お宝映画・番組私的見聞録 -127ページ目

さすらいの狼


時代は少し飛ぶのだが、おそらく中村錦之助名義で出演した最後の作品となったのが「さすらいの狼」(72年)である。
本作は「木枯らし紋次郎」が始まった三ヶ月後にスタートした、同じ渡世人ものだ。紋次郎ブームにのったのかと言えば、時期からも考えてそうではないと思われる。たまたま企画が重なったようである。
「紋次郎」の笹沢佐保に対して、こちらは生島治郎と本来時代小説の人ではない作家が原作になっている点も共通している。しかし、誰もが知っている紋次郎に対して、この「さすらいの狼」を知っていた人はあまりいないのではないだろうか。当時の評判が今ひとつだったこともあろうが、30年以上再放送されていなかったことも、本作を幻の作品にしていた要因だ。しかし、先日よりCSの時代劇専門チャンネルで放送がスタートし、個人的にも初めて見ることができたのである。
紋次郎はレギュラーは中村敦夫だけで、「あっしにはかかわりのないことで」と物事にかかわろうとしないのが特徴だったが、こちら錦之助の演じる「十文字の竜」はお尋ね者でありながら、困った人を見捨ててはおけない性格なのである。そして、レギュラーも錦之助の他、ジェリー藤尾、若林豪、今井健二、登場回数は少ないが芦田伸介と全部で五人いる。
十文字の竜は本名を速水竜之進といい、黒田藩士であったが、ある日突然、御用金の強奪及び父親殺しの犯人として追われる身となってしまう。事件の首謀者は今井健二演じる加納紀三郎と知り、竜は武士を捨て渡世人の姿となって加納を追い続ける。この辺ことは、ほとんど矢島正明のナレーションで語られ、第一話から加納を追う竜というスタイルで始まる。竜を追うのが関八州取締役・藤田(若林豪)と、竜の恩師である黒田藩の剣術指南である冬木(芦田伸介)だ。二人は共闘するわけではなく、25話にて初めて顔を合わせることになる。つまり、藤田・冬木→竜→加納という構図になっており、竜は逃亡者でもあり追跡者でもあるのだ。
当時の視聴者には、この辺がわかりにくかったらしい。しかも加納はイマケンが演じるだけあって、毎回のように卑劣な罠を張る。予め竜の悪い噂を流し、極悪人に仕立て上げ、関係のない村人までみんな竜の敵という状況もしばしば。「錦ちゃん可愛そうで見ていられない」という視聴者も多かったとか。
それを緩和するのがジェリー藤尾演じる才六で、命を救われたのがきっかけで竜を勝手に兄貴と慕い、彼への協力を惜しまない。罠におち、人質となることも多いが、役に立つことも多いというキャラである。
プロデューサーには錦之助の兄である小川三喜雄(初代・中村獅童)の名もあり、5話には弟の中村賀津雄がゲスト出演している。放送中に萬屋錦之介に改名とwikiにはあるのだが、25話の時点ではまだ中村錦之助のままである。次回つまり最終回で改名しているかどうかは明日(28日)判明する。

錦之助、労組委員長就任

話は前回と多少前後する。

錦之助は66年に東映内部の労働争議に巻き込まれ、東映俳優労働組合の委員長に就任したが、収めることができなかったので、東映を退社したというようなことになっているが、本人によれば、それが直接の原因ではないということである。簡単に言えば、前回書いたように東映が時代劇映画から撤退することが決定打になったということだ。
「宮本武蔵」の完結編である「巌流島の決闘」の撮影中に俳優労組の結成の動きが起こり、中心人物だった神木真一郎や尾形伸之介が錦之助の元を尋ね、委員長への就任を要請したのである。ちなみに尾形は後に錦之助の専属殺陣師として活躍する人物である。
彼らの熱意に負け、委員長を引き受けたのだが、実は錦之助には今後について既に考えていたプランがあったという。それは、東映を辞め渡仏するというものだったのである。当時、ヌーベルバーグが起こり、フランス映画が注目されていたこともあったが、五社協定の関係もあり、東映を辞めたからといって他社と契約するわけにもいかないので、外国暮らしはその突破口と考えたのである。
実際に東宝の菊田一夫専務が、どこからか噂を聞き錦之助の元を訪れ、「フランスから帰ったら東宝の映画の出てほしい」と申し出てきたという。この時はそれで別れたというが、実際「地獄変」(69年)から数本の東宝作品に出演することになる。
この直後に委員長への就任要請があったのである。当然、東映側は「演技者の労働組合は認めない」という姿勢で、仕事を与えられない人も出て、脱退者も相次ぎ、労組は急速に力を失っていったという。
錦之助と大川博東映社長とのトップ会談の結果は「組合は解散するが両者は話あっていく。今後の生活保障、組合員の無処罰を約束する」という内容で話がまとまったという。わずか3カ月で組合は解散し、錦之助がフランスへ行くこともなかったのである。前述のとおり、東映が時代劇から撤退することもあり、錦之助は東映を去ったのである。当時、いろいろ非難中傷もあったが、真相は以上のようなものであった。と、錦之助は自著にはそう書いている。
実際はもう少しドロドロしたようなものがあったかもしれないが、信じるか信じないかは、あなた次第。

