お宝映画・番組私的見聞録 -110ページ目

新東宝監督秘話 近江俊郎と志村敏夫

もう少し、スクリプター三森逸子のインタビューからの話題である。富士映画の場合、新東宝本編よりさらに制作費が安いという。
三森の話では、八百万ということになっているが、実際は一千万で、近江俊郎は一本撮るたびに二百万儲けていたのだという。
近江の場合、喜劇人のギャラは直接交渉していたらしい。たとえば、売れっ子だった林家三平なんかも「三平ちゃん、すぐ終わるんで十万でよろしく」という具合に出演させていたという。
あと、近江に関していえば、非常にせっかちで、セリフが残っていてもすぐ「はい、カット」とやってしまうので、最後の方になると尺が足りなくなるのだという。基本的に尺のことなど考えていないらしい。
そこで、森川信とか佐山俊二とかベテラン喜劇人に頼んで、アドリブで芝居を伸ばしてもらって帳尻あわせをしていたようだ。
もちろん三森は、近江俊郎以外の監督にもついており、萩原章監督の「神州天馬侠 四部作」(54~55年)があるが、これは東映の「新諸国物語笛吹童子 三部作」(54年)を意識したような内容になっているという。ちなみにこちらの監督は萩原遼、つまり萩原章の実兄である。その弟つまり章の方は、大人しく影の薄い人物だったという。
「神州天馬侠」の主演は藤間城太郎(現・中村東蔵)。藤間紫の実弟である。彼女も出演して、つきっきりで面倒見ていたというが、結局、藤間城太郎は映画俳優としては大成しなかった。
志村敏夫監督の「海女の戦慄」(57年)も彼女が担当した。志村もいい加減なところがあり、スクリプターの彼女が「さっきはその人いませんでしたよ」と指摘しているのに、「いや居た!」と主張し、結局撮り直しになったりすることがあったという。
主演は志村といえばの前田通子。この時、既に二人は出来ていたという。前田も繋がりも気にしないで髪を勝手に直すような娘だったというが、志村の言うことはよく聞いていたという。
前田はプロフィールでは、55年に池内淳子同様に三越デパート店員からスカウトされてデビューしたということになっているが、三森の話では「娘ごころは恥ずかしうれし」(53年)の時には、もう居たはずだという。エキストラのようなものだったが、大柄で目立っていたので、印象に残っていたのだという(無論誤認の可能性もあるが)。
彼女曰く「俳優のプロフィールなんてインチキです」とのこと。当時なら、三國連太郎の例などを見ても普通にありうる話である。

近江俊郎作品と由利徹

近江俊郎の監督作品で目立つのが喜劇役者の起用である。中でも由利徹は、そのほとんどに顔を出している感がある。まあ、近江だけでなく石井輝男の作品なんかにも、そのほとんどに顔を出しているし、いったい何本の映画に出ているかは不明だが、チョイ役も含めて全部で300本くらいになるのではないだろうか。
その中でも「カックン超特急」(59年)、「006は浮気の番号」(65年)など主演で起用したのは近江俊郎くらいかもしれない。
近江は基本的に役者に丸投げするパターンだといい、喜劇役者ばかり使うのは、彼らがアドリブで何でもやってしまうからだという。
由利徹といえば、南利明、八波むと志との脱線トリオ。近江作品ではないが、新東宝では「脱線三銃士」(58年)という三人が主演の作品もある。
八波むと志が64年に交通事故で急死しているため、個人的にもトリオとしての活躍を見た記憶はない。というより、その活動期間は56~61年で、自分が生まれる前の話だったりするのだ。彼らは正式なお笑いトリオではなく、「ユニット」であったという。肩書きは芸人ではなく、あくまでも喜劇役者なのである。ちなみに解散原因は、由利が八波の才能に嫉妬したからだと言われている。
「カックン超特急」には、由利と南が出演。他に池内淳子、大空真弓、藤村有弘など。高島忠夫、久保菜穂子、小畑絹子、北沢典子、中村龍三郎は特別出演扱いで本人の役、子役で江木俊夫が出演している。江木俊夫の「江」と「俊」は近江俊郎から字をもらった芸名であるというのは有名な話だ。ちなみに原作は、黒澤映画の名プロデューサーであった本木荘二郎である。
ついでに「006は浮気の番号」についても触れておくが、こちらは配給は日活だが制作は音映プロとなっている。おそらくソフト化もされておらず、非常にレアな作品だと思われる。
ネット上で探し出したポスターを見ると、中央に大きく載っているのは由利徹と内田高子。しかし名前でトップにあるのは歌手(ビクター)の三沢あけみ、勝三四郎である。そして由利、南利明、佐山俊二、千葉信男と喜劇人が続いている。
三沢あけみは元々東映ニューフェイス(第7期)であり、59年にドラマデビュー(当時15歳)し、歌手デビューは63年になってからである。では、勝三四郎って何者だということになるが、「空手三四郎」(65年)というドラマの主題歌を歌っていた人である。
未確認情報ではあるが、この勝と三沢は後に結婚したらしい。しかし、勝は芽が出なかったため、まもなく離婚したという。
内田高子は「ピンク映画」の項でも書いたが、63年に歌手としてデビューしたが、65年には成人映画に出演し始めている。富士映画を母体に設立された大蔵映画(社長は大蔵貢、副社長が近江)が初めて本格的に取り組んだピンク映画「雌めす牝」(65年)にも内田は主演しているが、同社が配給した作品では最大のヒットとなった。その縁からの「006」への出演ではないだろうか。
とまあ、あまり見る機会のないであろう本作だが、2年ほど前の「蔵出し!日活レアもの祭」というイベントで上映されている。

