お宝映画・番組私的見聞録 -119ページ目

「仁義なき戦い」ができるまで

東映社長に就任した岡田茂だが、自身が手がけた任侠映画路線がマンネリ化し、その刷新が緊急の課題であった。72年に任侠映画の花であった藤純子が尾上菊之助(現・菊五郎)との結婚で引退することになったという事情もあった。東映としては引退されては困るので、実父である俊藤浩磁はもちろん、社長の岡田も藤を説得したが、彼女の決意は固かったのである。
そこで、浮上した企画が「仁義なき戦い」である。非常に有名な作品であるが、なぜか映画化までの経緯が諸説いろいろあり、どれが真実なのか不明なのだ。
元々は広島県の美能組の元組長・美能幸三の獄中手記が週刊サンケイに渡り、連載を決めその解説者として飯干晃一が選定されたことに始まる。ここから、話は色々食い違っている。
岡田の話では、週刊サンケイ側から映画化の打診があったという。手記をそのまま映画にすると困難な問題が発生してしまう恐れがあったため、岡田が原作者を立てることを提案し、サンケイ側が飯干を選んだのである。
しかし、東映プロデューサーの日下部五朗は直接、飯干に美能の手記を見せられ、その場で映画化権を申し出たと話している。日下部は岡田から「絶対にやれ」と言われ、すぐに美能に会いにいったとも証言している。
また、主演の菅原文太は自分が表紙になった「週刊サンケイ」を売店で買ったら、「仁義なき戦い」の第1話が載っており、面白かったので、俊藤に「これをやりましょう」と直談判し、俊藤も面白いというので、日下部を呼んで原作を取らせたと証言している。しかし、テレビ番組では相手は俊藤ではなく岡田になっていたらしい。また、文太は東宝も佐藤允で「仁義なき戦い」をやろうとしていたとも言っている。
美能にも承認は必要だろうということで、最初、俊藤が美能に会いにいったが、週刊サンケイで終わりにしたいと断られている。次に、高岩淡京都撮影所長と畑利明が訪れ、何日も泊り込んで頼み込み、やっと承認を得たという。
岡田は脚本に笠原和夫を選んだ。実証派のライターで自分でとことん調べなければ執筆にかからないという。そこで、内心恐れを抱きながらも美能に会いにいったのである。笠原が映画化の話をすると断られたという。高岩らが承認を得たはずだが、気が変わったのかその辺はよくわからない。「これはダメだ」と引き返そうとする笠原を美能は駅まで送るという。その道で共に戦時中は大竹海兵団にいたことがわかり、美能のマンションに誘われ、いろいろ話を聞くことができたという。
以上のように、微妙に証言が食い違っており、みんなが自分がきっかけだと主張しているので、正確な経緯は不明である。
こうして、笠原は脚本を書き上げたが、監督が深作欣二と聞いて難色を示した。深作はホンを直しまくるから嫌だというのである。深作を推した俊藤が笠原を説得した。笠原は「深作が何といっても一字一句直さない。それでいいなら」という条件で了承した。深作本人も笠原に電話で「あのとおりにやる」と言ってきたので深作で決定した。
ちなみに、文太は俊藤に深作を推したのは自分だと証言する。「人斬り与太」を見てもらったところ「深作でいくか」と言ってくれたのだという。

