お宝映画・番組私的見聞録 -128ページ目

はだしのゲン(実写映画版)

先日、DVDレコーダーが壊れたので、ブルーレイレコーダーを購入したのだが、そこには大きな落とし穴があった。そのままでは我が古いテレビとは接続できなかったのだ。最新のレコーダーには、赤白黄色でお馴染みのコンポジット出力がなかったりするのである。仕方なく、ケーブル、コンバーター、USBハブ(電源付き)を購入して組み合わせ、五日かかってやっと画像を見れるようになった。同じような目にあっている人は結構いるようである。まあ、最新型のテレビを買うのが一番手っ取り早いのだけれども。

さて、今何かと話題なのが「はだしのゲン」である。少年の頃、少年ジャンプに連載されていた原作(73~74年)を読んだことはあったが、その後も掲載誌を変えながら連載され続けていたのは知らなかったし、実写版映画があった(しかも三作)のも知らなかった。
三國連太郎はその第一作「はだしのゲン」(76年)に、ゲンの父親役として出演しているのである。製作はやはり三國が主演の「夜の鼓」(58年)と同じ現代プロダクション。その縁での出演ということだろうか。ちなみに、現代プロは現在も存続しているようだ。
母親役は「飢餓海峡」「荷車の歌」でも共演した左幸子。他に島田順司、坂本新兵、梅津栄、大泉晃、大関優子(佳那晃子)などで、ゲン役は佐藤健太。80年代に「夏・体験物語」とか「ヤヌスの鏡」とか「高速戦隊ターボレンジャー」とかに出演していた佐藤健太と同一人物であろうか。
二作目は「はだしのゲン 涙の爆発」(77年)で、メインキャストは総入れ替えとなり、父親役は田中浩、母親役は宮城まり子になっている。田中は悪役、斬られ役としてお馴染みの顔だが、その名が浸透していたかは微妙だ。だた「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」の丸大食品のCMに出演していた人といえばわかりやすいかも。他に石橋正次、竹下景子、市原悦子、ケーシー高峰などで、ゲン役は春田和秀。
三作目は「はだしのゲン PART3ヒロシマのたたかい」(80年)で、父親役は鈴木瑞穂で、母親役は丘さとみに変更。それにしても、悪役の田中からお堅い幹部、官僚といった役の多い鈴木ではタイプが違いすぎる。他に桜木健一、風吹ジュン、山本隣一、草野大悟、財津一郎、にしきのあきらなどに加え、タモリや赤塚不二夫が顔を見せているという。ゲン役は原田潤で、「熱中時代」の主題歌「ぼくの先生はフィーバー」を歌っていた子役である。
ほぼすべてのキャストが毎回入れ替わるシリーズものというのも珍しい気がする。

大島渚の「飼育」

三國連太郎は61年、大島渚が監督する「飼育」に出演している。タイトルから考えて、若い娘が檻に閉じ込められて…、などと思った人はいないだろうか。残念ながら、檻に閉じ込められるのは黒人兵である。大江健三郎が原作なので、エロイ話ではない。
三國はこの作品については、信州の上田でロケをやったのは憶えているといい、大島渚は大酒のみで、いつも酔っ払っており、一度上田の警察にもらいさげに行ったことがあるという。
ちなみに、この作品は新東宝が倒産した後、三ヶ月だけ存在した配給会社・大宝が配給した六本のうちの一作である、という意味では貴重である。しかしDVD化もされており、見ようと思えばいつでも見られる。二作はいまだ所在不明であり、残る三作はフィルムの劣化なども伝えられており、見るのが難しいという話を聞く。「飼育」が何故、大宝の配給なのかは不明だけれども。
出演は三國の他、大島の妻である小山明子、実妹の大島瑛子、大島らと創造社を結成したメンバーである小松方正、戸浦六宏のほか、脚本家である石堂淑郎が役者として出演している。
あと、ノンクレジットだと思われるが、この作品には後に「お荷物小荷物」「奥さまは18歳」「三日月情話」など脚本家として活躍することになる佐々木守が助監督として参加している。
佐々木は当時、ラジオのコント番組のライターとしてはデビューしていたが、まだ脚本家にはなっていなかった。収入に不安があったため、知り合いだった大島が映画を撮ると聞き、直談判して助監督として採用してもらったのである。
これをきっかけに、佐々木も創造社に参加するようになり、「絞死刑」など大島作品の脚本にも参加するようになっている。
佐々木といえば、「ウルトラマン」「怪奇大作戦」「シルバー仮面」といった特撮番組でも知られるが、佐々木の担当回でほぼ監督としてコンビを組んだのが実相寺昭雄である。
その実相寺と佐々木を引き合わせたのが、大島渚だったのである。TBSのディレクターだった実相寺の演出家デビュー作の脚本を担当したのが大島だったということで、知り合いとなり、「君は同世代と付き合ったほうがいい」と佐々木を紹介したのであった。二人はすぐに意気投合し、実相寺が円谷プロに出向した際に、佐々木を脚本家として指名したのである。
少なくとも、佐々木にとっては大島渚はとてもいい人だったわけである。

