向井寛と内田高子
その向井は、九州大学を中退後、教育映画の俳優となって、テレビ映画で三田佳子と共演したこともあったというが、やがて助監督に転向し今井正や佐伯清に師事、ピンク映画の世界には27歳で登場した。
デビュー作は「肉」という。ピンク映画はこういった一文字タイトルが結構あるようだ。
主演は内田高子。63年に「ネグリジェ歌手」としてデビューしている。これは伊仏合作映画「セクシーの夜」の公開キャンペーンとして行われた「ネグリジェ・コンテスト」において一位になったのが彼女で、「粋なネグリジェ」という曲で歌手デビューした。
同年、本ブログではおなじみの「特別機動捜査隊」の99話にも出演したという。映像は存在していないが、このドラマはストーリーとは関係なく、無名の歌手がクラブなどで歌っているシーンがよく登場するので、そういった出演だったのかもしれない。
翌年からはピンク映画に出演し始め、向井とはこの後もコンビを組み続け、20数本の作品を撮っており、やがて二人は結婚することになる。
向井は66年に「禁じられたテクニック」という作品(主演、可能かづ子、美矢かおる)を製作しているが、これが69年にイタリアで「ナオミ」というタイトルで公開されたが、ワイセツすぎると判断され上映禁止になったという。
先日ここでも取り上げた、津川雅彦とデビ夫人の不倫が話題になるやそれをモデルに「日本処女暗黒史」(69年)を作った。デビ夫人役は内田高子である。「あるモデルの性と死・薔薇の賛歌」(70年)という作品も太田八重子という自殺したモデルの実話を題材にしている。
向井には新人発掘の才能もあり、白川和子や山科ゆり(デビュー時は津村冴子)、宮下順子などピンク映画を見たことがなくても知っているであろう女優も彼がデビューさせている。
向井はその後、獅子プロを主催し、滝田洋二郎などを育てたが、08年に70歳で亡くなっている。
翌09年、内田高子はラピュタ阿佐ヶ谷で行われた「60年代まぼろしの官能女優たち」の特集上映イベントに出演する。その9月には向井の一周忌を経て、彼女は向江たかこ名義でドラマ「任侠ヘルパー」にセミレギュラー出演している。
若松孝二と国辱映画事件
自分たちから出品しようと思ったわけではない。この年日本からは映連を通じて、大映の「兵隊やくざ」、東映の「にっぽん泥棒物語」の出品申し入れがなされたが、予選落ち。
「壁の中の秘事」は、若松プロとして製作した第一回作品であった。日本からの直接参加ではなくドイツの映画配給会社の社長が気に入って買い取り、出品を要請したところOKとなったという経緯でなのある。
映連としては、面目丸つぶれなわけで、取り消して欲しいと抗議したのである。映連というのは、大手映画会社の社長や重役を中心とした団体なので、当然ピンク映画に差別意識があった。
若松は出品作の監督ということで招待されていたので、ベルリンに渡ったが、当然日本から新聞記者も訪れていた。その中で毎日新聞の草壁記者が映画祭レポートを連続的に載せ、本作の出品が不当であるかのように記す一方、現地の反響が好ましくなく、これは「国辱映画」だと書いたのである。実は草壁は映画祭の審査員の一人でもあったのである。
後日、若松は草壁記者とテレビで対決し、激論を戦わせた。
実際、激昂して席を立った人もいたが、新聞での評判は賛否両論あり、賛辞を表明した人も多かったという。
「壁の中の秘事」の出演者は、可能かづ子、寺島幹夫、藤野博子、吉沢京夫などである。恐らく吉沢京子とは何の関係もない吉沢京夫は、脚本を担当した一人でもある。
寺島幹夫はやはり声優としてのイメージが強い人も多いかもしれない。「科学忍者隊ガッチャマン」のベルク・カッツェ役などは有名ではないだろうか。
