お宝映画・番組私的見聞録 -126ページ目

雷蔵と勝新と玉緒と若尾文子と

市川雷蔵と勝新太郎といえば、同期入社のライバルみたいな関係にあったわけだが、勝新が言うには周囲が言うほど競り合ってはいなかったという。「第一番付が違う」と雷蔵の方が上だったと認めている。実際、当初は勝が主役といってもSP作品ばかりであった。
しかし、「悪名」やら「座頭市」やらヒットシリーズが生まれると、ギャラもどんどん上り一本250万まで来たとき、雷蔵は300万だったという。それで、勝はあと50万上げてもらおうと永田社長に「これだけ上げてください」と片手を出すと「お前、何様のつもりや」と怒鳴られたという。ヘソをまげた勝新は一週間くらい撮影所に行かなかったら、ギャラを上げてくれることになり、契約書には「一本五百万也」と書いてあったという。これと似たようなエピソードは三國連太郎にもあったことを、以前ここで書いた。
勝新といえば、中村玉緒である。しかし、当初噂になったのは雷蔵だったりする。ある日「市川雷蔵、婚約か!」という記事が出て、その相手というのは玉緒だったのである。二人は子供の頃からの知り合いでもあり、周囲でそう見ていた人も実際にいたようである。
「好色一代男」(61年)では、雷蔵と玉緒の濡れ場があり、映ってはいないが、玉緒は監督に言われ裸になったという。その数日後に勝と玉緒の婚約が発表されたのである。この二人の関係には気付かなかった人も多かったようである。雷蔵が言うには「好色一代男が刺激になったんやな」。
余談だが、雷蔵は移動中に目ざとく中村錦之助の車を見つけて、「一緒に乗っているのは誰や」と見てみると有馬稲子で、その後に二人は結婚したのである。
雷蔵自身は若尾文子とも噂になったことがある。雷蔵と若尾の二人が主演した「安珍と清姫」(60年)では、話題作りのために二人のゴシップを流そうということになった。雷蔵は「俺はいいけど、若尾ちゃんが可愛そうやろ」と乗り気ではなかったが、若尾は「相手が雷蔵さんならいい」と了承したのである。
田中徳三は結婚するような雰囲気があったといい、雷蔵が田中や池広一夫を連れて箱根に泊りで遊びにいった時、泊りはしなかったが若尾も東京から来たという。その後、雷蔵と若尾の間に何があったかは不明だが、結局雷蔵は永田社長の養女雅子と結婚する(62年)。別に政略結婚というわけではなく、結婚前に田中や本郷功次郎に彼女とのノロケ話を聞かせたこともあったという。
若尾も63年にデザイナーと結婚するが、69年に離婚。これは雷蔵が亡くなった年でもある(たまたまだと思うが)。黒川紀章との結婚は83年のことである。

