お宝映画・番組私的見聞録 -106ページ目

大映俳優録18 岸正子(加賀ちかこ)

前々回の山内敬子と同じパターンなのだが、やはり大映時代のみ「岸正子」を名乗ったのが加賀ちかこである。
高校時代から雑誌の表紙モデルなどをやっており、在学中に大映の「千羽鶴」(53年)で映画初出演(本名の加賀周子名義)。
卒業後の55年に大映ではなく、松竹に入社し加賀ちか子として本格的にデビューした。父の加賀二郎が松竹の常務であり、その弟である四郎は大映のプロデューサーであり、その娘が加賀まりこだ。つまり加賀ちか子と加賀まりこは従兄妹同士である。
加賀ちか子は58年に叔父のいる大映に移籍しているが、例のごとく芸名は岸正子に変わった。これはオリオンズの選手ではなく、おそらくだが松竹の先輩であった岸恵子にちなんでいるのではないだろうか。
デビューまもなく岸恵子主演の日仏合作映画「忘れ得ぬ慕情」(56年)に彼女は出演しているのである。
誰に付けられたとかは不明だが、例のごとく永田雅一に付けられた可能性は高い。当初は時代劇への出演が多く、「月の影法師」や「赤胴鈴之助・黒雲谷の雷人」(58年)では、どちらもお姫様の役で出演。主演は前者は梅若正二だが、後者は梅若から桃山太郎に代わった一作目であった。
現代劇でも「銀座のどら猫」「轢き逃げ族」(60年)などに出演。どちらも藤巻潤の恋人役であった。
大映での最後の作品は「若い樹々」(63年)で、主演は姿美千子、倉石功で、岸正子のクレジットは随分後の方になっていた。
63年に大映を退社し、フリーになると芸名を加賀ちかこに改めた。「こ」を平仮名にしたのは加賀まりこにあわせたのかもしれない。
その加賀まりこは、大映ではなく62年に松竹と契約。「父のいる大映は嫌だった」というような発言もあるが、父親と仲が悪かったわけではない。逆に一緒に銀座を連れ立って歩いていたとか、仲は良かったのだが、七光りと思われるのは嫌だったようである。
唯一、出演した大映映画が「不信のとき」(68年)だが、これは田宮二郎が大映を去る原因となった作品である。加賀まりこには何の責任もないが、さすがトラブルを呼ぶ女である。

加賀まりこは今でも活躍しているが、ちかこの方はいつしか引退したようである。大映退社後は、テレビを中心に活動していたようだが、引退時期ははっきりしない。従兄妹共演はあったかもしれないが、見つけることはできなかった。まあ、この二人が共演してもあまり話題にはならなかったと思うけれども。

大映俳優録17 宮川和子

前項に名前が出たので、今回は宮川和子である。
松竹音楽舞踊学校に在学中の57年に大映の「踊子」にダンサー役で出演したことがきっかけで、同年学校の卒業と同時に大映に入社している。
デビュー時の芸名は三宅川和子と書いて「みやがわかずこ」と読んでいたようだ。「三宅川」は日本に三十数件しかない苗字で、読み方は「みやがわ」と「みやけがわ」の二通りがあるようだ。これが本名だったのではないだろうか。わざわざ読みづらい芸名などつけないと思うし。
キネマ旬報の「日本映画俳優全集・女優編」には、何故か「三宅川和子(みやがわかずこ)」で項目になっている。60年には宮川和子と改名したので、こちらの方が断然長いのだが何故であろうか。まあ、どちらでも掲載順は変わらないのだが。
大映の所属となってからのデビュー作は「透明人間と蠅男」(57年)の婦警役である。これは、等欄の大映俳優録1で取り上げた毛利郁子と同じデビューとなる。
で前述のとおり、60年の「好き好き好き」から、宮川和子となっている。ちなみに、この映画「セクシーサイン好き好き好き」というタイトルで語られることが多いが、本編のタイトルに「セクシーサイン」の文字はないという。
で、前項の仁木多鶴子の項でも書いたとおり、同世代である弓恵子、仁木、宮川がトリオという形で「銀座のどら猫」「お嬢さん三度笠」(60年)等に主演した。
宮川は64年に大映を退社し、71年には女優を辞めたという。今、CSで放映されている「特別機動捜査隊」で、よく彼女を見かける気がするのだが、丁度71年放送分をやっているので、引退直前の彼女の姿ということになるのだろう。
いつも困惑しているかのような顔立ちで、被害者顔とでもいうのだろうか。無実だが容疑をかけられるといった役が似合っている、と個人的には思う。
その後だが、赤坂でクラブを経営する傍ら、高松英郎のマネージャーをしていたという。ウィキペディアでは、その後二人が結婚したと書かれているのだが…。「要出典」のマークがついてる通り、そういう情報は見当たらない。
高松は62年にテレビ結婚式で、モデルだった牛島陽子と結婚しているのである。娘の武市幸子はグラビアモデルをやっていたのを記憶している人も多いのではないか。彼らが離婚したという情報もないので、宮川との結婚は事実ではない可能性が高い。まあ、断言はできないけれども。