中村錦之助、東映を退社

東映がヤクザ映画路線に入り始めたのは、「日本侠客伝」(64年)あたりからということになるのだろうか。高倉健を主役に据えたこの作品が大ヒットを収める。
個人的には、ヤクザ映画に興味がないこともあり、このシリーズが64~71年にかけて全11作も制作されていたとは知らなかった。同じ高倉健でも「網走番外地」シリーズなら、多少はわかるのだけれども。
実はこの作品の主人公である長吉の役は、はじめ中村錦之助に話が来たのだという。ところが、錦之助は10年振りに歌舞伎座の舞台(父と兄、三世四世時蔵の追善)に立つことが決まっており、スケジュール調整が困難であったため、高倉健を推薦したのだという。この頃の錦之助と高倉健といえば、「宮本武蔵」(61~65)の武蔵と小次郎である。高倉健が京都に来た時はほとんど錦之助の家に寝泊りしていたという。
錦之助はやくざ映画路線に不満を持ち、主演を断ったという噂もあったが、やくざ映画だろうがサラリーマンものだろうがスケジュールが合えば出るつもりだったのだという。実際、「日本侠客伝」にも助演ではあるが出演しているのである。
本作の成功で、高倉健は東映任侠路線のエースとなっていくのだが、その一方で東映が時代劇から撤退することを決定づけてしまったのである。
時代劇を辞めずないよう錦之助は大川社長に直談判したというが、「もう作らない」という返事だっため、東映を退社することを決めたという。
東映専属での最後の作品は「丹下左膳・飛燕居合斬り」(65年)である。ちなみに監督は「三匹の侍」で知られる五社英雄。ヒロイン役は「花と龍」の前後編でも共演した淡路恵子であった。この頃はすでに、互いに惹かれあっていたといい、記者の質問には「結婚を前提に交際しています」と答えている。東映を辞めて3ヵ月後に二人は結婚していた。淡路には、前夫(ビンボ・ダナオ)との間にできた二人の子供がおり、その長男が島英津夫である。

錦之助の結婚と離婚

中村錦之助の妻といえば、甲にしき、またはその前妻である淡路恵子の印象が強いと思うが、最初の妻は有馬稲子である。
錦之助は東映、有馬は松竹専属ということで、基本的には出会うことはなかったのだが、雑誌「近代映画」での対談が初対面だったという。そして、「浪花の恋の物語」(59年)で初共演が実現する。これは、有馬が年間一本の他社出演を認めるという契約を結んでいたためである。これをきっかけに、翌年暮れには婚約が発表され、61年に大川博東映社長媒酌のもと、二人は結婚したのである。しかし、お互いに映画の撮影中だったこともあり新婚旅行はなかったという。
有馬稲子といえば、市川崑監督との七年にも及ぶ不倫愛が知られている。というより、つい数年前に有馬自身が「私の履歴書」という新聞連載で告白したことなので(断片的にしか知らないが)、当時は知られていなかったということなのだろう。「自分との間にできた子供を堕ろせと言われた」とか「あんなひどい男は見たことがない」とか赤裸々なものである(市川の名は伏せてはある)。市川が監督した「愛人」(53年)には有馬の他、岡田茉莉子、越路吹雪、三國連太郎なども出演しているが、三國によれば市川は有馬ばかり撮っていたという。

