ザ・ガードマン
宇津井健といえば、自分的には「スーパージャイアンツ」では古すぎるし、「赤いシリーズ」はあまり見ていないし、やはり「ザ・ガードマン」(65~71年)ということになる。
以前、ここでも取り上げたし、また同じことを書くかもしれないが、その辺は大目に見ていただきたい。
地元では、午後3時から再放送されていたのを見ていたのだが、おそらくカラー化されてからのもの。全350話だが、約半分はモノクロなので、大半は近年のCS放送で初めて見たのだと思う。
スタート時のタイトルは「東京警備指令ザ・ガードマン」であり、OPにも役者の名前が出ており、その順番と当時の年齢を並べると、高倉キャップ=宇津井健(当時34歳)、清水=藤巻潤(当時29歳)、荒木=川津祐介(当時30歳)、吉田=稲葉義男(当時45歳)、杉井=倉石功(当時21歳)、小森=中条静夫(当時39歳)、そして三原チーフ=清水将夫(当時56歳)である。そう、初期は高倉キャップの上に三原チーフという上司が存在していたのだが、確か4回ほどしか登場しなかったはずである。そして、第2話から登場するのが榊警部=神山繁(当時36歳)である。高倉が警視庁にいた時の友人でもあり、彼がガードマンに加わるのは第45話からで、おなじみの7人となるのである。初期の東京パトロールには、メインメンバー以外の姿(杉田康など)も見られた。
当時、宇津井、藤巻は大映映画のスターだったが、中条はほぼ大部屋役者で当初眼鏡はかけていなかった。倉石はミスター平凡グランプリの肩書きをもつスター候補の若手であった。以上の4人は大映の役者だが、川津は松竹で活躍した主演スターで、稲葉は「七人の侍」が有名で、神山は日活への出演が多かった。
高倉と榊、清水と荒木は劇中ではお互いがタメ口だが、藤巻と川津は実年齢でも同学年である。このコンビは藤岡弘主演の「白い牙」(74年)にもそろって出演する。初期のころは明らかに最年少の杉井が、清水や荒木に向かって「君たち」などと言うこともあった。
宇津井は全話に出演し、中条、藤巻、稲葉、倉石もほとんどの回に顔を出している(中条も全話に出ているかもしれない)。対して川津、神山は欠席が多い。特に川津は番組開始後まもなく自身が主演の「スパイキャッチャーJ3」(65年)がスタートするなど売れっ子であった。加えて、後に自著で「ザ・G」という番組(明らかにザ・ガードマン)で、大怪我を負い、長い間動けなかったと告白している。元々欠席が多かったことも幸いしたのか、当時はバレなかったようである。もっとも、番組末期では元気な姿を見せてはいたけれども。
全員が人気者となったが、一番「出世」したのは大映映画ではずっと脇役だった中条静夫ではないだろうか。宇津井健も映画スターからテレビスターへと自然に変わっていったのである。
第一次頂上作戦
その大きな特徴は、首領・幹部クラスの集中検挙であるということと同時に、違法・合法形態に関わりなく組の資金源を潰して組そのものを解体に追い込むという取締りであった点だ。「資金源潰し」と称して、警察がまず目をつけたのが歌謡ショーとプロレスなど、組関係者の手による各種興行であった。そのターゲットとして真っ先にその矛先に向けられたのが、神戸芸能社であったのはいうまでもない。
警視庁捜査二課は、この1~2年の間で著名芸能人がハワイで入手した拳銃を組関係者に譲渡する事件が相次いだことに触れて、芸能人と興行関係者に対して、暴力団との腐れ縁を断つように警告した。神戸芸能社とつながりのあった山城新伍や里見浩太郎などがこういった事件を起こしていた。
これを受けて、日本映画俳優協会代表理事の池部良が暴力否定声明文を読み上げた。続いて俳優団体連絡会加盟の6団体も暴力団との完全絶縁を表明し、日本歌手協会、日本映画製作者連盟、芸術議員連盟などもそれに続いた。そして、映画館主の団体である全興連が映画館から暴力団を締め出すことを決議した。