可能かづ子は本名は仮野(旧姓)和子なので、ほぼ本名だったわけである。翌66年には、一般映画にも進出し、小林旭主演の「俺にさわると危ないぜ」に、6人組の女忍者?の一人を北あけみ、西尾三枝子、浜川智子(浜かおる)らと演じていた。
ピンク映画の世界は三年ほどで辞め、夏海千佳子と名を変えてからは、「江戸の旋風」「大江戸捜査網」「伝七捕物帳」といった時代劇や「キイハンター」「特捜最前線」「大都会」といったアクション物など多くのテレビドラマに出演している。「特別機動捜査隊」では常連の一人と言っていいくらいよく出演していた印象がある。
「国辱映画」事件から12年後、ピンク映画の名付け親・村井実は、大島渚の受賞パーティーで「ここで握手でもしたら」若松と草壁を引き合わせたのである。
二人は握手し、草壁は「あの頃はピンク映画を知らなくてね。勉強不足を反省しましたよ」と謝罪し、当事者間のいざこざは手打ちとなったのである。
黒澤映画からピンク映画へ
ピンク映画「肉体の市場」(62年)が大ヒットしたので、当然のように似たような映画がつくられた。「肉体自由貿易」(62年)もその一つで、やはりヒットしたのだが、この映画の監督はあの本木荘二郎であった。
「生きる」「七人の侍」「羅生門」など黒澤明の映画において、まず「製作 本木荘二郎」と最初に名前の出る東宝の名プロデューサーだった人物である。黒澤作品以外にもマキノ雅弘の「次郎長三国志」シリーズなども担当していた。
しかし「蜘蛛巣城」(57年)を最後に、その名はぷっつりと姿を消す。実は東宝との契約を解除されていたのである。正確なところは不明だが、制作費の私的流用、要するに使い込みがその原因だったと言われる。
兄弟のように親しくしていた黒澤に「ああ金にだらしないんじゃ、しょうがねえよ」とあきれられたという。黒澤作品は、その後「ゴジラ」などで知られる田中友幸が、プロデューサーを引き継いでいる。
東宝を去った後の本木は、PR映画、教育映画などの他にショー映画(ストリップ賞を撮影したもの等)を手がけるようになり、岩波映画の大井由次からの助言でピンク映画に乗り出し、その第1作が「肉体自由貿易」であった。
以降、ピンク映画の監督としては本木の名は使わず、60年代は高木丈夫、品川照二、70年代前半は岸本恵一、70年代後半は藤本潤二、藤本潤三の名を使いながら、約200本ものピンク映画を手がけた。
70年になって、かつての上司である森岩雄の指示で「柔の星」「おくさまは18歳 新婚教室」の製作として、東宝に復帰しているが、作品的にも興業的にも成功せず、この二本だけで終わっている。
77年、本木は誰に看取られることもなく、新宿のアパートでひっそりと死んでいた。前日には大蔵映画でシナリオ直しを社長の大蔵貢と行っていたという。死因は心不全で62歳であった。
死の直前まで活動はしていたが、その生活は借金に追いまくられ、健康保険証も住民票も預金もなかったという。急死ということもあり、2本は没後の公開となっている。
通夜には、かつてのライバルで当時は東宝の社長となっていた田中友幸も出席した。本木を何とかカムバックさせられないか考えていたという。
翌月行われた「本木荘二郎を偲ぶ会」には、大蔵貢などピンク映画の人脈以外にも東宝時代の人脈である田中や藤本真澄、本多猪四郎、小国英雄、志村喬なども姿を見せたというが、黒澤明は姿を見せなかった。山本晋也が黒澤に直接電話した際、「本木とはもうお別れしたから」と答えていたという。
ピンク映画(監督・女優)第一号
まず、「ピンク映画」という言葉については内外タイムスの記者であった村井実が63年に使用したのが最初らしい。こういった映画はこの言葉より早くからあり、何と呼んだらいいか村井が考えついたのが「おピンク映画」という言葉だったのである。
