風の中のあいつ
清水次郎長を描いたドラマや映画は多くあるが、その敵対勢力であった黒駒の勝蔵の側から描いた作品は本作くらいではないだろうか。
その勝蔵を演じるのが萩原健一で、その子分となる玉五郎に前田吟、綱五郎に下條アトム、ども安こと竹居の安五郎に長門裕之、本作では悪役となる次郎長には米倉斉加年という布陣である。
この直前に、ショーケンも青年探偵団の一人として顔を出していた「明智探偵事務所」(72年)で、二十面相を演じていたのも米倉で、非常にのっていた時期だったといえよう。
他にも、史実では安五郎を捕縛したとされる(本作では暗殺する)国分の三蔵に小松政夫、浪人・犬上群次郎に竜崎勝、勝蔵の姉に星由里子、兄に柳生博、幼馴染に竹下景子、謎の女おりはに安田道代、本作では四人しか登場しない勝蔵の子分である大岩に大口広司、小岩に矢野間啓二といったところが主なキャストである。
弱弱しい感じしかない小松の悪役というのも珍しい。しかも短砲を持っている。「前略おふくろ様」にも出演することになるのは、本作が縁になっていると思われる。24話で勝蔵たちに斬り刻まれ、血みどろになる。大口はテンプターズ、PYGとショーケンと一緒にやってきたドラマーである。時代劇には似合わないルックスだが、主役の(当時の)ショーケンからしてそうなので違和感はない。生き残り続けたが最終回に命を落とす。矢野間は60年代の青春ドラマの生徒役としてよく知られている。21話にて割合あっさりと死んでしまう。
最終回では、勝蔵と玉五郎というスタート時の二人だけになり、次郎長一家に殴りこむが、多勢に無勢で返り討ちにあうが、何故かトドメはさされない。二人とも普通死ぬだろうという手傷を負いながらも死なないのである。まあ、史実上では勝蔵の死はもっと後のことなので、ここで死なせるわけにはいかないという事情もあるのだろう。
主題歌はショーケンが歌では敵わないという沢田研二が担当。ただレコード化CD化はされておらず、タイトルも不詳である。日曜夜10時からの30分枠ということもあってか、それほど評判にはならなかったようだが、それなりに面白く見ることのできる作品であると個人的には思う。
萩原健一、その女性遍歴
萩原健一著「ショーケン」では、その女性遍歴についても触れられているが、まず芸能界で一番最初に付き合ったのは江波杏子だったという。テレビや映画での共演はなく、一見接点がなさそうだが、雑誌の対談で知り合ったのだという。当時、この二人の関係が噂になったかどうかは知らないが、多分なっていなかったのではないだろうか。
続いて、これも噂になったという記憶はないのだが、范文雀と付き合っていた時期があるという。前項で「約束」の前に数本の映画に出ていると書いたが、「めまい」(71年)という映画で二人は共演している。それも結ばれる役である。ちなみに、范が寺尾聡と結婚するのは73年のことなので、それより前の話である。
タイトルから中身が想像しにくい映画だが、まあ恋愛映画である。辺見マリが主演なので、彼女の歌のタイトルがそのまま映画のタイトルになっているのだ。
ショーケンの同級生役で話の中心にもなるのが、ウルトラセブンこと森次晃嗣であり、何故かジャイアント吉田である。小野ヤスシらとドリフターズを脱退してドンキー・カルテットを結成していたが、この頃には解散していた。女性の方は、辺見、范と小川ひろみが中心となっている。小川は「おれは男だ」の丹下竜子が有名だろうか。ちなみに「めまい」には「おれは男だ」ではヒロイン吉川クンの早瀬久美も出演している。前述のジャイアント吉田をはじめ、お笑い系の人が多く、桜井センリやケーシー高峰、知る人ぞ知る芸人・阿部昇二、車だん吉(当時はたんくだん吉)、岩がん太(当時はいわたがん太)のコント0番地、他にもスマイリー小原、トワ・エ・モア、佐藤蛾次郎なんかも顔を出している。
最初の結婚が75年。相手はモデルの小泉一十三である。「太陽にほえろ」の共演がきっかけであることは有名だろう。しかし78年には離婚。