以後、組関係の興行は公共施設から徹底的に締め出され、その格好にスケープゴートにされたのは美空ひばりであった。ひばりは神戸芸能社に所属しているという理由で、次第に公共施設で歌えなくなっていく。ひばりばかりか、神戸芸能社の手による芸能人の興行は根こそぎうてなくなり、プロレス興行にしても同様で、神戸芸能社は追い詰められ、その屋台骨はたちまち弱体化し、見る間に凋落の一途をたどっていく。
そんななか田岡一雄は病に倒れ、危篤状態にあったとき、兵庫県警は「山口組壊滅作戦」の看板を掲げるに至ったのである。
カタギであるはずの神戸芸能社5人の社員の名前は兵庫県警のブラックリストに載せられ、組員さながらの扱いを受けるようになったのである。神戸芸能社の名前ではもう仕事ができないと、専務の山沖一雄は若手の2人には松竹関西支社の嘱託の口を紹介し、最年少社員だった池上誠にも別の看板で独立することをすすめ、池上は芸能プロダクション池上事務所を設立したのである。ちなみに池上はベンチャーズ・ナンバーの「京都の恋」や「京都慕情」を歌って大ヒットを飛ばした渚ゆう子を世に出した人物でもある。
神戸芸能社が表立った活動を停止したことで、兵庫県警は池上事務所を隠れ蓑にしているんだと疑いの目を向け、1年以上にわたり池上事務所を内偵したという。
こうして、暴力団と芸能界の蜜月の時代は(表向き)終焉を迎え、あってはならない黒い交際といわれる時代になっていったのである。
力道山死す
日本プロレス協会が発足したのは53年だが、プロレスに対する世間の関心はまだ低かった。日新プロ社長の永田貞雄と力道山が田岡のもとを訪ねてきたのはその直後であった。力道山は渡米して全米ナンバーワンの人気レスラーであるシャープ兄弟を日本に呼ぶという計画を田岡に打ちあけたのであった。田岡はプロレス興行に何の実績もないのでは無理だろうと思っていたのだが、力道山はシャープ兄弟の日本招聘を成功させたのであった。
54年、蔵前国技館で行われたシャープ兄弟VS力道山・木村政彦をメーンエベントととする日本プロレスの第1回興行は初日から爆発的な人気を呼んだ。この試合は開局まもないテレビ中継もされ、プロレスブームの火付け役となった。このプロレスというものに対して、早くから注目していた田岡の興行師としての勘もさすがであった。
58年には田岡は推されて日本プロレス協会の副会長となり、歌手や俳優ばかりでなく、西日本におけるプロレスの興行権まで握ったのである。
力道山は相手がヤクザであれ、五分にものを言うような強気の男であったが、相手が田岡となると神妙になったという。田岡が力道山を高く買っていたのは、そのプロモーターとしての手腕に対してであった。57年には世界最強と言われていたルー・テーズとの世界選手権試合を実現させてもいる。
また、力道山はショー・ビジネスのプロモーターとしても、その眼力と手腕は飛びぬけていた。ミュージシャンのアール・グランドを来日させ、赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」でのショーを実現させたのは力道山だったという。
ただ、力道山は酒癖が非常に悪く、それが命を失う原因にもなってしまうのである。
62年12月、ニューラテンクォーターに来店した力道山は既に泥酔状態だったという。力道山は洗面所でヤクザの一人と鉢合わせし、因縁をつけたのである。口論となり、力道山は男を殴りつけ馬乗りになった。男は所持していたナイフを引き抜いてもがいているうちに、のしかかってきた力道山の左腹部に突き刺さったという。男は逃走し、力道山は何事もなかったかのように自力で戻ると、ステージに上がってマイクをつかみ「みなさん気をつけて下さい、この店には殺し屋がいます」と喚いた。
病院からは全治2週間と発表され、見舞いに訪れた友人、知人にも元気な顔を見せていたのだが、事件から1週間後に容態が急変し、腸閉塞症を起こし、数時間後には帰らぬ人なったのである。享年39、あまりにあっけない国民的ヒーローの死であった。
旭とひばりの理解離婚
そのわずか2日前に旭のもとを田岡が訪れた。離婚したいというひばり母子の意を受け、説得するためであった。「日本のひばりなんだから、世間の人に返してやれや。お前一人のものにはできないんだよ」と突然言われたのである。