近江俊郎監督デビュー その2

前回の続きだが、近江俊郎は兄・大蔵貢が新東宝の社長に就任したこともあって、その傍系である富士映画に拠点を移し、その取締役となり映画製作をするようになった。
新東宝自体が設備もスタッフも十分ではなく、月4本撮るのがやっとだったという事情もあった。富士映画は新東宝の第二撮影所のような存在になったのである、
そこでの監督第1作が「剣豪対豪傑 誉れの決戦」(56年)であった。主演は宇津井健で、他に藤木の実(一条珠美)、江川宇礼雄、柳亭痴楽、一竜斎貞鳳、旭輝子、中村又三郎(丹羽又三郎)など。旭輝子は神田正輝の実母である。丹羽又三郎は大映のイメージが強いが、デビューは新東宝だったのである。しかし、一年足らずで退社している(社内事情だそうだ)。
これは、戦前に伊丹万作が撮った「国士無双」(32年)のリメイク的な内容だそうで、脚本の中村純一によれば、自分が撮りたかったが、そこに近江俊郎が「時代劇を撮りたい」としゃしゃり出てきて、近江が撮ることになったのだという。
撮影は京都で行われたが、無論近江は時代劇など撮ったことはなく、中村がチーフ助監督を務めたという。スクリプターの三森逸子によれば、前回書いた「忘れないよ」(55年)と一緒で、近江はカット割など出来ないので、中村がやったという。近江がやるのはやっぱり「ヨーイ、スタート」だけだったという。
「思い出月夜」(56年)は、脚本を石井輝男と中村が担当。これは新東宝作品なので、石井もちゃんとクレジットされている。監督、原作、制作、音楽そして出演と五役を近江俊郎が担当というと物凄い才人に思えるが、やはりカット割は全て石井が担当しているという。
主演は高島忠夫と池内淳子、三ツ矢歌子、松本朝夫などに加え、近江俊郎である。三森によれば、近江は編集のことなど何も考えておらず、池内のアップを撮ったかと思えば、続けて彼女のアップを撮ろうとするのだという。これは単に池内に気があったからということのようだ。
近江は大空真弓と付き合っていた時期もあったといい、「思い出月夜」の時はロケ先に奥さんも来ていたのに、池内をくどこうとして、三森が彼女から相談を受けたという。三森いわく「演出には熱心ではなかったが、女をくどくのには熱心だった」とのこと。