座頭市と池広一夫

池広一夫が続けて雷蔵の映画を撮っていた頃、勝新太郎が池広の元を訪れ、「オレと何も撮らないじゃないか」と不満をもらした。助監督時代はどちらかといえば、勝新と親しかったという池広だが、自分からこれをやりたいという立場ではない、と勝に言うと「じゃあオレがいえばいいか」と勝新。
そのすぐ後、池広が企画部長に呼ばれ見せられたのが子母沢寛の「座頭市物語」だったのである。
これは面白いので、勝新でやろうと企画がスタートし、脚本を犬塚稔に何度も書き直してもらったり、コンテを作って、ろケハンも進めるなど、「座頭市」は池広の監督で進んでいたのである。
それを打ち破ったのは市川崑であった。「破戒」をやるのでB班を立てなければ間に合わない。B班はキミじゃなければだめだと言ってきたのである。池広が座頭市を準備しているから無理ですというと市川崑は「くだらないやくざ映画を撮るのと破戒を撮るのとこれからの監督人生でどちらがプラスになるか考えてくれ」と言い放ったのである。ちなみに「破戒」の主演は雷蔵で、共演に三國連太郎、長門裕之、船越英二などであった。
実際、一晩考え池広はその話を断り、その場はわかったと言っていた崑だったが、実は永田社長に電話していたようで、「破戒」を手伝えという社長命令が下ったのである。そんな事情で「座頭市」シリーズの一作目「座頭市物語」(62年)の監督は池広から三隅研次に交代となったのである。ディティールは池広が考えたものとあまり変わっていなかったという。
それにしても池広一夫は、雷蔵、勝新だけでなく市川崑にまでモテまくりである。
「破戒」の後、市川崑は「無理を言ってすまなかった」と侘び、変わりにくれた企画が清水崑の風刺マンガが原作の「雑兵物語」であった。永田社長は風刺が大嫌いということもあり、池広が二の足を踏んでいると、市川崑が直接永田に頼み、実現する運びとなったのである。池広はこれに勝新を起用し、やっと池広監督による勝新作品第1号である「雑兵物語」(63年)が誕生したのである。
その後の池広は勝新の「座頭市」を撮ったと思えば、雷蔵の「眠狂四郎」「若親分」を撮ったりと、二人の作品を並行するように撮っていったのである。

雷蔵と池広一夫

話はまた生前の市川雷蔵に戻るのである。
池広一夫の元に雷蔵が来て、次の作品を監督してくれと言う。それが古典ともいえる「沓掛時次郎」(61年)だったのである。
この時点での池広はSPを二本撮っただけのキャリアしかなかった。しかも二本めのSPである「天下あやつり組」が「不愉快きわまりない」と永田社長の逆鱗に触れ、池広は会社を辞めようかとまで思っていたのであった。そこを、師匠的な存在だった森一生が「大菩薩峠」の助監督チーフに池広をつかせたのであった。
そんな状態で、いくら雷蔵が池広を推薦しようと、永田がウンということは考えられなかった。しかも「沓掛時次郎」の監督は安田公義に決まっていたはずだったのである。だから、雷蔵がかなり頑張ってくれたのだとしか考えられなかったのである(雷蔵はその辺の経緯を語らなかった)。
結局、引き受けた池広だったが、これでダメなら映画界から去るしかないよいう覚悟も決めたのである。そこで、撮影所長に「カメラは宮川一夫さんでお願いします」と主張したところ、鼻で笑われたという。それは当然で、当時の宮川は一流監督でも中々使うことができない存在で、池広のような駆け出しには遠いカメラマンだったのである。しかしその夜、それを聞いた宮川から電話があり、事情を話したところ引き受けてもらえたのである。
その結果、「沓掛」は興行成績も良く、池広は「かげろう侍」「花の兄弟」と雷蔵の主演作を続けて撮ることにもつながったのである。
「若親分」シリーズ(65~67年)を企画したのも池広である。池広は以前から雷蔵で海軍士官の話をやりたいと思い、企画を出していたが通らなかった。当時は東映のやくざ映画がウケており、大映でもやくざ映画をやろうかという話になっていたのである。
しかし、同じようなやくざ映画では東映にかなわないので、そこで池広が考えたのは、海軍士官のイメージをやくざにしたらどうなるかということであった。
海軍士官がやくざの跡目を継ぐ、つまりインテリやくざをやりたいと始まったのが「若親分」だったのである。敵役のワルも佐藤慶や内藤武敏といったインテリにしたのであった。
池広は助監督時代はどちらかといえば勝新太郎と仲が良かったという。雷蔵がどこを見込んで池広を監督に推したのかは不明だが、雷蔵にはなくてはならない監督になったのである。