岡田茂、東映社長に就任する

大川博社長の死により、その後を継ぐのは息子でもあり唯一代表権をもつ取締役専務であった大川毅だろうと岡田茂常務は考えた。しかし騒動は収まったとはいえ、組合を恐れてか東映本社には顔を出そうとしなかった。
岡田は二人に共通の知人を間に挟む形で、毅と食事を共にして、彼にこう言った。「とにかく後継社長として社に出てきてください。私が邪魔なようなら身を引いてもよいですよ」
岡田は自分は毅にとって眼の上のこぶだろうと考え、辞める覚悟もあったのである。
しかし毅からの返事は次のようなものだった。「いや、岡田さんが社長になってください。私は今のように組合のうるさい時にやっていく力はありません」
ロックアウトで騒動は鎮静化したものの、毅に対する反感が消えたわけではないのである。
実を言うと、岡田は大川夫人から「主人はいざとなったら、あなたに頼みますと日ごろから申していました」と聞かされており、毅も同じ意見だと言うことも聞いていたのである。
直接、毅の意思を確認し、岡田は社長を引き受けることにした。逆に毅が退社の意向を伝えてきたが、「一緒にやりましょう」と引き止めた。
大川博の死から8日後、岡田茂が代表取締役社長に就任した。47歳の若さであった。大川毅も87年まで取締役を勤めている。
まず、岡田が手をつけたのはその毅が担当していたボウリング場の閉鎖である。ボウリングブームの再燃はないと読み、28箇所を一夜にした閉鎖してしまった。73年には東映フライヤーズを不動産会社の日拓ホームに売却し、球団経営から手を引いた。
ちなみに、日拓の前に音響メーカーのパイオニアに譲渡の打診をしたそうだが、オーナーは興味があったようだが、社長が反対し流れたという。日拓ホームフライヤーズは「7色のユニフォーム」等で話題を呼んだが、わずか1シーズンで撤退し、日本ハムに譲渡することになった。ユニフォームに金がかかりすぎたからという噂も飛んだが、西村オーナーが1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策し、調印寸前で反故にされて嫌気がさしたからというのが真実のようである。
そして、岡田は70年に大川親子らと対立し東映を去っていた同期入社の今田智憲を呼び戻したのである。岡田と今田はただの同期ではない。同じ広島県西条市出身で互いを幼少期から知る幼馴染なのである。テレビ製作会社であるユニオン映画の重役となっていた今田は73年、東映ビデオの社長として復帰することになる。

東映、ジュニア問題とロックアウト事件

64年9月、東映の親会社である東急電鉄が東映を切り離す策に出た。五島昇社長が何かと盾をつく東急の重役でもある大川博を切りたかったのである。
五島は、京都撮影所の主だったメンバーを集めて、別れの宴を開いた。そこには片岡千恵蔵の姿をあった。千恵蔵がボウリング場経営に失敗したときに手を差し伸べたのが五島であった。また、大川が第二東映で失敗した際に、その責任問題を五島に掛け合ったのは千恵蔵であった。実は千恵蔵は東映社長の座を狙っていたという。そんな千恵蔵に五島は「変なことは考えないほうがよい」と諭したりもした。そんな経緯もあり、お互い男泣き状態だったという。
数日後、五島は秘かに岡田茂京都撮影所長を呼び、東急に来ないかと誘った。「東映はこのままでは大川商店になる、一番の被害者は君だろう」と告げたが、岡田は「自分だけ去るわけにはいかない」とその誘いを拒んだのであった。
五島が「大川商店」と言ったのには、大川博の息子である大川毅の存在があった。大川ジュニアも東映に入社しており、社長の椅子を継ぐだろうと考えていたのである。
大川毅は65年にはボウリング、クラブなどの事業本部長となり、翌年には専務に昇格していた。毅専務は、ボウリングブームにものり事業をどんどん広げていったが、その拡大政策が裏目に出るのにあまり時間はかからなかった。東映社内には、そんなジュニアを快く思わない者も沢山おり、本社の部課長が大挙して東映を去ったりしていた。
反発をかわすため、大川社長は68年にジュニアを取締役に降格させたりしたが、労組の批判を恐れたジュニアは本社には出社せず、社長を兼務していた東映不動産に通うようになっていた。
一方、岡田茂は68年には映画本部長に就任し、東映の映画部門の全権を掌握していた。71年にはテレビ本部長も兼務した。そんな岡田を大川社長は呼び出し、困った時の岡田頼みで、労務担当を引き受けてくれと言うのだった。大川ジュニアに端を発する労務問題はどうしようもないくらいこじれていたのである。さすがに、そこまでやっている余裕はないと断ったが、結局引き受けることになる。
労務は素人の岡田は、プロの労務屋といえる長田大全という人物を呼んだ。さっそく長田は身分を隠して社内で情報収集にあたった。長田は大川社長に面会すると「社長にも悪いところが多々ありますね。毅専務への批判は火を消せないほど燃え広がっていますよ」とズケズケと進言した。
岡田はこの状態を打破するのは、ロックアウトしかないと考えた。わかりやすく言えば、ストライキの逆である。経営者側が作業場を閉鎖するのである。
71年4月、東映本社でロックアウトを決行。すべての入り口を鉄格子で封鎖し、立ち入り禁止の状態にしたのである。そして翌朝、全社員を五反田東映に集めてロックアウト宣言を行った。長田の書いた文章は完璧だったという。
ロックアウトは効果覿面で、交渉では常に岡田が主導権を握り続けた。こうした強硬手段により組合問題は解決したのであった。
それから、まもなく大川社長はホッとしたのもつかの間、体調を崩し入院。その8月には亡くなってしまうのである。74歳であった。

