澤村晃夫と加藤雅彦
前回の続きである。やはり、澤村国太郎とマキノ智子という美男美女から産まれてくる赤ん坊は、当然美形でなければならないと周囲だけでなく当人たちも思っていたようだが、長男・晃夫こと長門裕之はその条件を満たしているとは言えなかった。
だが、38年12月に次男が産まれて今度は歓喜した。その子は目鼻立ちもすっきりした美男子であり、千恵蔵も右太衛門も「この子はスターになるぞ」と絶賛した。それが津川雅彦だったと言いたいところだがそうではないのである。
実は、晃夫と雅彦の間に哲也という男の子がいたのだが、翌39年4月に肺炎をこじらせて他界してしまったのである。
夫妻の落胆は大きかったが、既に次子を妊娠しており、同じ39年12月に誕生(戸籍上は40年1月生まれ)したのが、雅彦なのである。
死んだ哲也の生まれ変わりという意識が夫妻には強く、最初から役者にするつもりであり、その可愛がりは尋常ではなかったのである。特に母の智子(本名加藤恵美子)は、後々まで雅彦を溺愛し続けたのである。
雅彦の初めての映画は阪東妻三郎主演の「狐の呉れた赤ん坊」(45年)という戦後すぐに撮られた作品で、5歳のときであった。
そこで阪妻と雅彦が泣くシーンがあるのだが、雅彦はすぐには泣けず、やっと泣けたと思ったら、録音部からマサ坊の泣き声が大きすぎて阪妻の声が聞こえないので、もう一回やってくれとの注文がついた。
それに阪妻は「こんな芝居を子供が何回もできるか。マサ坊の泣き声が入っていればそれでいいやろ」と怒鳴ってくれたという。
雅彦はこれで阪妻ファンになったというが、それを見ていた母親の恵美子まで彼のファンになってしまったという。彼女は晩年、国太郎のことには興味がなく、若い頃愛した月形龍之介と阪妻の写真をいつまでも部屋に飾っていたという。
一方、兄の長門裕之は役者として天性の才能に恵まれており、「鞍馬天狗」の杉作、「忠臣蔵」の大石主税、「宮本武蔵」の伊織の全てを演じ、阪妻主演の「無法松」の一生でも敏夫少年を好演し「名子役、澤村晃夫(アキオ)」の名を響かせていた。
雅彦は小学校高学年の頃はほとんど出番がなかったが、中学二年になって、長谷川一夫主演「獅子の座」(53年)で、その息子役に抜擢されたのである。
雅彦は子供の頃から眼が弱く、パチパチさせる癖があったため、国太郎と恵美子は叔父のマキノ雅弘に特訓を依頼し、その悪癖を矯正してもらったのである。
雅彦は「獅子の座」で好演でして、初めて新聞で「名子役、加藤雅彦」と絶賛されたのである。
この53年に俳優の引き抜きを防止するための五社協定が調印されたが、これが雅彦の運命に大きく関わってくることになるのだった。
だが、38年12月に次男が産まれて今度は歓喜した。その子は目鼻立ちもすっきりした美男子であり、千恵蔵も右太衛門も「この子はスターになるぞ」と絶賛した。それが津川雅彦だったと言いたいところだがそうではないのである。
実は、晃夫と雅彦の間に哲也という男の子がいたのだが、翌39年4月に肺炎をこじらせて他界してしまったのである。
夫妻の落胆は大きかったが、既に次子を妊娠しており、同じ39年12月に誕生(戸籍上は40年1月生まれ)したのが、雅彦なのである。
死んだ哲也の生まれ変わりという意識が夫妻には強く、最初から役者にするつもりであり、その可愛がりは尋常ではなかったのである。特に母の智子(本名加藤恵美子)は、後々まで雅彦を溺愛し続けたのである。
雅彦の初めての映画は阪東妻三郎主演の「狐の呉れた赤ん坊」(45年)という戦後すぐに撮られた作品で、5歳のときであった。
そこで阪妻と雅彦が泣くシーンがあるのだが、雅彦はすぐには泣けず、やっと泣けたと思ったら、録音部からマサ坊の泣き声が大きすぎて阪妻の声が聞こえないので、もう一回やってくれとの注文がついた。
それに阪妻は「こんな芝居を子供が何回もできるか。マサ坊の泣き声が入っていればそれでいいやろ」と怒鳴ってくれたという。
雅彦はこれで阪妻ファンになったというが、それを見ていた母親の恵美子まで彼のファンになってしまったという。彼女は晩年、国太郎のことには興味がなく、若い頃愛した月形龍之介と阪妻の写真をいつまでも部屋に飾っていたという。
一方、兄の長門裕之は役者として天性の才能に恵まれており、「鞍馬天狗」の杉作、「忠臣蔵」の大石主税、「宮本武蔵」の伊織の全てを演じ、阪妻主演の「無法松」の一生でも敏夫少年を好演し「名子役、澤村晃夫(アキオ)」の名を響かせていた。
雅彦は小学校高学年の頃はほとんど出番がなかったが、中学二年になって、長谷川一夫主演「獅子の座」(53年)で、その息子役に抜擢されたのである。
雅彦は子供の頃から眼が弱く、パチパチさせる癖があったため、国太郎と恵美子は叔父のマキノ雅弘に特訓を依頼し、その悪癖を矯正してもらったのである。
雅彦は「獅子の座」で好演でして、初めて新聞で「名子役、加藤雅彦」と絶賛されたのである。
この53年に俳優の引き抜きを防止するための五社協定が調印されたが、これが雅彦の運命に大きく関わってくることになるのだった。