結婚のときも、当人同士が話し合うこともなく、田岡がいきなり訪れ「結婚してやれや」だったのが、今回も当人同士が一度も話し合うことなく「別れてやれや」である。小林旭にとっては、いい迷惑であり、踏んだりけったりである。神戸芸能社の社長というより、山口組三代目という顔に負けたのであろうか。
小林旭は離婚会見でこう述べている。「本人同士が話し合いもしないで別れるということには心残りでいっぱいだが、和枝(ひばり)が<芸術>と結婚した方が幸せになれるのなら、と思って理解離婚に踏み切ったわけです」。
理解離婚とは、仲人役が間に入り、お互いが理解し納得し合って別れたという意味だそうである。田岡と菱和プロ社長の嘉山が事前に打ち合わせを行い、苦し紛れに作った新語であった。しかし、実際のところ旭のほうは、あまり納得はしていなかったようである。
その直後に行われた、ひばりの会見にも田岡は同席している。「夫婦のことは傍の人に、どう説明してもわかってもらえないのではないでしょうか」とひばりは、細かい経緯を語ろうとはしなかった。これも小林旭にしてみれば、何故離婚に至ったのかわからないわけで、しかも実際には入籍されていなかった事実婚であることも発覚し、本当にひばり母子や田岡に振り回される二年だったわけである。
ひばりとの交際が始まる前は、小林旭は浅丘ルリ子と同棲していたというが、本当にそれが解消されていたのかどうか勝手に気になったりしているのである。
ところで、前回話に出た高倉健・江利チエミの夫婦関係は12年間続いており、印象よりも長いと思われる人も多いのではないだろうか。ちなみに、高倉は「山口組三代目」(73年)、「三代目襲名」(74年)で、主人公となる田岡を演じている。
いずれにしろ、大スターの離婚会見にやくざ組織の組長が同席するなど、今では考えられない出来事であろう。当時はそれが普通だったということである。
地上最大の結婚式
同社のドル箱は言うまでもなく美空ひばりであった。ひばりファミリーの扱いが関係者にとって厄介とされていたのは、母である喜美枝に起因していた。喜美枝の頑固さは徹底しており、ときとして田岡でさえ手に負いかねることがあったという。新芸プロの社長である福島通人がニッポン放送側に出演を承諾したのに、喜美枝が土壇場で出さないと言い出したことがあったという。困り果てた福島が田岡に泣きつき、説得してもらったこともあったりした。
58年には、ひばりは新芸プロを出て、新たに「ひばりプロ」を設立し、会長に田岡一雄、社長に美空ひばり、副社長の加藤喜美枝、取締役に神戸芸能社の専務・山沖一雄が座り、これで神戸芸能社はひばりの興行権を独占することになったのである。
そんなひばりと小林旭が出会ったのは女性雑誌が企画した対談の場であった。それからすぐに二人の交際は始まるのだが、そんなとき、旭のもとに田岡が訪れた。要するに「ひばりと一緒になれ」という説得のためだったのである。まだ結婚など早いと思っていた旭も「わかりましたが、少しだけ時間をください」と答えるしかなかったという。しかし、田岡の強引ともいえる押しもあって、旭が落ちるまでにはそう時間はかからなかった。こう書くと、旭は無理やり結婚させられたみたいだが、決してそういうわけではなかったようである。62年11月に行われた二人の結婚式は「地上最大の結婚式」と謳われた。
二人が新婚まもないころ、旭・ひばり夫妻と高倉健・江利チエミ夫妻、そして田岡が顔を揃えたことがあったという。
高倉健は旭の腕時計を「いい時計ですね」と誉めたところ、旭は「差し上げますよ」と時計を外したのである。当然、高倉健は断るのだが、旭の方も「恥をかかせないで下さい」と譲らない。ちなみに、この当時は旭の方がスターとしての格は上であった。険悪なムードになりつつあったとき、田岡が割って入り、「健さん、もらっとき。旭にはワイのをやるから」と旭に当時でも100万円以上するようなダイヤが60個もちりばめられた時計を差し出し、その場は見事に収まったのである。
