お宝映画・番組私的見聞録 -118ページ目

津川雅彦、アイドルスターになる

「狂った果実」(56年)の撮影は、葉山ロケで始まり、ロケの宿舎になった旅館には母・恵美子が津川に付き添って、身の周りの世話をやいたという。
津川が高校の試験で東京に行き、三日ぶりに旅館に戻ってくると、石原裕次郎が北原三枝の膝枕で寝ているのを目撃し、「二人は恋人どうしになった」と思ったというが、基本的に他人の色恋沙汰には無関心だったという。
「狂った果実」はわずか17日でクランクアップした。監督はこれが二作目となる中平康だが、処女作「狙われた男」は本作より後の公開となっている。中平にとって、結局本作が一番の評価作となった感がある。
余談だが、本作に裕次郎の仲間の太陽族の一人として出演している島崎喜美男は、後に映画監督に転向。ドラマ「特別機動捜査隊」の最終回(801話)を担当し、自ら出演もしている。
また、ノンクレジットでそれぞれの兄、つまり石原慎太郎と長門裕之、正式デビュー前の上野山功一、柳瀬志郎らも出演している。
裕次郎もそうだが、津川もこの一本で超アイドルスターとなり、世界が一変した。日活社長・堀久作は津川に高級背広や、まだ免許もないのにトヨペット・クラウンをプレゼントした。
こうしたプレゼント攻勢に、街を歩けば女性からの黄色い声、まだ16歳の津川が舞い上がり、映画は一本だけと言っていたのをすっかり忘れてしまったのも無理のないことであった。
そんな中、次回作「夏の嵐」の話を持ちかけられ、断る理由もなかったのである。津川は夏休みを利用して、そのまま出演したのであった。
その結果、学校では学院長の樫山に呼び出され、「夏の嵐」は無断出演だったことを咎められ、今後そのようなことがあれば停学処分だと言われたのである。
津川はよく「俺は樫山文枝の親父に早稲田をクビにされた」と言っているようだが、退学になったわけではない。映画スターとしての甘い生活を味わってしまったことで学校から足が遠のき、中退することになったのである。
映画雑誌の対談では、東映の中村錦之助、大川橋蔵らと懇意になり、つるんで遊んだりしたという。当時はアイドル歌手だった小坂一也と知り合ったのもこの頃である。
津川が日活に居残ったため、長門主演の企画が次々と津川作品に変更になったという。長門の嫉妬や焦りは深いものとなり、兄弟の仲は険悪のものとなった。父親の沢村国太郎がどちらかの移籍を真剣に考え始めていたという。
そこで長門が自分から松竹へ出向き、移籍話を決めてきたのだが、長門は日活の若手に人望があり、慰留の嘆願運動が起こったのだという。
そこで、長門は津川に「俺の代わりに松竹へ行ってくれないか」と持ちかけた。津川は家庭に平和が戻るのならと承諾したが、松竹側では大歓迎であった。
津川は57年、日活との契約切れの三ヶ月前に、規約どおり契約切れとともに退社する旨の届けを提出したが、日活側はこの間に「六社協定」を結び、優先4ヶ月契約をたてに津川の退社を受け付なかったのである。「津川問題」はこの後、こじれていくのであった。