近江俊郎監督デビュー

さて、「日活ロマンポルノ史」はまだ続けようと思えばできるのだが、月も変わったところで、違う話題に行ってみようと思う。
雑誌「映画論叢」に、96年に行われた三森(牧田)逸子というスクリプターのインタビューが載っていた。
40年に新興キネマに入社した時からのスクリプターという大ベテランだが、新東宝に携わることが多かったという。特に興味を惹くのは近江俊郎の映画を担当した時の話である。
近江俊郎は本名を大蔵敏彦といい、あの大蔵貢の実弟である。とはいえ年齢差は19もあり、三森によれば、大蔵は近江を弟というよりは息子のように可愛がっていたという。
流行歌手として活躍していたが、55年に近江プロを作り、映画製作に乗り出している。この時の作品は前年より映画製作を再開した日活から配給されているが、この辺はやはり大蔵貢の力が大きかったようだ。映画館を沢山もち、日活の株主でもあったからである。
近江プロでの第1作は「陽気な天国」(55年)という作品で、これは監督こそ古川緑波だが、原案・制作・主演として近江の名がある。出演者は二人の他に、森繁久弥、三木のり平、古賀政男、丹下キヨ子、菅原ツヅ子、神楽坂はん子など当時としても豪華な面子である。
第2作の「忘れないよ」(55年)が近江の監督デビュー作となる。この脚本が近江の楽曲を手がけていた作曲家の米山正夫なのである。つまり素人監督に素人脚本家ということになり、実際に脚本はとても使えるようなものではなかったという。
そこで、フリーの立場であった三森がスタッフとして集めたのが、当時は新東宝の助監督であった石井輝男であり、近江プロに助監督として入社した小林悟だったのである。
二人とも、三森が新東宝での初仕事である「娘ごころは恥づかしうれし」(53年)で知り合ったという。石井はチーフ助監督、小林はロケ先でのコーディネーターみたいなことをしてくれた一般青年だったが、「映画の仕事をやりたい」というので三森が近江プロに紹介したのだという。
結局、脚本は石井、小林、三森の三人で全て直し、石井にいたってはカット割も全部やり、監督の近江は何をやったのかといえば、「ヨーイ、スタート」の掛け声だけだったという。日活で公開された映画なので、(新東宝社員だった)石井の名は出ていないはずである。
改めていうまでもないが、石井輝男は「網走番外地」などの有名監督になっていくし、小林悟は新東宝倒産の後、ピンク映画の巨匠となっていく。小林は石井の自宅に居候していたこともあったといい、プライベートでも近しい関係だったようだ。
三森よると、近江はとにかく適当で、その作品はロクに台本もないようなものばかりだったという。
この55年は大蔵貢が新東宝社長に就任したこともあって、近江も活動を新東宝(富士映画)に移すことになる。

日活ロマンポルノ史 花柳幻舟伝説

前回、芹明香が何度か逮捕されたと書いたが、正確には三度である。いずれも覚醒剤取締法違反(76~78年)によるもので、最初は執行猶予付きだったのだが、短期間に三度目の逮捕で実刑判決となり、栃木刑務所に収監されている。
芹が栃木刑務所にいた時に、三人のロマンポルノスターが顔を揃えた時期があったという。
一人はひろみ麻耶で、77年に大麻取締法違反、79年に覚醒剤取締法で実刑判決を受け、栃木刑務所に収監された。
彼女はヌードモデルをしていたときに、日活にスカウトされ「実録ジプシー・ローズ」(74年)で主役デビューしている。後にフリーとなり東映のヤクザ映画などに出演した。
そして、もう一人が花柳幻舟である。彼女をロマンポルノスターというのはおかしいかもしれないが、「(秘)色情めす市場」では芹と親子の役を演じているのである。年齢非公開となっているが、戦時中の2歳の時に初舞台を踏んだとあるので、昭和10年代の生まれということになるのだろう。
彼女は薬物ではない。80年に花柳流家元三代目の花柳寿輔を包丁で切りつけ傷害現行犯で逮捕され、その年に栃木刑務所に収監されているのである。
その動機だが、彼女は18歳で結婚し家父長制に直面し、夫から自立するために日本舞踊花柳流に入門し、花柳流名取となったが、今度は家元制度に疑問を感じ、打倒家元制度を掲げ、寿輔を襲撃したという。本人に恨みがあったかどうかはよくわからないが、家元だからという理由であれば、寿輔には災難であった。
実はその獄中生活を描いたドラマが存在する。その名も「花柳幻舟獄中記」(84年)という二時間ドラマで、主演は幻舟本人である。他の出演者は児島美ゆき、宮下順子、芦川よしみ、加茂さくら、中原早苗、白川和子、三條美紀など。
翌85年には、その続編である「花柳幻舟獄中記Ⅱ~女子刑務所花の同窓会」が放送されている。こちらは幻舟の他、萩尾みどり、奈美悦子、園佳也子、誠直也、河原崎長一郎らに加え、漫画家・池田理代子、作家・阿佐田哲也も顔を見せている。
その後の幻舟だが、根本的には天皇制が悪いという考えにたどり着き、90年天皇即位礼の祝賀パレードにおいて、天皇のオープンカーに向かって点火した爆竹の束を投げつけて現行犯逮捕されるという事件を起こしている。

