかも、長年事実婚状態だったゴルファーの尾崎健夫と入籍したばかりであった。死を覚悟したからの入籍かと思いきや、入籍直後に体調を崩したようである。
それぞれに合掌である。

五味龍太郎死去

前回、座頭市の話題が出たついでだが、その4作目である「座頭市兇状旅」(63年)が引退作となったのが羅門光三郎である。羅門は戦前には169本もの映画(主に剣戟)に出演したスターであり、東亜キネマ、富国映画、宝塚キネマ、極東映画、甲陽映画、新興キネマなどを渡り歩き「三流映画の帝王」などとも言われている。
戦後まもなく、メチルアルコールを呑んだことが原因で左眼を失明したが、その後も脇役として活動した。隻眼でも活躍した役者といえば三谷昇もそうだし、お馴染みのタモリなどもいる。
「続・悪名」(61年)や前述の「座頭市兇状旅」で共演した勝新太郎によれば、最後は仕出し(エキストラ)の人と一緒くたにされていたが、やはり前に出て芝居をしたがるので邪魔者扱いされていたという。ちなみに、中島らもの「らも」は羅門にちなんだものだという。
その羅門と同時期に剣戟映画で活躍していた役者の中に団徳麿がいるが、その娘婿になったのが五味龍太郎である。その五味だが、この八月に亡くなったそうである(享年80)。
そのスタートは第2期東映ニューフェイスで、高倉健や今井健二が同期だった。デビュー作こそ現代劇の「三つ首塔」(56年)だったが、その後は五味勝之介名義で主に時代劇で活躍した。63年からは大映で五味龍太郎として活躍。東映時代のイメージが薄いのは、やはり大映での活躍が目覚しかったからではないだろうか。もちろん、雷蔵や勝新との共演も数多く、「眠狂四郎シリーズ」「若親分シリーズ」「兵隊やくざシリーズ」「座頭市シリーズ」などに度々顔を出し、悪役としてその存在感を示していた。
「トップ屋捕物帳」(63年)というタイトルの現代劇では、どうやら主役だったようで(五味勝雄名義)、とても見てみたいドラマの1つである。映像が残っているかどうかは不明だが。
大映倒産後もテレビで活躍したが、出ていない時代劇があるのかというくらい見かけた気がする。実際、必殺シリーズなどは全30作中の23作に登場しているし、「水戸黄門」「桃太郎侍」「暴れん坊将軍」といった長期ドラマには何度も顔を出しており、03年ごろまでは出演記録もある。
遺作となったのは、どうやら作家・山田誠二が手がけたOV「吸血ゾンビとくノ一大戦争」(09年)という作品らしいが、その山田の下に五味夫人からはがきが届き、亡くなっていたことがわかったようなので、新聞報道などはされていないのではないだろうか。とにかく合掌である。

森一生と勝新太郎

森一生は雷蔵とともに大映のもう一本の柱となった勝新太郎の出演映画も多く撮っており、全部で23本ある。その中で特筆すべきは、何といっても「不知火検校」(60年)ということになるであろう。
勝新は入社から六年あまりは、ずっと白塗りの二枚目役ばかりで、これといったヒット作もない状況であった。その勝が本作では主役とはいえ、とてつもない悪党で汚れ役を演じることになったのである。
これを企画したのは、森によれば誰だかわからんと言う。社長の永田は歌舞伎の舞台を見て自分が企画したと言うし、当時の撮影所長は自分だと言うし、このように「俺が」「俺が」と言うのが何人かいたらしい。
勝新自身もこの舞台を見ており、張り切ってやっていたという。当時はまだ、いい仲ではなかった中村玉緒を犯すシーンなどもあるが、それは本当に嬉しかったのかも。ラストの勝新の顔のアップは実際はもっと長かったそうだが、長すぎると言われ三分の一ほど切られているという。
いずれにしろ、勝をいままでの二枚目から悪役?に変更させるという狙いはあたり、興行収入も当時の金で週70万が精一杯だった勝の主演映画が、本作は一気に120~130万に上がったという。この「不知火検校」がご存知のとおり「座頭市」シリーズへと発展していくのである。
「座頭市物語」の前に勝が主演した「化身」(62年)も、森が監督で、やはりワルを演じており、勝のワルなイメージを作ったのは森一生だとも言える。本作での相手役も玉緒だが、このとき二人は仲良くなり、まもなく結婚することになったのだという。
「座頭市」シリーズより、一足先にスタートしていたのが「悪名」シリーズである。森がこのシリーズを初めて担当したのが三作目の「新悪名」(62年)である。前二作は田中徳三が監督しており、相棒である田宮二郎演じるモートルの貞は死んでしまったので、そっくりである双子の兄弟として田宮二郎の清次を登場させるのである。この一度死んだ同じ役者を再び登場させるための双子設定やそっくりさん手法は多くの作品で使われている手である。
「座頭市物語」も三隅研次が監督してヒットして、二作目である「続座頭市物語」(62年)を森が担当するというように、森はシリーズものは一作目以外であることが多い。さて、この「続座頭市物語」では、大映に移籍してきたばかりの実兄・城健三朗(若山富三郎)と早くも共演しており、役柄も市の実兄という設定である。
座頭市も殺陣は、監督や殺陣師がどう言ったところで、市(勝)が「俺はこうしかできない」といえば、そうならざるを得ず、ほとんど勝が考えていたという。勝はいつも市になりきっていたと森は語っている。

