日映事件とマキノ光雄の死 | お宝映画・番組私的見聞録

日映事件とマキノ光雄の死

東映のマキノ光雄は54年に専務に昇格していた。すると翌55年、岡田茂に米国への視察を命じた。マキノは岡田を映画製作の後継者として育てようと考えていたのである。
岡田はその際、大映の永田雅一社長を訪ねて紹介状を書いてくれるように頼んだのである。大映は54年に「地獄門」がカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞しており、ロスでは永田社長は大変な顔であると聞いていたからである。
永田は「俺は君のところの大川(社長)とは仲が悪いんだが」と言いながらも「映画界は一つだ。俺が君の行きたいところ、すべて紹介してやる」と紹介状を書いてくれたのだった。この紹介状は大きな効力を発揮したという。
帰国した岡田がアメリカで見たシネマスコープを、他社に先駆けて東映がやろうとしていた。ところが、先に東宝がワイドスクリーンの映画を企画しているという情報が入り、大川も焦ってマキノに「何でもいいから、ワイドを作れ」と命じたのである。
マキノが白羽の矢を立てた監督は松田定次。実は松田もマキノ省三の前妻の子であり、つまりマキノ雅弘、光雄の異母兄に当たるのである。シナリオもなくクランクインし、画面が横に二倍も広がるのだから大道具係も苦労した。「とにかく何でも作ってしまえ」と松田は命じて、こうして出来上がったのが大友柳太朗主演の「鳳城の花嫁」(57年)であった。
ところで、この57年には「日映事件」という邦画界を揺るがす事件が発生している。これは、永田雅一社長に反逆した大映の曽我専務、三宮京王電鉄社長、松尾千土地興業社長が手を組み、日映という新しい映画会社の設立に動いた騒動のことである。大映を分割して新会社の設立を狙ったのだが、当の永田はこの計画を全く察知していなかったのである。
五島慶太翁の秘書をしていた中原功という人が謀反を察知し、それを知った五島昇東急電鉄社長が中原を永田の元に走らせたのである。寝耳に水だった永田は絶句したという。
首謀者の三宮は元は東急電鉄で大川と共に専務まで昇格した人物であった。大川とは年齢も一つしか違わなく、ライバル関係にあった。それだけに東映の社長として名をあげた大川に嫉妬の念を抱いていたのが今回の動機の一つであったようである。くしくも、ライバル会社に永田は救われる形となったのである。
さて、マキノ光雄だが、この57年の夏に突然体調を崩す。脳腫瘍だったのである。その12月に急逝、享年48歳の若さであった。臨終に駆けつけた大川や片岡千恵蔵、月形龍之介も人目もはばからず泣いていたという。
最後の企画は中村錦之助、美空ひばり主演の「おしどり駕篭」で、監督は実兄のマキノ雅弘だった。「これをちゃんと仕上げることが供養になるんだ」と弟の死の知らせにも撮影を中断しようとはしなかったという。