三國連太郎、放送予定作品

先月はネットにつながらなくなって困ったが、今度はDVDレコーダーが逝ってしまった。まあ、前兆は先月くらいからあったので覚悟はしていたが、まだDVDに焼いていないHDDに溜まっていた映像が60時間分くらいあり、それが二度と見られない状態になってしまったのが痛い。まあ、さほど貴重というものはなかったと思うが、早く新品をかって移しておくべきだった。

さて三國連太郎だが、その初期つまり50年代に出演した作品が来週24日からCSで放送される。最近ここで取り上げたものでは「泥だらけの青春」(54年)や「異母兄弟」(57年)もそのラインナップにある。
他にも、全国の農協夫人部のカンパによって制作費を得たという「荷車の歌」(59年)と三國の東宝時代の一本である「赤線基地」(53年)が放送予定である。
「荷車の歌」の制作は全国農村映画協会となっており、望月優子扮する農婦を主人公とした地味な作品だが、長期間にわたり全国各地を巡回して上映され、多くの観客を動員したという。
三國は望月の夫役で、あまりにも扮装に懲りすぎたため、望月が監督である山本薩夫に抗議したというエピソードもある。二人の娘役が左幸子で、この六年後の「飢餓海峡」では、三國の相手役となっている。その少女時代を演じたのが当時12歳の左時枝(当時は左民子)で、これがデビュー作と思われる。実の姉妹だが年齢差は17もあり、「娘」といっても不思議ではなかった。他の出演者は水戸光子、浦辺粂子、西村晃、佐野浅夫、小沢栄太郎など。
「赤線基地」(谷口千吉監督)での三國の相手役は根岸明美。宝塚歌劇団出身で、この53年アナタハン島事件を描いた「アナタハン」で主演デビューを飾ったばかりで、どちらかといえば彼女の方に注目が集まったかもしれない。根岸は幻の特撮作品である「獣人雪男」(55年)でも、そうだったが当時はそのプロポーションを武器とした肉体派女優として活躍したが、そう見られることを嫌い、次第に演技派へと転向していった。個人的にも口の大きなおばちゃんといったイメージが強かった人である。「赤ひげ」「どん底」といった黒澤作品にも出演しており、谷口千吉、「獣人雪男」の本多猪四郎と山本嘉次郎門下の三人すべての作品に出演している。
「赤線基地」の共演者は金子信雄、小林桂樹、中北千枝子、後に小林旭の妻となる青山京子などである。