その村井がピンク映画第一号としているのが「肉体の市場」(62年)という作品である。正確にはわからないのが実情だが、この作品は警視庁にワイセツ容疑で摘発されたということで、第一号と考えているのである。
「肉体の市場」は製作が協立映画、監督は小林悟、出演は香取環、扇町京子、江波志郎ら。協立映画というのは大蔵映画の傍系会社で、監督の小林、出演の扇町、江波はみんな新東宝の出身である。
新東宝といえば、大蔵貢。新東宝の末期からエログロ路線を進み始めたていたが、社長を退任した後の62年に大蔵映画を設立し、こういったお色気映画を製作し始めたのである。この作品もその流れの一環である。
「肉体の市場」をピンク映画第一号としたので、ピンク監督第一号は必然的に小林悟となる。監督デビューは新東宝時代で大空真弓主演の「十代の曲り角」(59年)であった。
売れっ子になり、あちこちのプロダクションでピンク映画を撮り続けたが、一時期いやになったからと姿を消すが、数年後に復帰。本名以外にも左次郎、松本千之などの監督名を使って、月に三本ペースでピンク映画を撮っていたという。
この流れで、ピンク女優第一号は香取環となる。ミスユニバースで準ミスに選ばれ、その後第4期日活ニューフェイスとなる。同期には赤木圭一郎がいた。久木登紀子名義で活動していたが、端役ばかりで61年に退社したところ、この作品の主演が舞い込んだのであった。
日活時代に東宝の船戸順と結婚しているが七年で別れている。その後はピンク映画の監督や俳優と結婚、離婚、同棲を繰り返していった。ピンク映画界のトップ女優として約10年君臨していたが、72年頃に姿を消した。出演作品は600本にのぼると言われている。
もう一人の扇町京子は、新東宝で名前はよく見かけたがやはり端役が多かった。新東宝亡き後は大蔵映画に移り、やがて監督にまでなった。「やくざ芸者」(65年)がそれで、彼女はまだ24歳であった。この翌年、彼女は大蔵貢の秘書となり、試写室で二人一緒の仲むつまじい姿がよく見られたという。彼女が作品を見て、いい点をつけた監督には次回作が決まるというような噂が流れたというが、ある種の発言力があったことは確かだと思われる。大蔵貢の死(78年)で大蔵映画を去ることになるが、大蔵一族が慰労金を支払うことを検討したという。
津川雅彦、長女を誘拐される
夫妻の間に長女・真由子が誕生したのは、74年3月のことであった。雪路は、つわりもなくいたって元気で、出産予定日の前日には仲人でもある長谷川一夫の公演を見に行っていたという。舞台の上から彼女の姿を見つけた長谷川が「明日生まれるというのに何をしてるんや。こっちが落ち着かないから、はよ帰ってや」と伝言してきたという。
逆に津川の方が、気が気でなかったようで、毎朝歯を磨いていると気持ち悪くなり嘔吐していたらしい。雪路はこれを「父親がつわりになった」と表現している。津川は妊娠・育児の本を何冊も読破していたという。
事件は真由子の誕生から5か月後に起こった。8月15日の未明が津川宅に男が進入し、寝ていた真由子を連れ去ったのである。そばで家政婦が寝ていたのだが、津川と錯覚したのだという。誘拐に気づいた津川はすぐに警察に連絡した。
今では考えられないことだが、当時はまだ芸能人などの住所が雑誌に載ったりするような時代である。犯人も週刊誌から津川家の情報を得ていたのであった。実は佐川満男・伊東ゆかり夫妻の子供を狙ったらしいが住所がわからなかったため変更したという。
まもなく犯人から身代金を第一勧銀の指定の口座に振り込むよう連絡があった。当時のオンラインシステムでは、取引のあったCD(キャッシュディスペンサー)機を特定できなかったため、手ごわい事件だったのである。
しかし、第一勧銀のSEが一晩で急遽ソフトウェアを書き換え、取引CD機が特定できるようにしたのである。その結果、引き落としを行った犯人を逮捕することに成功した。
