お宝映画・番組私的見聞録 -108ページ目

東宝芸能学校とは

前回の石井一雄、前々回までの加藤茂雄のインタビューが載っている「映画論叢」の26号には、川口節子というやはり東宝のバイブレイヤーだった女優のインタビューも載っている。
川口節子というと、波島進の奥さんである女優を思い出す人もいるかもしれないが、こちらの川口節子は31年生まれ、東宝の方は41年生まれとちょうど10歳違いの別人である。
31年生まれの方は第1期太泉ニューフェース出身(1期しかないが)ということなので、波島の同期だったわけである。デビューから5年足らずの55年に引退(おそらく結婚のため)しているが、波島が立石主任役を務める「特別機動捜査隊」の正月エピソードでは、その夫人役で出演したりしている。ちなみに、立石主任の右腕である橘部長刑事役の南川直や、数回刑事役で登場した三島耕も太泉ニューフェースである。
話が横にそれたが、東宝バイブレイヤーの川口節子は、東宝芸能学校の出身だそうである。東宝芸能学校は二年制で、二年目に舞踏科と演技科に別れ、舞踏科の人は日劇に行く人は多かったが、演技科を出たからといって東宝の撮影所に入れるというわけではなかったという。
川口はその第7期だったというが、同期は鈴木加代子という「ミス・クラウンコーラ」の肩書きを持つ女性だけだったという。つまり二人きりだったのである。
鈴木加代子は若大将シリーズのヒロインに新人をということで連れて来られたらしく、おそらく在学中に「日本一の若大将」(62年)に藤山陽子の妹役で出演している。
二人は卒業後、無事に東宝の女優となり、まず「林檎の花咲く町」(63年)に女学生役で出演している。本作は先生役の白川由美、中丸忠雄が主演だが、女生徒役で歌手の高石かつ枝が出演し、タイトルと同名の主題歌を歌いヒットさせている。やはり生徒役で長谷川明男や寺田路恵、峰健二(東宝時代の峰岸徹)などが出演している。
川口はこの後も長く女優を続けていくのだが、鈴木加代子は翌64年の「日本一のホラ吹き男」を最後に、肌が弱いという理由で辞めていったという。外ロケに耐えられなかったということだろうか。
東宝芸能学校は、川口の話では自分たちの後、1~2年で学校は終わってしまったと語っている。
彼女らの入学は61年と思われるが、卒業した63年に入れ替わりで入ったというのが、あの美川憲一なのである。しかも、「西部警察」「大都会」などで知られる苅谷俊介が68年に同校を卒業したとなっており、少なくともそこまでは(東宝芸能学校は)存在していたのではないだろうか。