80年に二度目の結婚、相手はいしだあゆみである。これもドラマ「祭ばやしが聞こえる」の公演がきっかけである。しかし、こちらも84年には離婚している。
あと、結婚には至ってないが倍賞美津子とも関係があったようである。
ショーケンは江波杏子のような顔が好きと言っているが、小泉も石田も(范は少し違う気がする)、その同じ系統の顔であると思う。美人だけど気の強そうな感じとでもいうのだろうか。個人的には好きではない系統だったりする。
さて、その後は長いこと独身期間だったショーケンだが、11年になって三度目の結婚をモデル・教育カウンセラーの富田リカとしているが、彼女は倍賞美津子に近い顔立ちな気がする。
萩原健一、映画「約束」に出演する。
さて、そのショーケンはテンプターズを嫌がっていたと書いたが、解散も彼が独断で決めたようなものだったようだ。新聞記者に解散するという情報を流したのである。無論、田辺昭知には内緒だったが、田辺もスパイダースを解散せざるを得ない状況になっていた時期である。
タイガースも同時期に解散したことで、71年2月、テンプターズからはショーケンと大口広司(後に原田裕臣に交替)、スパイダースからは井上堯之と大野克夫、タイガースから岸部一徳と沢田研二が集まりPYGが結成された。売りはもちろん、ショーケンとジュリーのツインボーカルであったが、このお互いのファン同士が非常に仲が悪かったため、喧嘩になることもあり、客が集まらなくなったという。
ショーケンが俳優としての活動が中心となりPYGを抜け、ジュリーはソロ歌手となり、残りのメンバーは井上堯之バンドとなり、当初はジュリーのバックとして活動していく。個人的にもPYGとしての映像は見たことがない。
さて、ショーケンだが当初は役者ではなく監督業を目指したという。その過程で71年に数本の映画にチョイ役で出演したのが、役者としての始まりである。この頃に脚本家の市川森一と知り合い「刑事くん」にもゲスト出演している。
初の本格的出演作となったのが「約束」(72年)である。ショーケンは当初、この映画には助監督として参加していたのだという。主演男優は中山仁だったが、女優がなかなか決まらなかったのである。岩下志麻、岡田茉莉子、倍賞千恵子はダメになり、OKだった中尾ミエはイメージに合わないと監督(斉藤耕一)がダメだし。そのうち中山仁のスケジュールが合わなくなり降板を余儀なくされる(他の役で出演)。
ここで、ショーケンが思い浮かべたのがパリにいた岸惠子。ダメもとで台本を送ると意外にもOKの返事。しかし、相手役の顔写真を送ってほしいとのことだったので、監督が「ダメ元でお前の写真を送っておけ」という運びになった。
岸惠子とショーケンは直接会うことになり、結果岸がOKを出し、やっと主演岸惠子、萩原健一が決定したのであった。ちなみに当時、岸は40歳、ショーケンは21歳であった。
本作には、あの三國連太郎も刑事役で出演。三國がショーケンを取り押さえるシーンでは「手加減せずに殴るから、許してね」と伝えられていたという。こういう三國のやり方にショーケンは共感したという。
萩原健一、テンプターズにてデビューする
まあ、ショーケンのスタートといえば、ご存知のとおりテンプターズである。スパイダースやタイガースはメンバー全員の名前を言える人も多いかもしれないが、テンプターズはショーケン以外は、俳優になった大口広司、あとは松崎由治がわかるかどうかという感じではないだろうか。それもそのはずで、ショーケンと大口以外は解散後まもなく芸能界を去っているからである。その残る二人、田中俊夫と高久昇らが結成してスタートし、まもなく田中の幼馴染だった松崎が加わる。
そして65年、あるパーティでその日はボーカル不在だったテンプターズに飛び入りのような形でまだ中学生だったショーケンがボーカルを務めたのをきっかけに正メンバーとなる。多少の入れ替えはあったようだが、最後に大口が加わり、デビューメンバーの五人となっている。