雷蔵後継者計画

市川雷蔵が亡くなった69年、彼は二本の映画に出演している。「眠狂四郎 悪女狩り」と「博徒一代血祭り不動」である。
企画部長だった土田正義によれば、特に遺作となった「博徒一代血祭り不動」本人「俺に鶴田浩二の二番煎じをやらせるんかい」とやるのを嫌がっていたという。狂四郎も最初に映画でやったのは鶴田浩二ということもあり、ある意味鶴田に縁があったのかもしれない(共演などはなかったと思うが)。
土田が「そこを何とか」と説得すると、結局了承したのだが「これをやったあと、おれのやりたい作品をやらせてくれ」というので、「必ず約束する」と土田は返答したのだが、約束が果たされることはなかった。
まさか雷蔵が死んでしまうとは、誰も思っていなかったからである。土田はやりたくないと言っていた作品が一番最後になってしまったことが心残りだという。
雷蔵の死後だが、大映は「眠狂四郎」シリーズを継続させるため、「血祭り不動」で近衛十四郎と共演したからというわけではないだろうが、東映から松方弘樹をレンタル移籍させたのである。しかし、「眠狂四郎円月殺法」「眠狂四郎卍斬り」(69年)の二作でシリーズは終了した。「卍斬り」を監督したのは雷蔵と親しかった池広一夫だったが、やっぱりしっくりこなかったという。
やはり役者としての質が雷蔵と松方では違い過ぎたので、松方も可哀相だったと池広は語っている。これに関しては、自分のような素人でも松方は違うと思うので、プロからすれば当然だろうなと思う。ちなみに、この「卍斬り」には後にテレビシリーズで狂四郎を演じることになる田村正和が狂四郎を襲う役で出演している。
松方が雷蔵の後を務めた作品は「眠狂四郎」だけではない。「簿桜記」(59年)をリメイクした「秘剣破り」(69年)や、若親分シリーズを継続させようとした「二代目若親分」(69年)、「忍びの者」シリーズの後継である「忍びの衆」(70年)なども松方主演で撮られているのである。
それ以外には、雷蔵主演が予定されていた「あゝ海軍」は中村吉右衛門で、「尻啖え孫市」は中村錦之助でそれぞれ撮影されている。錦之助は「俺が雷ちゃんの代わりなんて、こんなにうれしいことはない」と喜んだという。
さて、雷蔵の後継者に何故か指名された松方だが、翌70年ダイニチ映配設立に反対したため、永田雅一大映社長の逆鱗に触れ、半年のあいだ干されることになったという。これで、雷蔵後継者計画は頓挫してしまった形になるが、いずれにしろ翌71年に大映は倒産、松方も東映に復帰していく。松方にとっては踏んだりけったりな二年間であった。

眠狂四郎シリーズ その2

前項の続きである。2作目の「眠狂四郎勝負」は好評を得ることはできたが、3作目の安田公義が監督した「眠狂四郎円月斬り」(64年)も含めて、興行成績はあまり良くなかったのである。
4作目の監督に指名されたのは池広一夫で、雷蔵とは親しい関係にあった。同じシリーズでありながら、毎回監督が変わるのは大映ではよくあるパターンだったようである。池広は「これでダメだったら、狂四郎は終わりだ」と撮影所長に言われたという。
池広も何が悪いのかよくわからないので、とにかく柴田錬三郎の原作を全部読んで研究したという。短い中にも剣技、エロティシズム、不信感などが全部含まれていることに気付く。
そこで、変に理屈をつけず、その場その場を見せていく。辻褄が合わなくなってもいいから面白くやろうという話にまとまったのだった。
まず、久保菜穂子、春川ますみ、根岸明美、そして藤村志保など「狂四郎ガールズ」を投入した。そして、円月殺法にストロボ撮影を導入したのである。以後の円月殺法は全てこの方式になっている。
脚本を担当するのは、やはり星川清司であった。その時は「座頭市血笑旅」の脚本も担当しており、それでも二週間で書けと言われたのであった。社長の永田雅一には「無理はわかっているから、どんな話になっても脚本には一切文句をつけない」と言われ引き受けさるを得なかったのである。
こうして完成した「眠狂四郎女妖剣」(64年)は、興行的にもヒットを記録し、狂四郎撃ち切りの危機からは脱出したのであった。ちなみに、東京オリンピックの開催中でもあった。本当にシリーズ化が決定したのは、この4作目だったといえるかもしれない。
星川は7作目の「眠狂四郎多情剣」(66年)まで脚本を担当したが、アイデアが尽きたので自ら申し出て降板した。8作目は伊藤大輔、9~10作目は高岩肇が担当したが、11作目の「人肌蜘蛛」(68年)で再び星川が担当することになる。これは、どうも狂四郎の感じが以前と違うという評判を聞くので、もう一度やれと雷蔵に言われたからだという。
年間10本ペースで映画に出演してきた雷蔵であったが、この直後、体調を崩して入院することになる。直腸癌であることが判明したが、本人には告げられなかった。雷蔵は生来、胃腸が弱かったといい、立ち回りで足腰が弱いのが目立つという指摘がよくあったというが、この辺が関係していたのであろう。
半年以上の間が開き、復帰作として撮られたのが12作目となる「眠狂四郎悪女狩り」(69年)であった。これが最終作になるとは、周囲も本人も予想していなかったと思われる。これと遺作となる「博徒一代血祭り不動」(69年)では、体力の衰えが激しく、立ち回りは吹き替えの役者が演じたという。そして、再び入院。雷蔵が銀幕に復帰することは二度となかったのであった。