真由子は犯人の自宅である千葉のアパートで無事に見付かった。犯人の妻は誘拐とは知らず、会社の重役の娘を預かったと聞かされていたらしい。
事件は41時間で解決したが、その間捜査本部と報道各社の間では報道協定が敷かれていた。当然、周りは事件を知らないわけだが、間の悪いことに津川に電話をしてきたのが、新国劇の重鎮・辰巳柳太郎であった。当日、津川とゴルフの約束をしていたからである。
「急用ができた」という津川に、怒った辰巳は30分も説教をかましたのであった。翌日、事件を知った辰巳は津川宅に飛んできて、泣きながら土下座して謝罪したという。
その翌日、津川夫妻は警視庁にお礼にでかけ、津川が「日本の警察を尊敬します。もうおまわりともポリ公とも呼びません。<お警察さん>と呼びます」と挨拶し、警察官に大うけだったという。
元々、出産直後からミルクを飲ませたり、おしめを変えたりと積極的に真由子の世話をしていた津川だったが、この件でさらに愛情を注ぐようになったのは言うまでもない。そのせいか、真由子はすっかりパパっ子になり、40歳になった現在も独身のようである。
津川雅彦、朝丘雪路と結婚する
当時のマスコミは「朝丘雪路、失恋ショックで入院」と書き立てていたが、雪路本人の話では、それは事実ではないという。橋蔵とのことは、全て父・伊東深水の独断専行で進めていた話であり、破局報道がでたときは、本人同士の関係はとっくにきれていたのだという。むしろ、芸能マスコミの凄まじい追跡取材でノイローゼ気味となり体調を崩したのが入院の原因だったらしい。
娘の身を案じた深水は、入院先の慈恵医大病院の親しい教授に相談し、見合いをさせることにした。その相手が、偶然にも今回雪路の初診を担当した伏谷靖医師だったのである。
雪路と伏谷は、66年10月に婚約を発表し、翌67年に結婚している。しかし、医局の研究室にこもりがちな堅物医師と仕事が命の女優では体質が違い過ぎていたのである。そんな時に、「津川雅彦との不倫の恋」という記事が出て、一気に離婚の危機になったのである。
当人たちは、この時点では何もなかったと主張するが、小姑の多い伏谷家では大騒ぎとなり、「朝丘雪路の名を捨てるか」などと迫られるが、雪路にその気は全くなく破局が決定的となった。
二人の間には、一男がいたが八戸にある伏谷の実家に連れさられてしまい、雪路が離婚届に捺印したのは71年の暮れであった。
黙っていてもいずれはという感じではあったが、結局は津川との不倫報道が決定打となる形になってしまったのである。しかも、この離婚後、津川は彼女に猛アタックをかけるのである。
雪路からすれば、「離婚の原因」となった津川の求愛はとんでもないことであり、適当に追い払っていたのだが、火に油を注いだ状態となり、津川はほとんどストーカーまがいの行動に出ていた。
家の前に車を止めて何日も張り込むとか、彼女が北海道でロケだと聞くと、翌日東京で自分の仕事があっても北海道まで駆けつけ、10分だけ会って、トンボ帰りするというようなこともやったという。
雪路は頑なに拒んでいたのだが、72年5月に父・伊東深水が死去。子供をとられてしまった寂しさも加わり、虚脱状態となった。そこにつけこんで、というと言葉は悪いが津川は雪路を口説きおとすことに成功したのである。
これだけやっていても、津川は表向き二人の熱愛報道を否定し続けていたのである。そんな経緯をあって73年に婚約発表を行ったときの報道陣の風当たりは強かったという。しかし、津川はマイペースで「ぼくらは最初から性格不一致のすれ違い夫婦なので長持ちするでしょう」と言い切ったのである。
この1ヵ月後に、長谷川一夫夫妻の媒酌で二人は結婚式を挙げたのであった。津川31歳、雪路36歳であった。
津川雅彦、悪役を始める