東京アンタッチャブルシリーズ

今回は目先を少し変えて、前回少し話題にした「東京アンタッチャブル」(62年)について取り上げてみたい。以前、ここでやったとは思うのだが、覚えている人もいないと思うので、改めて。
「東京アンタッチャブル」といっても普通に刑事物である。西山捜査主任に三國連太郎、部下の原田刑事に高倉健。ちなみに原田のフルネームは原田芳夫である。もちろん、あの原田芳雄とは無関係であり、まだデビューしていない頃である。原田刑事の恋人百合子に三田佳子、強盗殺人犯の川本に丹波哲郎という4大スター共演の作品である。
丹波の共犯者役で織本順吉、潮健児、滝川潤、須藤健、他にも伊沢一郎、加藤嘉、筑波久子、渡辺美佐子など。ラストで丹波演じる川本は死んだように見える。
しかし、「東京アンタッチャブル・脱走」(63年)では、その川本こと丹波の脱走で幕が開く。三國、高倉、三田も前回と同じ役柄で登場するので、純粋な続編かと思いきや、三國の息子が丹波の車に跳ねられて、ずっと昏睡状態のままであるという設定になっているので、前回とは別の話と考えた方がよさそうである。
丹波と一緒に脱走するのが、「月光仮面」大村文武をはじめ、小川守、岡本四郎、世志凡太で、他には八代万智子、菅井きん、河野秋武などである。
東映チャンネルで以前放送されたのはこの二作で、シリーズといっても二作で終了と思っていたのだが、実はもう一作あることが判明した。それが「東京アンタッチャブル・売春地下組織」(64年)である。
三國、高倉コンビが大木実、千葉真一に変更になっているが、丹波哲郎、三田佳子は出演しており、千葉の役名は原田芳夫で、丹波は三作続けて川本五郎である。しかし、三田の役名は第1作では渡辺美佐子の役名だった金子三枝になっている。
ネット上では「売春地下組織」という「東京アンタッチャブル」のないタイトルしか出てこないのだが、岡田茂の「悔いなきわが映画人生」という本の巻末にある東映作品リストでは、本作には「東京アンタッチャブル」と付いているので、これはシリーズ第三弾と言っていいと思う。
タイトルでは「売春地下組織」だが、解説ではやることは美人局となっており、そのボスが丹波で、その仲間がなんと平幹二朗という「三匹の侍」コンビがしょうもない悪役なのである。
他の出演者だが、緑魔子、水上竜子、伊沢一郎、原田甲子郎などで、原田の役名が西山である。ややこしいな。

三國連太郎、東映へ

今回も三國連太郎の話である。
詳しい経緯は不明だが、59年に三國は他社出演の自由を確保しながら、東映と専属契約を結んだ。実は58年から、東映や松竹の作品に顔を出し始めていたのである。五社協定違反に問われていながら、特にダメージは受けなかったようである。
新東宝の大蔵貢や大映の永田雅一の怒りを買えば、もっと執拗な締め出しがあったと思われるが、新東宝に出演はなく、大映にも二本だけという関係性の薄さが幸いしたのだろうか。
東映時代は三國としては長く65年まで続く。
その間には、「宮本武蔵・全5部作」(61~65年)の沢庵和尚役や、「東京アンタッチャブル」シリーズ(62~63年)の捜査主任役のような娯楽アクションもある。
この時代に評価が高いのは、やはり本人も自選している「飢餓海峡」(65年)である。「東京アンタッチャブル」では、三國の部下の刑事役だった高倉健がここでは刑事課長役である。三國の相手役となるのは左幸子。彼女も五社協定をものともせず、一匹狼で活動していた点では三國と似ているのかもしれない。三國は「とにかく頑固で、一度言ったら引かない」と彼女を評している。キネマ旬報社の女優事典に父親の職業が骨董屋と書かれたことに「骨董屋ではなく骨董商です、屋と商では全く違います」とキネマ旬報社に抗議したというエピソードもある。
183分という長い映画のため、公開にあったて東映は監督の内田吐夢に黙って20分ほどカットしたものを上映した。この件で内田は東映を退社している。
彼女の演じた八重という役を、文学座の舞台では一時期、三國と恋愛関係にあったという太地喜和子が演じている(三國の役は高橋悦史)。
もう一本評価が高く三國も自選しているのが、同じ65年の「にっぽん泥棒物語」である。タイトルだけ聞くと普通のコメディ映画に思えるのだが、内容は「国鉄三大ミステリー事件」の一つである松川事件(本編では杉山事件)を扱ったものだったりする。監督の山本薩夫は61年にも「松川事件」というそのものズバリな映画を撮っている。北林谷栄、永井智雄、加藤嘉、西村晃、小沢弘治などは、この両方の作品の出演している。
とまあ良作が連続した65年であったが、三國はこの年に東映との専属契約を解除して、再びフリーとなっている。理由は東映が任侠映画中心の体制になってきたから。「やくざ映画は自分の柄ではないし、会社の企画に従わない役者がいてもしょうがない」とのコメントを残した。その仁侠映画の中心にいるのが、松竹時代から対立していた鶴田浩二だったというのも因縁深い。