出会いは有馬が21歳の時ということなので、丁度この53年のことなのである。別れたのは27歳のとき、つまり59年。錦之助との出会いで別れたのか、その直前に別れていたのかは不明である。
錦之助と有馬稲子の結婚生活は四年あまりで破局してしまうが、市川問題は関係なさそうである。錦之助によれば、小川家(本名・小川錦一)では「妻は仕事をせず、夫を裏で支える」というのが基本的な考え方だそうな。有馬は引退したわけではなかったが、昼も夜も台所に立つような家事生活に疲れてしまったようである。この間に、「武士道残酷物語」(63年)で二人は共演を果たしている。
離婚の翌66年に結婚したのが淡路恵子である。この出会いについては錦之助の著書では特に触れられていない。淡路も松竹→東宝で活動していた女優で基本的には錦之助と出会う機会はなかったはずだが、淡路が初の東映出演だった「花と龍」(65年)で二人は初共演を果たす。共に離婚したばかりだったという共通点もあってか、これがきっかけとなって、結婚に発展したのであろう。
それにしても錦之助は、東映の女優ではなく、他社で活躍していた初共演の女優が好きだったようである。

映画スター人気投票(1956年)

AKB総選挙ではないが、50~60年代にかけて芸能週刊誌による映画スター人気投票がさかんに行われていた。かつて「週刊東京」という雑誌があり、そこが56年に行った投票結果が錦之助の著書に記されている。男優部門の結果は以下の通りである。
1位…中村錦之助、2位…池部良、3位…鶴田浩二、
4位…長谷川一夫、5位…市川雷蔵、6位…東千代之介、
7位…青山恭二、8位…高田浩吉、9位…大木実、
10位…大川橋蔵、以下…三橋達也、嵐寛寿郎、佐田啓二、森繁久弥と続いている。
錦之助と池部との間には7千票くらいの差があり、当時の錦之助人気を窺わせる。千代・錦・橋と言われた東映若手トリオが揃ってランクイン。池部、鶴田、高田、大木も後には東映に所属もしくは出演しているので、東映の勢いが感じられる結果である。意外に思えるのは日活で、青山恭二のみランクイン。それもそのはずで、石原裕次郎や小林旭はまだデビューしたばかりの時だったのである。あと、三船敏郎あたりもランクインしていてもよさそうなものだが、と個人的には思った。続いて、女優部門である。
1位…山本富士子、2位…中川弘子、3位…高千穂ひづる、
4位…岡田茉莉子、5位…若尾文子、6位…園ゆき子、
7位…朝丘雪路、8位…前田通子、9位…美空ひばり、
10位…香川京子、以下…有馬稲子、杉田弘子、木暮実千代、淡島千景と続いている。
錦之助も「どんな女優さんだったか思い出せない人もいる」と書いているが、恐らく中川弘子、杉田弘子、園ゆき子あたりのことを言っているのだろう。個人的にもそうである。
中川弘子、杉田弘子のW弘子は共に松竹で活躍した女優で、二人の共演も多かったようである。投票した層にもよるのだろうが、当時の作品を調べても中川弘子の2位は意外な気がする。60年代は大映で活動し、その活動記録は64年辺りが最後になっている。杉田弘子は62年に結婚して引退したそうだが、拳式は一切マスコミをシャットアウトして行われたそうである。92年に亡くなったらしいが、その訃報は翌年まで明らかにならなかった。
園ゆき子は東映で活動した女優だが、54~56年の三年足らずの活動期間で、錦之助との共演もなかったようなので、彼が知らなかった可能性もある。「大学の石松」など高倉健との共演が多かった。続けていれば、もっと人気女優になっていたかもしれない。

