お宝映画・番組私的見聞録 -120ページ目

片岡千恵蔵、東映退社を言い出す

51年8月、松竹、東宝、大映、新東宝そして東映の5社の社長が集まり、時代劇の配給制限撤廃が申し合わされた。この時、もっとも時代劇スターが揃っていたのが東映であった。片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗など、錚々たるメンバーがおり、監督も松田定次、マキノ雅弘、脚本も比佐芳武、八尋不二と時代劇用の強力メンバーが揃っていた。
しかし、9月になり金田一耕助シリーズ「八つ墓村」の撮影が始まろうとするとき、千恵蔵が「退社する」と言い出したのである。
京都撮影所にいた進行主任の岡田茂は、大映時代から千恵蔵とは一緒の松田定次監督、カメラマンの川崎新太郎とともに東京へ向かった。千恵蔵を大映から引き抜いたのはいいが、ギャラの支払いが悪すぎたのである。その不満に乗じて東宝が引き抜きをかけてきたらしかった。
三人は千恵蔵のいた築地の宿を訪ね、「何とか、とどまっていただけませんか」と説得にあたった。千恵蔵は「重役としての責任もあるので、出ろと言われれば、どのような映画にも出たが、ギャラは三本撮って一本分しかもらえなかった」と東映への不満を口にした。反論の余地はなく、岡田は「千恵蔵さんの退社の意思は固い」と覚悟した。
大川博社長は、その夜、千恵蔵と二人だけの会談を持った。三人とマキノ光雄専務はその間、マキノの行き着けの料亭で待機していた。一夜明け、一行は東映本社に出向き、大川の「千恵蔵が残ると言ってくれた」の言葉に安堵した。
大川は「『八つ墓村』の予算の中から、とにかく千恵蔵への支払いは先にやろう、残った金で『八つ墓村』を作れ」と岡田に命じた。岡田は「やりましょう」と答えたが、京都に帰ると、長橋撮影所長らに「こっちに何の相談もなく決めるとは何事だ」と怒鳴られた。しかし、11月の封切りに間に合うようクランクアップすることはできたのであった。
岡田はその封切り日に製作課長に任命された。製作課長は金とスケジュールの全権を握っており、岡田は27歳にしての大抜擢であった。大川は常々「岡田はいうことの筋がとおっている」とかっており、千恵蔵も「若いがしっかりしている」と岡田を推していた。
大川に呼ばれた坂上管理部長や長橋撮影所長は「どうして我々が部下である岡田の許可をもらって、金を使わねばならないのですか」と食ってかかったが、大川は「俺の命令だ、イヤなら辞めろ!」と突っぱねた。
それまで配給は東宝に頼っていたが、それを辞め52年1月からは東映が製作から配給までこなす全プロ体制に入ったのである。