三國連太郎、独立プロに参加する

55年からは、日活の専属となった三國連太郎だったが、印象に残る作品の一つとして市川昆が監督した「ビルマの竪琴」(56年)を挙げている。当時は海外ロケが楽ではなく、本作もほとんどが国内で撮影されており、三國もビルマには行っていないという。いずれにしろ、三國は海外ロケや地方ロケが嫌いなことで有名らしい。飛行機が嫌いだからだそうだ(戦争体験によるものだという)。この作品は同じ市川昆が85年にリメイクしており、「水島、一緒に日本に帰ろう」のセリフがお馴染みとなった。85年版では中井貴一が演じた水島を56年版で演じたのは安井昌二である。もっぱら、テレビでの活躍が多かった人で、四方晴美、正美姉妹の父親としても知られる。
56年10月、日活との契約切れに伴い、三國が選んだ道はフリーであった。この年「太陽の季節」が話題になっていたが、三國は「演技者を自認する私には『太陽映画』に出演するよりも良心的な優秀映画を選ぶ」と言い切っている。
テレビドラマに初出演した後、57年からは五社協定とは関係のない独立プロの作品に出演し始めている。短い出番でも、高額のギャラを得ていたことに「このままではいかん」と思い始めて、交通費程度の出演料という独立プロへの出演を決めたという。
その第一弾が独立映画製作の「異母兄弟」(57年)であった。ここでの三國の相手役は大女優・田中絹代である。当時48歳だったが、ここではなんと16歳の役を演じたりする。小柄で童顔な方だったとはいえ、無茶だと思うのだが、見た目はともかく、その立ち振る舞いは16歳のそれに見えたと評されている。一方の三國は当時34歳。こちらは壮年から老年まで、本作では演じることになるのだが、老年期を演じるにあたり上の前歯を全部抜いてしまったのである。これについては「田中先生と一緒だからできた」と三國は語っている。
その田中絹代は、翌年「楢山節考」で老婆の役をやることになるが、やはり歯を抜いている。別に三國の影響を受けたわけではないと思うが、考えただけで痛くなる。
続くは、現代ぷろの「夜の鼓」(58年)。監督は有名な今井正だ。ここで、三國は有馬稲子演じる不義密通をはたらいた妻を殴りつけるシーンがあるのだが、ここは本気で殴っているという。本気でやらないと今井のOKが出ないからだという。一発OKというわけでもなく、何度もやり直すので、有馬の顔はそのたびに腫れてしまい、腫れが引くのを待って、再び撮影という(有馬にとっては)過酷な現場だったようだ。しまいには失神してしまったという。顔は女優の命だし、今では考えられないような話だと思うが、そこまでやったから昔の映画は迫力があったといえるのかもしれない。この作品では、まだ中村万之助を名乗っていた頃の中村吉右衛門を見ることができる。また、釣りバカシリーズで三國の妻を演じることになる奈良岡朋子が女中役で出演している。
デビューから六、七年しか経っていないのだが、三國は演じる怪物と化した感がある。

