お宝映画・番組私的見聞録 -116ページ目

悲劇の女優たち

以前書いたとおり、白川和子、宮下順子、東てる美、美保純などのように一般作品の世界に転向し、成功を収めたピンク女優たちもいるが、悲劇に見舞われた女優も数多くいるのである。
鈴木いづみの名前は、個人的にもよく見かけるが、彼女は主に「浅香なおみ」の名前でピンク女優として10数本に出演している。デビューは70年だが、彼女はその70年度の「文学界」新人賞候補になったのである。それをきっかけに作家として活動するようになる。
当時の彼女を取材した内外タイムスの記者だった村井実によれば、住んでいた原宿の六畳一間のアパートはひどかったという。散らかし放題で今で言う「片付けられない女」の部屋だったようだ。
一般作では唐十郎主演の「銭ゲバ」(70年)や寺山修司の「書を捨て町へ出よう」(71年)などに、鈴木いずみ名義(「づ」の字が違う)で出演している。
73年にサックス奏者の阿部薫と結婚するが、阿部は5年後の78年に急死している。それがきっかけなのか、やがて健康を損ね生活保護を受けるようになったという。そして、86年に自宅で首吊り自殺している。享年36歳であった。
新藤兼人が監督し、新人だった原田大二郎が主演した「裸の十九才」(70年)に黒葉ナナという女優が出演しているが、彼女は「渚マリ」の名でピンク女優として活動していた。
その彼女が72年にガス自殺を図った。そのときは一命を取り留めたが、その2ヵ月後に再び自殺を図り今度は死んでしまった。彼女には心臓神経不安症とてんかんの持病があったのに加え、所属プロに稼ぎを吸い取られていたのが原因だろうと言われている。
この二人は自殺だが、殺害されたのが横浜マコである。67年アパートの自室で絞殺体で発見される。犯人はほぼ行きずりの男で、ピンク映画に出演しているから金を持っているだろうと近づき、断られたのでカッとなって殺したというのが真相であった。
本名は赤島政子。実の母は20歳で彼女を出産した直後に失踪し、祖父母に育てられたという。享年20歳であった。
74年にデビューした仁科鳩美は約40本のピンク映画に出演しているが、大ヒットした「犬神家の一族」(76年)にも野々宮晴世役で出演している。一般作はこれだけのようで、翌77年には女優を引退している。しかし、79年に脳溢血で死去。27歳の若さであった。

金瓶梅

中国4大奇書の一つである「金瓶梅」が、日本では68年に映画化されている。
監督が若松孝二で、脚本は大和屋竺。作品内容も内容だし、ピンク映画かと思ってしまうのだが、成人指定ではあるが、配給は松竹なので(撮影は東映大泉撮影所)、メジャー作品ということになる。
当初はその松竹の香山美子らの出演が予定されていたというが、その内容に恐れをなし、軒並み降りてしまったという(そりゃそうだろう)。
若松は「裸になれないのは女優じゃない!」と怒っていたそうだが、結局主役の藩金蓮を演じたのは当時、現代人劇場という劇団にいた真山知子であった。
真山は東映ニューフェース6期生で、千葉真一、亀石征一郎、太地喜和子などが同期である。しかし2年で退社し、65年には蜷川幸雄と結婚している。そして蜷川と前述の現代人劇場を結成したのである。
大映末期や東映のセクシー系映画への出演も多いが、テレビでもアクションドラマや時代劇でよく見かける顔だと思う。たいていの場合悪女だったりするが。
その相手役となるのが高島史旭、と言ってもピンとこないかも知れないが、竜崎勝の本名である。「金瓶梅」には高島名義で出演しているのである(というよりまだ改名前だったのかも)。彼が高島彩の父だというのはここでも以前に書いた。
そして、もう一人の相手役となるのが伊丹十三である。66年に前妻の川喜多和子と離婚し、この68年に芸名を一三から十三に変えている(マイナスからプラスにという意味)。つまり「金瓶梅」は十三になってまもない頃の出演である。ちなみに、宮本信子とは翌69年に結婚している。
他にも大映女優の若松和子。若松孝二と血縁関係はない(と思われる)。共に本名ではないし、(若松孝二は伊藤、若松和子は星)、同じ東北ではあるが出身地も違う。孝二は宮城、和子は会津若松なので「若松」という芸名になったようだ。
松竹勢で出演したのは諸角啓二郎、紅理子くらいで、後は若松映画の常連であった山谷初男や麿赤児、大久保鷹、浅丘ルリ子ならぬ浅利ルリ子なる女優が出演している。
それにしても、若松孝二の本名がイトウタカシ、山本晋也の本名がイトウタダシという一文字違いなのである。面白い偶然である。