彼らの前にはスカウトも現れ、最初は話の合ったホリプロに入ろうかという雰囲気だったのが、そこにスパイダースのリーダーである田辺昭知が登場する。「メンバーを集めて、早く演奏しろ」と偉そうな態度だったという。
しかし、その後はメンバーを高級中華に連れて行ったり、帰りには「おまえらクルマで帰れよ」と万札を渡したりと、メンバーは田辺の術中にまんまとはまり(ショーケンは反対したらしいが)、田辺が代表のスパイダクションからのデビューとなったのである。
実はテンプターズのリードボーカルは全てショーケンだと思っていたのだが、デビュー曲の「忘れ得ぬ君」からして違う。作詞作曲の松崎が歌っているのである。よく聞くとわかるのだが、歌い方や声がショーケンに似ているので気が付かなかったのである。松崎ボーカルの特徴は「泣きながら歌う」ことである。何故、ショーケンが歌わなかったのかと言えば、「イヤだったから」だそうである。デビューの時のヒラヒラのついた衣装がとにかくイヤだったので、歌うのもイヤになったのだという。そして「♪オーママママ」で始まる「あかあさん」も松崎のリードボーカルである。これも。ロックバンドが「ママ、ママとかカッコ悪い」と歌わなかったのだという。要するに、自分が気に入らないものは歌わなかったのである。こうしたワガママな部分は役者になってからさらに顕著になっていく。
そんなわけで、ショーケンは「デビューしたその日からイヤで、テンプターズは1日も早く解散させたかった」と著書で語っている。
渥美プロと八つ墓村
主演は渥美自身だが、監督は社会派の巨匠と言われる今井正であった。内容は戦地で生き残った渥美が、12通の戦友たちの遺書をその家族(関係者)に配達するという話なので、2時間足らずの中に12のエピソードが語られることになる。
他の出演者は小川真由美、市原悦子、香山美子、財津一郎、長門裕之、田中邦衛、吉田日出子、大滝秀治、加藤嘉、新克利、志垣太郎、悠木千帆(樹木希林)そして倍賞千恵子など。
山田洋次と違い今井正はアドリブなど認めず、渥美との間にトラブルがあったと言われる。要するに合わなかったようで、工業的にも失敗に終わり、渥美プロはこれ1本で終わった。結局、寅さん以外ではヒットしないことを強めてしまう結果となったが、77年思わぬヒット作が生まれる。横溝正史の「八つ墓村」である。「八つ墓村のたたりじゃ~」のCM効果もあってか興行的には成功する。渥美は主役の探偵金田一耕助を同時期に東宝で金田一を演じた石坂浩二とは全く違うイメージで演じている。
角川春樹が制作した「犬神家の一族」(76年)のヒットを受けた後追い企画のように思えるが、実は角川が最初に契約したのは松竹だったのである。75年には「八つ墓村」の企画はスタートしていたのだが、製作が大幅に遅れ、角川が松竹経営陣と対立したりで退き、自主制作で角川が先に「犬神家」をヒットさせてしまったのである。二作目以降は東宝で制作され、石坂金田一のイメージが定着していく。
東宝がシリーズ化権を握ったため、松竹では二作目の渥美金田一を作ることができなかったのである。これ以降渥美は「男はつらいよ」にほぼ専念していくことになる。
「八つ墓村」の共演者は萩原健一、小川真由美、山崎努、夏八木勲、山本陽子などで、佐藤蛾次郎がノンクレジットで落武者を演じている。共演の萩原は本作を「おかしな映画」と評しており、萩原が演出のおかしな部分を渥美に言うと「最初から変なんだよ、俺が金田一なんだから」と返し、「俺はみんな寅さんだから」と呟いていたという。
芸人ベストテン(1964年)