五社協定違反第一号

前回の捕捉だが、実は三國連太郎は「戦国無頼」一本だけ出演して、松竹に戻るつもりだったらしく、松竹が解雇処分を決定すると一度は松竹に詫びを入れている。しかし、東宝はあきらめず、結局前回に書いたような結果になっている。
(解雇処分にしたのは自分たちだが)治まらない松竹では、新聞や雑誌の記者たちに三國攻撃の記事を書きまくらせてという。「以上な女性遍歴」だの「明るみに出た経歴詐称」だの、事実な部分もあったりするが多くの三國伝説はこの頃に作られたものが多いらしい。
そんな大モメで移籍した東宝だったが、三國にはあまり気に入った仕事はなかったようである。大映の「美女と盗賊」(52年)に出演したり、東映の「人生劇場」にも出演しようとしたが、東宝の引き止めにあい断念している。翌53年には完全専属契約を嫌い、フリーの立場をとりたいと東宝ともめたりしているのである。
ちなみに、この頃二度目の離婚をして、「戦国無頼」の撮影の合間に知り合った芸妓・石原とし子と三度目の結婚をしている。彼女との間に生まれたのが佐藤浩市である。ちなみに、その名はよく一緒に仕事をした稲垣浩と市川昆の両監督から一字づつとってつけたものである。
54年、映画制作を再開してまもない日活の「泥だらけの青春」に出演すると発表。当然、東宝から横槍りが入るが、三國は出演の意志を翻さず、結局は東宝が折れる形となった。
しかし、丁度この頃、日活を除く映画会社五社による五社協定が発足しており、この行為は違反にあたると三國は五社協定違反第一号に指定されたのであった。何故日活が参加していなかったかというと、元々日活による他社からの引き抜きを防止するための協定だったからである。これにより三國は五社の作品には出れないようになったのである。五社協定に関して三國は知らなかったそうである。
しかし、後にこれを適用された前田通子、山本富士子、田宮二郎らに比べれば、三國にはさほどダメージは与えられなかった。参加していない日活(58年から参加)に出演すればよかったからである。こうして、日活の三國連太郎が誕生したのであった。
デビューからわずか4年足らずで、松竹→東宝→日活と所属が変わり、五社協定違反第一号の栄誉?を得るなど、完全に大物俳優化しているのである。ちなみに、「続・警察日記」(55年)では、わずかワンシーンの出演ながら、一本分と同じ250万もの出演料を貰ったという。当時としては、家を一軒買えるくらいの額だったようだ。

三國連太郎、東宝へ

前回、「本日休診」に出演したことが、三國連太郎が松竹を辞めるきっかけになったと書いたが、別に木下組や鶴田浩二に無視されるようになったからではない。三國はそんな繊細な神経は持っていない(と思われる)。
三國が前年に出演した「稲妻草紙」の監督だった稲垣浩が東宝に移り、その稲垣から新作である「戦国無頼」へ出演しないかという話が、三國のもとにあったのである。
三國の次に出演する予定だった作品は「新婚たくあん夫婦」というプログラムピクチャーだったので、それよりは話をくれた東宝の方が面白いと思ったのだという。東宝は松竹に正式交渉したものの、松竹側は三國はまだ演技研究生であり社員であることを理由に拒絶する。しかし、実際は三國と松竹の間に正式な契約は存在しておらず、東宝は三國本人と直接交渉に出て三國もその気になっていた。三國をめぐる松竹と東宝の争いはマスコミの話題となり、二転三転あったのだが、三國が「戦国無頼」の撮影に未許可のまま参加するに及び、松竹は彼を解雇処分としたのだった。
松竹では、月給制で月5千円、映画1本に出演すると4万円というギャラだったのが、東宝では何と、1本につき百万円に跳ね上がったのである。これは、東宝側が三國に提示した指5本を、今までと同じ月5千円と勘違いした三國が「もう少し上げてくれませんか」といったところ百万になったのだという。つまり、最初の提示は50万円という意味だったのである。いずれにしろデビューから1年あまりで、三國は100万円スターになってしまったのであった。
この破格のギャラで、三國は日本で最初にポルシェを買ったという。三國は後に自著で「法外なもの(出演料)を貰ってしまうと、何とかそれにすがりついていようと思ってしまう」と書いている。
この東宝移籍により、三國は義理人情を欠いたアブレスターと叩かれる一方、前回書いたとおり鶴田浩二の独立や、岸惠子、津島恵子の他社出演という事態を引き起こしたのである。
さて「戦国無頼」の主演は三船敏郎である。三船も役者になるつもりなど全くなかったのに、スターになってしまったという点では三國と一緒である。三船は撮影には戦国武将の衣装のまま通っていたといい、三國でさえ「変な人」だと思ったという。
三船といえば黒澤明だが、三國は黒澤作品には一度も出演していない。黒澤とは兄弟弟子である谷口千吉が監督し黒澤も脚本で参加していた「吹けよ春風」(53年)には出演しているが、三國はテストと本番で違う演技をしたという(勝手にオカマにしてしまった)。そういうこともあって、黒澤は自分を使おうとしなかったのだろうと三國は述べている。自分の意図通りにしない役者を黒澤は嫌うからである。
三國は三船に関して「セリフは一字一句間違えず、一挙手一投足まで監督の指示に従うところがある。だからこそ、黒澤監督のかちっりと作ったコンテにあれほどはまる人は他にいなかったと思っている」と評している。「自己主張は乏しかったのでは」とも言っており、その辺りは三國とは大きく違うところであろう。