眠狂四郎シリーズ

市川雷蔵が演じた中で、もっとも有名なキャラといえば、やはり眠狂四郎ということになるのだろうか。
「陸軍中野学校」シリーズ、「若親分」シリーズ、「忍びの者」シリーズなど雷蔵の人気シリーズは他にもあるが、知名度では狂四郎にはかなわないだろう。ただ、眠狂四郎はいろんな俳優が演じている。雷蔵よりもテレビ版の田村正和だという人もいれば、近年(といっても80年代)の片岡孝夫だという人もいるかもしれない。
映画で一番最初に狂四郎を演じたのは鶴田浩二である。東宝で「眠狂四郎無頼控」(56年)を皮切りに、58年まで全三作が作られている。
大映で、雷蔵が眠狂四郎にピッタリだと最初に考えたのは田中徳三である。企画に持ち込むと、まず雷蔵に確認してくれとの答えだったという。鶴田浩二の二番煎じは嫌がるかもしれないからということだったが、雷蔵は即座に「やる」といったので、制作が決定したのであった。
監督は言い出しっぺでもある田中徳三が担当し、第1作となる「眠狂四郎殺法帖」(63年)の制作はスタートしたが、事件ものにはするなと言っていたにもかかわらず星川清司の書いた脚本は事件ものだったという。これじゃいかんと思いながらも直す時間がなく、結局そのまま撮影に入ったという。演じる雷蔵も手探り状態で、演じるほうも撮るほうも掴みきれず、完全に失敗作だったと田中は語っている。
一方の星川は「二週間で書け」と言われ、通常一本に40日はかかるので最初は断ったという。しかし、雷蔵本人にも説得されたのと、柴田錬三郎との契約で原作を変えてはならないという一行があり、それなら逆に書きやすいかもと思って、結局は引き受けたのだという。しかし出来上がったものを見ると、星川もこれは失敗したと感じたという。狂四郎がさっぱり虚無でも孤独でもなかったのである。これは明らかに脚本のせいだと星川は雷蔵や田中に詫びたという。
そんなこともあり、星川は狂四郎から手を引こうと思っていたところ、二作目の監督に決まった三隅研次が「お前が書け」と言ってきたのだという。原作を外せないという前提がある限り、また同じ失敗を繰り返すと星川が主張すると、三隅は原作を無視して書けばいいと言い出し、そんなことはできないと辻久一プロデューサーと三人で押し問答になったという。
結局は三隅の主張を取り入れ、原作にとらわれない形にすることに決まった。しかし、柴田の逆鱗に触れたら誰かが責任をとらなければならない。星川は社員ではない自分が一番責任をとり易いからと覚悟を決めたのであった。
その場で雷蔵に電話し、「私はこれで大映を去ることになるかもしれない」と言うと、雷蔵の「それをあなただけの罪にはしない」という答えが返ってきたという。
こうして二作目の「眠狂四郎勝負」(64年)は完成し、試写には柴田も来ていたが、終わると何も言わずに帰ってしまったという。「なんだこの作品は!」とある重役が怒り星川もクビを覚悟したというが、その晩の朝日新聞の映画評で「眠狂四郎勝負」は絶賛されていたのである。社長の永田も星川に「雷蔵が喜んでいた。これからもよろしく頼む」。
後日、星川と辻そして柴田が会食し、柴田は「映画だからああいう狂四郎でいいか。おれはああいうふうには書かないけど」と「映画は映画で」という許しを得ることができたのであった。