津川雅彦、誕生す

子役・加藤雅彦つまり津川雅彦は、中学二年のとき「山椒太夫」(54年)に出演し、厨子王丸を演じることになった。
監督は溝口健二だったが、妥協を許さない溝口は雅彦にも高度な芝居を要求し、容赦なく叱責した。
薪を背負うシーンでは、全然重そうではないからと、本当に歩けなくなるくらいの丸太を背負わされたりした。おまけに、出番のない時も撮影を見るように厳命され、学校の出席日数が足りなくなり、洛西中学を二年で退学し、同志社中学で二年生をやり直すはめになった。
撮影が終わると、叔父のマキノ雅弘は雅彦を連れて、溝口のところに乗り込んだ。「おい、溝口。君は思い通りの映画が撮れたかもしれんが、そのせいで前途ある少年が落第しよった。君の映画のために、この子の一年を棒にふらせたのだから、一言謝ってやれ」と言うと、溝口は帽子をとって雅彦に謝ったという。
「山椒太夫」作品自体はベネチア映画祭で銀獅子賞を得るなど高評価であったが、雅彦の胸にはわだかまりが残り、役者稼業への疑問を感じてしまったのである。
彼の出した結論は「新聞記者になる」であった。父・国太郎は激怒したが、雅彦を溺愛する母・恵美子は「雅彦がなりたいというのだからいいじゃないの」と、新聞記者になるなら早大高等学院がいいことを調べあげた。
ちょうど長門裕之が上京し、日活入りしたこともあって、一家で東京へ移転したのである。
雅彦は、競争率十数倍の難関を見事突破し、早大高等学院に合格した。同期には後にフジテレビのアナウンサーとなる露木茂がいた。ちなみに、学院長は樫山欽四郎といい、女優・樫山文枝の父であった。
学校では「絶世の美少年が入学した」と評判になり、露木は「長門裕之の弟で、長門とは大違いのハンサムなやつがいる」と聞き、彼のクラスを覗きにいったという。個人的には長門と津川は全然似ていないと思っていたが、世間的にもそうだったようだ。
その長門は「太陽の季節」(56年)で、一躍アイドルスターになる。原作の石原慎太郎は、裕次郎の主演を条件に次回作「狂った果実」のシナリオまで書き上げた。
ここから先は、割合有名な話だと思うが、裕次郎の弟役を誰にしようかと考えていた時に、偶然ホテルの結婚式で見かけたのが雅彦だったのである。
「彼しかいない」と思った慎太郎は、彼が長門の弟だと知ると、日活の江守常務を通して父・国太郎との出演交渉に入った。当の雅彦は、「山椒大夫」がトラウマになっているのか、「新聞記者になるために早稲田に入ったのだから」と断るのだが、それを説得したのが長門だったのである。
「俺のために、一本だけ出てくれないか。他のヤツだと俺のライバルになってしまうが、お前は一本でやめるんだから、好都合なんだ」という兄の言葉に雅彦は、「兄貴のために一本だけ出てやる」と了承したのである。
クランクイン直前の56年6月、石原慎太郎の命名で「津川雅彦」が誕生したのであった。

澤村晃夫と加藤雅彦

前回の続きである。やはり、澤村国太郎とマキノ智子という美男美女から産まれてくる赤ん坊は、当然美形でなければならないと周囲だけでなく当人たちも思っていたようだが、長男・晃夫こと長門裕之はその条件を満たしているとは言えなかった。
だが、38年12月に次男が産まれて今度は歓喜した。その子は目鼻立ちもすっきりした美男子であり、千恵蔵も右太衛門も「この子はスターになるぞ」と絶賛した。それが津川雅彦だったと言いたいところだがそうではないのである。
実は、晃夫と雅彦の間に哲也という男の子がいたのだが、翌39年4月に肺炎をこじらせて他界してしまったのである。
夫妻の落胆は大きかったが、既に次子を妊娠しており、同じ39年12月に誕生(戸籍上は40年1月生まれ)したのが、雅彦なのである。
死んだ哲也の生まれ変わりという意識が夫妻には強く、最初から役者にするつもりであり、その可愛がりは尋常ではなかったのである。特に母の智子(本名加藤恵美子)は、後々まで雅彦を溺愛し続けたのである。
雅彦の初めての映画は阪東妻三郎主演の「狐の呉れた赤ん坊」(45年)という戦後すぐに撮られた作品で、5歳のときであった。
そこで阪妻と雅彦が泣くシーンがあるのだが、雅彦はすぐには泣けず、やっと泣けたと思ったら、録音部からマサ坊の泣き声が大きすぎて阪妻の声が聞こえないので、もう一回やってくれとの注文がついた。
それに阪妻は「こんな芝居を子供が何回もできるか。マサ坊の泣き声が入っていればそれでいいやろ」と怒鳴ってくれたという。
雅彦はこれで阪妻ファンになったというが、それを見ていた母親の恵美子まで彼のファンになってしまったという。彼女は晩年、国太郎のことには興味がなく、若い頃愛した月形龍之介と阪妻の写真をいつまでも部屋に飾っていたという。
一方、兄の長門裕之は役者として天性の才能に恵まれており、「鞍馬天狗」の杉作、「忠臣蔵」の大石主税、「宮本武蔵」の伊織の全てを演じ、阪妻主演の「無法松」の一生でも敏夫少年を好演し「名子役、澤村晃夫(アキオ)」の名を響かせていた。
雅彦は小学校高学年の頃はほとんど出番がなかったが、中学二年になって、長谷川一夫主演「獅子の座」(53年)で、その息子役に抜擢されたのである。
雅彦は子供の頃から眼が弱く、パチパチさせる癖があったため、国太郎と恵美子は叔父のマキノ雅弘に特訓を依頼し、その悪癖を矯正してもらったのである。
雅彦は「獅子の座」で好演でして、初めて新聞で「名子役、加藤雅彦」と絶賛されたのである。
この53年に俳優の引き抜きを防止するための五社協定が調印されたが、これが雅彦の運命に大きく関わってくることになるのだった。