芸人をあれこれあげつらって、採点表をつける企画で、匿名座談会方式で行われた。小林信彦によれば参加者は演劇評論家の尾崎宏次と大木豊、読売新聞の芸能記者・谷村錦一そして小林の四人だったという。小林は当時32歳だったが、他の三人は自分の父親とまでは言わないまでも叔父くらいの年齢だったというので、まあ大ざっぱにいえば50前後というところだったようである。それだけにトップに選ばれたのは榎本健一で、以下フランキー堺、森繁久弥、藤山寛美…そして曾我廼家五郎(故人)というような具合だったという。
終わり際に小林が「渥美清は入らないのですか?」と聞くと、「あんな者は芸人とはいえない」「森繁の悪いとこばかりマネしている」など罵声が返ってきたという。実はこの企画、前回触れた渥美バッシング、すなわち<看板事件>の最中に行われたものであり、頗る渥美の印象が悪いときだったのである。
エノケンを一位にするような人たちに何を言っても仕方ないと小林が廊下に出たところ、座談会担当の記者(村田耕二)に呼び止められた。「あの座談会は偏向してるように思います」と言うのである。
小林の感覚では、エノケンは当時でも既に古い存在であった。しかもこの頃は、脱疽の悪化で右足を大腿部から切断し、義足の状態だったのである。
村田記者は「渥美清が十位にも入らないのはおかしい」と主張し、小林に「ベストテンを作り直すのを手伝ってください」と言い出し、二人でベストテンを作り変えてしまったのである。その結果が、基本は座談会と一緒で、一位から榎本健一、フランキー堺、森繁久弥、藤山寛美、ハナ肇とクレージーキャッツ、益田喜頓、伴淳三郎、そして八位に渥美清を入れ、三木のり平、ミヤコ蝶々までがベストテンで、別格扱いとして小沢昭一、曾我廼家五郎ということになったのである。
要するに故人である曾我廼家五郎を外して渥美清を入れたのであろう。曾我廼家五郎という人について、自分は正直全く知らなかったのだが、調べると48年に亡くなっており、曾我廼家一門の祖といえる人なのがわかった。基本的にはこの五郎と相方だった十郎の弟子(弟子の弟子)が曾我廼家一門であるようだ。
「曾我廼家」といえば個人的には曾我廼家一二三だった。「時間ですよ」に交番の巡査役で出ていたのを見ていたからである。ちなみに今は曾我廼家五九郎(三代目)を襲名したらしく、今の一二三は二代目ということになるようだ。
五郎の死が「松竹新喜劇」誕生のきっかけになったということなので、新喜劇には曾我廼家とつく人が大勢出ている(出ていた)ようだが、関西人でない自分にはほとんど馴染みがなかったりするのである。
渥美清バッシング
「おかしな奴」(63年)は、いつもの松竹ではなく東映の製作である。終戦直後に爆発的人気を得ていた落語家・三遊亭歌笑(三代目)の伝記だが、その歌笑を演じるのが渥美である。実物は極度の斜視で、エラの張った顔が特徴だが、顔の形は渥美に似ているといえる。人気絶頂の50年、銀座で道路を横切ろうとして米軍のジープに跳ねられ死亡。32歳の若さであった。現在の四代目は彼の実の甥で、叔父の突然の死に「自分が遺志を継がねば」と入門したという。
三遊亭金楽はやはり似ているという石山健二郎が演じ、ライバル役は本物の落語家である春風亭柳朝が演じた。他の出演者は三田佳子、南田洋子、佐藤慶、田中邦衛など。
本作について渥美本人の評価は「アラビアのロレンス」みたいな歌笑だろと小林信彦に洩らしている。つまり、スーパースター過ぎるということだったようだ。
「拝啓シリーズ」の第3弾は「拝啓総理大臣様」(64年)で、前2作はヒットしたが、これはコケた。芸人の世界を描いており、渥美の相方を演じるのは壺井文子という黒人とのハーフである。映画はこれ1作のようで、その素性や出演の経緯やらは不明である。ちなみにタイトルは長門裕之と横山道代が演じる夫婦漫才師のネタのことで、渥美が口にするわけではない。タイトルを揃えたいので、無理に加えた感が強い。他の出演者は山本圭、原智佐子などで、本物としては島ひろし、ミス・ワカサが顔を出している。