大映俳優録16 仁木多鶴子

かつてプロ野球には東映フライヤーズ、松竹ロビンス、大映スターズなど映画会社が所有する球団が存在したが、大映スターズは57年に高橋ユニオンズと合併して、大映ユニオンズになり、翌58年には毎日オリオンズと合併し、毎日大映オリオンズ(通称は大毎)となっていた。オーナーは永田雅一であった。
「一刀斎は背番号6」(59年)には、その大毎に加えて、稲尾ら西鉄の選手が数人出演している。大毎で出演者としてクレジットされているのが、田宮二郎の名の元となった田宮謙次郎、山内敬子の名の元となった山内和弘はもちろん、高橋ユニオンズ出身の佐々木信也、エースの小野正一などである。ヒロイン役で出演しているのは、叶順子と仁木多鶴子である。
仁木は大映ニューフェースの11期生で、同期には藤巻潤や丸井太郎がいた。57年末にデビューし当初は本名の鶴田和子のままだったが、江戸川乱歩賞の小説を映画化した「猫は知っていた」(58年)の主演に抜擢されたのをきっかけに、原作者である仁木悦子にちなんで、仁木多鶴子と改名した。
60年には、弓恵子、宮川和子とのトリオで「お嬢さん三度笠」「東海道ちゃっきり娘」「銀座のどら猫」に主演したが、この年に前述のオリオンズの小野正一と結婚している。引退はしなかったが、出演本数は減っていき、「セックスチェック・第二の性」(68年)を最後に映画界を去っている。
小野正一は、この60年には33勝を挙げた当時の左腕エースで、通算184勝を挙げた大投手なのだが、今は忘れられた存在になっている気がする。実は例の黒い霧事件で、当時は中日にいた小野もその関与を疑われたのである。潔白となったが、この騒動に嫌気がさした小野は引退し、球界と縁を切ってしまったのである。コーチにも解説者にもなることがなかったので、次第にその存在を覚えている人が少なくなったのである。
そんなスター選手と結婚した仁木であったが、83年に44歳の若さで亡くなったという。その詳細は不明である。
話は前後するが、「一刀斎は背番号6」では、ラストに大リーグ選抜とパリーグ連合軍が闘うことになるのだが、主演の一刀斎役・菅原謙二はオリオンズの背番号6のユニフォームを着ている。
実際の59年のオリオンズの6番は佐々木信也であったが、この年限りで引退している。わずか4年のプロ生活だったが、毎年のように所属の球団名が変わっていたのである。その後、キャスターに転向し活躍するのである。

大映俳優録15 山内敬子(有沢正子)