播磨屋一家、勢揃い

錦之助の映画界入りから約一年半の55年、父・中村時蔵(三世)が映画に出演した。「源義経」で牛若丸を演じる錦之助との共演である。錦之助が薦めたわけではなく、東映側が交渉したようである。錦之助の映画界入りには複雑な反応を見せていた時蔵だったが、本人は新しいもの好きなので、あっさり引き受けたのではないかと錦之助は述べている。
時蔵の役は大蔵卿で、小沢栄太郎演じる平清盛に助命を嘆願するのだが、セリフ回しを歌舞伎そのままの口調でやったという。周囲は一瞬唖然とし、監督があわてて「ふつうにやってください」というと、今度は棒読みに近いようなものだったという。見ていた錦之助は冷や汗ものだったという。
58年になると。弟・中村賀津雄が東映に移籍してきた。東映での第一作は「おしどり駕篭」で、主演は錦之助と美空ひばりで、いきなり兄との共演を果たしている。
第二作である「少年猿飛佐助」(58年)では、主役に抜擢され、佐助を演じている。そのさらに少年時代を演じたのは千恵蔵の息子である植木基晴であった。
しかし、やはり兄弟共演は多く二人が主演の「殿さま弥次喜多」(58~60年)は「幽霊道中」「捕物道中」と全三作(三作目は何故かサブタイなし)作られている。このシリーズでは、長兄である中村歌昇(二世)が何らかの役で出演している。
そして、「お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷」(59年)では、錦之助と賀津雄はもちろん、長男・歌昇、次男・芝雀(六世)の四兄弟、そして父・時蔵が揃って出演し、三男の小川貴也(三樹雄)がプロデューサーを務めるという、播磨屋一家が勢揃いしたのである。配役も主演の錦之助は当然文七だが、時蔵はその父、芝雀はその兄という実生活そのままの役を演じたのである。ちなみに原作は横溝正史。人形佐七は有名だが、こっちはほとんど映像化されていないのではないか。
時蔵はこの年、亡くなったので、これが映画での遺作となった。ゆえに、一家勢揃いは本作が最初で最後となったのである。時蔵の映画出演は全部で5本あったが、いずれもセットでの撮影で、「一度ロケーションというものをやってみたかった」と生前語っていたそうである。

錦之助とその兄弟

中村錦之助の人気が急上昇した55年、当時は高校生だった弟の中村賀津雄も映画界入りした。東映ではなく、松竹の「振袖剣法」で主演デビューを果たした。松竹には57年まで在籍し、主演作も結構あったが、印象としては地味だったと錦之助は述べている。好評だったのは、時代劇よりも三國連太郎と共演した独立プロ作品「異母兄弟」(57年)だったという。
同じ頃、三男の中村獅童(初代)も歌舞伎役者を辞め、弟たちをサポートするため、プロデューサーに転身した。その正確な時期はわからないが、55年には小川三貴雄の名が企画などの項に見えるので、この頃だと推定される。56~65年は小川貴也を名乗っていたようである。現在活躍している獅童(二代目)は彼の実子である。長年使われなかった獅童の名を自ら襲名したのである。ちなみに、息子の獅童によれば父が歌舞伎を辞めた理由は先輩役者に対し気に入らないことがあり、その場で鬘を投げつけて辞めたというエピソードになっているようだ。
いずれにしろ、三世中村時蔵の実子五人のうち、下三人が相次いで歌舞伎を辞めてしまったのである。残った上二人も長くは続かなかったのである。
三世中村時蔵は59年に亡くなったが、長男の歌昇(二代目)はその直後あたりに役者を廃業している。元々持病があったためらしいが、転身先はやはり東映で、監督・脚本家(主にテレビ作品)を務めていたが、73年に48歳の若さで亡くなっている。
残る次男の芝雀(六代目)だが、60年に四世中村時蔵の名を継いでいる。将来を嘱望されていた若手だったが、人気が上がるとともに舞台出演が激増し、睡眠薬への依存度が増し、その過剰摂取で62年に34歳の若さで命を落とした。死因が死因だけに自殺説も流れたようである。
錦之助の映画界入りから10年もしないうちに5兄弟全員が歌舞伎の舞台から消えてしまったのである。しかし、前述の獅童のように、その息子たちは歌舞伎で頑張っている。四世中村時蔵の息子は中村時蔵の名を継ぎ、その弟が二代目中村錦之助となったのである。
話は前後するが、調べた限りでは最初に小川三貴雄の名が見えるのは「青春航路 海の若人」(55年)という作品で、福島通人とともに「企画」として名を連ねている。主演は錦之助と美空ひばりだが、実はこの作品、錦之助には非常に珍しい現代劇である。本人は現代劇に抵抗感や違和感はなかったというが、ファンの方が抵抗感があり、評判が良くなかったという。以後、錦之助が主演の現代劇というのは制作されることはなかったのである(あったらすいません)。