スクリーンで共演することはなかった(はずの)二人だが、こんなところで火花を散らしていたのである。
美空ひばり塩酸事件
ひばりと田岡の出会いは48年、ひばりがまだ11歳のときである。中村錦之助の項でも登場した福島通人が、ひばりと母の喜美枝を連れ、田岡邸に挨拶に訪れたのである。
そこで、ひばりは自分の師匠として、父と川田晴久の名を上げた。戦前は川田義雄の名であきれたぼういずを、益田喜頓、坊屋三郎、芝利英ともに結成し、人気を得たが、川田以外の三人は吉本興行から引き抜かれ、残った川田は川田義雄とミルクブラザースを結成する。しかし、脊椎カリエスという重病を患い車椅子生活を余儀なくされる。吉本興業は川田を冷遇するようになり、田岡が山口組興行部に引き取ったという経緯もあった。
ちなみに。あきれたぼういずの他のメンバーだが、益田と坊屋は長生きしたので知っている人も多いと思われるが、芝利英(坊屋の実弟)は若くして戦死、川田の代わりに参加した山茶花究は黒澤映画などでの俳優としても活躍した。
山口組興行部は57年に神戸芸能社と名称を変え、株式会社としてスタートした。たちどころに当時の十大歌手とも目されるトップクラスの歌手10人を押さえられる実力の程を見せつけたのである。
そんな中で起こったのが「美空ひばり塩酸事件」である。東京浅草劇場での公演中、最前列にいた19歳の女性客が舞台に駆け上がり、ひばりに塩酸を浴びせたのである。犯人の少女はひばりの大ファンだったのだが、「みじめな私に比べ、ちやほやされている憎くてたまらなくなりました」という屈折したファン心理のなす犯行だったのである。
幸いひばりは軽症で済んだのだが、田岡は「守ってやれなかった」自責の念の駆られていた。この事件以降、田岡はもとより山口組の若い衆がひばりを厳重にカードするようになったのである。田岡とひばりファミリーの繋がりは、より深まっていったのである。
鶴田浩二襲撃事件
神戸芸能社といえば、山口組の三代目である田岡一雄が社長だったことで知られる興行会社だが、その実態や田岡の人物像について詳しくは知らなかった。結論から言えば、その裏の肩書きが不思議であるくらい、できた人物だったようである。カタギの人間には基本的には低姿勢であり、常に敬語であったという。
神戸芸能社には5人の社員がいたが、全員ヤクザ渡世とは縁のない(もちろん顔見知りは多かったが)カタギのメンバーばかりだったという。
戦後、起こった色々な事件についても触れられており、まず53年の「鶴田浩二襲撃事件」。以前等ブログでも、水の江滝子のことを取り上げたときに登場した新生プロには、鶴田、水の江が所属しており、そのマネージャーが兼松廉吉であった。
ことの起こりは鶴田の大阪劇場公演にあたって、兼松が田岡の元に挨拶に訪れた際に金包みを渡そうとしたことである。田岡は受け取りを拒否したが、その話を聞いた当時は若衆に過ぎなかった山健こと山本健一が「鶴田に制裁を加えてやろう」と、兼松本人ではなく鶴田襲撃を決意したのである。それ以前にも、田岡と兼松が顔を合わせた際、「神戸芸能で興行をうってみないか」という田岡の申し出を兼松が「むこう1年、鶴田のスケジュールはいっぱいです」とはねつけたことも伏線になっていたのである。
事前に調べてあった旅館に、山健ら4人が訪れたとき、鶴田は共演者のターキーや高峰三枝子と食事の最中であった。山健はウイスキーの瓶、他はレンガを手に鶴田の襲いかかった。鶴田は顔をかばったので、後頭部や手に11針を縫う傷を負った。
約50日後に山健らは逮捕されたが、当時神戸芸能社にいた西本も共犯容疑で逮捕され、この事件は田岡の命令だったと自供したのである。実際は山健らが独断で行ったことだったのだが、田岡も2週間ほど拘留されることになる。
しかし、この事件は「神戸芸能社を通さない限り、大阪から西では興行ができない」といった恐怖イメージを芸能界や興行界に植えつける結果となったのである。田岡が仕組んだことではなく、結果としてそうなったのである。
後日、田岡と鶴田・兼松の間で食事の席が設けられ、田岡と鶴田の親交は逆に深まっていったという。