柏木優子と久野四郎など

前回紹介した小笠原章二郎らが出演した「おんな」(64年)という作品だが、「映画論叢」の記事には「某俳優が演出した」と何故か名前が伏せられていたのだが、調べるとすぐに判明した。
「おんな」の監督と原作は伊豆肇だったのである。地味なイメージから意外に感じるが、おそらくその人脈で、川喜多雄二、星美智子、江見俊太郎らが出演することになったのだろう。伊豆肇が監督や原作を担当したのは、本作以外見当たらないので、唯一の作品が成人映画だったということになる。これについてあまり語られることもないようだ。
主演の柏木優子は、映画データベース等で見る限り出演作は14本と少ないようだが、東映、大映、東宝、新東宝、日活と綺麗に1~2本づつ出演しているのである。5本ほどある松竹も大船だったり京都だったりする。
おそらく、これ以外にも出演していると思われるが、ほぼ一般作なのである。しかし東映では「ずべ公天使」(60年)、日活では「処女喪失」(65年)とタイトルはピンク映画でもおかしくないものが多かったりする。
「ずべ公天使」では、「おんな」にも出演している星美智子と共演しており、「ずべ公天使」と「処女喪失」の両作では、藤江リカ(五十嵐藤江)と共演している。
柏木優子の詳しいプロフィールはわからないが、映画デビュー作と思われる東宝の「女子大学生 私は勝負する」(59年)では、共演している野川美子(由美子ではない)、檜麻子と共に「コメット・スターズ」として売り出されたらしい。
62年頃は、後に劇団東俳を設立したコメディアンの久野四郎と「ファニー・カップル」なるコンビを組み舞台やショーの司会、コントをしていたという。
久野四郎はテレビの「月光仮面」などにも出演していたが、ピンク映画にも何本か出演しており、「新婚の悶え」(63年)では、主人公を演じていたりする。共演はお馴染み香取環と、新東宝第3期スターレットであった浜野佳子などである。
浜野は新東宝末期まで在籍していたようだが、ほぼ脇役に終始していた。ピンク映画出演もこれ以外には見当たらず、記録上はこれが最後の映画出演となっている。
小笠原章二郎に話を戻すと、彼は三好(三善)英芳の名前で監督などもやっていたが、ピンク映画である「愛欲の十三階段」(65年)には、三好英芳の名で出演しているようだ。