中村錦之助、東映入り

前回の続きである。福島通人社長が錦之助を新芸術プロに入れたがらなかったのには理由があった。福島は錦之助の写真をいろいろな人に見せて回ったが、ほとんどの人に「この人は売れない」と言われたからだったそうである。
所属できなかったことは、後になると好都合だったのだが、この時の錦之助には釈然としないものがあったという。
歌舞伎を辞めて映画界入りしたのは前例がなかったようで、それに続くように大川橋蔵、市川雷蔵も歌舞伎を辞め、映画界入りした。橋蔵に最初に声をかけたのも福島だったようである。
美空ひばりのマネージャーとなり、ひばり映画を次々と企画した福島は当時の芸能界では重要人物だったのである。
ちなみに高倉健は新芸プロのマネージャーに応募し、東映本社の階下の喫茶店で面接を受けていたのを、居合わせた東映専務マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェースの二期生に補充編入されたという。
そんな中、錦之助出演の第二作目の撮影がスタートする。「御存知花吹雪七人男」(54年)である。伴淳三郎、花菱アチャコ、益田喜頓、山茶花究といった喜劇役者が顔を揃えた喜劇風の時代劇であった。監督は斎藤寅次郎で、配給は新東宝であった。斎藤は新芸プロの役員でもあった。
そして、第三作目となるのが東映の「新諸国物語・笛吹童子」である。次の仕事が決まらないので不安だったという錦之助だが、二作目から笛吹童子まで1カ月も間は空いていない。
話を持ってきたのは、やはり福島である。東映で主演者を捜しているという。当時、ラジオドラマで大人気だったが、錦之助は聞いたことがなかったという。福島に「兄と弟の役があるけど、どっちがいい?」と聞かれ、こっちが主役だろうと思い「笛を吹いているほうをやりたい」と答えると、「それは弟の菊丸だ。これで決まり」と、菊丸役が決まってしまったのである。ちなみに兄の萩丸役は東千代之介。千代之介は錦之助の長兄である中村歌昇(二世)の中学時代の同級生だったという。共演は月形龍之介、大友柳太朗、高千穂ひづる、田代百合子など。
「笛吹童子」の三部作は大ヒットし、東映と新芸プロの両方から専属になってほしいと申し入れがあったのである。錦之助は東映を選び、ここで東映の中村錦之助が誕生したのである。本人もこの選択は正解だったと述べている。まあ。芸能プロより映画会社ということであろう。
続いて千代之介とのコンビで「里見八犬伝」の五部作が作られて、これも大ヒットを記録した。しかし、千代之介(犬塚志乃)、錦之助(犬飼現八)以外の八犬士の顔ぶれは、島田照夫、月形哲之介、東宮秀樹、藤里まゆみ、小金井修、小崎正彦というように、龍之介の息子・哲之介と石井一雄こと東宮秀樹くらいしかわからない。
この後も「紅孔雀」の五部作など、当時は60分程度の作品を一週間ごとに公開するという形式が主だったとはいえ、デビューしたばかりの錦之助はこの一年で、20本もの映画に出演したのである。
さすがに休みがほしかったという錦之助だったが、前述のマキノ光雄専務は「絶対に休ませたらいかん。毎週中村錦之助を出演させて顔を覚えさせねば」と言っていたという。