阪東妻三郎、東映に初主演する

東急電鉄会長の五島慶太は、東横映画のあまりの赤字に手をやいていた。このままいくと、東横映画、東映配、大泉映画の三社とも赤字会社になってしまう。そこで、三社合併案を作り再建策をたてることにした。
51年4月、三社が合併し、東映が発足した。社長となったのは、東急専務でもあった大川博である。大川本人は気がすすまなかったのだが、五島に強引に押し切られてしまったのである。
東横社長だった黒川渉三は入れ替えで去っていったが、「岡田と今田だけは引き止めておいたほうがいい」という言葉を残していた。当時進行主任だった岡田茂とその同期である配給係長の今田智憲のことである。岡田は大映から引き抜き話があるほど有能であったが、本人は「東映が潰れるまで残る」と宣言していた。
また大川は、マキノ光雄こそ赤字の元凶と判断し、制作部長として本社に呼び寄せ自分の監視下に置くことにした。
岡田は「天狗の安」(51年)の撮影に入った。主演は阪東妻三郎である。阪妻も千恵蔵、右太衛門と同様で、大映が納得のいかぬ所得申告をしたため、永田雅一社長に対して不満を抱いていた。しかも、レッドパージの解けた永田の「阪妻がお祝いの挨拶にこない」という発言を聞くにおよび、阪妻は「そっちからくるのが、当たり前だろう」と激怒した。「沈んだ時は親友で、浮かび上がると相手を使用人扱いするような人と仕事をするのが嫌になった」と49年、大映を離れフリーになっている。
マキノ光雄は、千恵蔵、右太衛門とともに、阪妻も大映から引き抜こうと画策したのだが、契約金が二人の倍はかかるということもあって、断念したのであった。その際マキノは「この企画なら乗れるというときだけでいいので、ウチの映画に出てほしい」という要請はしていたのである。
阪妻の東映出演第1回作品が「天狗の安」ということになるのだが、映倫から脚本の許可が中々出ないという事態が発生していた。やくざの立ち回りが見物の作品だが、当時の映倫はGHQからの暴力否定を受け継いでいて、本作には許可が出なかったのである。岡田茂が脚本の比佐芳武に書き直しを頼んでも、「この本が通らないならおりる。お前たちが映倫と話し合って通せ」と譲らない。比佐はヒットメーカーでもあり、東映では絶大な力を持っていた。わかりやすく言えば、梶原一騎、川内康範ぐらい(あるいはそれ以上)であろうか。
岡田が途方にくれていると、企画室の坪井与が「東京に着いたら八木さんから比佐さんに内容を変えてもらうようにするといい」と言ってきた。脚本家の大御所である八木保太郎と比佐は親友であり、昔流の任侠的なつながりがあった。
岡田が東京で八木に会い事情を話すと、八木は比佐に電話をいれ、「ドスの代わりに木の棒にすればいい。最後は相手が斬ってきた刃をとり、相手を切ればいい。映倫も正当防衛で求めてくれる」。比佐は八木の意見をのみ、おかげで映倫も通せたのであった。
「天狗の安」ほ、この51年の東映配収のナンバーワンの稼ぎをあげたのである。

市川右太衛門、東横に移籍する

前回の続きである。第4の配給会社設立がダメになるかもという話を聞き、片岡千恵蔵は黒川社長、マキノ光雄らと五島慶太邸に乗り込んだ。
五島が言うには、第4系統を作るには松竹の大谷社長の力を借りなければならないが、やはり大映の永田雅一にも話をつけねばならないから困難だということであった。
千恵蔵は五島に「男として、一度約束しておきながら、反故にするとは何事か」と時代劇のように啖呵を切った。マキノも、「この計画が実現不可能なら、私は指を詰める覚悟です」と続いた。これらが効いたのか、五藤は改めて約束をしなおし、49年には東京映画配給株式会社が設立されたのである。つまり、千恵蔵の啖呵がなければ、後の東映はなかったかもしれないのである。ちなみに、千恵蔵に続き、監督の松田定次、脚本家の比佐芳武という「多羅尾伴内シリーズ」トリオが東横に揃うことになっていた。
大映の時代劇スター市川右太衛門も、時代劇が思い通りに撮れなくて苛立っていた。刀を振り回すとGHQがうるさいので、槍に持ち替えて検閲をパスしたこともあった。そのうち会社側から「現代劇に出てくれないか」と言ってきたので、現代劇「海の狼」(47年)に出演したりしていた。個人的には右太衛門の現代劇というのはほとんど見たことがない。そんな中、マキノ光雄が訪れ「東横で時代劇をやらないか」と言ってきたのである。右太衛門は千恵蔵が東横の重役になったことを知っており、「私も重役にしてくれたら移る」という条件が認められ、49年に東横に移籍した。千恵蔵(当時46歳)に続き、重役俳優・市川右太衛門(当時42歳)が誕生した。
「にっぽんGメン・難船崎の血闘」(50年)で、この二大スターが共演することになった。千恵蔵はギャング役だが、その正体はGメン、右太衛門は海上保安隊長役であった。二人が共演する時は、東横のスタッフは非常に気を使わねばならなかった。二人とも、顔を左側から撮った方がよく映ることを知っており、左側からカメラを向けないと機嫌を悪くする。しかし、二人が睨み合うシーンなどは、当然どちらかが右側から撮られることになる。撮影監督は二人の顔をなるべく左から撮るように苦労したという。
「千石纏」(50年)でも、二人は共演した。監督はマキノ光雄の兄・マキノ雅弘であった。マキノはどちらを先に出すかを悩んだ末、二人を同時に出すことにした。二人が左右から現れ、バッタリ出くわし、お互いに道を譲ろうとしない、という登場のしかたになったのである。撮影後も、映画ポスターの序列が問題となった。マキノが考え付いた方法は、千恵蔵をトップに持ってきたら右太衛門を止めに置く。次の映画では、右太衛門をトップに持ってきて、千恵蔵は止めに置くという、交互に交代する方式をとったのである。