その時、ニューフェースは

もう少し東宝の話題である。以前、書いたのだが第2期東宝ニューフェースの石井一雄(後に東宮秀樹、石井宏明)。彼のインタビューで、東宝争議中にニューフェースたちは何をしていたかが語られている。以前書いたのと若干かぶるかもしれないが、ご容赦願いたい。
石井一雄は「新夕刊」という新聞(社長は児玉誉志夫)の記者だったが、漫画を連載していた横山隆一(「フクちゃん」等で有名)が、銀座のバーで山本嘉次郎に偶然会い、「いいのがいる」と石井のことを話したのだという。
山本嘉次郎といえば、黒澤明、本多猪四郎、谷口千吉らの師匠として知られる大監督である。
役者になろうとなどとは思っていなかった石井だが、撮影所というところに興味もあり、ニューフェース試験を受けにいったところ受かってしまったという。同期は杉葉子、塩沢登代路(とき)、西條鮎子、そして前回までに紹介した今泉廉、越後憲、中西英介などもこの期である。ちなみに石井は2位合格だったそうだ(1位の人は役者としては失敗したらしい)。
東宝ニューフェース養成教育は、一流の講師陣を揃えて朝から夕方まで日舞からバレエ、音楽、演技、映画史、映画理論等で無料。毎月五百円のお小遣いまでくれたという。しかし、これはこの2期か次の3期までで、後は新劇の劇団への委託という形になったのである。
さて、入った途端にストライキとなり、撮影がなくなったのでニュフェースたちは、全国を芝居して回っていたのである。まず、東北から北海道へ炭鉱を回ったという。当初は国鉄を回る予定であったが、炭鉱の方が当時は景気が良かったからという理由だ。炭鉱は宿泊施設や劇場を持っていたのである。
北海道は釧路から貨客船に乗って東京へ一旦戻って、次は大阪へという具合だったという。石井のいた班は地味なメンバーで、名の知れた人は河野秋武、深見泰三くらい。杉葉子も一緒だったが、まだ「青い山脈」で有名になる前である。他には生方功や同期の塩沢とき、助監督だった福田純らも同じ班だったという。
生方功は、町へ出て映画の撮影のように見せて、見物客を集めて「ストライキを応援してください」と演説していたという。人気スタアが中心となり、スト反対から新組合を結成する中、少なくとも生方はスト賛成派だったようである。
石井のいた班が一番稼いだらしく、三船敏郎のいた班は全然稼いでいなかったらしい。
さて、石井は東宝では数年間はセリフのある役もほとんどなく、マキノ雅弘の「次郎長三国志 次郎長初旅」(53年)で、ようやく大きな役を与えられたのであった。今井正などは、石井の経歴から彼を国粋主義者と捉えていたらしく、通行人にさえ起用しなかったという。

東宝大部屋俳優録 その3

前回の続きだが、今回は戦前から活躍していた役者にスポットを当ててみた。
○須田準之助…当時としては、破格の給料百円でデビューしたため、「百円俳優」と称されていた。彼は太平洋戦争中、兵役に付きたくなかったので北海道の密林の中に逃げていたという。終戦まで見事に逃げ切って、映画界に復帰したのであった。固定給が貰えるから撮影所にいる感じで、役らしい役は欲しがらなかった。
大部屋時代にスイス人の女優ホシ・ヘルタと結婚し、それから直ぐに役者をやめてスイスへ移住した。現地で牧場を経営するようになったという。
○大友伸…30歳で大伸プロという制作会社を作り、映画製作も行っていたらしい。その後、東宝の契約俳優になっている。馬術に長けていたといい、「隠し砦の三悪人」では、前足をあげて躍り上がった状態の馬に乗って駆け抜けていくシーンを演じている。「七人の侍」(54年)では野武士の副頭目など目立つポジションの役も多く、現代劇では政治家や防衛庁長官の役が多い。何となく偉そうな顔立ちなのである。
ちなみに、大友純は新東宝の巨顔俳優。見るからに不気味な顔立ちである。
○佐田豊…この名前を知らなくても、黒澤明の「天国と地獄」(63年)で、子供を間違えて誘拐される運転手(青木)の役と言えば、わかる人も多いのではないか。
27年16歳で高松プロに入社。河合映画、興亜映画などに脇役で出演し、戦時中は日本移動演劇連盟くろがね隊で演劇を続けていた。53年に東宝の契約俳優となった。
基本的には地味で目立たない役ばかりで、それは黒澤作品においても同じであったが、50歳を越え「天国と地獄」で前述のとおり異例の大抜擢。見るからに「申し訳なさ感」が漂っており、犯人役の山崎努並んで見事なキャスティングだったと言えよう。「私には重過ぎる役でした」と語っていた一方、一番好きな役だったとも言っていたようだ。
1911年生まれで、加東大介が同い年で、森繁久弥(13年生)より年長になる。2010年の時点では、まだ健在であることが確認されている(99歳)。つまり、現在も健在ならば104歳ということになる。