花の白虎隊

市川雷蔵が大映入りしたのは54年のことだが、誘い自体は53年から受けていたようである。前項で錦之助の映画を見て研究したと書いたが、武智歌舞伎において二人は同じ舞台を踏んでおり、親しくなっていたという。
デビュー作は「花の白虎隊」で、いきなりの主役であった。同じようにスター候補として同時期に入社したのが、新派の花柳武始、長唄三味線の勝新太郎で、この二人も本作でデビューを飾っている。花柳は準主役だったが、勝は白虎隊の一人という役柄であった。
勝新を知らない人はあまりいないと思うが、花柳武始を知っている人は少ないかも。花柳というから日本舞踊の花柳流かと思いきやそうではなく、劇団新派の花柳章太郎の息子である。
本作でデビューと書いたが、正確には49年に青山健吉名義で4本の映画に出演している。51年に父の元に入門し、花柳武始となってからは初の映画出演で、当時既に28歳であった(雷蔵と勝新は23歳)。しかし、この54年に3本の映画に出演しただけで、映画界を去ったようである。その後の経緯は不明だが、新派のほうに戻ったようで、03年に亡くなっている。
本作には、彼らよりデビューは少し先だったが、当時のスター候補だった三田隆も出演している。国木田独歩を祖父に持ち、「ひよどり草紙」(52年)では主演も務めていた。しかし、酒ぐせが悪かったようで、東宝時代に酔って他人の自転車を盗んだのを新聞沙汰にされたりして、東宝を解雇され大映に入社したのだが、ここで交際をして子供まで作ってしまった元女優が大映幹部の愛人だったことから、映画界を干されることとなり、別の女性と結婚し妻が家計をささえていたが、61年の正月に胃潰瘍でこの世を去った。雷蔵と同じ37歳での死去であった。
当時のポスターでは雷蔵、花柳、三田、黒川弥太郎の順で名前が載っており、勝はもっと後の方に載っていた。
他の出演者だが入江たか子、杉山昌三九、小堀誠といったベテランに加え、時代劇ではお馴染みともいえる伊達三郎、堀北幸夫、南部彰三、千葉敏郎なども顔を揃えている。千葉は大映十周年記念で行われたスター募集で、準ミスターニッポンに入選し、大映に入社。前年の53年「社長秘書」という現代劇でデビューしていた(千葉登四男名義)。
作品そのものは評価が低く、大映内部でも何の評判にもならなかったという。ただ、川口松太郎は「勝というのはいけるんじゃないか」と主役の雷蔵より、出番の少なかった勝新を評価していたという。
雷蔵が評価され始めるのは、12作目となる「新・平家物語」(55年)あたりからで、勝新にいたってはまだ数年先の話になるのだった。