森一生と市川雷蔵

話は森一生と再び市川雷蔵に戻るが、前に書いたとおり、雷蔵出演の映画を一番撮っているのが森一生である。
森は役者とは個人的には付き合わない主義だったので、雷蔵とも個人的な付き合いはなかったというが、撮影中に相談することはよくあったという。
アップにこだわるスターが多い中、雷蔵はロングでもいやがらず、逆に「いいですね」というような人で、世にあるイメージのような暗い人ではなく、気軽にスタッフや俳優仲間とふざけたり冗談を言ったりしていたという。
「弥太郎笠」(57年)は、千恵蔵や錦之助などもやっている作品だが、ここで雷蔵はかなり長い楊枝をくわえており、これを吹き飛ばすシーンがある。まさに木枯し紋次郎の元祖といえる場面だったりする。笹沢佐保がこれを見ていたかどうかは知らないが、森自身もなんでやったのかはよく憶えていないという。ちなみに、この時の相手役である木暮実千代は、その二年前の「新平家物語」(55年)では、雷蔵の母親役であった。
森と雷蔵の作品で、傑作との評判が高いのは「薄桜記」(59年)である。共演は同期の盟友である勝新太郎。脚本の伊藤大輔に勝新が「どっちが主役か」と聞きに行ったという話は結構広まっているが、勝本人によればそれは作り話で、当時はまだ「そんなことを言えるほど雷ちゃんと競り合っていなかった」と語っている。ヒロイン役はこれがデビューの真城千都世で、松竹歌劇の出身だという。森によれば、あまり別嬪ではないとのこと。後に舞台に行ったようで、人がよくて欲がないからスターになれなかったのではと分析?している。
ちなみに、この「薄桜記」だが、これを書いている今日(15日)、CS時代劇専門チャンネルで放送があったりする。見れる人、興味のある人はどうぞ。
もう一つ、森と雷蔵のコンビで名作と言われているのが「ある殺し屋」(67年)である。こちらは後期の雷蔵に多い現代劇だが、雷蔵の殺しは針を使うというもので、こちらは「必殺仕掛人」梅安の元祖といえるかもしれない(池波正太郎の小説のほうが先かもしれないが)。共演はその必殺シリーズの初期レギュラーだった野川由美子、そして成田三樹夫。本作では、この二人がいろいろしゃべるが、雷蔵のセリフは極端に少ない。
その続編である「ある殺し屋の鍵」(67年)の監督も大映では珍しく続けて森が担当しており、これが森の撮った雷蔵映画の最後になってしまったのである。三作目が作られなかったのは、もちろん翌年に雷蔵が入院してしまったこともあるのだろうが大映社内で雷蔵の現代劇に反対する者がいたからだという。雷蔵自身はまだやりたがっていたらしい。