当の本人たちはどれだけお互いを意識していたかはわからないが、その周囲は本人たち以上にライバルとして意識していたような気がするのである。

片岡千恵蔵、東横移籍を決意する。

今回からは、東映のお話である。例によって古本で「小説東映 映画三国志」という本を手に入れたからである。
まずは、片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大がいかにして、東映の重役になったのかである。
話は戦後まもない47年。当時は、千恵蔵、右太衛門に加え、阪東妻三郎までもが大映に所属していたのである。
東映の前進である東横映画の京都撮影所所長だったマキノ光雄は彼らの引き抜きを画策していた。
当時の映画事情だが、GHQの指導が厳しく時代劇が満足に撮れない状態だったのである。「忠臣蔵」を代表とする仇討ものややくざもの、とにかくチャンバラ禁止であった。
千恵蔵は現代劇に活路を見い出し、松田定次監督、比佐芳武脚本により「多羅尾伴内シリーズ」の第一作「七つの顔」(47年)が大ヒットした。千恵蔵はマキノプロでスターとしてスターとして売り出したという経緯もあり、マキノ光雄に頼まれて東横映画にも出演していた。「三本指の男」「日本Gメン」などがそれである。しかし、大映の重役でもある作家・川口松太郎に東横に出るのはやめてくれと懇願され、出演は控えていたのである。
ところが、48年に行なわれた「大映系全国館主大会」で大映社長である永田雅一はそのあいさつで「多羅尾伴内ものは幕間のつなぎ映画で、わが社は今後芸術生の高い大作を制作していく」と言ったのである。千恵蔵は激怒した。「俺は好き好んで荒唐無稽な作品に出ているわけではない。会社経営上プラスになると思ってやっているのに」。それに加えて、税金問題である。当時、千恵蔵には出演料に加え、配給収入の利益配分があったのだが、それを大映は千恵蔵には黙って税務署にばらしてしまったのである。そのため、脱税で百万円もの追徴金がきたのである。彼は腹をくくった。
マキノ光雄に加え、東横映画社長である黒川渉三の二人に口説かれ、東横映画入りを決めたのである。そして、東急コンツェルン総帥の五島慶太にも面会した。
当時、東横作品の配給は大映が行っていたのだが、五島は千恵蔵に「今度、大映から離れて新しい配給会社を作る」と宣言した。そして、五島は黒川に「千恵蔵を重役にしてやれ」と命じたのである。実は永田雅一も千恵蔵に「大映の重役にしてやる」と言っておきながら、約束は果たさずじまいだったのである。
ここに重役俳優片岡千恵蔵が誕生した。しかし、その半年後。マキノが千恵蔵のもとを訪れ、「すまん、第四系統の話はタメになった」と言ってきた。第四系統とは松竹、大映、東宝につぐ、四番目の「東京映画配給株式会社」設立の話である。