日活ロマンポルノ史 芹明香伝説

前回、田中登が「神戸国際ギャング」(75年)を東映で撮ったところまで書いたが、実はこの作品で高倉健とプロデューサー俊藤浩滋の軋轢が決定的なものになったという。
ヤクザ映画が任侠路線から実録路線に移行し、菅原文太が台頭してきた。俊藤も文太を重用するようになり、高倉健といえども面白いはずがなかった。
そして、この「神戸国際ギャング」では、日活でロマンポルノを撮っていた監督に冒頭からいきなりベッドシーンをやらされたのである。必然性がないと健さんは思ったそうだが、俊藤に「やってくれ」と言われれば、拒否はできなかった。
もちろん他にも要因はいろいろあったろうが、高倉健はこの後事実上東映を離れることになった(東映での出演もあったが)。「君よ憤怒の河を渉れ」(76年、永田プロ)や、「八甲田山」(77年、東宝)、「幸福の黄色いハンカチ」(77年、松竹)と他社で活躍することが多くなる。
さて、田中が東映京都で撮影していた時は、近くのホテルに泊まっていたのだが、そこへ突然訪れたのが深作欣二であった。それが初対面だったという。
深作は「仁義の墓場」(75年)の撮影準備をしており、「(秘)色情めす市場」をスタッフ全員に見せたという。「仁義の墓場」も釜ヶ崎あたりが舞台になるからであった。「めす市場」の影響力はかなりのものがあったようだ。
「仁義の墓場」の主演は渡哲也で、芹明香もヤクに溺れた娼婦の役で出演している。芹は当時、日活と東映両方の映画に出演していたが、このパターンの女優は結構いるようだ。
個人的に彼女を知ったのは、確か石立鉄男主演の「事件狩り」(74年)という大映ドラマだったと記憶している。法廷内をストリーキングで走る女という役柄だったが、石立演じる弁護士が人間の記憶力を試すために仕組んだことだった。
その後「必殺秘中仕事屋稼業」(75年)にセミレギュラー出演。林隆三演じる政吉の情婦という役柄だが、最終回で彼を庇って刺殺されてしまう、という重要な役回りだ。
しかし、芹は薬物で何度か逮捕されてしまう。そのため、松竹では再放送以降、彼女のクレジットをエンディングから抹消してしまったのである。もちろん、彼女の出演場面をカットしたりモザイクを入れたりまではしていないが、そこまでしなくてもと思ったものである。だいぶ前に姿を消したようなイメージだったが、90年代にも4本ほど映画出演しているようだ。
余談だが、「日活ロマンポルノ全史」の著者ある松島利行が、80年代末に、「松島さん、私よ」と丸々太った色白の女に声を掛けられたという。松島には、それが芹明香だとは直ぐにはわからなかったという。介護の仕事をしており、かつてのような暗さはなく明るかったらしい。これも20年以上前の情報なので、現在の彼女については知る人ぞ知る。