千恵蔵、右太衛門、錦之助、東映を去る

大川博社長から、また京都撮影所に戻るように言われた岡田茂は、さすがに抵抗したが、大川の「お前でなければダメだ」という言葉に引き受けるしかなかった。岡田が東京に行ってからは、時代劇の衰退もあってか今度は京都の方が悲惨な状況になっていたのである。
64年2月、岡田は京都撮影所長に2年半ぶりに復帰した。岡田がまず行ったことは合理化である。大部屋役者まで含めると二千人もの人間が東映京都には在籍していたが、それを半分以下の九百人までに減らすことにしたのである。
無論、ただ首を切るだけでは反発を招くだけなので、東京撮影所や本社、東映動画、劇場などに配置転換を行ったのである。そして、東映京都テレビプロを作り、多くの人間をそちらに配置した。しかし、当初は東映内にもテレビに出演してくれる役者はなかなかいなかったという。スター俳優では、まず大川橋蔵が「銭形平次」(66~84年)に出演し、大ヒットとなったのは、誰もが知るところであろう。
さて、岡田は京都の方でも任侠映画をやろうとしていた。下敷きとしたのは「忠臣蔵」で、タイトルは「日本侠客伝」。監督はマキノ雅弘で、プロデューサーは俊藤浩磁。俊藤は「アイジョージ物語 太陽の子」(62年)という映画でプロデューサーデビューしたばかりだが(ノンクレジット)、本格的には本作が初であるといえた。若い頃は五島組という組に出入りしていたこともあり、そっちの世界には詳しくもあった。藤純子の父としても知られる。
主演は中村錦之助の予定だったが、「出ない」と言ってきたので、急遽、高倉健を使うことにしたのである。結局、錦之助も他の役で出演することになったが、高倉を主役に据えたのは正解であった。高倉の「日本侠客伝シリーズ」は、鶴田浩二の「博徒シリーズ」と並びヒットしたのである。
時代劇から任侠路線への切り替えには成功したが、片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大への処遇問題があった。既に二人が客を呼べる時代ではなかったのである。しかし、重役でもある二人に、岡田が引導を渡すわけにはいかないので、そこは大川社長に頼んだ。二人とも条件をのみ、千恵蔵はテレビ時代劇の脇役で活躍するようになり、右太衛門は舞台を中心に活動すつようになった。
錦之助は岡田に、任侠映画ではなく時代劇をやらせて欲しいといい山本周五郎の「冷飯とおさんとちゃん」を演じたいと申し出てきた。岡田は「やらせてやりたいが興業的には三日ともたないと思う」と錦之助に言ったが、彼の熱意にほだされ、作らせることにした。しかし、予想どおり客は入らず早々と打ち切られてしまったのである。
錦之助は時代劇が撮れないなら、と東映を辞めることにした。大川はやめるならパージにかけてやると言い出したが、岡田は「客を呼べないのだから、パージしても意味はありませんよ」と大川を宥め、錦之助を黙って送り出すことにしたのだった。