東宝大部屋俳優録 その2

今回も加藤茂雄のインタビューを基に、東宝大部屋俳優のあまり知られていないプロフィールを紹介する。東宝のBホームは、決まった給料が貰えることもあり、Aホームを目指すことなど考えず、楽しくできればそれでいいと考えている人も多かったようだ。
○高山佳久…平田昭彦などと同様、東京大学の出身。肺水腫を抱えていたといい、待機中はずっと部屋で本を読んでいたという。
東宝サイトのデータベースを見ても出演作は2本しか出てこないので、知っている人はほとんどいないと思われる。俳優を辞めた後は自分で会社を立ち上げて、経営者になったという。
○山田彰…本多猪四郎、杉江敏男監督作品への出演が多い。花菱アチャコ主演の「お父さんはお人好し」シリーズ(58年)で、その三男役に抜擢されたこともある。
しかし、大のギャンブル好きで負けが込み、精神的に追い詰められたときに偶然電話ボックスに貼ってあった、牧師が書いた貼り紙を見て教会に電話をかけて救ってもらったという。それからまもなく洗礼を受け牧師へと転進した。2003年に交通事故で亡くなっている。
○堤康久…彼が15歳の時から綴っていた日記が、太宰治の一番弟子と言われた兄重久の紹介により、太宰の小説「正義と微笑」の題材となっている。
前進座に所属していたが、戦後すぐに前進座の劇団員が全員共産党に入党しようとした時に彼だけが拒否したという。それがきっかけで東宝に入社。俳優としては地味な役に終始している。
俳優を辞めた後は、ある書店に見習いの立場で入社し、やがて自分で書店を開業したという。
○夏木順平…ほとんどがノンクレジットの端役ばかりで、台詞があることはまれだったようだが、不思議な存在感があるということで出演本数は多い。専属契約終了後は、加藤と同じ新星プロに所属して俳優活動を続けていた。2010年没。
○門脇三郎…加藤や夏木と同様に、東宝Bホームから新星プロに所属。テレビでも「太陽にほえろ」「江戸の旋風」シリーズなどに何度も顔を見せている。
○中山豊…日大芸術学部出身で、在学中に千葉泰樹、藤本真澄に認められ映画デビューしている。高い声が特徴。54年に東宝入社、脇役専門だがAホームで岡本喜八作品によく出演していた。
専属契約終了後は、東宝系の日曜大工センターへ転職していったという。
○園田あゆみ…東宝ニューフェースとして入社。何期かは不明だが、58年デビューなので57年入社である12期の可能性が強い。
「大怪獣バラン」(58年)でヒロイン役に抜擢されているが、それ以外はバーのマダムとか女給の役がほとんどである。結婚を機に退社している(63年頃と思われる)。