長門裕之の誕生

長いこと続いた「東映物語」も、前回で終わったので、今回からは東映とは関係なくもないが、そのイメージは薄い長門裕之、津川雅彦兄弟にスポットをあてていこうかな、と思っている。今回の主な資料は「津川雅彦物語・カツドウ屋血族」という17年ほど前に出た本である。
前回までの東映の話にも登場した、18歳から映画監督として活躍したマキノ雅弘、その弟で東映などでプロデューサーとして活躍したマキノ光雄、その二人の姉が長門・津川兄弟の母であるマキノ智子である。
それぞれ「日本映画の父」と言われるマキノ省三の四女(智子)、長男(雅弘)、次男(光雄)だが、1907年、08年、09年生まれと一才づつ違いである。
智子の夫、つまり長門・津川兄弟の父が戦前の大スター沢村国太郎で、その妹が沢村貞子、弟が加東大介である。
このマキノ一族を説明しだすとキリがなくなるので、この程度で充分だろう。
ところで、マキノ智子は当時の写真を見ても美女とわかるが、国太郎と結婚する前には、月形龍之介と駆け落ちして、一女を儲けたりしている。智子は当時19歳でマキノ輝子と名乗っていた頃である。一方の月形は当時24歳で、既に妻子もあった。要するに不倫である。
父・省三は激怒し、智子は隔離され、月形はマキノプロを解雇された。当時は珍しかったという未婚の母が産んだ女児は筒井啓子といい、その後は幸せな結婚をしたという。
津川の話では、啓子は若い頃は驚く程の美人だったといい、長門が一目ぼれしたくらいだったという。
27年に、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎がマキノプロを脱退し、その穴埋めに省三が獲得したのが沢村国太郎で、その相手役を務めたのが智子である。
29年、マキノ省三が心臓麻痺のため52歳で急逝。31年にマキノプロは解散となり、その中で国太郎と智子は結婚する。
32年に長女、34年に長男・晃夫つまり長門裕之が生まれ、育児に専念するため智子は家庭に入った。国太郎は生活のため主役から脇役にまわり、数多くの仕事をこなしていく。
一方、国太郎の妹・沢村貞子が治安維持法に触れ、二年近く勾留された後、国太郎のところに身を寄せたのは33年の暮れであった。彼女は左翼演劇運動に没頭し、共産党に入党。党の指導で結婚までしたが、その夫に裏切られ警察に売られたのであった。
貞子は人間不信で自暴自棄になっていたが、34年の年明けまもなく生まれたのが晃夫こと長門裕之だったのである。彼女は長門の世話をすることで活力を取り戻し、国太郎の世話で映画女優に転身する。
役者の世界では男の子が生まれると品定めにくるのが暗黙の儀式で、国太郎のところにも、千恵蔵や右太衛門、アラカンがやってきたが晃夫の顔を見ると、みんな微妙な反応で帰っていったという。つまり、長門は生まれながらにいい男とは認めてもらえなかったわけである。