山内敬子という女優を知っている人は、余程の大映通といえるかもしれない。しかし、有沢正子といえば、分かる人はいるであろう。山内敬子というのは、有沢正子が大映に在籍していた60~61年にかけての約1年だけ使われた芸名なのである。
有沢正子は高校時代にシオノギ製薬のポポンSのCMに起用されたのが縁で、ミス松竹コンテストに応募し見事に優勝。56年松竹に入社している。
映画デビューは「喜びみ悲しみも幾年月」(57年)で、燈台守の佐田啓二と高峰秀子の長女役であった。以後、松竹で活躍していたが、60年に大映に移籍する。
その時、永田雅一によって付けられたのが山内敬子という芸名なのである。これは永田がオーナーである大毎オリオンズのスター選手であった山内一弘にちなんで付けられている。「敬子」はどこから来たのかよくわからんが。これは、田宮謙次郎にちなんで、田宮二郎になったのと同じパターンである。
当初こそ、山内敬子[新スター]の但し書きがあったりしたのだが、翌61年になると完全に助演に回るようになり、3番手ヒロインくらいの位置づけになっていた。それが不満だったのか、会社が体質に合わなかったのかは不明だが、1年余りで大映を退社し、芸名も元に戻している。やはり気に入らなかったのであろうか。どこにでもいそうな普通の名前だし。
前項の若山富三郎もそうだが、有沢正子というのも既に定着していた名前なので戻したのであろう。逆に田宮二郎は永田雅一によって大映を追われたのだが、柴田吾郎→田宮二郎になってから売れたこともあり、芸名を変えようとは思わなかったのであろう。
有沢はその後テレビを中心に活躍したが、「特別機動捜査隊」「キイハンター」「プレイガール」など個人的にもよく見ていた東映のアクションドラマや「水戸黄門」や「素浪人花山大吉」など時代劇にもよく顔を出している。
昼メロでは、「惑いの午後」(64年)とか「かあちゃん結婚しろよ」(65年)という月~金帯の15分ドラマでは主演だったようである。後者ではタイトルから「かあちゃん」が有沢で、子供役が二瓶康一つまり子役時代の火野正平のようである。しかし当時の実年齢は有沢28歳、火野16歳であり、俗にいう普通の母子という関係ではなさそうに思える。
映画では東映の「徳川女系図」とか「異常性愛記録ハレンチ」(69年)などにも顔を出している。
娘の篠山葉子も女優になり、木下恵介が自身でリメイクした「新・喜びも悲しみも幾年月」(86年)では、母と同じ娘の役で出演した。ちなみに主演、つまり燈台守の夫婦役は加藤剛と大原麗子であった。
有沢正子は77年頃より銀座のバー経営に専念し、芸能界から遠ざかったという。

大映俳優録14 藤原礼子(+城健三朗)

前項の阿井美千子の2歳下(32年生)で、同じ宝塚歌劇団出身なのが藤原礼子である。
宝塚では大和七海路(やまとなみじ)という何か凄い芸名で男役スターであった。映画初出演は54年の宝塚映画「右門捕物帳・まぼろし変化」の端役であった。
58年に宝塚を退団し、大映京都に入社。当初芸名は大和七海路のままであったが、60年にほぼ本名の藤原礼子(本名は麗子)に改名した。
この人も先の阿井美千子や三田登喜子、近藤美恵子、浦路洋子あたりと区別が付きにくい感があるが、「悪名シリーズ」で田宮二郎演じるモートルの貞の女房・お照としてレギュラー出演しており、それで認識している人も多いのではないだろうか。
それと何と言っても、若山富三郎と結婚した女優として認識している人も多いかもしれない。
若山は62年に東映から弟・勝新のいる大映に移籍してきたが、その際、改名好きな永田雅一の薦めで城健三朗を芸名とすることになった。
「スタアのいた季節」の中島賢によれば、城健三朗こと若山の大映での評判は悪かったという。素行が悪く、ケンカ早く、問題を起こしてばかりいる滅茶苦茶な男というのが、会社側の印象だったという。主演作をあてがわれないことへの不満があったようだが、同じ風貌の弟がスタアとして活躍している中、大映側も扱いに困ったのではないだろうか。
そんな中の翌63年、藤原礼子と結婚したのである。彼女は勝新との共演は多かったが、若山との共演はあまりなかったはずである。式は盛大に行われ、子供も設けたが(後の若山騎一郎)、65年には離婚となっている。二年足らずの夫婦生活であった。
これには大映側もあきれて、約1年の間、若山を仕事から干したのである。65年に彼の出演作がないのはそういう事情による。
藤原礼子は65年市川雷蔵主演の「新鞍馬天狗」にて一足先に復帰している。ちなみに本作には無名時代の中村敦夫も出演している。
若山は翌66年の若尾文子主演の「処女が見た」で復帰するが、これを最後に大映を退社して、東映に復帰し芸名も若山富三郎に戻すことになる。しかし若山は「処女が見た」で共演した新人でスタア候補だった当時19歳の安田道代(大楠道代)を口説き、つきあいはじめたのである。彼は全く懲りていなかったのである。若山が東映に復帰した後も、付き合いはしばらく続いていたようだ。
映画復帰した藤原礼子だったが、彼女もこの66年で大映を退社し、映画界を去っていった。最終作は勝新主演の「続・酔いどれ博士」であった。
その後の活動は不明だが、若山が亡くなった丁度10年後の02年に69歳で亡くなっている。死後1週間は経過していた状態での発見で、寂しい最後だったようだ。藤原礼子ではなく藤原麗子として報道されたので、本名で何らかの芸能活動は行っていたと思われる。