司会者の質問に「理屈で言えば、不倫になりますけど」などと答えたところ、局の重役は「不倫を公言する男をキャスターにしておけない」と津川をクビにしてしまったのである。
芸能マスコミの攻撃は予想以上に激しく、津川は叔父のマキノ雅弘の家に身を潜めていたのである。この間、兄の長門裕之がこの「事件」のコメンテータを務めたりして株を上げ、逆に津川の悪名は高まったのである。
ここからは有名な話になるが、プライベートで津川と付き合いのあった朝日放送のディレクター松本明は、「女にモテてスキャンダルにまみれたヤツは決して人気を取り戻せない。だから悪役をやるしかない」と津川を悪役に誘ったのである。
それが「必殺仕掛人」(72年)であった。番組は人気を呼び、シリーズ化され、津川は初期シリーズの悪役の常連となった。個人的にも見ていたのだが、これが初悪役だったとは当時は知る由もなかった。
このシリーズの監督は、深作欣二、工藤栄一、松野宏軌、三隅研次といった映画出身の面子が並んでいたので、松本明も名前は知らなかったが、そうなのかと思っていた。
「必殺必中仕事屋稼業」(75年)では、津川は松竹時代からの親友である小坂一也と共に松本が監督を担当した20話に出演している。ちなみに小坂は被害者役で、彼を死に追い込んだ津川演じるイカサマ賭博師も殺されないという異例の回であった。その代わり、緒方拳、林隆三、草笛光子演じる仕事屋に博打で、数万両の借金を負わされるのである。
ところで、後に妻となる朝丘雪路との出会いは71年のことである。名古屋御園座公演で、二人が共演した際、またしても芸能誌に「不倫の恋」と書かれてしまうのである。雪路はその時点では、他人の妻だったからである。
津川は母・恵美子に溺愛されて育ったが、雪路も父の日本画家・伊東深水に盲愛されて育った過保護なお嬢さんだった。
62年に映画「血煙り笠」で、大川橋蔵と雪路は共演し、二人は親しくなったのだが、深水は娘可愛さから独断で橋蔵との結婚話を進めていくのである。
橋蔵が雪路にダイヤの婚約指輪を送ったという噂がだった際も、深水が「あれは旅行みやげで、婚約指輪ではないです。でも雪路もトシだし、橋蔵さんはいい相手だと思う」とマスコミ相手に答え、二人が「婚約」と書きたてられたのである。
しかし、その直後に橋蔵には、10年付き合っている恋人がいることが判明した。相手は祇園の芸鼓で真理子とい名であったが、深水は動じず「30過ぎの男に女の一人や二人いない方がおかしいんだ」と余裕を見せていた。
しばらくして、橋蔵と真理子の間に男の子が産まれていたことが判明する。さすがに、深水も態度を変え、橋蔵に「あなたが責任を取りなさい。娘はあなたにまわしません」と告げたのである。
橋蔵は65年当初は記者会見で「雪路さんとも、真理子とも結婚はしません」と語ったのだが、結局翌66年に真理子との結婚を発表したのである。
雪路本人ではなく、父親・深水と橋蔵の間で話は進んでいたのである。雪路本人は父を信頼していたといい、言うとおりに結婚しても不思議ではなかったのである。
津川雅彦&デヴィ夫人のスキャンダル
そして、69年「津川雅彦、デビ夫人と結婚か」というような記事が新聞に載った。今もバラエティなどで活躍している、あのデヴィ夫人である。
この人が赤坂のナイトクラブでホステスをしていた時に、インドネシアのスカルノ大統領に見染められて、その第三夫人となった、というような経緯は有名だと思うが、細かいことは知らない人がほとんどではないだろうか。
日本名(旧名)は根本七保子といい、外国人のような顔立ちだが、両親は普通に日本人(父は大工)で、貧しい家庭環境だったという。
彼女をスカルノ大統領が見初めたというのは事実らしいが、夫人にまでなったのには裏があったようだ。当時の日本は、インドネシアに敗戦処理のための賠償金を支払っており、その金で日本から船舶を買うことになっていた。