東宝大部屋俳優録 その1

東宝の契約俳優にはAホームとBホームがあり、Aホームは主役、準主役、台詞回しの多い俳優で、スターもここに含まれる。基本給はなく本数契約である。
Bホームは台詞がほとんどなく、あっても一言二言で、俗にいう大部屋俳優である。しかし、月給制で毎月決まった手当てが出る。
前項の加藤茂雄はBホームで、「映画論叢」では他のBホーム役者のプロフィールについても語っている。
○岡豊…東宝1期ニューフェース、つまり三船敏郎、伊豆肇などと同期だが、Bホームに所属。山本嘉次郎監督から「岡君は良い顔しているしニューフェースなんだからAホームに行けば」といわれても「僕は大部屋でいいです」と答えていたといい、自分の意思でBホームにいたようだ。71年の専属俳優制度終了の際に俳優業を引退している。
夫人は同じ東宝Bホームに所属していた記平佳枝。彼女は東宝契約解除の後も新星プロで長く女優を続けた。
○中西英介…やはり東宝1期ニューフェースだが、ノンクレジットのことが多い。黒澤明の「天国と地獄」(63年)で、誘拐共犯の男を演じているのが彼である。しかし、帽子で顔は映らず台詞もないのでノンクレジットだ。
○今泉廉…東宝2期ニューフェースである。調べてわかる出演作品は50年代のものだけである。俳優を辞めた後は、東宝の演劇部の講師をしたり、自宅で俳優養成所を運営していたという。
○岩本弘司…父親が新東宝の殺陣師だったこともあり、東宝Bホーム枠で入社。殺陣師としても活躍し、そのうちアクション物の殺陣師としてAホームに移っている。専属俳優制度終了の共に引退し、東宝が運営する喫茶店に転職した。
○越後憲三(越後憲)…東宝2期ニューフェースとして入社。彼も専属俳優制度終了と共に引退し、岩本と同じ喫茶店に転職した。俳優を続けていた加藤茂雄らが店を訪れると、二人は必ず「役者で食えるか?」と聞いてきたという。
越後の妻はやはり東宝の専属だった寺沢弘子。結婚を機に引退している。
○手塚勝巳…戦前はスタートしたばかりのプロ野球・大東京軍(後の松竹ロビンス)の選手だったが、1年半くらいで退団。ちなみに通算成績は5打数0安打。東宝入りはマキノ雅弘の口利きだったといい、大部屋ではトップの存在となっていた。東宝に野球部を作ったのも手塚である。
「ゴジラ」(54年)で最初スーツアクターに抜擢されたのは彼だったが、重さであまり動けなかっため、メインは中島春雄に交代している(手塚が演じているシーンもある)。
○大仲清司…53年に阪急ブレーブスに入団するも翌年かぎりで退団し、東宝の野球部に入る。それがきっかけで俳優活動も始めている。彼も「怪獣島の決戦ゴジラの息子」(67年)で、ゴジラのスーツアクターに抜擢されたが、怪我のため途中で関田裕と交代している。日ごろから「俺は野球で東宝に来たから、役者には向いていない」と語っていたといい、専属制が危ないと知るや直ぐに移動願いを出し、東宝系のボウリング場へ転職し引退した。

まぼろしの鎌倉アカデミア

さて、前田通子の話も終わり、次をどうしようかと思っていたところで雑誌「映画論叢」である。
普通、インタビューをするのにもある程度以上のスターにするものだが、この雑誌では端役専門の役者インタビューが載っていたりもするのだ。
福本清三のように、斬られ役一筋数十年で有名になった人もいるが、死んだり斬られたりすることもなく、セリフがあっても一言二言で、印象に残ることもほとんどない。
そんな役者生活を何十年も続けている加藤茂雄という人がいる。個人的には、名前だけはタイトルロールでよく見かけるが、その顔はよくわからないという感じだ。わかるという人は中々の東宝通だといえるのではないか。
加藤茂雄、鎌倉アカデミア卒業後、50年に東宝入社。大部屋一筋で専属制が廃止される74年まで在籍し、新星プロに移籍。テレビドラマを中心に出演を続ける。
このプロフィールで気になるのは、「鎌倉アカデミア」ではないだろうか。これは戦後すぐの46年に当時の文化人が鎌倉に設立した高等教育のための学校である。総合大学を目指していたが、資金難などもあり専門学校として申請されている。
文学科、産業科、演劇科、映画学科の四学科で構成され、演劇科の講師には、千田是也、久板栄二郎、長田秀雄、中村光夫などがいた。
元々鎌倉に在住していた加藤はその第一期生として入学している。
軍国青年だったという加藤だが、戦時中に反戦思想を訴えて捕まった新劇俳優が何人もおり、講師をすることになったそんな彼らの話を聞いてみたいというのが動機だったという。
やはり東宝の大部屋俳優となる鈴木治夫が同級生で、地味な人ばかりなのかと思いきや、鎌倉アカデミアの卒業生には、高松英郎、左幸子、沼田曜一、勝田久、南川直、前田武彦、いずみたく、山口瞳、松木ひろし、鈴木清順など、俳優だけでなく作家、作曲家、監督になった人などもいる。
黒澤明の助監督となる廣澤栄も在学しており、彼が東宝に入社した後に、加藤と鈴木に声をかけ、晴れて二人は東宝と契約を結ぶことができたのである。
一方、その50年を持って鎌倉アカデミアは廃校となっている。わずか4年半の命であった。加藤によれば、その一番の原因はインフレ対策として政府が行った新円切り替えのあおりを受けたからだという。これにより、鎌倉の地主たちも学校への投資や土地の貸与もできなくなってしまったのであった。
教授陣は、最後の2年くらいは無給で講義にあたる一方、学生のほとんどが学費を納めていなかったという。