大映俳優録13 阿井美千子

先日、キネマ旬報が発行した「日本映画俳優全集・女優編」(80年刊)を古本屋で入手した。男優編は結構前に手に入れていたのだが、女優編は中々見かけることがなかった。
それを思いがけず目にして、値段も1500円(税抜)と手頃だったので、直ぐに購入した。当時の値段が7000円だったので、古本とはいえ得した気分である。
女優が1500人弱収録されているが、もちろん全てではない。ロマンポルノ系やピンク系の人や映画は1~2作しか出演していない人が収録されていたりもするが、それなりに出演作があるのに何故か収録されていない人もいる。
たまたま気付いた例でいえば、東宝には高橋紀子という女優がいたが、同時期に高橋厚子もいた。活躍期間も同じくらいでありながら紀子は収録されているのに、厚子は何故か収録されてないのである。
それはさておき、アイウエオ順なので、栄えあるトップに収録されたのは藍とも子であった。ちなみに故・峰岸徹の夫人である。(男優編はアイ・ジョージ)。次に来るのが、大映女優である阿井美千子である。
阿井は30年生まれで、既に紹介した大映時代劇女優の近藤美恵子(36年生)、三田登喜子(35年生)、小野道子=長谷川季子(34年生)より年長である。
長谷川季子同様、宝塚歌劇団の出身(芸名は百ちとせ)で、52年に東映にスカウトされて、阿井三千子の名で「クイズ狂時代」でデビュー。次作から時代劇に転じ、片岡千恵蔵の主演作品に続けて出演するようになった。
しかし、翌53年には大映京都に転じており、東映には1年余りしかいなかったようである。東映→大映は前項の長谷川裕見子と逆パターンである。
54年、市川雷蔵と勝新太郎がデビューした「花の白虎隊」から、阿井三千子から美千子に芸名を改めた。ちょうど同時期に嵯峨美智子が三智子と改名したのと「三と美」の字が逆パターンである。同じ「ミチコ」だし、意識していたのだろうか。ちなみに、嵯峨三智子もこの54年から大映作品にも出演するようになっている。
最初はメインヒロインも務めることが多かったが、次々似たような女優がデビューしてくることもあって、次第にポジションは後退していった感がある。しかし、出演映画数は100本を越えている。
個人的に阿井の名前を知ったのは、映画ではなく「新必殺仕置人」(77年)だった気がする。仕置人の元締の一人といった役柄でセリフがあっても一言二言。結局5話ほどで姿を消していた。であるので、まさかかつてのヒロイン女優だったとは思いもしなかった。他で見かけることもなかったので、長年失礼ながら大部屋クラスの女優だと思っていたのである。

大映俳優録12 長谷川裕見子、長谷川季子、長谷川待子

問題。長谷川裕見子、長谷川待子、小野道子のうち、長谷川一夫の娘は誰でしょう?答えは小野道子=長谷川季子である。
長谷川一夫は、戦後まもなく新演技座を主宰し、舞台活動、映画製作を行っていたが、そこに入ってきたのが姪である長谷川裕見子である。
裕見子は、新演技座の第1回映画である「小判鮫」(48年)に、長谷川一夫、山田五十鈴につぐ準主役級の役で映画デビューを果たしている。
長谷川一夫は50年に、大映に重役俳優として迎えられ、その際に裕見子も大映に入社している。長谷川裕見子といえば、東映のお姫様女優のイメージが強いと思うが、大映にも5年近く在籍していたのである。
この大映時代には、現代劇にも出演し、そこで夫となる船越英二とも共演している。55年に東映京都に転じ、そこからの活躍は有名であろう。
裕見子と入れ替わるように入社したのが、一夫の実娘である長谷川季子である。季子は裕見子の8歳下で51年に宝塚歌劇団に入団し、その年東宝の「若人の歌」で映画初出演を果たしている。
宝塚在籍のまま、大映映画数本に出演したりしていたが、56年に宝塚を退団し、正式に大映に入社した。それまでは本名で活動していたが、小野道子を芸名とした。長谷川一夫の娘を強調されるのが嫌だったのかもしれない。
個人的主観では、父親似だが異性受けする顔立ちではないように見える。そのせいか、専ら助演に回ることが多かった。61年に芸名を長谷川季子に戻したが、62年に大映を退社し、舞台に活動の場を移している。ちなみに、父・一夫も翌63年に大映を退社している。
季子と入れ替わるように、大映に入社したのが長谷川待子である。長谷川一夫と特に血縁関係はない。本名でもないようだし。こちらは、季子の1歳下で松竹歌劇団の出身である。
映画より先に「鳴門秘帖」(58年)などのテレビ時代劇で活躍。映画デビューは、出演経緯は不明だが、新東宝社長退陣後の大蔵貢が起こした大蔵映画の大作「太平洋戦争と姫ゆり部隊」(62年)での看護婦役であった。
翌63年に大映に入社し、悪女やセクシー系の役を演じることが多かった。ゆえに、方針転換後の大映でも需要があり、倒産するまで在籍していた。「スタアのいた季節」の中島賢によれば、優しい人柄のせいで会社に都合よく扱われたと書かれている。
大映等産後もテレビで活動し続け、02年頃までの出演記録がある。しかし、「はせがわまちこ」といえば、どうしても「サザエさん」の作者である長谷川町子を思い浮かべる人がほとんどであろう。同じ読みの女優長谷川待子の名は意外と知られていない気がする。