鶴田、高倉、佐久間、「飛車角」に出演する

新東宝からスカウトした石井輝男の「ギャング対ギャング」(62年)や深作欣二の「ギャング対Gメン」(62年)といったギャング路線が当たり、岡田茂東京撮影所長が次に考えたのは任侠路線であった。「人生劇場 飛車角」(63年)である。
主演に考えたのは鶴田浩二、高倉健であった。以前書いたが、高倉健は元々俳優志望ではなく、美空ひばりや中村錦之助が所属していた新芸プロのマネージャーの面接を東映本社のあったビルの喫茶店で受けていたのである。そこに偶然居合わせたのがマキノ光雄専務で、高倉を俳優としてスカウトしたのである。高倉は東映第2期ニューフェースに補充編入され、サラリーマンものの主役・準主役などを演じていたが、今ひとつパッとしていなかった。
以前、岡田は「三百六十五夜」(62年)のリメイクを美空ひばり主演でやろうと思い立ち、どうせなら江利チエミ、雪村いづみの三人娘を揃えて、相手役に高倉健、鶴田浩二を配そうと考えた。当時、高倉とチエミは夫婦関係にあり、岡田は亭主のためにもとチエミに出演を依頼したが「仕事と私生活を混同したくない」と拒否してきたのである。岡田は高倉に「今後、ウチではチエミは一切使わない」と通告した。「女房になめられているぞ。大スターになって見返してやれ」と発破をかけた。当時はまだチエミの方がスターであった。結局、チエミやいづみは出演していないが、映画自体はヒットした。
鶴田浩二は、岡田が京都時代に東宝からスカウトしていた。「日本誕生」(59年)とか「電送人間」(60年)とか、鶴田に合うとは思えない特撮映画への出演などもあり、本人も腐っていたようだった。60年、岡田と後にやくざ映画のほとんどを手がける俊藤浩滋は、「東宝にいてもうだつは上がらないぞ」と鶴田を口説き、東映に引き抜いたのであった。
相手役には佐久間良子を配した。第4期ニューフェース試験において、水着審査を嫌がり、結局受けなかったという筋金入りの清純派であった。それでも、補欠合格したのである。同期は山城新伍、水木襄、花園ひろみ、室田日出男などである。岡田は佐久間に「ここらあたりで、清純女優の殻を破って、汚れ役に挑戦してみなさい」と口説いた。
岡田の狙いどおり「飛車角」はヒットし、シリーズ化された。このように東京撮影所は息を吹き返してきたが、逆に京都撮影所の時代劇が落ち目になっていた。大島渚監督、大川橋蔵主演の「天草四郎時貞」(62年)などは、一日で打ち切られたところもあるというくらい、不入りだったのである。
そんな時、岡田は大川博社長に呼ばれ「京都に戻って来い」と言われたのである。

深作欣二、監督デビューする

東京撮影所長に着任した岡田茂が、まず目をつけたのは監督デビューしてまもない深作欣二であった。
深作は53年に東映に入社。面接試験では、自分の書いたシナリオの束を持ち込み、面接官に配ったという。入社はできたものの、最初の1年は本社の企画本部で事務をやらされていた。そこで「現場に出してください」と直談判し、東京撮影所のフォース助監督となった。当初はほとんど雑用係である。
この助監督時代に深作がついた監督は小林恒夫、関川秀雄などいわゆるB級作品の監督ばかりであった。もちろん、深作も内田吐夢や今井正といった巨匠につきたかったのだが、結局、一度もつかせてもらえなかったのである。ならば、B級の犯罪映画の傑作を撮ろうと、この時代に思ったようである。
そして、61年6月「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」で監督デビューを果たした。まあ、第二東映(ニュー東映)が誕生し、製作本数が増え、新しい監督が必要となったという事情もあった。それは役者にも言えることで、主演はこれが映画では初主演となる千葉真一である。59年に東映ニューフェース6期生として入社し、翌年にはテレビドラマ「七色仮面」「アラーの使者」と立て続けに主役を演じていた。この「風来坊探偵」シリーズを2本、「ファンキーハットの快男児」シリーズ2本、いずれも60分前後のSPだが、すべて千葉の主演で撮られている。
着任した岡田が初の長編として深作に撮らせたのが「白昼の無頼漢」(61年)であった。主演は丹波哲郎で、共演の久保菜穂子、丹波と敵対する一団のリーダー役の沖竜次と、この年に潰れた新東宝出身者が顔を並べていた。他には「風来坊探偵」に出演していた曽根晴美、「ファンキーハット」に出演していた中原ひとみに加え、亀石征一郎、八代真智子といった東映ニューフェース勢も顔を並べた。
丹波の仲間となる黒人トムを演じていたアイザック・サクソンという人は正式な役者ではなく米軍基地の軍人だったという。米軍基地から外出時間が長すぎるとクレームが入り、これ以上出演させられないという。それを聞いた岡田は「ならば、彼の出演場面を全部切ってしまえ」と言い出すが、重要な役どころでもあり、深作が「それはできない」と返すと、岡田は「なら基地に内緒で、何とか騙してつれて来い」と、何度もトラブルをくぐってきた岡田ならではの機転で乗り切ったのである。ちなみにサクソンは他にも2本ほど映画出演している。
60~80年代あたりのの黒人役者といえば、チコ・ローランド、ウィリー・ドーシーの2択といった感じになるが、深作の次回作となる「誇り高き挑戦」(62年)では、チコ・ローランドが起用されている。