この頃になると神戸芸能社の名は全国的に知れ渡り、数多くの芸能人をその影響下におくようになっていたが、とりわけ田岡と強く結ばれていたのが、当時まだ10代だった美空ひばりである。
乗っていたのは27人=死人狩り
バス転落事故で乗客27人は全員死亡するが、調査の結果この事故は27人のうちの誰か1人を殺すために仕組まれた計画的大量殺人であったことが判明する。
犠牲者の中には高松英郎扮する浦上刑事の妻子が含まれており、犯人にたどり着くには犠牲者を一人ずつ洗っていくしかないと、浦上と同僚刑事たちの執念の捜査が行われる、といったお話である。犠牲者たちのエピソードが半年にわたって続くわけである。その中には、運転手と乗客がカップルだったり、高校生が大金を持っていたり、不倫カップルの心中旅行だったり、というような人間模様が繰り広げられていたようだ。
他の出演者は高原駿雄(伊集院刑事)、池田駿介(南村刑事)、伊沢一郎(淵上捜査主任)、安部徹(丹下捜査係長)らが浦上の同僚で、鳳八千代(浦上の妻)、磯村みどり(浦上の妻の妹)、佐竹明夫(小谷運転手)らの他に、宮園純子、福田公子、睦五郎、小沢重雄など。
この話は笹沢佐保の「死人狩り」を原作としているが、その「死人狩り」をタイトルに放送されたのが78年。「乗っていたのは27人」は半年かけての放送だったが、こちらの方はゴールデンドラマシリーズ全5話という短さであった。犠牲者のエピソードはいくらでも短縮できるので、5話でも十分成り立つとは思う。
こちらで主人公浦上刑事を演じるのが萩原健一である。高松英郎に比べれば、随分と若くなったイメージだが、高松は当時35歳、ショーケンは28歳ということで意外と差はない。
他の出演者については、浦上の妻役が丘みつ子ということ以外は役柄はよくわからないが、宇都宮雅代、常田富士男、岡田英次、そして山崎努、中村嘉津雄の「新・必殺仕置人」コンビなどが出演していた。ネタバレになるが、再放送などはまずされないと思うので、ズバリ犯人役は宇都宮雅代だったらしい。その動機だの誰が本当のターゲットだったかなどは、原作がどうなのかは知らないが、当時も見ていないので不明である。ただショーケンの「あんたは自分の復讐を遂げるために26人の<自分>を生んだんだ」とかいう言葉に、宇都宮は崖から飛び降りてしまうらしい。主題歌は柳ジョージとレイニーウッドの「雨に泣いてる」。この歌自体は結構有名だと思うが、このドラマの主題歌だったことを知っている人はあまりいないのではないだろうか。あまり、このドラマのイメージにはあっていない気もするけれども。
ところで「乗っていたのは27人」の方は、犯人役は誰だったのであろうか。同じ若い女でわかっている出演者で照らし合わせると宮園純子あたりになるがどうだろうか。
勝海舟→新宿さすらい節→傷だらけの天使
まずはNHK大河ドラマ「勝海舟」。主演の渡哲也が病気で降板して松方弘樹に交代したり、脚本の倉本聰が演出サイドと対立して降板したりと、何かと話題の多いドラマだったのだが、ショーケンは「人斬り以蔵」として有名な岡田以蔵役で22話~30話にかけて出演している。30話のタイトルが「以蔵無惨」であり、7月28日の放送であった。
7月11日からに被さるようにスタートしたのが「新宿さすらい節」というTBS系の金曜ドラマである。内容でわかっているのは、若き特ダネ記者の通称ザジ(萩原健一)が兄と慕っていた記者(岩下浩)の変死をきっかけに裏社会の事件に深入りし、凶弾に倒れるまでを描いた物語ということだけである。再放送も全くされていないらしく、幻のドラマの1つであるといえる。著書「ショーケン」でも一言も触れられていない。74年でもしVTR撮影なら消されて映像が存在していない可能性もある。
中野良子はショーケンの恋人役らしいが、二谷英明、星由里子、緑魔子、小坂一也、渡辺文雄、高津住男、下川辰平、荒砂ゆき、寺田農、岡田英次らの配役は不明だ。二谷は恐らくショーケンの上司(編集長とかデスクとか)ではないだろうか。星は「風の中のあいつ」ではショーケンの姉役だった。このドラマは1クールで10月11日に終了している。