森一生の戦後作品

前回に引き続き、映画監督・森一生の話である。何故かといえば、やはり古本市でたまたま「森一生 映画旅」という厚い本を見かけ、安かったので購入したからである。正直、名前を見かけたことがあるだけで、よくは知らなかった人物である。
ちなみに、一生は「かずお」と読む。ただ「いっせい」と呼ぶ人が多いらしい。
前回も書いたが森一生は、36年に新興キネマから監督デビュー、戦中は42年に召集され、46年に日本に帰国した。そして、大映に戻ってみると、すぐに永田雅一から「手袋を脱がす男」の本を渡されたという。ちなみに、大映は戦中に新興キネマと日活と大都映画の統合でできた会社である。
さすがに森も戦地から帰ってきたばかりで、しばらく休みたかったのだが、主演の片岡千恵蔵などが「やれ、やれ」といい、無理矢理撮らされたという。千恵蔵は森が出兵するときには歓送会、今回は歓迎会をやってくれたという。
復帰第一作の「手袋を脱がす男」の次は、市川右太衛門の「槍おどり五十三次」(46年)である。この時の大映には千恵蔵、右太衛門に加え、嵐寛寿郎、そして阪東妻三郎という四大スターが顔を揃えていたのである。後に阪妻は松竹へ、千恵蔵と右太衛門は揃って東横映画(後の東映)に移り、重役俳優となっていくのである。
「龍虎伝」(47年)は、その四大スターの二人、千恵蔵とアラカンが共演した作品で、しかも現代劇である。これは、アメリカ軍が時代劇を撮らせなかったという事情もあったのだが。
ところで、この二人は非常に仲が悪かったという。森によると、ラストは二人が仲良く並ぶシーンがあるのだが、並ぼうとしなかったり、顔を合わせるシーンも互いをよく見なかったという。二人が会話をするシーンもカットを割って撮るとか、工夫が必要だったらしい。森は大スターであろうと、俳優には頭を下げない主義だったといい、勝手にすればといいという感じだったという。いずれにしろ、千恵蔵とアラカン共演の現代劇とういうのは非常に珍しいと思われる。
順序が前後するが、その前に撮ったのが「婦人警察官」(47年)で、小夜福子、轟夕起子、月丘夢路という宝塚出身の三人が出ていて、客が入りすぎるほど入るという大ヒットだったようである。これは婦人警官が誕生したばかりということもあったようだ。この本に載っているスチールだと三人ともかなりの美女に見えるが、小夜福子などは当時38歳(轟30歳、月丘25歳)。個人的には「ガッツジュン」(71年)で見た記憶があり、ただのおばあちゃんというイメージしかなかった。20数年でこんなに変わるかなとも思ったが、自分が認識したときは60代だったわけで、仕方ないのかなとも思った。

監督・森一生と長谷川一夫

市川雷蔵の出演作を最も撮った監督は誰かというと、ここではあまり話題に出てこなかった森一生で、30本も担当している。
新興キネマ時代の36年に監督デビューしており、大映ではベテランといえる存在であった。
東宝に招かれて黒澤明脚本の「決闘鍵屋の辻」(52年)を監督したこともある。黒澤とは同世代だが、彼が大映で「羅生門」(50年)を撮ったときに顔を合わせていた程度だったという。黒澤が自分で「鍵屋の辻」を撮らなかったのは、戦後占領軍に睨まれて時代劇がダメになっていた時期だったので、自分を使って試したのではと森は推測している。いずれにしろ、戦後初めての本格的な立ち回りのある時代劇ということで、森は注目される存在となる。
カンヌ映画祭でグランプリを受賞した「地獄門」(53年)は、大映初の総天然色作品で監督は衣笠貞之助だが、森は間に合わないからと助っ人に借り出され、B班を担当し3分の1ぐらいを撮影しているという。衣笠からも共同監督として名前を出そうと言われたが、大作は一人のほうがいいからと思い遠慮したところのグランプリ受賞だったため、「すまんな。やっぱり出しておくんだったな」と衣笠に謝られたという。
主演は長谷川一夫と京マチ子だったが、長谷川が京に会いに行くシーンで、森が「長谷川さん、そういう歩き方じゃ困るんや」と注文をつけたところ、後で騒ぎになっており、長谷川は「生まれて初めていいこと言われた」と言って帰ったのだという。つまり、大スターに向かってそういうことを言う人がいなかったのである。
長谷川の芝居は型にはまっており、アップを撮れというような合図があったという。これは東映の片岡千恵蔵や市川右太衛門も同様で、撮ってほしい場面でアップを撮らないと機嫌が悪くなるのだという。森の場合、現場で喧嘩をして怒らせてもつまらないので、一応アップは撮影するのだが、結局使わないという手段を用いていたようだ。
「花の講道館」(53年)も監督は森で主演は長谷川だが、山本富士子のデビュー作でもある。ここで長谷川は山本を可愛がり、自分が女形になっていちいちセリフを教えるのだという。案の定、山本のセリフが長谷川のマネになってしまっているという。もちろん、森の方から「そこはこうした方がよい」と言えば、長谷川も「そんなら、こう変えた方がいいな」と意見を変えることはしていたようだ。
山本富士子や淡島千景、高峰三枝子という女優たちはみな異口同音に「長谷川先生のほうがずっと女ぽっくて、仕草がうまい」と証言しているが、森の意見では長谷川が指導すると、みんな芝居が長谷川一夫になってしまうのだという。特に長谷川は尊敬しているという京マチ子がそうだという。
一方で、それを嫌がる女優もいた。木暮実千代などは「あのとおりにやらなければいけないのなら、私は降ります」と言い出したので、森が「あなたの好きなようにやって構わない」と言うと続けて出演してくれたというような話もある。
「地獄門」では、新劇の座長でもあった千田是也が出演していたが、ライバル心もあったのか、それは冷たい目で見ていたという。とにかく、長谷川一夫の自分に対する自信というものは凄かったようである。
そんな長谷川も63年には映画界を去り、舞台活動が中心となっていく。それには雷蔵の出現も影響しているのではという見方もある。