岡田裕介、東映社長就任

岡田茂の息子といえば、岡田裕介(本名・剛)で、やがて父に続いて東映の社長となるのだが、当初は役者だったことで知られる。
それも、親の七光りによるデビューではなく、慶応大学在学中に「水戸黄門」「大岡越前」のプロデューサーとして知られる逸見稔にスカウトされたのがきっかけである。
逸見は松下電器サイドのプロデューサーであり、仕事上付き合いのあった東映の岡田茂の息子とは知らずに、声をかけたのである。実は少し横顔の似ている石坂浩二と間違えたらしいのだけれども。
デビューの翌年である70年には、東映製作のドラマ「江戸川乱歩シリーズ明智小五郎」に小林少年ならぬ小林青年としてレギュラー出演したが、東映に所属することはなく、映画も東宝作品への出演がほとんどだった。
本人の意向か親の意向か不明だが、73年に慶大を卒業しても東映入社はなく、74年からは血筋なのかプロデューサー業に重点を置くようになり、俳優としてはたまに映画やドラマに顔を出すという感じになっていた。
マキノ雅弘は、岡田茂について「息子を役者にしておきながら、東映に入れようとしないのはヤクザが悪いと思っているからだ」というような発言をしている。つまり、自分たちの作品には息子を関わらせたくなかった、というような意味になると思うが、あくまでもマキノの見解である。
岡田裕介が東映に入社するのは、40歳を目前にした88年のことである。
93年に岡田茂は社長を退くが、さすがに入社してまだ5年の裕介に継がせることはなく、専務の高岩淡を指名した。東映太秦映画村はこの人の発案である。
作家の壇一雄は異父兄にあたり、壇が当時の東京撮影所長だった坪井与と親しかった縁で、54年東映に入社した。ちなみに、壇の娘である壇ふみは、高岩との縁で高校在学中に女優デビューしている。
岡田裕介の社長就任は02年のことである。年齢は53歳だが、東映入社からはまだ14年目であった。元々、岡田茂は大川博の死去で息子の大川毅が社長に就任することにも否定的ではなかったので(結局社長に就任したのは岡田だったが)、息子を社長に据えたのだろう(もちろん裕介が有能だったこともあろうが)。
06年に会長だった高岩が相談役に退くと、岡田茂は82歳にして名誉会長として再登板し、岡田親子のワン・ツー体制となっている。創業家でもないサラリーマン出身としては、異例のことだと思われる(松竹でも奥山親子のワンツー体制になった時期がある)。
11年、岡田茂は87歳でこの世を去っている。

これ(二百三高地)は、コケますか?

「愛は死にますか~?」という、さだまさしの「防人の歌」といえば「二百三高地」(80年)である。テレビで散々宣伝していて歌のイメージばかり強いが、実は東映のヒット作品の一つである。
最初は77年ころに、プロデューサー(企画部長の)天尾完次と東京撮影所長の幸田清が「日本の近代史をやろう」という話になり、まずは日露戦争からという話になった。
社長の岡田茂も「今時、日露戦争の映画を見に来る客などいないだろう」と反対したが、そのうち「乃木大将を中心に創ってみたらいけるかな」というようになった。
営業サイドの猛反対もあったが、岡田がシナリオ作成を承認したため、その出来いかんになった。シナリオを東映のエース的存在(当時はフリー)である笠原和夫に頼んでみると、意外にもOKであった。「日露戦争には興味がある」と書き上げたシナリオは素晴らしいものであった。
監督は過去三年赤字をだしていないという理由で舛田利雄に打診すると舛田もシナリオを絶賛し「ぜひやらせて欲しい」との返事であった。
タイトルは「二百三高地」か「203高地」か紙に書いて、岡田に見せたところ、即座に「漢字のほうで行け」と決まった。
しかし、肝心の撮影ゴーサインがでない。予算がかかり過ぎるのである。10億以上配収をあげねば採算が取れないような作品は岡田といえども慎重であった。
営業の反対は「この平和な時代に戦争映画はないだろう」といものだった。約二年が経ち、あきらめ感も漂ってきたころ岡田がやっとのことでゴーサインを出した。
主役の乃木将軍を演じたのは仲代達矢だが、当初はスケジュールの関係もあって断られていた。そこで、丹波哲郎という話になったのだが、岡田が「冗談じゃない」と猛反対。結局、丹波は他の役(児玉源太郎)に据えることで落ち着き、仲代を待とうということになった。
80年代になると、誰がどの会社の映画に出ても不思議ではないのだが、主演の仲代をはじめ、あおい輝彦、新沼謙冶、湯原昌幸、佐藤允、永島敏行、長谷川明男といったメインキャストは東映感の薄いメンバーである。
他にも豪華メンバーを揃えており、森繁久弥、天知茂、平田昭彦、若林豪、愛川欽也、夏目雅子、野際陽子、そして明治天皇が三船敏郎、皇后が松尾嘉代といった布陣である。
宣伝効果もあってか、18億もの配収をあげた。東映では新記録であった。
天尾がてがけた「ポルノ映画」や「トラック野郎」、そして「二百三高地」と、どれもこれも最初は10人が10人とも反対していたような企画であった。
だからこそ、10人が10人賛成するような企画は「誰も知っている」からダメな企画で、全員が反対するような企画こそいい企画なのだと天尾はいう。それがすべてにあてはまるかどうかは疑問だが、映画では実例が証明しているのである。

