津川雅彦、悪役を始める
デヴィ夫人騒動のとき、津川雅彦は「奈良和モーニングショー」のキャスターを務めていた。せっかく騒動の本人が出演しているのだから、局側(NET)は「悪いようにはしないから」と津川・デヴィ熱愛事件を取り上げたのである。
司会者の質問に「理屈で言えば、不倫になりますけど」などと答えたところ、局の重役は「不倫を公言する男をキャスターにしておけない」と津川をクビにしてしまったのである。
芸能マスコミの攻撃は予想以上に激しく、津川は叔父のマキノ雅弘の家に身を潜めていたのである。この間、兄の長門裕之がこの「事件」のコメンテータを務めたりして株を上げ、逆に津川の悪名は高まったのである。
ここからは有名な話になるが、プライベートで津川と付き合いのあった朝日放送のディレクター松本明は、「女にモテてスキャンダルにまみれたヤツは決して人気を取り戻せない。だから悪役をやるしかない」と津川を悪役に誘ったのである。
それが「必殺仕掛人」(72年)であった。番組は人気を呼び、シリーズ化され、津川は初期シリーズの悪役の常連となった。個人的にも見ていたのだが、これが初悪役だったとは当時は知る由もなかった。
このシリーズの監督は、深作欣二、工藤栄一、松野宏軌、三隅研次といった映画出身の面子が並んでいたので、松本明も名前は知らなかったが、そうなのかと思っていた。
「必殺必中仕事屋稼業」(75年)では、津川は松竹時代からの親友である小坂一也と共に松本が監督を担当した20話に出演している。ちなみに小坂は被害者役で、彼を死に追い込んだ津川演じるイカサマ賭博師も殺されないという異例の回であった。その代わり、緒方拳、林隆三、草笛光子演じる仕事屋に博打で、数万両の借金を負わされるのである。
ところで、後に妻となる朝丘雪路との出会いは71年のことである。名古屋御園座公演で、二人が共演した際、またしても芸能誌に「不倫の恋」と書かれてしまうのである。雪路はその時点では、他人の妻だったからである。
津川は母・恵美子に溺愛されて育ったが、雪路も父の日本画家・伊東深水に盲愛されて育った過保護なお嬢さんだった。
62年に映画「血煙り笠」で、大川橋蔵と雪路は共演し、二人は親しくなったのだが、深水は娘可愛さから独断で橋蔵との結婚話を進めていくのである。
橋蔵が雪路にダイヤの婚約指輪を送ったという噂がだった際も、深水が「あれは旅行みやげで、婚約指輪ではないです。でも雪路もトシだし、橋蔵さんはいい相手だと思う」とマスコミ相手に答え、二人が「婚約」と書きたてられたのである。
しかし、その直後に橋蔵には、10年付き合っている恋人がいることが判明した。相手は祇園の芸鼓で真理子とい名であったが、深水は動じず「30過ぎの男に女の一人や二人いない方がおかしいんだ」と余裕を見せていた。
しばらくして、橋蔵と真理子の間に男の子が産まれていたことが判明する。さすがに、深水も態度を変え、橋蔵に「あなたが責任を取りなさい。娘はあなたにまわしません」と告げたのである。
橋蔵は65年当初は記者会見で「雪路さんとも、真理子とも結婚はしません」と語ったのだが、結局翌66年に真理子との結婚を発表したのである。
雪路本人ではなく、父親・深水と橋蔵の間で話は進んでいたのである。雪路本人は父を信頼していたといい、言うとおりに結婚しても不思議ではなかったのである。
司会者の質問に「理屈で言えば、不倫になりますけど」などと答えたところ、局の重役は「不倫を公言する男をキャスターにしておけない」と津川をクビにしてしまったのである。
芸能マスコミの攻撃は予想以上に激しく、津川は叔父のマキノ雅弘の家に身を潜めていたのである。この間、兄の長門裕之がこの「事件」のコメンテータを務めたりして株を上げ、逆に津川の悪名は高まったのである。
ここからは有名な話になるが、プライベートで津川と付き合いのあった朝日放送のディレクター松本明は、「女にモテてスキャンダルにまみれたヤツは決して人気を取り戻せない。だから悪役をやるしかない」と津川を悪役に誘ったのである。
それが「必殺仕掛人」(72年)であった。番組は人気を呼び、シリーズ化され、津川は初期シリーズの悪役の常連となった。個人的にも見ていたのだが、これが初悪役だったとは当時は知る由もなかった。
このシリーズの監督は、深作欣二、工藤栄一、松野宏軌、三隅研次といった映画出身の面子が並んでいたので、松本明も名前は知らなかったが、そうなのかと思っていた。
「必殺必中仕事屋稼業」(75年)では、津川は松竹時代からの親友である小坂一也と共に松本が監督を担当した20話に出演している。ちなみに小坂は被害者役で、彼を死に追い込んだ津川演じるイカサマ賭博師も殺されないという異例の回であった。その代わり、緒方拳、林隆三、草笛光子演じる仕事屋に博打で、数万両の借金を負わされるのである。
ところで、後に妻となる朝丘雪路との出会いは71年のことである。名古屋御園座公演で、二人が共演した際、またしても芸能誌に「不倫の恋」と書かれてしまうのである。雪路はその時点では、他人の妻だったからである。
津川は母・恵美子に溺愛されて育ったが、雪路も父の日本画家・伊東深水に盲愛されて育った過保護なお嬢さんだった。
62年に映画「血煙り笠」で、大川橋蔵と雪路は共演し、二人は親しくなったのだが、深水は娘可愛さから独断で橋蔵との結婚話を進めていくのである。
橋蔵が雪路にダイヤの婚約指輪を送ったという噂がだった際も、深水が「あれは旅行みやげで、婚約指輪ではないです。でも雪路もトシだし、橋蔵さんはいい相手だと思う」とマスコミ相手に答え、二人が「婚約」と書きたてられたのである。
しかし、その直後に橋蔵には、10年付き合っている恋人がいることが判明した。相手は祇園の芸鼓で真理子とい名であったが、深水は動じず「30過ぎの男に女の一人や二人いない方がおかしいんだ」と余裕を見せていた。
しばらくして、橋蔵と真理子の間に男の子が産まれていたことが判明する。さすがに、深水も態度を変え、橋蔵に「あなたが責任を取りなさい。娘はあなたにまわしません」と告げたのである。
橋蔵は65年当初は記者会見で「雪路さんとも、真理子とも結婚はしません」と語ったのだが、結局翌66年に真理子との結婚を発表したのである。
雪路本人ではなく、父親・深水と橋蔵の間で話は進んでいたのである。雪路本人は父を信頼していたといい、言うとおりに結婚しても不思議ではなかったのである。