丹波哲郎、新東宝で干される

さて、映画デビューを飾り新東宝の契約俳優となった丹波哲郎だが、あっという間に干されてしまう。契約しておきながら、まったく使おうとしないのである。
この張本人が当時「映画界の天皇」と言われていた阿部豊監督であった。態度がデカイので干されたという話は有名だが、丹波本人はそのことに全く気がついていなかったという。
阿部豊の命令は絶対だった。しかし、契約は取り交わされていたので、月々の給料(1万円)はちゃんと出ていた。杉並から新東宝のあった砧まで自転車で受取りに行っていたという。
GHQでもそうだったが、新東宝でも仕事をせず、タダ飯を食という生活を送ることになったのである。実は創芸小劇場時代に、妻である貞子の兄が、親戚のコネを使って丹波を「油糧砂糖配給公団」の渉外課に就職させたことがあった。しかし、仕事ぶりが悪く、仕事が回ってこなくなり、GHQ時代のように社内逃亡の生活を送ることになった。給仕室でお茶を飲んだり、クロッキーを描いたりして、二年を過ごした頃、公団は解散。つまり公務員生活もタダ飯食いだったのである。
話は戻るが、新東宝との契約が切れる寸前に出演依頼が舞い込んだ。「叛乱 二・二六事件」(54年)という作品で、監督は新東宝の人間ではなく、松竹の俳優・佐分利信であった。当時は山村聡や田中絹代など俳優が監督を務めることも多かった。
しかし役柄が下士官の役だと知ると、「自分は下士官タイプではい」と依頼を断ってしまう。「将校の役ならどうだ」との提案にも出番が2シーンしかないと分かると、断ってしまうのである。
新東宝側から「君とは来年契約しないよ」と言われ、丹波も「ああ結構だ」と映画俳優を廃業した(つもりだった)のである。しかし、ひと月後呼び出しがあり「中山昭二が出られなくなったから、代わりに出てくれ」というのである。役も悪くなかったので、廃業したはずの俳優稼業をひと月で復活させたのである。
しかし、監督の佐分利信は途中で病に倒れてしまう。そして後を引き継いだのがなんと阿部豊だったのである。阿部は丹波のシーンとなると、フレームからわざとはずしたり、しょうがない時は、半身だけ入れてみたり、後ろからとったりと一人で格闘していたという。
しかし、ある日女優から差し入れのべっこう飴を機嫌の良かった阿部が配りはじめ、すぐ背後にいたのが丹波と気づかずに振り向きもせずその口元に飴を差し出した。丹波がそれを口で加えて引っ張ると、振り返った阿部と目があった。その時の丹波の顔が可笑しかったらしく、阿部は大声で笑い出した。以来、阿部豊に気に入られるようになり、自分の作品には必ず丹波を起用するようになったという。
阿部に起用されるようになると、あちこちの映画会社から声尾がかかるようになり、ギャラも1年で10倍以上にアップした。こうして売れっ子俳優の道を歩んでいくのである。

丹波哲郎、銀幕デビューする

前回の続きである。
新東宝に使いに出された丹波哲郎。それは山形勲への 映画「殺人容疑者」の出演依頼を断るためであった。
困ったのは新東宝側。元々は池部良が出演するはずだったが、二流映画ということもあってか、断られてしまい、そこで顔の売れ始めた山形に話を持っていったのであった。これは警視庁が全面協力することになっており、どうしても作らねばならなかったのである。
突然、相手の一人が「あんたに似た役者知らないか?」と言ってきたのである。使いで来たこともあり丹波を役者とは思っていなかったようだ。丹波の顔は殺人容疑者の顔だというのである。
「知っているよ」と丹波が答えると。相手側は色めきだった。多少の間をおき、帰ろうとしながら「それは俺だよ」と言ってのけたのである。途端、彼らに取り囲まれ、質問攻めに会う丹波。こうして、彼は映画「殺人容疑者」で主演デビュー(本名の丹波正三郎名義)を飾ることになる。52年、30歳のときである。ちなみに、この作品には刑事役で当時は無名の土屋嘉男、小林昭二、石島房太郎、ストリッパー役で野村昭子、ジプシー・ローズ(本物)なども出演していた。小道具の拳銃は本物で、警官も本物だったという。
本作は意外にもヒットし、丹波にはすぐに次の映画の出演依頼が来た。「モンテンルパ 望郷の歌」(53年)である。主題歌は当時大ヒットした渡辺はま子の「ああモンテンルパの夜は更けて」だ。丹波の役はこの歌を作詞作曲した音楽青年で、オルガンを弾きながらこの歌を歌うのである。実は歌の方は吹き替えだったのだが、丹波本人も驚くほど声がよく似ていたため、歌も歌える丹波正三郎と世間は勘違いしてしまったのだという。この映画をネットで調べると、出演者として出てくるのは、小堀誠、山形勲、芥川比呂志、佐々木孝丸、小堀明雄、杉村春子などで、丹波の名はなかったりするのだが、本人が言っているのだから間違いないだろう。
この映画もヒットしたことで、新東宝から専属契約の申し出があった。1年に1本4万円の3本契約で、つまり月に1万円が支払われることになったのである。
そして、丹波は文化座を辞めた。いつまでも下っ端扱いされることに嫌気がさしたこともあるようだ。
こうして、新東宝の契約俳優となった丹波正三郎は本人の知らない間に「丹波哲郎」になっていたのである。本人いわく霊界で付けられた戒名だそうだ。