大映俳優録11 三田登喜子(+品川隆二、南原宏治)

山本富士子はミス日本、近藤美恵子はミス日本&ミスユニバース日本代表と書いたが、三田登喜子もミス・ニッポンの準ミスである。
とはいっても「ニッポン」とカタカナで書いたとおり、ミス日本とは別物で、51年に大映10周年記念として大映とスポーツニッポン社との主催で開かれたコンテストのようである。
三田登喜子は高校在学中に準ミスに選ばれ(ミスが誰かは不明)、中退して大映演技研究所に6期生として入社した。
おそらく同時(または同時期)に「ミスターニッポンコンテスト」も開かれ、選ばれた5人のうちの2人が南原宏治(準ミスター)、品川隆二である。南原と品川も三田と同時に入社している。
南原は一般公募により船上爽の名でデビューしたが、大映では端役に留まり、54年に東映ニューフェイスの1期生・南原伸二となってから活躍が始まる。
品川は54年入社となっている資料が多かったりするが、前述のとおり正入社は52年であり、実際は54年頃まで役らしい役がつかなかったのである。品川も東洋大学を中退しての入社だったが、年齢を詐称して大学に入学していたため(戸籍の昭和八年を六年に書き換えたという)、まだ18歳であった。
ちなみにデビュー時の芸名は奥秋不二夫(本名・奥秋潔)。本名が奥村になっている資料もよくあるが、奥村は勝新太郎である。奥秋というのも非常に珍しい苗字かと思いきや、全国に4百世帯以上は存在するらしい。
三田登喜子は大映では脇役が多かったが(もちろんメインもある)、ほぼ時代劇のみで70本以上に出演している。62年にフリーとなり、以降はテレビドラマで活躍している。
自分が彼女をはっきりと認識したのは結構最近で、毎度のことながらCSで放送されている「特別機動捜査隊」でのゲスト出演によってである。常連とまではいかないが、数回いい役で出演しているのである。
一時期、芸名を三田桃基子としていたが、結局元に戻したようである。パッと見「ミタトキコ」とは読めないと思う。加山雄三の「高校教師」(74年)で、山内えみこの母親役で出演しており、この「三田桃基子」の名は目にしていたのだが、その時点では「三田登喜子」を知らなかったため、「ミタモモ・モトコ?」としか読めなかったのである。
「三田桃」などという苗字は日本に存在しないようだが、まあ芸名ならありえるかなと。
三田登喜子は長く女優を続け、01年までの活動は確認されている。