日活ロマンポルノ史 二本の阿部定映画

前回の続きだが、田中登は東映からの誘いを保留にし、「実録・阿部定」(75年)の撮影に取り掛かった。タイトルどおり、あの有名な阿部定事件の映画化である。
主演は神代辰巳の「四畳半襖の裏張り」シリーズでお馴染みのコンビである宮下順子と江角英明である。少し前にも書いたが、実は当初女優は中川梨絵が予定されていたのだが、東映が菅原文太の相手役にと称して引き抜かれたのである。
タイミングからして、東映(俊藤浩滋)が田中に速く東映で仕事をさようと、新作を潰そうとしたのではとも勘ぐれるが、すぐに宮下を代役にたて撮影は終了した。
江角英明はロマンポルノの出演も多いが、一般作の出演も多い。特に刑事ドラマは「太陽にほえろ」「Gメン75」「特捜最前線」「西部警察」「大都会」「あぶない刑事」等すべてにゲスト出演している。アニメの声優としても「わんぱく探偵団」(68年)の明智小五郎や「ルパン三世」第一シリーズ(71年)の第2話に登場するパイカルも彼が演じている。
ちなみに同じ阿部定事件を題材とした、大島渚監督の東宝東和「愛のコリーダ」の公開は翌76年のことである。これについて大島は神代の「四畳半襖の裏張り」を一番参考にしたと述べている。主演は藤竜也、松田暎子だが、前回書いた田中の「(秘)色情めす市場」の芹明香も出演している。
ところで「実録・阿部定」だが、75年度キネマ旬報ベストテンの10位にランクインしているし、「愛のコリーダ」も76年度のキネマ旬報ベストテンの洋画部門(フランスとの合作)の8位にランクインしている。
田中登は「実録・阿部定」の後、身分は日活社員のまま東映京都撮影所の向かうことになる。神代や藤田敏八はロマンポルノ体制の前に監督となっており、助監督の身分でロマンポルノの演出を始めた田中らは、専属契約の監督ではなく社員扱いだったのである。
田中が東映で監督を務めることに許可はおりたが、日活ではしばらくの間「干す」ことを宣言されたという。実際、田中は東映の仕事のあと一年半の間ホサれることになったのである。
田中は東映では「神戸国際ギャング」を撮ることになった。主演は高倉健、菅原文太という二大スターである。制作費700万程度のロマンポルノしか知らない監督が、いきなり制作費4億円の現場である。スタッフももちろん東映勢である。
ある幹部の話では、東映京都撮影所ではよくあることだが、このときほど監督と現場が融離して口も利かない状態だったことはなかった、とのことである。ゆえに作品もギクシャクしたものになったという。
京都撮影所は古い職人気質の伝統が根強く、同じ東映でも東京撮影所の人間でさえ試練の場所と言われていた。俊藤のお声がかりとはいえ、他社から雇われた監督にとっては居心地の悪い場所だったと思われる。

日活ロマンポルノ史 田中登監督デビュー

新しい記事を書くのは約1カ月ぶりである。週2の更新はしていたが、まとめて書いておいたのを切り分けてアップしていたのだ。まあ、そんなウラ事情はどうでもよいか。
「映画芸術」では、72年に初期50本ほどの中から選考したロマンポルノ・ベスト10をやったらしい。結果は、次のとおり。
1位「牝猫たちの夜」、2位「恋狂い」、3位「濡れた唇」、4位「色暦女浮世絵師」、5位「しなやかな獣たち」となっている。初期50本とはいえ、初期も初期の作品ばかりである。
1位の「牝猫たちの夜」は、新宿のトルコ風呂(現在はソープランドと言わないと怒られる)に働く三人の娘をややコミカルに描いたもの。主演は桂知子、吉沢健などで、桂知子は他に主演作というのは見あたらなく詳細は不明である。
監督は田中登。ロマンポルノ監督デビューは72年の2月「花弁のしずく」で、これはその次、つまり2作目である。
田中登は明大文学部出身で、同級生に作家の倉橋由美子、脚本家の田向正健らがいたという。その学生時代に、東宝撮影所の雑用のバイトにありついた。稲垣浩の「ゲンと不動明王」や本多猪四郎の「モスラ」、堀川弘通の「別れて生きるときも」、そして黒澤明「用心棒」などの現場についたという。
「用心棒」の現場では、三船敏郎は田中たち学生アルバイトを集めて話をするのが好きだったという。三船は「助監督になりたい?簡単には映画会社は入れんぞ」などと言っていたというが、この直後田中は日活の助監督試験を受けて、61年4月に入社する。
今村昌平監督の『「エロ事師たち」より・人類学入門』(65年)で、田中はサード助監督であった。ロケは釜ヶ崎(現・あいりん地区)で行われたが、その経験が後に田中が監督する「(秘)色情めす市場」(74年)で生かされることになる。
「(秘)色情めす市場」は、やはり釜ヶ崎を舞台にした作品で、主演は芹明香、その母親役が花柳幻舟、他に宮下順子なども出ている。実際は約2時間の作品だったが、ロマンポルノは1時間20分くらいが普通ということで、なくなく20分は自分でカットしたが、結局さらに20分会社側に切られたという。
そんな時、田中の元に電話があった。「釜ヶ崎見ましたよ。正直驚きました。あの元気さで東映オールスターで、1本撮ってもらえませんか」声の主は東映の敏腕プロデューサー俊藤浩滋であった。
田中もその話には飛びつきたい気持ちはあったが、すでに次回作「実録・阿部定」の日程も決まっており、とりあえずは曖昧な返事にしておいたのであった。