雷蔵といふ人

中村錦之助とくれば、市川雷蔵である。たまたま古本市で「市川雷蔵とその時代」という本を安く手に入れたからである。
錦之助と雷蔵は歌舞伎では役に恵まれず、映画界へ転身してスターになったという点では共通している。
雷蔵ファンなら知っているレベルの話になってしまうと思うが、その辺は目をつぶっていただきたい。
まず生い立ちからして、かなり複雑である。実の両親の仲が決裂し、実母は赤ん坊だった彼を一人で育てようと思っていた矢先、実父の義兄にあたる市川九團次(三代目)が彼を養子に引き取ったのである。
九團次は幼少期の彼に歌舞伎の修行をさせることはなかったが、雷蔵は15歳の時、自ら歌舞伎の道を選び、市川莚蔵として初舞台を踏んでいる。
雷蔵が18歳のとき、その演技を見た演出家の武智鉄二は彼のことを気に入ったが、養父である九團次が歌舞伎界での地位が低いので、このままでは雷蔵が埋もれてしまうと感じていた。そんな時武智は、歌舞伎界の重鎮であった市川壽海(三代目)が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを知り、この話をまとめ上げたのである。こうして51年、養子縁組は成立し、市川莚蔵から市川雷蔵(八代目)の名を継ぐことになったのである。つまり、二度も養子になっているのである。それに伴い本名も亀崎章雄→竹内嘉男→そして今回は太田吉哉と変わっている。ちなみに、この太田吉哉という名は自らが姓名判断で決めたものだという。
結婚は62年で、雷蔵が30歳のときだが、相手は大映社長永田雅一の養女である永田雅子だった。つまり、自分の会社の社長令嬢と結婚したということになる。元は恭子という名だったらしいが、姓名判断に凝っていた雷蔵の勧めで改名したのである。つまり、結婚して太田雅子になったのである。日活から太田雅子(梶芽衣子)がデビューしたのは、その3年後だが、もちろん別人である。雷蔵夫人がほとんどクローズアップされることがなかったのは、生前に雷蔵から「表に出ないように」と言われていたこともあるようだ。私は見ていないが、彼女は雷蔵の死後40年以上たった09年になって、初めて雷蔵の回想記を発表している(太田雅子名義)。
さて、壽海の養子となった雷蔵だったが、若いうちから大役を与えないという壽海の方針もあって、いい役を与えられず不満を募らせていった。そんなとき、大映から誘いを受け映画俳優への転身を決意する。ただ、完全に縁を切るわけではなく、年を取ったらまた歌舞伎をやろうと思っていたようである。
デビュー前に研究したのは、同じように歌舞伎界から映画界へ転身した中村錦之助の演技だったという。

さすらいの狼 その3

前回に続いて「さすらいの狼」(72年)である。
13話に「仮面ライダー」から藤岡弘、千葉治郎が出演と書いたが、翌14話には「おやっさん」こと小林昭二が登場し、出来の悪い親分を演じていた。そして、この回には竜之進の許婚だったという役で鮎川いづみも登場。再会を果たすが「昔の竜之進は死にましたよ」の一言で終了。結局、この回だけの登場だったので、あっさりあきらめたということになるのだろうか。
18話には長門勇が、21話には「新・三匹の侍」で長門、安藤昇とともに、その一人を演じた高森玄が登場。この回には9話に出演した松木路子の妹である松木聖が出演(クレジットは松本聖だったが、単純ミスだと思われる)している。ちなみに、この回の監督である永野靖忠は松木路子と結婚しており、松木聖がレギュラーだった「キカイダー01」でも監督を務めている。
19話では、当時「大辻しろ」と名乗っていた大辻伺郎が「殺人鬼」の役で出演。この回には特撮ドラマではお馴染みの山口暁も出演しているが、ただ殺されるだけの役であった。
24話のゲストは「無用ノ介」でお馴染みの伊吹吾郎である。
クライマックス前の25話での出演者は、ほぼレギュラーの五人のみ。30分くらいはそれぞれが崖道を登っているだけという展開だったが、後半一気に話が動き、ジェリー藤尾演じる才六はは今井健二演じる加納に殺され、怒りに燃えた竜はついに加納を捕らえる。結局、斬り殺すのだが、その直前に加納が吐いた名は「冬木一馬」。本編では初めて登場する名前だが、芦田伸介演じる冬木豪右衛門の義理の息子である。その様子を芦田は見ていたのであった。
そして最終回、サブタイはそのまま「最終回」であった。竜は黒田藩に舞い戻る。一馬を演じるのはゾル大佐で知られる宮口二朗である。いかにも悪人顔だが、「非情のライセンス」では刑事役だ。一馬は気が弱く、根っからの悪人というわけではないのであった。実はその背後には、さらに戸部(田中浩)や沖山(溝口舜亮)がいたのである。ちなみに溝口は「江戸川乱歩シリーズ明智小五郎」(70年)では、主役の明智を演じた役者である(滝俊介名義)。
今月からまたリピート放送があるので、結末は書かないが(ほとんど書いてしまったが)、まあ予想できる範囲であろう。
第1話にでも黒田藩時代の話をやっておいたほうが良かったのではと思う。許婚の鮎川いづみや一馬の宮口二朗の登場が唐突に感じてしまうのである。その辺が当時、わかりづらいと言われていた原因のような気がする。
それはさておき、「さすらいの狼」中村錦之助は翌年には、「子連れ狼」萬屋錦之介になるのである。