60代からのピンク出演

前回、50代にしてピンク映画に出演したベテラン(かつての)スター俳優を何人かピックアップしてみたが、今回はそれらを上回る60代にしてピンク映画に出演した人を挙げてみたい。
「映画論叢」という雑誌で東舎利樹という人が、そういう記事を書いているのだが、それを参考にさせてもらった。
「赤いしごき」(65年)という成人映画は、主演は香取環だが、そのポスターには、戦後は主に東映京都の作品で見かけることの多かった團徳麿、尾上華丈、大文字秀介といった大ベテランの名が並んでいたりする。
團徳麿(1900生まれ)については、ここでも書いたことがあるが、デビュー当時は太田黒黄吉を名乗り、変装の名人と言われ、丹下左膳を演じた俳優第1号でもある。
個人的には老忍者のイメージである。既に60を超えながらも「隠密剣士」や映画「伊賀の影丸」では、敵忍者の一人を演じていた。ピンク映画には5~6本は出演しているようだ。ちなみに、娘婿は五味龍太郎である。
尾上華丈(1898生まれ)は正直良く知らないのだが、デビュー当時は市川百々太郎を名乗り、28~29年ころには主演作品もあったようだ。出演映画は数百本に上るという。刺青を描くという特技があり「弁天小僧」(56年)での市川雷蔵の刺青は彼が描いたという。
大文字秀介の詳しいプロフィールはわからないが、テレビドラマの「江戸忍法帖」(66年)では甲賀七忍の一人・幻五郎を演じていたが、見た感じでは結構年配のように見えた。しかし、九の一の葉月(前田通子)とは夫婦という設定であった。監督が志村敏夫なので、前田が出演していたのだろうか。
「おんな」(64年)という作品に作家の役で出演しているのが、小笠原章二郎(1902生まれ)である。父は海軍中将も務めた小笠原長生子爵という家柄であった。しかし、長兄の明峰は映画監督になり、次男の章二郎も俳優となっため、家督は四男が引き継いだという。
「松平長七郎」(29年)などでは主演も務めたが、戦後は脇にまわり「和蘭囃子」(54年)で演じた白塗りの殿様は、志村けんのバカ殿様の原型になったという。
この前年(63年)に、ピンク映画デビューした、松井康子(牧和子)は、小笠原の姪にあたるということで、ピンク映画とは縁があったということになるのだろうか。
なお「おんな」には、小笠原以外にも、川喜多雄二、星美智子、江見俊太郎といった有名どころも出演しているようだ。さらに友情出演で、天知茂、野川由美子、人見きよしがカメオ的に出演しているらしい。

50代からのピンク出演

今回はピンク映画に出演していた男優について触れてみたい。
藤井貢(1908生まれ)は戦前のスター俳優であった。慶大ラグビー部出身で、在学中にスカウトされ松竹蒲田入りし、「若旦那シリーズ」など多くの主演を務めていた。
戦後は脇に回っていた藤井だが、還暦になろうかという68~69年にかけて10数本のピンク映画に出演した。
その藤井が松竹蒲田を退社した後、若旦那シリーズを継いだのが近衛敏明(1911生まれ)である。慶大の藤井に対して、彼は早大の出身であった。すぐに脇役に回るが、本人は脇役の方があっていると思っていたらしい。
戦後は大映、新東宝で活躍し、ピンク映画には63~65年頃に数本出演しているようだ。
その近衛と同時代に新東宝で活躍していたのが九重京司(1910生まれ)である。元華族の東京府知事の一人息子として生まれ、この人も慶大の出身である。やはり松竹蒲田に役者ではなく助監督として入社し、小津組に配属された。
やがて東宝劇団の俳優となり、東宝の宣伝部長を務め、戦後は明治座の文芸部長に転じ、54年製作再開直後の日活「平手造酒」で映画デビューを果たし、55年より新東宝の俳優となるという経歴の持ち主だ。
ピンク映画には、ここで第1号と紹介した「肉体の市場」から出演しており、以来700本あまりの作品に出演し「ピンク男優の父」と言われていたようだ。
佐伯秀雄(1912生まれ)は明大中退。34年にPCL(東宝)に入社し、その年「あるぷす大将」で映画デビューしている。主役級になり、原節子や入江たか子の相手役を務めたこともある。共演の多かった霧立のぼると42年に結婚し(44年離婚)、設けた娘は後に霧立はるみとして女優デビューした。
ピンク映画には、63年頃から出演していたようである。高木丈夫つまり本木荘二郎が監督した「不貞母娘」という作品のポスターには佐伯が大きく映っている。本木とは東宝で顔を合わせているはずなので、その縁での出演だろうか。
なお、佐伯は晩年「現役最高齢の男性ファッションモデル/ボーディービルダー」などと雑誌に紹介されたりしており、93年には81歳のボディビルダーとしてテレビ出演した。
ここに挙げた4人はほぼ同世代で、いずれも50代になってからのピンク映画出演ということになる。戦前は主演も務めた(九重は違うが)という共通点もある。いずれも映画にピンクも一般もないという考えだったのかもしれない。