丹波哲郎、文化座に入座する

さて、創芸小劇場なるアマチュア劇団の主宰者となった丹波哲郎だが、演目は新劇の経典のようなものばかりで、公演はすべて無料と、すこぶる熱心に活動していた。
2年目程して、プロの演出家が欲しくなり、「師匠」こと草野満代が顔の広さを利用して、文化座から大久保正信、高橋真という二人のプロを呼んできた。ちなみに文化座には、鈴木光枝、山村聡、山形勲・三郎兄弟、浜村純、芦田伸介らがいた。
2年ほどして、大久保か高橋のどちらかが「丹波さん、文化座に来ないかね」と声をかけてきたという。丹波も真剣に考え、自分は芝居に向いている。案外これしかないかしれない、と4年にもわたる小劇場での活動に終止符をうち、文化座に入座したのであった。1950年、28歳のときであった。
演劇での収入はゼロであったので、昼間は働きに出ていた。GHQを辞めた後は、兄である鴻一郎が社長をやっている「中和商事」という会社に転がりこんだ。その実態は得体の知れないヤミ屋の集合体だったという。この仕事は向いていたようで、渉外課長という肩書きを得て、いろんな食料品を仕入れ条件のいいところに売りさばく、というのを午後3時には終わらせ、芝居の稽古にいくという生活だった。契約は歩合だったため、丹波はかなりの収入を得たという。半年ほどして鴻一郎に呼び出され、歩合を上げる(会社の取り分を増やす)という。丹波が「イヤだね」と断ると、「では出て行ってもらおう」とあっさり放りだされたのである。社長の弟ということもあり、自由奔放に荒稼ぎする丹波の存在は、他の社員の手前具合が悪かったのである。この後も、演劇活動に精を出す一方で、昼間は職を転々としていた。
この中和商事時代に、鴻一郎が安物の服地をくれたので、それをスーツに仕立てるために紹介されたテーラーの女主人を介して知り合ったのが大蔵貞子という女性である。愛情のなかった祖母と同じ貞子の名を持ち、苗字が大蔵。もちろん大蔵貢とは関係なく、島田事件(冤罪事件)の弁護士である大蔵敏彦の妹である。相性の悪そうな名前だが、彼女とは後に結婚することになるのであった。
さて、文化座は丹波を入れても16人という小さな劇団だった。天才と言われていた山形三郎が52年に亡くなり、兄の勲が文化座を背負っている状態だった。その山形勲も当時は病弱で、彼への映画出演のオファーを断るため、使いに出されたのが丹波であった。その映画とは新東宝の「殺人容疑者」という作品であった。次回に続く。