この賠償金ビジネスに群がっていた人物たち(児玉誉士夫等の名が挙がっている)が、59年彼女を口説いて東日貿易の秘書という触れ込みで19歳だった彼女をインドネシアに送り込んだというものだったようである。
実はこれと同じ経緯で、夫人となったのがバスキ夫人(本名・金勢さき子)だったのだが、デヴィの登場で、スカルノはバスキに興味を失い、失意の彼女は自殺してしまったのである。
デヴィが正式な第三夫人となったのは、62年のことだが、同時期の実母がなくなり、実弟も自殺している。
65年にスカルノが失脚し、彼女は一人娘とパリに亡命。そしてこの69年、日本に里帰りした際、パーティで津川と知り合い恋に落ちたというものである。
当時、デヴィはスカルノと籍が入ったままであり、この「不倫の恋」は芸能マスコミの格好の話題となったのである。二人とも結婚については否定していたのだが、長門は結婚してもおかしくないと思っていたそうである。
デヴィは7月にパリに帰ったのだが、翌月に津川がスイスに飛び、ジュネーブでデヴィと密会したことから、また騒ぎになったが、それからは何事もなくスキャンダル騒ぎは収束した。
津川本人の談では、この騒ぎの発端は津川が18歳から愛していたという年上の女優Yに失恋したことが原因だという。映画雑誌の対談で知り合い相思相愛となったが、生活設計の違いからYは生活基盤のしっかりした中年男性と婚約してしまったのだという。
ある日、田宮二郎主宰のパーティにYが来ていると連絡を受け、のこのこ出向いた津川だったが既に彼女は帰った後で、代わりに「初めまして」と声をかけて来たのがデヴィだったのである。Yに振られてヤケ気味だったこともあり、デヴィに近づいたのだという。
スイスに飛んだのも、Yの結婚式があったので、日本にいたくなかったからだったらしい。しかし、このデヴィ騒動はこの後の津川にいろんな影響をもたらすことになったのである。
ところで、年上女優Yとは誰か。参考にしている「津川雅彦物語・カツドウ屋血族」にYとなっていたので、それに準じたが、自分が調べた限りでは、この時期に結婚した女優Yで当てはまるのは司葉子くらいなのだが、正解かどうかは保証しない。
津川雅彦、松竹を追われる
大島渚監督の「太陽の墓場」「日本の夜と霧」など松竹ヌーヴェベルバーグと言われる作品にも出演したが、津川自身がこういった映画に合わないこともあり、状況打破には至らなかった。
一方の長門裕之は、今村昌平と出会い「にあんちゃん」「豚と軍艦」など代表作をものにしていった。
さらに、岩下志麻主演の「古都」(63年)の撮影直前に配役が津川から長門に変えられるという出来事もあった。長門が日活を辞めフリーになっていたのである。
63年の秋、津川は松竹社長に呼び出され、次の契約更改はないことを告げられた。その際に、松竹のイメージダウンになるとまで言われてしまうのである。そして、64年2月の契約切れと共に津川は松竹を去ることになったのだった。
どん底に陥った津川を救ったのはテレビ界であった。当時としては破格の制作費である1本420万をかけたNET(テレビ朝日)の大作「徳川家康」(64~65年)で、織田信長役に抜擢されたのである。当初は違う役でキャスティングされていたが、津川の「織田信長論」(詳細不明)を聞いて、急遽変更されたのだという。この信長役で津川は初めてスタッフから演技を褒められたという。
主演は北大路欣也、市川右太衛門親子で、家康の青年期を北大路、壮年期を右太衛門が演じたようである。同様に秀吉役は青年期を山本学、壮年期を西村晃、信長は少年期を住田知仁つまり風間杜夫が、そして青年期を津川が演じ、壮年期は芦田伸介が演じたようである。他にも三國連太郎、山田五十鈴、江原真二郎、村松英子、堀雄二、伊藤雄之助、志村喬、山形勲、岸田森、森光子、後の妻である朝丘雪路らが出演しているようだ。