第二東映の発足と失敗

東映は他社に先がけて、テレビ放送事業に乗り出している。
57年、他の映画会社は抵抗があったのか参加しなかったが、多くの企業が申請免許に殺到していた。東映単独での設立は困難だったため、旺文社、日本短波放送、東京タイムズらと共同でNET(現テレビ朝日)を誕生させた。会長には大川博、社長には赤尾好夫旺文社社長が就任した。テレビ映画の製作をいち早く開始したのも東映であり、これが後々の東映の経営に大きなプラスの役割を果たすことになる。初期の東映製作番組がだいたいNETで放送されているのはこのためである。
さて、東映は邦画界のシェアでは56年からトップにたち、独走態勢を固めていた。これに気を良くした大川社長は60年に第二東映を発足させるのである。
そのため、時代劇中心の京都撮影所の作品を第一、現代劇中心の東京撮影所の作品を第二と、二系統に分けたのである。これにより、60年は合わせて156本もの映画を製作することになったのであった。しかし、大増産による現場の疲労が極みに達したのは明らかで、現場からは反対運動が勃発した。その先頭に立ったのは片岡千恵蔵であった。
営業担当の伊藤義常務は、長年大川のサポートをしてきた気の良い人物であったが、社内会議で大川に楯をついたのである。「大量生産にも限度があります。第二東映は撤退すべきです」と正論を吐いたのである。周囲はその通りだと思っていたのだが、大川は「イヤなら辞めろ」と激怒した。伊藤も引かず、そのまま帰ってしまったのである。
大川は本気だったわけではなく、今田智憲営業部長らに慰留に向かわせたが、伊藤の腹は固まっており、戻ってはこなかった。その後は、五島昇東急社長の紹介で東急レクリエーション入りしたという。この前年に五島慶太翁が亡くなり、東急グループ内に大川に物を言える人間がいなかったのである。
翌61年、第二東映をニュー東映と改称し、現代劇専門に縮小したが、テレビの普及による映画離れは予想を上回る速さで進んでおり、結局11月には元の一本化に戻すことを表明した。第二東映は2年足らずで消滅し、この失敗から大川の天下が崩れていくのである。
その直前の9月には、岡田茂京都撮影所長がその任を解かれ、東京撮影所長兼製作部長として東京行きを命じられている。大川にしてみれば、将来ある岡田を組合とのいざこざで傷つけてはいかんという配慮があったようだが、当の岡田はこれを左遷と受け取っていた。しかし、東京撮影所は京都以上に合理化が必要だとも考えていたので、岡田はこれに従ったのである。
それからまもなく京都撮影所では第二組合が結成され、俳優からスタッフまでが皆が組合員となり、反大川社長派が先鋭化していった。
東京に着任した岡田は、まず威張るだけの古参監督の契約を解除していった。同時に古手のカメラマンも解雇した。作品自体も古臭く面白くないと判断したからである。その代わりに新人監督をデビューさせていった。深作欣二、佐藤純弥、この年に潰れた新東宝から来た石井輝男、渡辺祐介、瀬川昌治といったいずれも後の東映を支えていく面々であった。