三國連太郎VS鶴田浩二

「大阪大工学部卒業の経歴の持ち主で、特技は水泳と柔道。特に水泳は学生チャンピオン。その堂々たる体格と国際的スタイルに合わせて、知性美を持つ有望な新人スター」というのが、三國連太郎デビュー時のキャッチフレーズである。全くの嘘っぱちであり、実際は旧制中学中退という学歴しか三國にはない。勿論、三國ではなく松竹が考えたものだが、そう思わせるだけの容姿を三國が持っていたということである。
スタートが木下恵介だったというのは意外な気がするが、木下作品には三本続けて出演。他に稲垣浩監督の「稲妻草紙」などデビューした51年は五作品に出演している。ど素人からのスタートだった三國だが、この年ブルーリボン新人賞を受賞したりしている。
翌52年「本日休診」という作品に出演するが、これが松竹を辞めるきっかけになったという。タイトル通り診療所の日常を描いた作品で主演は専ら脇役だった柳永二郎で、看護婦役で翌年「君の名は」でブレイクする岸惠子が出演している。本作の監督の渋谷実は、とにかく木下恵介と仲が悪かったという。三國は木下組と見られていただけに、本作に出演したことで、木下組の助監督連中から無視されるようになったという。三國の役は戦争でちょっと頭がおかしくなった患者というものだが、ほかならぬ渋谷による抜擢であった。たまたま、撮影所を歩いていた三國を渋谷が見かけたところから、このキャスティングを思いついたらしい。とにかく、当時の三國の容姿は人を強く惹きつけるものがあったようである。
しかし、これはもう一つの軋轢を生むことになった。実はこの役には鶴田浩二が予定されていたのだという。二枚目スターだった鶴田には似合わない役に思えるが、本人はやる気だったようだ。結局、鶴田には金持ちの愛人(淡島千景)を情婦にしているチンピラの役がふられた。ここから、鶴田は三國を強く敵対視するようになったという。三國によれば、三年くらいは道で会っても口を利くことはなかったという。
鶴田は三國より一歳年下だが、当時は既に佐田啓二、高橋貞二と松竹三羽烏といわれるスターであった。しかし、14歳で高田浩吉に弟子入りし、48年に映画デビューするまでは10年近くかかっている。それだけに、何の苦労もなくデビューした三國が気に入らなかったのかもしれない。この52年、三國が松竹を出ると、鶴田も負けじと新生プロを設立して独立している。
60年代になると、二人は東映で一緒になるのだが、三上真一郎が山本麟一か今井健二だかに聞いたという(ややこしいな)、こんなエピソードを披露している。
タイトルは不明だが、主演の鶴田と三國が対峙するシーンがあたという。撮影が始まると三國はNGを連発。「すいません、もう一度お願いできますか」とどこまでも低姿勢の三國に、最初は余裕の鶴田だったが、次第にイライラを募らせていく。ついには「人の物を履きやがって、草履一つ買えないのか!」と怒鳴った。これは、鶴田が使っていた草履を三國が履いていたという意味らしい。しかし、三國は態度を変えず、鶴田も次第に投げやりになってきたという。それを見るや、突然三國の芝居は滑らかになり、自分のペースに持ち込んでいたという。つまり三國は、わざとNGを連発して自分が芝居の主導権を握ったのである。
鶴田は遺作となったドラマ「シャツの店」で、三國の息子・佐藤浩市と共演するが、「とんでもないお前の親父に比べれば、お前はまだちゃんとしてるな」と言ったらしい。三國への敵対心は最後まで消えなかったということだろうか。