城山路子(光岡早苗)と西朱実

今回は、新東宝出身で成人映画に出演した人たちを何人か挙げてみたいと思う。
脱がないピンク女優と言われたのが、城山路子である。脱がない、つまり下着姿までということだが、それで成立していたのだから、ある意味たいしたものである。監督たちが脱がそうとしても泣いて拒絶したという。それでも人気はあったようである。
彼女のキャリアは古く、実はデビューは53年で新東宝でスターレット2期生の光岡早苗である。といってもあまりピンと来る人はいないと思うが、当初は大きな役もあったが次第に脇にまわるようになり、56年に東映に移ったが、こちらでも脇役・端役が多かった。
64年からピンク映画の世界に転向し、65年からは城山路子の名を使い翌66年に引退し、バーを経営していたが、77年「熟れた夫人の乱れ咲き」に、光岡早苗名義で出演している。
新東宝出身といえば、西朱実も短期間ではあるが、成人映画に出演していた一人である。
西朱実もピンと来ないという人も多いかもしれないが、「太陽にほえろ」で、下川辰平演じる「長さん」こと野崎部長刑事の妻・康江を演じていた人といえば、わかる人もいるのではないか。この役では約10年にわたり、28回も出演しているのである。
新東宝時代もほぼ端役・脇役ばかりだが出演者の中にその名はよく見かける。
新東宝入社は光岡より1年早い52年で、最も古い出演記録は「恋の応援団長」という作品だが、これは多くの新東宝スターレット1期生(小笠原弘、高島忠夫ら)が顔見世デビューした作品でもある。
西朱実は久保菜穂子、南寿美子、山中美佐(宇治みさ子)らと「新東宝ニューフェイス」としてクレジットされている。久保と南はスターレット1期生だが、宇治は渡辺邦男監督の紹介での入社(翌年渡辺と共に東映に移籍し、55年に新東宝復帰)だし、西は経緯は不明だが、スターレットだったという話は聞いたことがない。
おそらくだが、スターレットとその他の新人を一緒くたにして他社と同じ「ニューフェイス」という表現を使ったのではないだろうか。
西のピンク映画出演は、やはり新東宝出身である小林悟が監督した「女群」(64年)が最初であり、66年にピンク映画界を去るまで主演作も3本ほどあったようだ。
新東宝スターレット1期生といえば、三原葉子がいる。エログロ映画の中心的存在で、その脱ぎっぷりでピンク映画に出演しても違和感のない存在であったが、そこは光岡や西とは違いスター女優であったこともあり、小さな独立プロの製作するピンク映画に出演することはなかった。
しかし、「徳川女系図」(68年)を始めとすると東映の成人向け映画・ポルノ映画にはよく出演していた。