前田通子インタビューその4

台湾で映画2本を撮った前田通子、志村敏夫のコンビは、日本でもテレビシリーズだが「江戸忍法帖」(64年)を撮っている。山田風太郎原作1クールの忍者物で、当時人気だった「隠密剣士」を意識したものといえよう。
主演は東映スターの山城新伍で、奥さんとなる花園ひろみも出演している。前田通子の役は敵となる甲賀七人衆の紅一点・葉月である。結局七人衆最後の一人となるので、出番は多い。
しかし、不幸なことは重なるもので、第1話が放送された時点で、山城の不祥事が発覚。この前年にハワイで里見浩太郎と拳銃を購入していたのである。それによって、スポンサーがおりてしまい、1話を放送しただけで中止となってしまったのである。
結局、日の目を見たのは66年のこと(関東では67年)であった。数年前CSでも放送されたが、かなり稚拙な出来と言わざるをえない。まあ、個人的には面白く見れたけれども。
話は前後するが、まだ新東宝が存在した60年の「怪獣マリンコング」にも前田は顔を出している。志村も監督の一人として参加しているので、そこからの出演だろう。
さて、この二人の関係は最終的にはどうなったのか、ということなのだが、前田通子によると72年の2月まで一緒に暮らしていたのだという。その時点別れることになり、志村は妻子の下に戻ったらしい。
つまり、17年も一緒にいた二人が「結婚」という形で結ばれることはなかったのである。志村もその間に、妻と離婚するということはなかったのである。
二人が別れたという72年から前田はちょくちょくテレビに顔を出すようになっている。「プレイガール」や「荒野の素浪人」、「特別機動捜査隊」、「仮面ライダーV3」などに既に40手前になっていた彼女がゲスト出演している。
しかし、76年いっぱいで芸能界を引退したという。もう限界が来ていたからということだが、もう一度出たいと思っていた志村の作品に出ることも叶わなかったから、ということもあったようだ。
志村は80年の7月に亡くなったのだが、前田がそのことを知ったのは翌月になってからで、それも映画評論家の森卓也(彼も前田ファンだという)からの手紙によってだったという。
別れてから会っていなかったというわけではなく、数ヶ月に一度は喫茶店などで会っていたのだという。であるから、かなり突然な出来事でもあったようだ。会っていたからといって、かつての恋人感覚に戻るようなケジメのなさはなかった、と本人は語っている。
このインタビュー(95年)の4年後、彼女は「地獄」(99年)で42年ぶりの映画出演を果たす。役柄は閻魔大王である。
監督は石井輝男、制作総指揮は小林悟、共演に丹波哲郎という、かつての新東宝仲間が並んでいる。前田の他にも鳴門洋二、浅見比呂志、若杉英二といった新東宝の懐かしい顔が出演している。まあ、見た人がわかったどうかは不明だけれども。