三國連太郎列伝

18日の時点で、一週間以上はかかると言われていたモデムが3日で届き、ネット難民からやっと復活。更新も平常通り再開したいと思う(と言いながら今回はイレギュラーだが)。


突然だが、三國連太郎である。ブックオフで彼のインタビューをまとめた著書「怪優伝」を購入したからなのだが、そういえば個人的には、そのデビュー当時のエピソードを聞いたことがなかったのを今さらながら気付いた。結構早くから大物扱いされていたようだが、いかにしてそうなったのか。ご存知の人も多いかもしれないが、まあ復習?のつもりで読んでほしい。
戦後、闇商売などをやりながら各地を転々としていた三國がたまたま銀座へやってきたのは50年のこと。就職の斡旋を知人に頼むためだったが、そこに声をかけたのが松竹のプロデューサーである小出孝だった。俗にいうスカウトで、二人が出会ったのは勿論偶然だが、実は三國が鳥取に居たときに出入りしていた写真屋の店主が松竹に彼の写真を送っていたのだという。小出は写真で見たことのある男が目の前にいたので、声をかけたというのが真相だったらしい。
三國も「飯代と電車代をくれるなら」とのこのこ付いていき、あれよあれよという間に、木下恵介監督の「善魔」(51年)でのデビューが決定したのであった。この時すでに27歳。そこでの役名である三國連太郎がそのまま芸名となった。ちなみに本名は佐藤政雄というとても平凡な名前である。佐藤英夫あたりはその平凡さが逆に似合っている感じがするが、三國には似合わない気がする。
もちろん、演技経験などない全くのど素人だったのだが、岡田英次の代役ということもあり、急いでいたのかたいした訓練もなく撮影に望んだという。この時の相手役である桂木洋子はNGを連発する三國にイヤな顔を一つせず、付き合ってくれたという。ちなみに桂木洋子は「題名のない音楽会」で知られる作曲家・黛敏郎の妻となっている。
「善魔」の撮影後、三國は木下恵介から「俳優座に行きなさい」と言われたという。三國は約半年の間、俳優座で訓練を受けることになったのである。指導にあったたのが、東野英治郎や小沢栄太郎で、特に滑舌が悪いといわれ、滑舌の練習ばかりやらされたという。
その頃、三國は鎌倉に住んでおり、六本木にある俳優座までは電車で通っていたのだが、一番見つかりにくかったという新橋駅で飛び降りていたという。要するに無賃乗車である。駅の周りに夜店の屋台が並んでおり、その屋根の上に飛び降りていたという。そして、新橋から六本木までは歩いたらしい。
三國が演技に関する指導を受けたのはこの時だけで、劇団に所属することもなかった。ちなみに、小沢や東野の評価は×で、三國は俳優には向いていないというものであった。後に東野が三國と会った時に、「役者を辞めたほうがいいといって大成したのは君が初めてだ」としみじみ言ったという。