眠狂四郎シリーズ その2 | お宝映画・番組私的見聞録

眠狂四郎シリーズ その2

前項の続きである。2作目の「眠狂四郎勝負」は好評を得ることはできたが、3作目の安田公義が監督した「眠狂四郎円月斬り」(64年)も含めて、興行成績はあまり良くなかったのである。
4作目の監督に指名されたのは池広一夫で、雷蔵とは親しい関係にあった。同じシリーズでありながら、毎回監督が変わるのは大映ではよくあるパターンだったようである。池広は「これでダメだったら、狂四郎は終わりだ」と撮影所長に言われたという。
池広も何が悪いのかよくわからないので、とにかく柴田錬三郎の原作を全部読んで研究したという。短い中にも剣技、エロティシズム、不信感などが全部含まれていることに気付く。
そこで、変に理屈をつけず、その場その場を見せていく。辻褄が合わなくなってもいいから面白くやろうという話にまとまったのだった。
まず、久保菜穂子、春川ますみ、根岸明美、そして藤村志保など「狂四郎ガールズ」を投入した。そして、円月殺法にストロボ撮影を導入したのである。以後の円月殺法は全てこの方式になっている。
脚本を担当するのは、やはり星川清司であった。その時は「座頭市血笑旅」の脚本も担当しており、それでも二週間で書けと言われたのであった。社長の永田雅一には「無理はわかっているから、どんな話になっても脚本には一切文句をつけない」と言われ引き受けさるを得なかったのである。
こうして完成した「眠狂四郎女妖剣」(64年)は、興行的にもヒットを記録し、狂四郎撃ち切りの危機からは脱出したのであった。ちなみに、東京オリンピックの開催中でもあった。本当にシリーズ化が決定したのは、この4作目だったといえるかもしれない。
星川は7作目の「眠狂四郎多情剣」(66年)まで脚本を担当したが、アイデアが尽きたので自ら申し出て降板した。8作目は伊藤大輔、9~10作目は高岩肇が担当したが、11作目の「人肌蜘蛛」(68年)で再び星川が担当することになる。これは、どうも狂四郎の感じが以前と違うという評判を聞くので、もう一度やれと雷蔵に言われたからだという。
年間10本ペースで映画に出演してきた雷蔵であったが、この直後、体調を崩して入院することになる。直腸癌であることが判明したが、本人には告げられなかった。雷蔵は生来、胃腸が弱かったといい、立ち回りで足腰が弱いのが目立つという指摘がよくあったというが、この辺が関係していたのであろう。
半年以上の間が開き、復帰作として撮られたのが12作目となる「眠狂四郎悪女狩り」(69年)であった。これが最終作になるとは、周囲も本人も予想していなかったと思われる。これと遺作となる「博徒一代血祭り不動」(69年)では、体力の衰えが激しく、立ち回りは吹き替えの役者が演じたという。そして、再び入院。雷蔵が銀幕に復帰することは二度となかったのであった。