初春狸御殿/花くらべ狸道中

前項で、市川雷蔵、勝新太郎、若尾文子、中村玉緒を話題にしたが、四人全員が出ている映画ということで探して見ると、「初春狸御殿」(59年)が目についた。59年の年末から公開、つまり60年の正月映画である。
ちなみに「狸御殿」とは、木村恵吾原作の「オペレッタ歌劇」の総称だそうである。何度もリメイクされており、新興キネマ製作の「狸御殿」(39年)を皮切りに、この「初春狸御殿」は七回目の映画化で、木村恵吾が10年ぶりに「狸御殿」の監督を務めた作品である。
前年の58年に東宝で、狸吉郎を美空ひばり、きぬた姫&お黒の二役が雪村いづみというキャストで映画化されたばかりでもある。浜村美智子がヒット曲である時代劇無視の扮装で「バナナ・ボート」を歌ったり、佐原健二や河内桃子も歌うようである。
で、今回の大映版は狸吉郎に雷蔵、きぬた姫&お黒の二役を若尾で、それに薬売りの栗助という役で勝新が絡み、狸吉郎ときぬた姫、栗助とお黒というカップリングができあがるのである。まあ、オペレッタなので雷蔵も若尾も勝新もみんな歌うんである。勝新の歌はよく聞くし、得意分野と思われるが、雷蔵の歌というのは珍しい気がする。
ところで中村玉緒だが、第四の姫という役である。当然ながら第一から第七に姫までおり、第一から順に書いていくと、近藤美恵子、金田一敦子、神楽坂浮子、中村玉緒、松尾和子、仁木多鶴子、藤本二三代がそれぞれ演じている。神楽坂と松尾、藤本は歌手であり、他にも楠トシエやトニー谷なんかも出演している。トニー谷は前述の東宝版にも出演している。藤本二三代については、個人的にはよく知らなかったが、58~61年の紅白に4年連続で出ており、当時人気のあった歌手である。映画にも10本程出演しているようだ。
61年の正月公開映画は「花くらべ狸道中」である。木村恵吾は絡んでいないが、やはり狸ミュージカルである。簡単にいえば雷蔵と勝の演じる狸がそれぞれ弥次さん喜多さんに化けるというものである。こちらもヒロイン狸は若尾文子だが、玉緒は出ていない。かわりに中田康子がもう一人のヒロイン狸を演じている。
前作の楠トシエに加え、井上ひろし、五月みどり、スリーキャッツ、赤坂小梅なども顔を見せる。いろんな意味で中々笑える作品になっているとの評判である。
15年ほど前だが、この「初春狸御殿」と「花くらべ狸道中」に加え、「歌ふ狸御殿」(42年)、「春爛漫狸御殿」(48年)、「花くらべ狸御殿」(49年)という大映製作の新旧狸御殿ものLDセット5枚組が発売されていたようだ。
まあ、DVD化もされているようなので、興味ある方はどうぞである。