さすらいの狼 その2

前回の続きだが、「さすらいの狼」で印象に残ったゲストについて触れてみたい。
第1話の桜木健一、浜美枝に始まり、第8話には池部良、加藤嘉の両ベテランに加え、川口恒、北林早苗、そして「特別機動捜査隊」立石班から南川直、松原光二、その前の回だったか岩上瑛も主演していた。
第9話のメインゲストは葉山良二だが、その妹に松木路子、無法者の兄弟を尾形伸之助や佐藤京一らが演じたが、尾形はこの番組の殺陣師でもある。錦之助の主演ドラマの殺陣はだいたい尾形である。彼が演技をしている姿は初めて見た気がする。ちなみに尾形は22話の「まぼろし部落」の回でも、野盗の頭の役をやっている。
第10話はメインゲストが長門裕之で、錦之助以外のレギュラーは登場しない。ここではあの目立つ顔の佐藤京一が前回に続いて、違う役で登場する。田中浩の弟役だ。ところで、田中浩が亡くなったのは93年の1月2日(享年59)で、前回ゲストの葉山良二が亡くなったのは同じく93年の1月3日(享年60)であった。
そして13話だが、藤岡弘、千葉治郎の「仮面ライダー」コンビがゲストである。もちろんこれは偶然ではない。錦之助の子供が「仮面ライダー」の大ファンだったが、錦之助がライダーに出演するのは無理があったので、地獄大使役の潮健児を自宅に招いたという話は知られているが、藤岡と千葉も招いていたようである。そのお礼?としてこの出演が決まったらしい。二人の役柄は若林豪演じる藤田に協力を要請された若侍というもの。若林、藤岡、千葉といえば、70年の「ゴールドアイ」のメンバーでもある。松竹にいた藤岡が初めて出演した東映の番組だが、実はこの番組でも藤岡と千葉はその12話から新メンバーとして一緒に登場している。23話にゲスト出演する吉田輝雄も「ゴールドアイ」のメンバーだった。
話を13話に戻すと、この回には高品格も出演。千葉と合わせると「ロボット刑事」のコンビである。藤岡の許婚役が岡田由起子。もちろん自殺した岡田有希子とは別人である。「木枯し紋次郎」にもゲスト出演していたし、当時結構活躍していたと思うのだが、いまいち詳細が不明な女優である。
ところで、錦之助の芸名変更の件だが、最終話までクレジットは中村錦之助のままであった。72年の秋に萬屋錦之介になったということなので、タイミング的にはおかしくないのだが、番組途中で改名という情報はガセであった。