「トラック野郎」で行こう

72年10月、プロデューサー天尾完次は東映東京撮影所長幸田清から「東京へ来てほしい」との誘いをうけた。
看板だった「網走番外地」シリーズが下降線を描きはじめ、他の企画もパッとせず、新しい人材を投入する必要があった。
天尾も39歳となり、40を前に環境を変えてみたい気もあったので、社長となっていた岡田茂に相談した。
岡田も考え込んだ。逆に京都撮影所では、天尾の代わりなど簡単にいるものでもないからだ。
しかし天尾の「敢えてやってみたい」との言葉に、「よしわかった。今すぐやれ、どんどんやれ」と岡田も了承するしかなかった。
天尾は3年の時間がほしいと言うと、「冗談じゃない2年だ」とかつて東京撮影所に移動した際、1年でヒット作を出した岡田は言った。
「私などは3年はかかります」と自分で言ったとおり、天尾は東京撮影所に来て、2年は模索状態が続いていた。
もうすぐ3年を迎えようという75年9月、公開予定の作品に完成のめどが立たなくなり、急遽、穴埋め作品を作らなければならない。
そんな時、菅原文太が入院し、天尾がその見舞いに行ったときのこと、愛川欽也の話になった。DJをしている愛川の聴取者にはトラックの運転手が多く、彼らに救われたことがあるという話を文太は愛川から聞いていたのである。
「トラックの運ちゃんが主役の話なんていいんじゃないか、俺やってみたい」と文太はやる気になっていた。
天尾はすぐに、共に東京に移っていた鈴木則文監督に相談した。文太は「仁義なき戦い」のヒットにより、世間的には凶暴性を持ったキャラのイメージが定着しつつあったが、それ以前にやっていた二枚目半的なキャラの方が彼の実像に近かった。
時間もないことから、「もうそれで行こう」ということになり、タイトルも「トラック野郎・御意見無用」という仮称を付けた。
監督は鈴木で、主演はもちろん文太、そして「張本人」である愛川欽也と決めた。しかし、クランクインしたとたん、本社内で反発が起こった。
まだ「仁義なき戦い」シリーズがヒットしている最中である。シリアスな実録路線でヒットしているのに、同じ文太を主役に「トラック野郎」なんていう素人っぽい映画をやるのか、というものである。
だが、9月の穴を埋めるには「トラック野郎」で行くしかなかったのである。タイトルも珍しく本社の会議にかけられず、そのまま決まってしまった。まわりからも期待されていなかったのである。
猛スピードで撮影され、「トラック野郎・御意見無用」(75年)はこうして公開された。ふたを開けてみると、低予算で撮られたにもかかわらず大ヒットである。
岡田社長も乗り気になり、シリーズ化が決定した。二作目のタイトルは岡田自身が決めた。トラックの前に書かれている「一番星」から「爆走一番星」と命名したのである。これが一作目を上回るヒットなり、結局「トラック野郎」シリーズは10作目まで作られることになるのだった。