テレビの方に目を向けると「四重奏」(64年)に主演。渥美(チェロ)とジェリー藤尾(第二ヴァイオリン)、小池朝雄(ヴィオラ)、杉浦直樹(第一ヴァイオリン)で結成されている弦楽四重奏団が銀行の地下金庫から大金を盗みだそうとしているという設定である。面白そうな設定ではあるが、好評だった「男嫌い」の後番組だったことが、仇となってか視聴率は振るわなかったようである。
以上のように出演作がことごとく不調だったこともあり、ブームは一気に冷め、逆にバッシングの機会が訪れることになった。
思いあがっていると非難を浴びたのが東宝舞台公演の「看板事件」である。渥美も出演予定だったのだが、松本幸四郎、山本富士子と名前の大きさが同じでなければ嫌だといって、降板したという事件である。渥美の所属していた蜂の巣プロが「三枚看板」に固執したため、東宝側が降りてもらったというもの。渥美本人とは話していないとうので、週刊誌が取材を求めると本人はノーコメントを貫いたという。
落ち着いたところで、小林が渥美に聞いたところ多くを語らなかったが、渥美本人はそんな要求をしていなかったとのこと。つまり事務所側のミスなのだが、自分の事務所のミスだと言うわけにもいかないので黙っていたというのが真相だろう、というように小林は解釈している。
第一次渥美清ブーム
その第一次ブームのきっかけとなったのはテレビドラマ「大番」(62年)である。加東大介が主人公の丑之助を演じてシリーズ化された映画版(57~58年)も有名だが、テレビ版は渥美が丑之助を演じて好評を博した。共演は水谷良重、森光子、八千草薫、西村晃など。
この「大番」がスタートした直後には、初の渥美清主演映画「あいつばかりが何故もてる」(62年)が公開されている。しかし。この映画は評判がよろしくない。渥美自身が小林に「観て、貶してよ。意見があると思うよ」と言っていたくらいで、本人も気に入ってはいなかったようだ。
マドンナ役は倍賞千恵子。なので寅さん好きが後からこの作品を見たら違和感を感じるかもしれない。本作で彼女と結ばれるのは新東宝のスター候補だった松原緑郎である。新東宝倒産後に松竹に移籍したのはハンサムタワーズの四人だけではなく、松原もその一人である。まもなく松原浩二と名を変え、「特別機動捜査隊」に登場した時は松原光二になっていた。ちなみに、この作品は二本立てで公開され、メインは小津安二郎の遺作となった「秋刀魚の味」であった。
続いて「つむじ風」(63年)でも主演を得る。共演は渥美が嫌っていたという伴淳三郎、どこが面白いかわからないと言っていた藤田まことである。ここで渥美は富士真奈美と結ばれる役で川津祐介と加賀まりこもカップルになる役である。
小林の当時の批評は第1作が「論外」なら第2作は「失敗作」であるとバッサリである。
しかし、主演第3作目となる「拝啓天皇陛下様」(63年)は好評得てヒット作となり、第一次渥美清ブームがここで頂点に達したという。共演は長門裕之、左幸子、中村メイコ、森川信、加藤嘉、西村晃、そして渥美が個人的にファンであったという藤山寛美などである。他にもこの作品には「裸の大将」で有名な画家・山下清(本物)が数秒間だけだが出演しているのである。そしてタイトルにもある天皇陛下=昭和天皇を作曲家・浜口庫之助が演じているが、確かにイメージはぴったりな気がする。
好評を受けて、翌64年には「続・拝啓天皇陛下様」が製作された。ここでも藤山寛美と共演を果たす。他にも久我美子、宮城まり子、小沢昭一、南田洋子などで、佐田啓二、岩下志麻が特別出演扱いで登場する。
渥美清と伴淳三郎
「おかしな男 渥美清」の著者である小林信彦もそんな中の一人であったが、当初は渥美がそういう人間だとは知らなかったらしい。61年当時は二人とも表参道に住んでおり、何度か渥美のアパートで話すこともあったようだ。
そこで出たのが伴淳三郎の話題。同じ事務所で共演することも多かった二人だが、渥美は伴淳のことを嫌っていたようである。
伴淳は戦前から活躍するベテランだが、人気が出始めたのは40代半ばを過ぎた53年あたりからで、山形出身でありながら、当時は何故か関西喜劇人協会の会長を務めていた。