そして10月5日から被さるようにスタートしたのが「傷だらけの天使」である。つまり11日に「新宿さすらい節」が終了し、翌12日は「傷だらけの天使」の第2話が放送されている。この回のゲストは緑魔子だったので、2日連続でショーケンと共に登場したことになる。
「傷だらけの天使」は、ある意味有名すぎて目新しい情報などないが、当初ショーケン演じる修の相棒・亨役には火野正平が予定されていたということだ。しかし、火野も売れ始めて無理となり、湯原昌幸なんかも候補にあがったというが、「何か違う」ということになり、そこでショーケンが推薦したのが水谷豊であった。当時は引退も考えていたという水谷だが、これをきっかけに売れっ子となっていく。もし、火野だったらどうなっていたのだろうか。
ゲストに目を向けてみると第1話に今話題のまだ子役だった坂上忍、そして「バンパイヤ」で水谷と共演していた桐生かほるがチョイ役で。9話に志麻みずえ、10話に小松政夫、19話に大口広司、23話に下條アトム、24話に前田吟、最終話に下川辰平と「風の中のあいつ」に出演していたメンバーがここでも顔を揃えている。特に下川辰平は「太陽にほえろ」からほぼ毎作のように共演していたのである。
嫌われていた「太陽にほえろ」
今回は割合有名な話である。
萩原健一が「太陽にほえろ」を自ら望んで、ああいう形(事件とは関係なく強盗にさされて死ぬ)で降板したのは有名な話だが、一刻も早く降板したかった、いやそもそも出たくなかったというのが当初の本音だったようである。
プロデューサーは青春ドラマで知られる岡田晋吉だが、ショーケンはそもそもそいういう世界が嫌いだったようで、「太陽にほえろ」というタイトルや「マカロニ」という役名も気に入らなかったという。ぎりぎりまで、出るでないで揉めて、衣装と音楽を条件に出演を決めたのである。衣装はベビードールのスリーピース、音楽は作曲は大野克夫、演奏は井上堯之バンド、つまりPYGの仲間に依頼するように持ちかけたのである。このかなり即興で作ったデーマ曲が大ヒットすることになる。
この番組では、もう一人出たくなかったという人がいる。そう主役の石原裕次郎である。映画一筋だったが、この前年には古巣の日活に加え、大映も倒産、本人も療養明けで、石原プロのためにも出ざるを得なかったという事情もあり、「ワンクールだけでも」という話を受け入れたのである。
つまり主演の二人がやる気なしの状態で始まったドラマだったにも関わらず、14年も続いてしまうのだからわからないものである。
特に裕次郎は、いつも最後に来て最初に帰る、絡んでいるように見えて、実は編集による別撮りだったりという、まさに大スター状態だったという。そこに、ショーケンが異議を唱えたことをきっかけに二人の距離は縮まっていたようだ。
そんなこともあり、ある程度ワカママの効く立場だったショーケンだが、半年ほどたったところで「降りたい」と言い出している。しかし、番組人気もどんどん上がっており、製作サイドも「どうぞ」というわけにもいかない。「いま降りたら干すぞ、民放連が相手だ」と脅しをかけ、「後、2クールやったら好きなものをやらせてやる」ということで、マカロニの出番はもう半年延びたのである。ちなみに、その「好きなもの」というのが「傷だらけの天使」ということになるのだ。
ちなみに、このマカロニ編の終盤に、マカロニが出演してない回が4話ほどある。映画「股旅」(73年)を撮影していたからである。「木枯し紋次郎」が大ヒットし、渡世人ものがブームだった頃で、前回の「風の中のあいつ」に先駆けて、渡世人を演じていたのである。「風の中」は前田吟、下條アトムとのトリオだったが、「股旅」は小倉一郎、尾藤イサオとのトリオである。ショーケンよりも小倉一郎のほうが主役という感じだが、生き残るのはショーケンだけである。他の二人も斬られて死ぬわけではない。
監督は市川昆で、殺陣は美山晋八という「紋次郎」を手がけたスタッフによる作品であった。