谷ナオミと東てる美、宮下順子

白川和子に続いて、ピンク映画界からにっかつロマンポルノに引き抜かれたのが、谷ナオミある。
デビューは白川と同じ67年で、まだ18歳であった。縛って責める映画でたちまち人気になり、100本以上のピンク映画に出演した。彼女はその傍ら、「ナオミ劇団」を組織し、自ら座長となって各地の映画館でピンク芝居をして回っていた。その間には、東映の「徳川女系図」や日活の「女浮世風呂」などにも出演している。
当時、山辺というマネージヤーと同棲しており、彼が経営方面でかなりのやり手だったという。
そして、72年にロマンポルノに引き抜かれ「しとやかな獣たち」で田中真理と共演して、ロマンポルノ界での活躍が始まった。その一方では、まだピンク映画にも出ていたし、ナオミ劇団も続けていたのである。
74年、ロマンポルノのSM第一弾「花と蛇」に出演し、大ヒットしたことで、その種の作品への出演が続き「SMの女王」と呼ばれるようになったのである。
そんな彼女に、同じ福岡出身の18歳・東てる美が弟子入りした。東の叔父と山辺マネージャーが知り合いだったことから、まずナオミ劇団に参加して舞台を踏んだ後、谷が主演の「生贄夫人」の準主役でデビューした。東は谷との共演などで人気を得て、主演作もこなすようになっていく。
やがて、山辺と谷、そして東の三人は中目黒のマンションで同居するようになったのだが、しばらくして谷ナオミがマスコミに愛人(山辺)を弟子(東)に寝取られたと発表してしまった。山辺はそんな事実はないと反論したが、谷は彼と別れて独立したのである。
谷は79年の結婚して引退したが、東はそのまま山辺と結婚し、やがて一般女優への転進に成功している。
宮下順子もピンク映画からロマンポルノへ移った一人だが、彼女はまだデビューから丸一年しか経っていなかった。しかし、ピンク映画での出演作は36本もあったのである。あまりに忙しいので、アフレコは全て他人にまかせていたという。
デビューした時は22歳であったが、少し老けて見えることもあり人妻役が多かった。ロマンポルノでは「団地妻・忘れ得ぬ夜」(72年)で、二代目団地妻となり、白川の引退もあり、瞬く間にエース女優になっていった。
神代辰巳監督の「四畳半襖の裏張り」や田中登監督の「実録阿部定」などの話題作にも主演した。
彼女も一般女優への転進に成功した一人で、79年には「ダイナマイトどんどん」や「雲霧仁左衛門」といった一般映画への出演で、ブルーリボン助演女優賞を得るまでになったのである。

白川和子、デビューする

67年、白川和子がデビューし、ピンク映画界のスターとなった。
白川和子のスタートは、劇団活動であった。とはいっても「赤と黒」というポルノチックな実演をする劇団で、彼女は大学に入ってまもなくそこに参加したのだという。
「拷問金瓶梅」という演目は評判を呼び、霞ヶ関のイイノホールでも公演するに至ったのである。そんな中、白川は向井寛の目にとまり、「女子寮」という左京未知子主演の作品でデビューを果たし、大学も中退し、本格的にピンク映画女優として活動を始めたのである。
左京未知子は、56年「郷絢子」として日活でデビューし、まもなく「左京路子」に改名、翌57年には新東宝に移籍し、グラマー女優として活躍していた。新東宝等産後は「未知子」に表記を変え、テレビドラマ等に出演していたが、63年「不貞母娘」でピンク映画の世界に踏み出している。ちなみにその監督は高木丈夫つまり、少し前ここで取り上げた本木荘二郎であり、彼の3作目の監督作品であった。
話を白川和子に戻すと、彼女は「乳房の密漁」(68年)という作品の主役で注目され始め、あっという間に人気者になり、71年までには200本近くの作品に出演していたのである。
71年、にっかつロマンポルノがスタートし、白川はピンク映画界から引き抜かれ、その第1弾である「団地妻・昼下がりの情事」に主演して、一層注目されることになった。
日活の首脳陣がピンク映画をバカにしていたような態度だったため、脱ぐだけのピンク女優と言われたくなかったので、頑張ったと白川は語っている。
「にっかつの救世主」となった彼女だったが、そのわずか一年半後、結婚による引退を発表し、会社は仰天した。しかも相手は自社の営業マン(小西俊夫)だったのである。
引退・結婚に踏み切った理由を白川は「ある女優が会社に事実無根の告げ口をして、会社は自分を信用しなかったので辞める決心をした」のだという。
彼女の日活ロマンポルノでの活躍は一年半で終了した。出演数は20本。映画での団地妻が本物の団地妻となって前妻の連れ子二人を育てる生活に入ったのである。しかし、その地元の団地妻たちが「白川和子を追い出す会」を作るなど色々な嫌がらせを受けたという。
76年、生活を支えるために「青春の殺人者」で女優に復帰した。ちなみに原田美枝子の母親役である。
小西とは一度離婚したが、やがて復縁した。以降は一般女優として活動を続けている。