丹波哲郎、GHQ通訳に就任する

前回の続きである。
終戦を迎え、丹波哲郎は中央大学へ復学した。彼は大学では「英語会話会」というクラブに所属していた。しかし、その理由は荷物置き場が欲しかったからである。同クラブは廃部の危機にあり、名前だけでも部員数を増やしたかったのである。それを聞いた丹波が渡りに船と入部。しかも実際に参加することはなかったのである。要するに幽霊部員だ。条件として役員になることというのがあったので、丹波が従軍している間に、彼の肩書きは「議長」になっていた。
そんな時、外務省から名指しで連絡があった。GHQでの通訳の依頼である。当時の大学においては数少なかった英語会話会の議長だったからである。当時の学生は読み書きはできても、会話はできない。これは丹波も同様であった。中学時代、同じクラスだった日系二世のモノマネをしており、その発音がすばらしいように聞こえたことに外務省の役人はだまされてしまったのである。真実をいっても謙虚と受け取られるだけで、彼はまんまと通訳に仕立て上げられてしまったのだった。
これが丹波のデビュー前のキャリアとしては、割合有名なGHQ通訳の真相である。実は全く英会話などできなかったのである。
当初はアメリカ人特有のオーバーアクションなどから推察して訳していたりしたが、専門的なセクションに回されるとさすがに何もわからなくなり、とにかくトイレやら地下室やらに逃げ回っていたという。肝心の通訳の方はちゃんと英語のできる藤井という伍長がやってくれていたのである。丹波のすることは、毎日GHQに通って日本語の不得手な米軍の下士官たちとトランプ三昧、昼になったら将校食堂で米兵に混じって食事をすることであった。そんな生活が二年も続き、丹波は何もすることがないのに飽きてきたのだった。47年、彼は秋葉原にあった俳優養成所に通い始めたのである。
GHQでは、当然ながら彼が仕事もせず、いるだけの存在であることに気づいている人間もおり、次第に居辛くなっていたという。そして、二年間に渡るGHQでの生活に別れを告げたのであった。
さて、俳優養成所での丹波は持ち前の大声で大芝居をやったりしており、目立っていたのか、半年もしないうちに講師である月野満代という女優から声がかかった。「あなたが中心になって劇団を作りなさい」というのである。月野は生徒の丹波を主宰者にまつりあげ、「創芸小劇場」というアマチュア劇団が結成された。丹波はそこで、演出・主演という役回りを担ったのである。こうして、彼の役者人生が幕を開けたのであった。

丹波哲郎とその一族

三木のり平の話は、あまり広がらなそうなので、この辺にして、唐突だが丹波哲郎である。例によって、古本で「僕は霊界の宣伝使」という本人の著書を200円で買ったからである。タイトルから中身は霊界のことを書いていると思いきや、丹波の生い立ちからデビュー前のことを綴ったものである。ときおり思い出したように、「これは霊界からの指令としか思えない」というふうに強引に霊界を結びつけてはいるものの、デビュー前のことは意外と知らないので、面白く読めた。
本書によると、丹波一族は東大卒ぞろいで医者の多い名門ではあるが、変人が多い。丹波哲郎(本名・丹波正三郎)の父、丹波二郎は軍人であったが、ある日突然「やーめた」と軍人を放棄し、画家になったという。しかし、絵で生計が立つわけもなく、実際は母(哲郎からは祖母)である貞子に養われていたという。丹波二郎は六人兄弟の二番目だが、実はこの兄弟のほとんどが貞子に養われていたそうだ。それぞれの妻が月に一度、貞子のところに金を受け取りに行っていたというが、貞子自身は息子たちの家を生涯一度も訪れたことはなかったという。哲郎のことも「ああ二郎の息子か」と、名前を覚えることはなかったという。
父・丹波二郎は自分の子どもたちに対して、好き嫌いが激しく、哲郎は何をしても叱られるが、長兄の鴻一郎は何をしても叱られなかったのだという。しかし、その鴻一郎が何が気に入らなかったのか、障子やふすまから部屋に水を撒き散らすという行動に出たのである。すると鴻一郎には手を挙げたことのなかった父・二郎が、彼を外に引きずり出し、休むことなく殴り続けたのである。以来、二郎は死ぬまで鴻一郎と口を利くことはなかったといい、それどころか鴻一郎は家を閉め出され、貞子のところに預けられ、二度と帰ってくることはなかった。このように父・二郎は突然態度を豹変させることが多く、変えた態度は決して改めず、意固地なまでに固執するような人間だったという。そんなだから父が死んでも哲郎は何とも思わなかったという。
哲朗の兄二人は東大に進んだが、自身は二高(現東北大学)を目指したという。しかし、二度受験に失敗し、仕方なく中央大学の予科二年生に編入する。つまり学徒兵であり、幹部候補だったのである。
しかし、ある日立川の航空隊へ移動となる。そこには、全国の学徒兵の中から360人が集められていたというが、どうやら落ちこぼれの集団だったようである。二期上の見習い士官の中には巨人軍の川上哲治や龍之介の長男・芥川比呂志がいたという。
その三ヵ月後、36人を残して、学徒兵は前線に移動した。大半は戦死したと思われるが、哲郎は残留組にいた。すなわち落第したのである。しかし彼らは幹部候補生であり、階級もすでに軍曹になっていたことから、「目立たぬように起居せよ」という命令が出たのである。つまり、人の目にふれないように、こっそりと生きろということである、
丹波を含む落ちこぼれたちは、戦火の激しくなる中、ただ毎日をのんびりと過ごし、終戦を迎えたのである。