渥美が言うには、こういう仕事をしている人間はどこかアブノーマルだが、伴淳のアブノーマルには政治が絡んでいるとのことである。
戦前、新興キネマ演芸部が吉本興業の人気者の大量引き抜きを実行した時、永田雅一(当時は新興キネマ所長)の片腕として暗躍したのが伴淳だったという。
田山力哉によれば、伴淳は劣等感の塊りで「駅前シリーズ」で共演していた森繁久弥やフランキー堺に対抗意識を燃やしていたという。また、共演した若手女優・生田悦子の人気が面白くなくて、イビったというエピソードもある。それは、渥美にも向けられていたのである。
たとえば、渥美に向かって「俺を古いと思っているんだろ。嗤いなよ」と言ってみたり、渥美が忙しくて遅れて現場に到着すると、伴淳は深々と頭を下げて「渥美先生、お早うございます」と言ってみたりしていたらしい。こういった行為は渥美に脅威を感じていたからこそであろうが。
そして、渥美がもう一人嫌っていた人物がハナ肇である。ハナも単独で松竹作品に出演することがあり、「第二の伴淳三郎になる」と警戒していたのである。一方のハナも渥美には反感を抱いていたようだ。渥美がたまに使うインテリっぽい言葉が気に食わないらしい。
他にも渥美は、藤田まことについては「何が面白いのかわからない」と評し、時代は少し後になるがコント55号に関しては、「将来役者として立っていくのは坂上二郎だな」というような「予言」をしており、それは結果として当たっていたわけである。
渥美清を辿る
経緯は不明だが、浅草の百万弗劇場に現れたのは51年のことだったという。そこで会った海野かつをに希望を話すと「見込み無し」と言われたという。
浅草フランス座に入ったのは53年のことで、そこで関敬六、谷幹一と出会っている。二人の給料が七千円だった時代に、何故か渥美は倍以上の一万五千円だったそうである。
しかし、渥美は翌54年に結核になり入院。右肺の摘出手術を受け約2年に渡る療養生活を送ることになる。
56年に復帰したが、酒や煙草はきっぱりとやめている。
テレビ出演に関して動いたのは関敬六で、フランキー堺一家が出演している「わが輩ははなばな氏」のプロデューサーに取り入ってクズ屋の役をもらい、復帰した渥美を売り込んで、「図々しい居候」の役をもらったのだった。
58年になると「ポケット・コント」という番組を渥美、関、谷の三人で任されることになり、番組名に合わせてトリオ名が<スリー・ポケッツ>となったのである。そこから「お笑いアンデパンダン」という土曜昼の番組にも起用されることになる。しかし、その三回目が終わると渥美は突然「おれ抜けるよ」言い出したのである。「三人そろって動くのはとても出来ない、一人にさせてくれ」というのだが、どうやら片肺になってしまったことも関係していたらしい。元々一匹狼志向だったようだが、基本的に体を張ったドタバタをやらなかったのもそれ(片肺)が原因だったようだ。この時、渥美は二人に対し「死ぬまで一緒だ」「生涯の友達でいよう」などと臭いセリフを連発したらしい。
こうして渥美が抜けて、代わりに加わったのがかつて渥美に「見込み無し」と言い放った海野かつをだったというのも何かの因縁であろうか。しかし、その海野は74年に新栄電機のCMに起用されたのを縁に、同社の社員となり芸能界を去ったのである。
しかし、関敬六が翌59年にテレビで目撃したのは、渥美が、平凡太郎、谷村昌彦と組んでコントをやっている姿であった。しかも名前は<ボケナス・トリオ>。怒った関が電話をかけると渥美は「たまたま番組の上で組んでいるだけで、番組が終わったら解散するんだ」と言い訳をしたのであった。
実は58年に日劇ミュージックホールで、渥美、平、谷村の三人でコントを演じたことがあったのである。トリオはいやだといいながらトリオを組んだりするという、売れる前で混乱した時期のエピソードである。