日映事件とマキノ光雄の死

東映のマキノ光雄は54年に専務に昇格していた。すると翌55年、岡田茂に米国への視察を命じた。マキノは岡田を映画製作の後継者として育てようと考えていたのである。
岡田はその際、大映の永田雅一社長を訪ねて紹介状を書いてくれるように頼んだのである。大映は54年に「地獄門」がカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞しており、ロスでは永田社長は大変な顔であると聞いていたからである。
永田は「俺は君のところの大川(社長)とは仲が悪いんだが」と言いながらも「映画界は一つだ。俺が君の行きたいところ、すべて紹介してやる」と紹介状を書いてくれたのだった。この紹介状は大きな効力を発揮したという。
帰国した岡田がアメリカで見たシネマスコープを、他社に先駆けて東映がやろうとしていた。ところが、先に東宝がワイドスクリーンの映画を企画しているという情報が入り、大川も焦ってマキノに「何でもいいから、ワイドを作れ」と命じたのである。
マキノが白羽の矢を立てた監督は松田定次。実は松田もマキノ省三の前妻の子であり、つまりマキノ雅弘、光雄の異母兄に当たるのである。シナリオもなくクランクインし、画面が横に二倍も広がるのだから大道具係も苦労した。「とにかく何でも作ってしまえ」と松田は命じて、こうして出来上がったのが大友柳太朗主演の「鳳城の花嫁」(57年)であった。
ところで、この57年には「日映事件」という邦画界を揺るがす事件が発生している。これは、永田雅一社長に反逆した大映の曽我専務、三宮京王電鉄社長、松尾千土地興業社長が手を組み、日映という新しい映画会社の設立に動いた騒動のことである。大映を分割して新会社の設立を狙ったのだが、当の永田はこの計画を全く察知していなかったのである。
五島慶太翁の秘書をしていた中原功という人が謀反を察知し、それを知った五島昇東急電鉄社長が中原を永田の元に走らせたのである。寝耳に水だった永田は絶句したという。
首謀者の三宮は元は東急電鉄で大川と共に専務まで昇格した人物であった。大川とは年齢も一つしか違わなく、ライバル関係にあった。それだけに東映の社長として名をあげた大川に嫉妬の念を抱いていたのが今回の動機の一つであったようである。くしくも、ライバル会社に永田は救われる形となったのである。
さて、マキノ光雄だが、この57年の夏に突然体調を崩す。脳腫瘍だったのである。その12月に急逝、享年48歳の若さであった。臨終に駆けつけた大川や片岡千恵蔵、月形龍之介も人目もはばからず泣いていたという。
最後の企画は中村錦之助、美空ひばり主演の「おしどり駕篭」で、監督は実兄のマキノ雅弘だった。「これをちゃんと仕上げることが供養になるんだ」と弟の死の知らせにも撮影を中断しようとはしなかったという。

美空ひばり、東映と契約する

54年より、東映は全プロ二本立て体制を確立することを表明した。つまり、他社の映画と併映でない東映作品のみの二本立て興行を行うということである。東映が映画界の雄に飛躍するにはこれしかないという、大川博社長の決断であった。
しかし、それは今までの倍の映画を製作するということを意味する。片岡千恵蔵も作品が粗製濫造になりはしないかと当初は反対していた。しかし、マキノ光雄常務は「もう一本は付録映画なんですよ」と、大量生産に懐疑的な人たちを説得して回った。こうして始まったのが「東映娯楽版」と言われた上映時間が一時間弱のシリーズである。
中村錦之助、大友柳太朗の「笛吹童子」、東千代之介の「雪之丞変化」シリーズ、錦之助&千代之介の「里見八犬伝」シリーズ、「紅孔雀」シリーズなどである。この54年に東映の製作本数は年間103本と、世界第1位に躍り出たのである。
大変なのは俳優たちで、ある朝製作課長の岡田茂は顔を合わせた錦之助、千代之介に「一睡もしていないのに、これから宝塚もでロケに連れて行かれるんだから、無茶苦茶です」と訴えてきたという。
また、この54年は美空ひばりの引き抜きに成功している。5月に「唄しぐれ・おしどり若衆」で東映映画に初出演、錦之助と共演し、ヒットした。マキノ常務はひばりを東映に繋ぎとめておきたいと、出演料を当時としては破格の3本で1千万円を提示したのである。大川社長は「あんな小娘に1千万は高すぎる」と反対したが、高橋企画本部事務局長らの説得に折れたのであった。
現場契約には、東映側からマキノ、岡田、辻野製作部長が、ひばり側は本人と母親の加藤喜美枝、所属していた新芸プロの福島社長、それに加え山口組三代目の田岡一雄が現れたのである。ひばりの現場契約を取り仕切っていたのは、神戸芸能社社長の肩書きも持つ田岡であった。田岡は早速、タイトルロールの問題を持ち出した。ひばりをトップにしろということである。
マキノは岡田に「何とかしてくれんか」というような顔をしたので、岡田は即座に「それはできません」と答えた。田岡は本物の迫力で「なんでや!」と岡田を睨んだ。岡田はとっさに「ケースバイケースにしなければ、ひばりさんは自分以下のレベルの役者としか共演できませんよ、私は毎回トップを譲るように先輩俳優や大御所たちを口説く自信はありません」と切り替えしたのであった。岡田は自分でもうまいことを言ったと思ったという。
以前も書いたが、田岡は話のわかる人物でもあったので、本人に「どうする」と伺うと、ひばりはきっぱりと「岡田さんの言っていることが当たり前よ」と言い切った。タイトル問題はこれで解決した。
ひばり&錦之助のゴールデンコンビは、東映の看板になっていくのであった。
ところで、戦前にも「美空ひばり」という女優が存在したのをご存知だろうか。彼女は23年生まれで、37年に正式入団したSKDで名づけられたものだという。40年に大都映画に入社し、43年に結婚して引退している。
二代目のひばりは48年に宝塚の演出家(岡田恵吉)によって名づけられたものらしいが、初代に肖ったものかどうかは不明である。