日活ロマンポルノ史 帰ってきた藤田敏八その2

現場での藤田敏八だが、いつもモゴモゴとしゃべるだけで何を言ってるかよくわからないと、スクリプターの白鳥あかねはその著書で述べている。
通称の「パキさん」というのは、先輩監督の西河克己が彼を見て「プリンス・オブ・パキスタン」と言ったことに始まる。西河が新聞で見たパキスタンの皇太子と藤田が似ていたからだそうである。
日活入社当時からメガネとチョビヒゲのスタイルだったようである。東大文学部出身で、在学中に俳優座養成所に入所(5期生)していた。平幹二郎などが同期である。後に俳優としても活動することになる藤田だが、こうした下地もあったわけである。
「赤ちょうちん」の脚本は中島丈博と桃井章。この桃井章は桃井かおりの実兄である。主演は妹ではなく秋吉久美子だ。この撮影中、赤ちゃんが出るシーンで、秋吉が姿を消したことがあったそうで、隠れていた秋吉を見つけると「あの赤ちゃんは私を嫌っているから」と言ったそうである。結局、赤ん坊を交代して撮影が行われたという。
桃井(51年生まれ)と秋吉(54年生まれ)はほぼ同世代で、その物怖じしない、不思議さのある言動も似たようなところがあるが、その経歴だけみると、かなりのエリートである。
桃井は中学生の時に、イギリスのロイヤルバレエアカデミーに単身留学するなど、クラシックバレエに打ち込む少女だったが、高校卒業と同時に辞めて、親には内緒で文学座養成所の入所している。
秋吉は高卒だったが、07年になって早稲田大学大学院の公共経営学専攻に入学し、修了しているのである。
藤田は秋吉久美子三部作の後、東映で梶芽衣子主演の「修羅雪姫」二作を撮るなど、またロマンポルノからは離れており、77年になって再び参戦している。
私生活では、結婚は4度(と思われる)。「日活ロマンポルノ全史」では3度となっているが、藤田靖子「夏のかけら」という本の謳い文句が、「藤田敏八の二人目の妻セイコが綴る七年間の結婚生活」となっており、次が女優の赤座美代子ということになるようだ。
赤座とは晩年に別れて、4度目の結婚、そして97年に亡くなったということになるようだ。

日活ロマンポルノ史 帰ってきた藤田敏八

ロマンポルノ体制になって、日活を去った監督も多かったが、舞い戻って来るものもいた。藤田敏八もその一人である。
その復帰第1作が「八月はエロスの匂い」(72年)であった。体制移行前の最終作品の一つが「八月の濡れた砂」(71年)であったが、これは藤田の監督作品である。つまり、タイトルからも「八月の濡れた砂」を意識して作られたものらしかった。
主演は川村真樹という元タカラジェンヌであった。彼女は、コメディアン佐々十郎とのスキャンダルからこの作品でカムバックしたのである。スキャンダルとは何か調べてみたところ、ネット上にもほとんど情報はなかったが、要するに二人で心中未遂事件を起こしたということらしい。
佐々十郎といえば、「やりくりアパート」(58~60年)での大村崑とのコンビで人気を得たコメディアンで、特に関西圏での人気は大きいものがあった。「銭形平次」(66~84年)の八五郎役は最初の一年は佐々が演じていた。
心中事件の背景はよくわからないが、かつてのような勢いはなかった頃と思われる。藤田まことは後輩ではあるが、彼との共演はNGにしていたらしい。事件によって、佐々を表舞台で見かけることはほとんどなくなったと思われる。
一方の川村はタカラジェンヌといっても、2年ほどで退団しておりスターだったわけではない。彼女の起用はその話題性狙いだったのではないだろうか。しかし、その体当たり演技は評判を呼び、同時期に東映の「ネオンくらげ」(主演は山内えみこ)や「暴力街」などにも出演している。
藤田敏八はこの後、「エロスの誘惑」(72年)を撮り、東宝からの以来で「赤い鳥逃げた?」(73年)を、自ら独立プロ「グループ法亡」を立ち上げて撮っている。この時に、起用した女優が桃井かおりである。
続いてが「エロスは甘き香り」(73年)だが、ここで川村真樹、伊佐山ひろ子、そして桃井かおりを出演させている。桃井のロマンポルノ出演は、この一作だけである。
この後、藤田は秋吉久美子主演で「赤ちょうちん」「妹」「バージンブルース」を撮る。これは日活だが、一般映画扱いである。勘違いしやすいのだが、日活の作品すべてがロマンポルノになったわけではない。合間に一般作も公開されていたのである。
秋吉、桃井はロマンポルノ出身のように言われることもあるのだが、秋吉は出演していないし、桃井も流れでの出演で「出身」というのは正しくないだろう。