三木のり平、映画出演する

前回に続いて、三木のり平である。
のり平は日大芸術学部の出身だが、演劇ではなく美術専攻だった。当時は画家になりたかったのだという。
各クラブの新人部員募集の看板の中に、学生劇団で舞台美術募集というのが目に付き、美術として入部したのである。これが役者の世界へ入るきっかけであった。
その劇団にいた同級生が西村晃で、もちろん役者であった。いつも気取っていて、「死んで靖国人社で会おう」と、海軍の特攻隊に入ったりしていた。対照的ではあったが、仲は良かったようである。
戦地から生き残って帰還した西村は、結核になり隔離病棟に入ったりしており、のり平はそんな西村にパンを届けてあげていた。のり平は闇でパン商売をやっていたのである。
共に新劇の道に進み、のり平は俳優座に入るのだが、当時の新劇は左翼思想の宣教活動ばかりしており、芝居どころではなかったのである。嫌気がさしたのり平は新劇とおさらばし、何か面白い芝居をやりたいと思っていたところ、進駐軍の慰問の話を知る。そこで、有島一郎や旭輝子などとステージに立ち、コントをやったりしたという。これが、喜劇役者へのきっかけとなり、そんな中、繁田裕司こと三木鶏郎と知り合ったのである。ちなみに、三木はミッキーマウスからで、鶏郎は最初三人で活動していたので、トリオと読ませるつもりで鶏郎だったのだが、トリローと間違って紹介され、そのままトリローということにしてしまったという。
鶏郎グループでの活動で、人気を得たのり平だが、50年には脱退してしまう。ちょうどその頃、「無敵競輪王」という清水金一主演作品で映画初出演。その後、東映「怪傑鉄仮面」、新東宝「娘十八ジャズ祭」、日活「陽気な天国」などに出演した後、56年に東宝と契約を結び、「のり平の三等亭主」「のり平の浮気大学」で初主演をはたした。
ただ、本人は舞台好きで、映画は面白くなかったという。「社長シリーズ」や「駅前シリーズ」なども、「稼ぐために出ただけで、どうでもいい」とそっけない。
実は黒澤明の「天国と地獄」(63年)に出ることになっていたというが(沢村いき雄の演じた役)、結局断ったという。これは、助監督が偉そうだったからで、「黒澤映画に使ってやる」という態度に憤慨したからだという。結局、一本も黒澤映画には出ておらず、東宝の俳優で「ゴジラ」にも「黒澤映画」にも出演してないのは自分くらいじゃないか、と本人は述べている。