「東映ポルノ映画」生まれました

天尾完次プロデューサー、石井輝男監督コンビによるピンク映画第3弾は「徳川女刑罰史」(68年)であった。三話構成であり、ヒロインを橘ますみ、賀川雪絵、尾花ミキらが演じる。
この中で尾花ミキは歌手として活動していたのを天尾が口説いたのである。彼女が歌手としては、どの程度活躍したかはよくわからないのだが、ヒットといえるような曲はなかったのではないだろうか。
しかも尼僧の役なので、坊主にならなければならない。天尾の「どうだ、やってみないか」との問いに尾花は「お願いします。やらせてください」と即断したという。
まあ、今でこそ人気の落ちた歌手、アイドルなどがこうした映画に出たり、ヌード写真集を出したり、というのは珍しくないが、彼女がその走りだったのかもしれない。
宣伝キャンペーンとでもいおうか、マスコミを呼んで断髪式をやったりしたのである。まあ、髪を丸めた女子を見て喜ぶ男はあまりいないと思うのだが、どうだろうか。かなりマニアックな性癖の持ち主ではないかと個人的には思う。
本作については、映画評論家の佐藤忠男が「ピンク映画より愚劣である」「ここまで低級なっていいか」などこき下ろしているが、それに対して監督の石井は「最初からこういうものはけしからんという前提で、自分のものさして言っている」と反論している。
岡田茂は非難などどこ吹く風という感じで、平気な顔をしていたという。実はこの年、東映では最大のヒット作になったのである。
話は変わるが、「温泉あんま芸者」「温泉こんにゃく芸者」と続いた温泉芸者シリーズの第3弾のタイトルは「温泉タコ壺芸者」と決まっていた。
しかし、岡田の「みみず」にしろとの指示で「温泉みみず芸者」(71年)と変更になったのである。主演は新人女優を使うことになっていたが、なかなか決まらない。天尾はいろんな週刊誌を読み、グラビアでこれだという女の子を見つけ、連絡を取った。
東映本社に現れたその娘は、写真とは違いチリチリのカーリーヘアだったという。17歳だというその娘は、映画には出たいという。未成年なので、母親を呼ぶと、母親も簡単にOKを出した。
「そんな頭ではダメだ」と天尾が注意すると、翌日には年相応の髪型と服装で現れた。それが池玲子である。実年齢は16歳だったのだが、17歳ということにしてプロフィールも天尾が創作した。
天尾はこの作品から日本では一般化していなかった「ポルノ映画」という言葉を使うことにした。池玲子はポルノ女優第1号の称号を得ることになったのである。日活ロマンポルノがスタートするのはその4ヶ月後である。もちろん、東映に倣ったタイトルである。
日活はポルノ専業になったため、かつての日活スターが出演することなどなかったが、東映は丹波哲郎、梅宮辰夫、山城新伍などが普通に出ていたりするためもあってか、外部はもとより内部からも批判が噴出したのである。

「東映ピンク映画」始めました

話が前回までと前後するのだが、東映に天尾完次というプロデューサーがいる。56年に入社し京都撮影所の製作部に配属された。同期の監督志望者が東大卒の佐藤純弥であった。
天尾は62年にプロデューサーに昇格し、第1作は大川橋蔵「若さま侍捕物帖・お化粧蜘蛛」で、以降も時代劇を手がけていた。
67年、そんな天尾を当時京都撮影所長だった岡田茂が呼びつけた。「東映で豪華なエロ時代劇を作るから、天尾おまえやれ」。あっと驚くような言葉に天尾はショックを受けた。ピンク映画など頭の片隅にもなかったが、上司の命令である。
この前年である66年、ピンク映画は隆盛を極めており、なんと松竹の年間配収よりも、ピンク映画総体が上回っていたのである。そこに岡田は眼をつけ、天尾にやらせようというのである。
その第1作が鈴木則文監督と組んだ「忍びの卍」(68年)であった。「くノ一忍法」に裸はつきものだが、裸になる女優がいない。主演の桜町弘子はお姫様女優として鳴らしており、脱ぐはずもなく、肩を半分脱いでもらうシーンをつくるくらいで精一杯であった。当然、客の入りも悪かった。
天尾は岡田に「こんなのは、ピンク映画の女優でも使ってやらんとあきませんよ」というと、「おおそうか」と岡田も引き下がったかのように見えた。
天尾も「二度とやらん」と思っていたところ、三ヶ月ほどして再び岡田に呼び出された。「ピンク映画の女優を集めるんだ。人気のあるのを全員連れて来い」
天尾は、ピンク映画の女優たちに「今度、東映で大奥物をつくる。全員、裸で出演してほしい」と声をかけた。東映の名に引かれて、辰巳典子、谷ナオミ、香取環、火鳥こずえ等ピンク女優の主だったところが集まり、作られたのが「徳川女系図」(68年)である。
監督は「網走番外地」シリーズでヒットを飛ばした石井輝男が起用された。石井は新東宝出身ということもあり、主演の吉田輝雄をはじめ、万里昌代、三原葉子といった元新東宝勢も出演している。
この撮影の様子を見た石井班以外のスタッフやスターたちは露骨に眉をひそめたという。何しろ、素っ裸のピンク女優がスタジオを飛び回っているのである。
撮影所の9割は反対しており、スターでは鶴田浩二が特に反発していたという。天尾も石井も撮影所で鶴田とすれ違っても、口も利かなかったという。
そんな中で封切られた「徳川女系図」は、同じ石井監督が手がけた「網走番外地」シリーズのどの作品よりも、観客動員数は多かったのである。
岡田所長は喜び、天尾に「商売になる、もっとつくれ」と発破をかけた。しかし、映画マスコミはこぞって東映ピンク映画路線を糾弾した。
助監督らも反乱を起こし、岡田および天尾に対して「日本映画の伝統を冒涜するものに対しては一切協力しない」という声明文を突きつけたのである。