市川右太衛門、徹夜撮影につきあう

52年、東映は「早撮りの天皇」の異名をもつ渡辺邦男監督を新東宝から高待遇で迎えた。
51年の暮れに新東宝から千恵蔵を貸して欲しいとの申し出があった。「殴られた石松」という作品のためである。大川博東映社長は「一週間ならいいよ」と、もちろん一週間で撮ることなど無理なことを承知の上で言ったのである。それを聞いた渡辺監督が「よし、俺が撮ってやる」と、わずか5日で撮り上げてしまったのである。
渡辺監督の東映所属としての第1作は市川右太衛門主演の「水戸黄門漫遊記・第一部地獄谷の豪族」であった。この撮影中に雪が降り積もった。製作課長の岡田茂も「撮影は延期せねばなるまい」と覚悟したが、渡辺は撮影は続行するという。
渡辺は急遽、宿屋の主人役の俳優に「黄門様が来られて、お浄めの雪が降った」と言わせたのである。また、馬が登場するシーンでは、馬を用意する時間がもったいないからと、このシーンを、侍が「馬を待て」というと、つれの者が「馬は河原に水を飲みにいっております」、侍は「待っておれん」と言い出し、二人で走り出すというように変えてしまったのである。
このように渡辺はその場で臨機応変にセリフを変えるなどして、1シーンに何日もかける監督もいる中、平均10日間で一本の作品を撮りあげてしまうのである。
巨匠と言われる監督の場合、大抵は予算をオーバーさせるが、渡辺は予算を余らせる監督であった。
この年の「決戦高田馬場」も5日間で撮るようにと命じられた。しかし、作品のスケールから渡辺は「今回はさすがに俺でも無理だ」と頭を抱えた。そこで、堀部安兵衛役の右太衛門が重役の立場から「私もどんな無理でもするから、お願いしたい」と頼み込んだ。ようやく引き受けた渡辺だったが、今度は糊屋の婆さん役に予定していたエノケンが急遽出られなくなった。代役として笠置シヅ子に白羽の矢を立てたが、笠置は九州巡業中であった。マキノ光雄製作部長と大森伊八企画担当が現地へ飛んで説得にあたった。
一方の渡辺は撮れるところから撮り捲っていた。長屋のシーンは渡辺が新東宝時代にも良く使っていた、横山エンタツ、堺駿二、清水金一、清川虹子、丹下キヨ子などの顔ぶれが揃っていた。渡辺は「あんたたちで、好き勝手に工夫して芝居をやってくれ」とそれぞれに演技をつける手間を省いたのである。
他方、マキノと大森は嫌がる笠置を説得し続け、根負けした笠置をやっとの思いで、九州から京都撮影所に連れてきた。しかし、笠置は疲れからかすぐには声が出ない状態であった。
平素は夕方5時には撮影を切り上げる渡辺だが、今回は徹夜を決意した。やはり夜間撮影などめったにしない右太衛門も徹夜に付き合った。
そのおかげで、撮影は5日どころか実働4日で終わったのである。
その後も渡辺は「大菩薩峠」「鳴門秘帖」「南国太平記」などのヒットをとばしたが、55年、新東宝に大蔵貢が新社長に就任すると、渡辺は製作本部長格で招かれ、新東宝に復帰していった。