全70回放送されているが、予定は1年半だったというので、二ヶ月ほど短縮されたようである。豪華キャストによる大作の割には資料も少なく、話題になることもほとんどないドラマである。
映画では長門に役を奪われた「古都」のNHK製作の単発ドラマ版(64年)に出演している。こちらの主演は小林千登勢、中村鴈治郎など。
そしてNHKの国民的人気ドラマだった「おはなはん」(66年)にその息子役で途中参加して、ある意味因縁のあった樫山文枝と共演した。樫山の父・欽四郎は津川が中退した早大学院の厳しい学院長だった人物である。「君のお父さんに苛められて、退学にさせられた」などと樫山に吹き込んだという。
この頃の津川の映画作品に眼を向けると、松竹を追われたからといって映画界を追われたわけではない。特に叔父のマキノ雅弘が「次郎長三国志」「日本侠客伝」などに津川を起用しており東映作品への出演が多くなっている。
津川雅彦、松竹へ移籍する
そこに表れたのが、津川の叔父である東映専務・マキノ光雄であった。二つ上の姉が津川の母・恵美子で、一つ上の兄が映画監督・マキノ雅弘である。
こういったいざこざに慣れている光雄は、まず日活の「優先4ヶ月契約」を尊重して、津川を翌58年の「禁じられた唇」まで日活に出演させた上で、彼の身柄を自分が預かると提案したのである。これは、東映にとって都合のいい話なのだが、日活は松竹と紛糾しなくてすむため納得したのである。
しかし、東映の項でも書いたとおり、57年10月に光雄は脳腫瘍の発作で倒れてしまう。そのまま12月には、急逝してしまうのである。48歳の若さであった。
マキノ光雄の死で津川問題はまたこじれ、58年1月に津川は再度フリー宣言をするのだが、日活は協定の「新人拘束期間・五年」を持ち出して認めなかったので、津川は映画に出演できなくなった。まだ世間知らずであろう18歳の少年には酷な出来事だったといえる。
六社協定に関しては、労務局人権擁護部が調査に乗り出すなどの動きもあり、58年6月に津川はやっと松竹との専属契約を結んだのである。しかし、松竹側の配慮で冷却期間をおくことになり、津川はアメリカに留学することになったのだった。同年10月に渡米し、翌59年2月末に帰国した。
こうして、津川は鳴り物入りで松竹に迎えられ、3月に行われた第1回作品「惜春鳥」(監督・木下恵介)の製作発表に臨んだのである。会場には伯母の沢村貞子、伯父の加東大介も激励に駆けつけた。
「惜春鳥」は、津川の他に、石浜朗、小坂一也、川津祐介、山本豊三の5大青春スターが演じる、幼馴染たちが再開することから始まる物語だ。他にも佐田啓二、有馬稲子、そして津川と同じく松竹第1回作品となる十朱幸代も出演している。
ちなみに、津川と山本は当時19歳であったが、他の三人はいずれも24歳であった。
本作はこれだけスターが出ていて、かつ木下恵介の作品であるにも関わらず、評判は芳しくなかったのである。それよりも津川は自分よりも、小坂や山本のほうに人気が集まったことが気になったという。
この59年、津川は7本の映画に出演するが、いずれも不入りであり、松竹では津川を非難する声が高まった。裕次郎は無理にしても、まだ兄貴の長門裕之の方がましだったというような声も聞かれたのである。
移り変わりの激しい芸能界ではあるが、津川が冷却期間を置いている間に、時代は正統派の二枚目から裕次郎や長門のようなブスのスター(津川談)が、受ける時代に変化していたのであった。
まあ、裕次郎もデビューから数年は二枚目だったと言って良いと思うのだが、津川は八頭身といわれるスタイルは羨ましかったが、その容貌については侮っていたといい、世間の価値観の転換に呆然としたという。