前田通子インタビューその3

前田通子の事件は、志村敏夫の方にも飛び火する。前田通子が裾まくりを拒否したのは、志村の存在があったからだ、と思う人間も多かったのである。
志村の作品は当たっていたこともあり、前田が女優間で妬まれていたように、志村も監督間で妬まれていたのかもしれない。二人を煙たがる力によって、二人は新東宝を追われることになる。
六社協定は社長がクビにした人間にも効力を発揮するので、彼女は映画に出演することができなくなってしまった。
大蔵は前田に損害賠償として百万円を要求したと書いたが、それが本気だったかどうかはわからない。その時点で泣いて謝罪すれば許されたかもという説もある。
しかし、前田は真面目に受け取ったようで、おまけにそれまでの出演料を支払われなかったこともあり、人権擁護局に提訴したのである。
一年後、前田側の言い分が全て認められ、新東宝から山梨専務が謝罪に訪れ、出演料も支払われたという。しかし、これが大蔵の怒りを買い、彼女の仕事は映画だけでなくテレビでさえ、「前田を出すならうちの役者は貸さない」という新東宝の妨害が激しさを増すことになったのである。
志村と付き合いのあった日活の川島雄三が「うちへ預けろ」と誘ってくれたりもしたというが、やはり新東宝の横槍でダメになったという。
志村は役者じゃないので、六社協定の対象ではなく仕事の誘いもいくつもあったのだが、「前田通子を使わなければ俺はやらない」と意地をとおしたため、共倒れ状態だったのである
俗に言うドサ回り生活も始まる。キャバレー回りはもちろんのこと、自衛隊や刑務所への慰問なども行ったという。歌は得意だったようで、「軍歌の前田」などとも言われていたようだ。その頃にレコードも出しており、あの杉良太郎とカップリングになっている珍品?もある。
そんな中、志村が監督、前田が主演の映画が撮られている。「女真珠王の挑戦」と「愁風愁雨割心腸」(いずれも63年)の2本だが、これらは台湾映画である。実はあの「女真珠王の復讐」が台湾で大ヒットしていたのだという。それで、台湾からコンビで映画を撮らないかという誘いがあり、台湾に渡っている。
さすがに、台湾までは横槍が入らず、歓迎もされ楽しかったという。この時点で、新東宝はすでに倒産(61年)していたはずだが、その後も何らかの力が働いていたということのようである。

前田通子インタビューその2

「女真珠王の復讐」(56年)は大ヒットし、前田通子の名は全国に知れ渡った。
「週刊東京」という雑誌が行った、この年の映画スター人気投票の女優部門は、1位:山本富士子、2位:中川弘子、3位:高千穂ひづる、4位:岡田茉莉子、5位:若尾文子、6位:園ゆき子、7位:朝丘雪路、8位:前田通子、9位:美空ひばり、10位:香川京子、11位:有馬稲子となっており、映画雑誌などが行う投票とはかなり違ったクセのある順位ではあるが、堂々8位にランクインしている。
このヒットで、彼女は大蔵社長から金一封をもらったりもしたというが、一方で大先輩の女優が裸になるような不潔な女優と一緒の会社には入られないといって東宝へ移籍したという。
新東宝から東宝という人は結構いるのだが、誰のことだか正直わからなかった。この時点で、大御所といわれる女優はほとんどいなかったはずなのだが。
そして、例の事件が起きる。「若君漫遊記 金比羅利正剣」(57年)の撮影で監督(加戸野五郎)に「着物の裾をまくれ」と言われすぐに応じなかったことで、解雇にまで発展してしまうのである。
彼女の説明を要約すると、撮影がストップし「よし早飯にしよう。前田君もよく考えておいて」という加戸野監督の言葉で昼食になったという。彼女なりに考えて(応じるつもりだったかどうかは不明だが)、午後セットに戻ると誰もいなかったという。
実は、その間に監督とプロデューサーが、前田通子が現場でゴネて撮影に支障をきたしたと、大蔵の元に言いつけに行っていたのであった。
前田も大蔵の元に説明に赴き、そのときは納得してくれた(と思った)のだが、次の日も撮影はなく、「出社に及ばず」になり、おまけに撮影に支障をきたした損害賠償として百万円払え、と言ってきたのだという。今でも十分に大金だが、50年以上前の百万円である。
現場では、もう前田通子は使わないという雰囲気が生まれていたのである。それが何故かは本人には今もわからないという。
そして、代役の女優(宇治みさ子と思われる)が「私に出来ることが、なんで前田さんはやらなかったのかしら」と言われ、またある女優は仙台のロケ先から加戸野監督に「前田通子をクビにしておめでとう」という電報をうってきたという。
もちろん、ある女優が誰かは書いてないが、本作と同時に公開された「荒海の王者」は宮城が舞台らしく、だとすれば出演していた久保菜穂子、筑紫あけみ等が候補になるのだけれども。
その女優とは、何年か後に大阪空港でバッタリと出くわしたが、お互いに白々しくも丁寧に挨拶したという。
前田通子の証言どおりとすれば、裾まくり拒否からほんの数日でクビになったということになるし、彼女がわけがわからないとうのも無理はない。
彼女は大蔵社長は納得してくれたと証言しているが、実際は納得するどころか、一般的に言われているように「監督の言うことを聞かない生意気な女優=自分のいうことも聞かない」ととらえたのではないか。大蔵は商売よりも自分の権威を優先させたと思われる。大映の永田雅一が後に山本富士子や田宮二郎をクビにしたのも同じ理由だろう。