中村錦之助、映画デビュー

唐突だが、今回は萬屋錦之介である。何故かと言えば、古本屋で彼の著書である「わが人生(みち)悔いなくおごりなく」という本を見つけたからである。丁度その日、CSでは彼が主演のドラマ「さすらいの狼」(72年)が偶然にもスタートしたのであった。
ある程度上の世代だと中村錦之助の方が馴染みがあるかもしれないが、自分が認識したときは既に萬屋錦之介だったと思う。ちなみに前述の「さすらいの狼」では、まだ中村錦之助名義であったが、おそらくこの直後あたりに変えたと思われる。
デビューに関してだが、イメージだと歌舞伎で活躍していた彼を東映がスカウトして、華々しく銀幕デビューしたと思っている人も多いのではないだろうか。実は全然違っているのである。
以前触れたと思うが、錦之助は中村時蔵(三世)の家に生まれたが、なんと5男5女という10人兄弟の6番目で、4男坊である。ちなみに、時蔵の兄は中村吉右衛門(一世)で弟は中村勘三郎(十七世)であり、これだけでも名門の血筋であることがわかると思う。襲名制はややこしいが、今名乗っている人の一代か二代前だと思ってもらえばいい。
初舞台はまだ3歳の時で、最初から錦之助を名乗っていたという。やはり、4男というのはネックだったようで、あまりいい役にはつけなかったという。名前も長男の貴智雄は、歌昇(二世)、次男の茂雄は父の名を継ぎ時蔵(四世)となったが、三男の三喜雄は獅童(一世)で、錦之助というのは本名の錦一からと思われる。5男の賀津雄にいたってはそのままである。気付いたと思うが五人の中で何故か一人だけ本名に「雄」がつかないのである。
歌舞伎では役に恵まれないまま、20歳になったとき転機が訪れる。映画への誘いである。東映に次兄の茂雄(当時、芝雀)と錦之助が呼ばれたが、次兄は行くのを嫌がり、錦之助が一人でカメラテストを受けたが、結果は不合格。本人によれば、ひどい鬘をかぶせられたからだそうだ。すんなりと東映に入ったわけではないのである。
しかし、ほぼ同時期に新芸術プロの福島社長が訪れ、美空ひばりの相手役として映画に出てくれという誘いがあったのである。歌舞伎座の舞台を見た、ひばりと母親の加藤喜美枝が新撰組の隊士で出演していた錦之助を見て気に入ったのだという。
元々映画好きだった錦之助は出演の決意をかため、歌舞伎と並行してやっていくつもりだったのだが、父の時蔵に「中途半端はいけない、行くなら歌舞伎を辞めていきなさい」と言われ、思い切って歌舞伎をやめて映画界へ行く決心をしたのだった。
映画デビュー作は「ひよどり草紙」(54年)で、松竹の配給である。前述のとおり、自分を映画界へ導いた美空ひばりの相手役であった。
錦之助は当然、新芸プロに所属できると思っていたのだが、社長はあくまでも相手役として起用しただけだと言い、新芸プロには入れてもらえず、福島社長の個人預かりという形に落ち着いたのである。
決して、恵まれた状態でのスタートではなかったのだ。

復讐するは我にあり

そろそろ三國連太郎の話題も閉めようかなと思いつつ、「復讐するは我にあり」(79年)である。
原作は五人を殺害した西口彰事件を題材にした佐木隆三の小説で、主演は緒形拳、三國はその父親を演じている。他に倍賞美津子、小川真由美、ミヤコ蝶々、フランキー堺など。
監督は今村昌平だが、三國が主演した「神々の深き欲望」(68年)以来、10年ぶりの新作であった。三國の前に現れた今村の第一声は「連ちゃん、まだ怒ってる?」だったという。どうやら「神々の~」におけるギャラの低さ(一日1ドル)のことを言っていたらしい。殺人のシーンは全て西口事件の実際の現場で撮影を行ったという。また、今村はロケ地の別府温泉にあるラーメン屋に三國を連れて行き「あそこでラーメンを作っているのが西口の妹です」と大声で言ったという。
三國と緒形の映画での初共演は「八甲田山」(77年)ということだが、テレビでは「必殺仕掛人」(71年)がある。緒形扮する梅安が、三國演じる鎖帷子入りの頭巾をした文殊屋を仕留めるというもの。三國の必殺シリーズ出演はこれ一度だったと思う。
さて、「復讐するは~」の緒形と三國が対峙するシーンで、三國が緒形に唾を吐きかけるというのは台本にはなく、三國のアドリブだったという。「(緒形に)殴り返されるんじゃないかと思った」と三國はインタビューで語っている。
三國は共演者についての印象も語っているが、緒形については「舞台出身者(新国劇)なので、芝居のキレがよすぎる」と言っている。映画の芝居は少しキレが悪いくらいがいいと思っているらしい。倍賞美津子は姉の千恵子とは正反対だと言い、小川真由美に関しては「印象はまったくない」と言い、ミヤコ蝶々も「ごく普通の人という感じしかない」と語っている。小川や蝶々には興味なしという感じである。
各映画賞においては、三國が助演男優賞、小川と倍賞が助演女優賞を受賞しているが、主役の緒形は受賞していない。
ところで、この作品、映画化権をめぐってトラブルが発生していた。黒木和雄、深作欣二、藤田敏八が映画化を申し入れ、口約束ではあるが、全員佐木から了承をもらっていたという。結局は今村プロと契約したため、黒木らが怒り、佐木に今村との契約を白紙撤回するよう念書を書かせたりしたが、深作は東映サイドの反対、藤田は意欲がうせたとして撤退し、そのまま今村プロと松竹によって映画化された。実は大映や東宝も映像化権の争いに参加していたといい、大手映画会社すべてが狙っていた原作だったのである。