山本晋也、デビューする

ピンク映画の監督で、最も有名な人物といえばやはり山本晋也ということになるのではないだろうか。
本名は伊藤直(ただし)といい、仲間うちでは「チョクさん」と言われているらしい。日大を出た後、岩波映画へ入社し羽仁進の助監督となる。NET(現テレビ朝日)のADを務めた後、ピンク映画の助監督に転向した。これは、テレビだとギャラが七千円だったのが、ピンク映画だと四万円になったからだという。
小森白の東京興映での「狂い咲き」(65年)が監督デビュー作品である。当時まだ25歳であった。その若さでの監督昇進は珍しく、古参スタッフからは妬まれたりしたという。
三年目くらいから、エロティックコメディに才を見せるようになり、「女湯」「痴漢」「未亡人」の三シリーズを軸に70年代にかけて、250本もの作品を撮影した。
喜劇を撮るようになったのは、結婚したこと(67年)で、恐妻意識が芽生えたことがきっかけだったという。
「女湯」シリーズは、当時人気だったドラマ「時間ですよ」への対抗意識から作ったという。その一作目は「女湯物語」(68年)である。
「痴漢」シリーズは、ギネズブック掲載を目標に40本ほど撮られたが。達成には至っていない。その一作目は「痴漢の季節」(68年)。
「未亡人」シリーズは、「貸間あり・未亡人下宿」(69年)を皮切りに10数本を数える。主役の未亡人は小島マリ、青葉じゅん、大原恵子、橘雪子、すばる卿子と変わっているが、話のパターンは一緒である。やがてこのシリーズはにっかつの買取作品となり、ロマンポルノと併映されることになっている。
やがて、テレビに進出し山本晋也の名を有名にしたのは深夜番組「トゥナイト」(81~94年)であろう。「中年・晋也の真面目な社会学」というタイトルの、要するに性風俗レポートのコーナーで、個人的にも、山本のことを知った。
「トゥナイト2」(94~02年)とあわせて、約21年もの間出演し続けていたことになる。その一方で、ほとんど映画を撮ることはなくなっている。個人的にはあまり見かけないのだが、70半ばとなった現在でも、テレビに顔を出すことがあるようだ。

小森白と森美沙(梓英子)

ピンク映画の世界から一般映画へ転向して成功を収めた一人が梓英子である。
以前ここでも書いたと思うが、森美沙(美佐)の名で「青い乳房の埋葬」(64年)に出演したのがデビューである。当時、まだ17歳であった。
その後、「渇いた唇」「日本拷問刑罰史」「入れ墨お蝶」(いずれも64年)に出演して森美沙の名前は姿を消すが、その全てを監督しているのが新東宝出身の小森白(大滝翠名義あり)である。ちなみに白と書いて「きよし」と読む。
新東宝が潰れた後、大蔵貢に頼まれて70ミリの大作「太平洋戦争とひめゆり部隊」(62年)を撮ったのが小森である。興行的には苦戦し、大蔵はこの後二度と一般大作を作ることはなかった。
小森は小森プロを作り、ピンク映画に進出した。森美沙こと梓英子がピンク映画に出演することになったのは、小森が彼女の父親と友達で「君の娘さんを貸してくれ」と頼んだのがきっかけだったという。
本当だとすれば、頼む方も貸す方も出る方も、どうかと思うのだが、小森の話では彼女はとでも度胸が良かったという。特に「日本拷問刑罰史」は大ヒットしている。
森美沙は65年になって、松竹の青春映画「若いしぶき」に出演したのをきっかけに梓英子と名を改め、東映の任侠物や日活作品にも出演、そして67年からは大映の専属となっている。
テレビドラマにも並行して出演するようになり、時代劇からアクションもの、青春ドラマまで幅広く顔をだしている。一番有名なのは、おそらく「どてらい奴」での西郷輝彦演じる演じる主人公・猛造の妻・茂子役ではないだろうか。
大映時代、彼女がピンク映画出身ということは秘密になっていたそうである。今だったら簡単にバレてしまうだろうが、当時はホームビデオもなく、映画は映画館でしか見れない時代なので名前が違えば、一般人にはわからなかったと思われる。
小森はその後、東京興映というプロダクションを作るが、そこから出てきたのが山本晋也である。