前田通子インタビューその1

さて、「活狂エイガ学校」の話は一段落したので、続けて新東宝系の話題を。
90年代前半に文芸春秋から出ていた「ノーサイド」という雑誌をご存知だろうか。路線変更で94~96年にかけてはノスタルジックな話題を取り上げるようになり、戦後まもなくの映画俳優を特集するような号もあった。
その男優編は持っていたのだが、先日神田の古本屋で「戦後の似合う映画女優」と「キネマの美女」をそれぞれ特集している2冊を見つけたので購入してみた。
「キネマの美女」(95年9月号)とは、戦前に活躍していたまたは戦前から活躍していた女優の特集だが、名前だけは知っている女優が何人かいた程度で、知らない顔と名前のオンパレードであった。
それとは別にある元女優のインタビュー記事が載っていた。その元女優とは前田通子であった。等欄でも彼女とその恋人と言われた志村敏夫監督とのことに少し触れたばかりえあったが、偶然にもその当時のことを語った記事が存在していたのであった。
インタビュアーは川本三郎。映画本のコーナーへ行けば、その著書が何冊かある。このインタビュー記事も、その著書である「君美わしく-戦後日本映画女優讃」という本にも載っているようだ。
川本はこれより十年ほど前に赤坂のそば屋で働いていた彼女を捜し当てていた。何度もインタビューを申し込んだが、「もう映画界の人間ではないから」「私のことは忘れて下さい」と何度も断られ続けたという。あの事件では、あることないこと書かれまくりで、無理のないことかもしれなかった。
そして十年あまり、やっとインタビューに応じてくれたのだという。彼女が赤坂に小さいながらも自分の店を持った頃であった。ちょうど還暦を過ぎた彼女の写真も載っているが昔から美人だったことがわかる上品な夫人という感じであった。
そのプロフィールは高校を中退し、日本橋三越に勤めていたというのは有名だが、そこを三年で辞めた後の55年に喫茶店にいたところをスカウトされたという。
ニューフェースも含めて、通常は半年間の俳優座での研修の後に役がつくものだが、彼女の場合それもなく役がついたという。それは先輩女優などからは妬みの対象となり、スタートから嫌われることになってしまったのである。
翌56年に社長に就任したのが、大蔵貢である。大蔵の「当たる映画をつくれ、新人女優を育てろ」という至上命令のもと志村敏夫監督がタイトルとプランを練ったのが「女真珠王の復讐」だったのである。
周知の事実であったが、このインタビューでも二人の関係についてあっさりと認めている。この時すでに、16歳年長で妻子のある志村と熱愛関係にあったのである。要するに恋人が監督だったから脱ぎやすかったということだ。志村を信頼していたからこそ、ヌードにもなれたのであった。