「仁義なき戦い」の仁義ある?交代

今回は「仁義なき戦い」ファンなら、よく知っている話かも知れないが、自分のように本作をあまりよく知らない人間には興味深い話である。キャストの変更のことである。
まず、主演の菅原文太からして、当初プロデューサーの日下部五朗は渡哲也を考えていたという。しかし、当時渡は病気休業中であり、復帰にまだ時間がかかるということだったので、当初からアピールしていた文太に決まったという。
山守組長役は監督の深作は三國連太郎を予定していたが、岡田茂社長がストップをかけた。「三國では客が呼べない。金子信雄で行こう」と主張。加えて「金子は岡山出身だから、広島弁が扱える。三國の広島弁は考えられない」と強引に金子に決めている。しかし、金子は東京出身であり、奥方の丹阿弥谷津子も東京であり、岡田の思い込みだったと思われる。はたまた、三國のギャラのことを考えて反対したのかもなどと思ってしまう。
ちなみに、三國の母親が彼を身篭ったのは、本作の舞台である広島の呉だったという(出産は群馬)。「縁」で考えれば、断然三國の方があったのでる。
そして、第2作である「仁義なき戦い広島死闘編」(73年)での千葉真一と北大路欣也の役の交換。元は千葉が山中役、北大路が大友役で決まっており、千葉はそのつもりでセリフなども覚えていたが、北大路が「自分は大友役に合わない、山中をやらせて欲しい」と言い出したのである。しかも、本作への参加は自分から売り込んだにも関わらずである。
その父親といえば、東映の功労者「北大路の御大」こと市川右太衛門である。その威光が効くような部分があったらしい。
そこで、日下部らが千葉の元へ行き、役を交換してくれないかを頼んだ。当然、難色を示した千葉だったが、深作が当初から大友役は千葉がいいと主張していたことを知り、交代を了承したのである。
実は「海軍」(63年)という作品でも、北大路(当時20歳)は役の入れ替えを主張し、東映側が北大路の現代劇主演第1回作品として要望を聞き入れたことがあり、その時の相手も千葉だったのである。
年齢は千葉が4つ上だが、芸歴は北大路が上。御曹司と会社命令は絶対なニューフェースでは、やはり千葉の立場が弱いということだろうか。まあ、今回は北大路がどうこうより、深作がそう思っているなら、という千葉が納得しての交代ではあるようだが。
また、第3作である「仁義なき戦い代理戦争」(73年)での西条役が荒木一郎の降板により当時は大部屋俳優だった川谷拓三が抜擢された。これは山城新伍や成田三樹夫、渡瀬恒彦らの推薦だったという。ちなみに、荒木の降板は(実際に抗争のある)広島でのロケを嫌がったためだという。
元々、東映内部でも後難を恐れて、映画化には消極的な声も多かったが、岡田社長は広島出身であるため、やる気満々だったため実現したのである。