大映俳優録10 渚まゆみ

今回も個人的にもよく覚えている渚まゆみである。
子供の頃はテレビ付けの毎日だったので、テレビに出ていた人ほど印象に深いの当たり前である。彼女もよくドラマにゲストで出演していた。特に「ザ・ガードマン」でよく見た気がすると思ったら、少なくとも15回は出演していたようである。
デビューは61年で、田宮二郎主演の「新夫婦読本・若奥様は売れっ子」という作品で、本名の田代真弓名義であった。高校を中退しまだ15歳であった。エキゾチックな顔立ちでアイドルっぽさもあった。
つづく「東京おにぎり娘」にも、田代真弓で出演した後、「夕やけ小やけの赤とんぼ」で渚まゆみとして、[新スター]として主演デビューしている。不良少女の役である。
監督が島耕二で、その息子である片山明彦が相手役であった。子供も多く出演しており、大映でお馴染みの俳優は中条静夫と仲村隆くらいで、他はベテラン千田是也、三宅邦子、歌手の石川進、渡辺トモ子といった顔ぶれであった。そして作曲家の山田耕作が本人役で登場。渚まゆみの芸名は山田の命名だという。
これ以降は、妹ポジションの役が多くなり、名前がトップに来るようなことはなかった。「スタアがいた季節」の著者である中島賢にも「これといった代表作はない」などと書かれているので、この渚まゆみとしてのデビュー作が代表作ということになるのだろう。
脇役で出演している「雪の降る街に」(62年)には、「天国と地獄」で有名になる前の山崎努や「月光仮面」の大瀬康一が出演していた。山崎はほぼ主役なのに、名を知られるには至らなかったようだ。
さて、渚まゆみといえばやはり、27歳年上の音楽家・浜口庫之助と結婚した女優として覚えている人は多いだろう。73年のことなので、彼女は28歳、浜口は55歳ということになる。
渚まゆみは歌手活動も行っていたが、島倉千代子の「愛のさざなみ」を聞いて、作者の浜口に興味を持ったという。72年にその浜口の歌を歌う機会が訪れたのが出会いだったようだ。その翌年には結婚である。
当時の浜口の印象が爺さんぽかったので、「何で?」と思ったが、自分がその年齢に近くなったので、そういうこともあるかなと今は思える。
前述の中島によると、彼女は早くに父親を亡くし、母親との二人暮らしだったそうで、年の離れた男性に惹かれたのはそのせいだと思われる(要するにファザコンだった?)。
大映なき後は、東映のやくざ映画などに出ていた彼女であったが、結婚を機に事実上引退。しかし、90年に浜口が他界した後は、女優業を再開し、テレビドラマに顔をだすようになっている。
今年になって「渚まゆみ 浜口庫之助を唄う」というCDが発売されている。

大映俳優録9 坪内ミキ子

今まで取り上げてきた大映女優は、正直個人的には印象の薄い人ばかりだったのだが、今回の坪内ミキ子は自分が子供の頃から、よく見かけた記憶がある。
とはいっても、女優としてではなくNHK「連想ゲーム」の解答者としてであり、あまり「女優」としての姿を見た記憶がない。「連想ゲーム」には12年もの間(75~88年)出ていたらしく、「3時のあなた」のキャスターなどもやっており、タレントのイメージのほうが強かった。
大映には、早稲田大学卒業後の62年に入社。10代デビューが多い大映女優の中では遅いほうであり、顔立ちも年齢より大人びて見える女優の多い中、どちらかといえば幼く見え、大映女優陣では珍しいタイプに思える。
「坪内逍遥の孫娘」として売り出されたが、実はそれは正しくない(要するにウソだ)。父である坪内士行は逍遥の兄の子なので、甥になるわけである。しかし、一時逍遥の養子だったため、そのまま行けば「逍遥の孫娘」はウソではなかったのだが、養子縁組は19年、士行32歳の時に解消されているのである。
坪内士行はハーバード大学に留学し演劇を学び、15年に帰国。しかし、深い関係になった米国人女性が彼を追って来たのである(二年ほどで帰国)。19年に宝塚音楽学校の創設に関わったが、同年宝塚歌劇団1期生の雲井浪子(当時18歳)と結婚。
こうした士行の女性関係に逍遥が激怒し、養子縁組を解消されたのである。
雲井浪子は1913年12歳のとき、宝塚歌劇団に入団しているが、実姉の五十島揖子も一緒に入団している。実妹の緒嶋なほ子も26年に入団しており、つまり宝塚三姉妹である(もっと姉妹がいた可能性はあるけれども)。
坪内ミキ子は40年生まれなので、士行53歳、浪子39歳のときの子供ということになる。母親が宝塚ジェンヌ出身なので、その娘ミキ子が宝塚に行きたくなるのは自然の流れのような気もするが、何故か浪子は大反対。
自分は娘役のトップで、姉妹も宝塚出身でありながら、強硬に反対したのは余程嫌なことがあったのか。前述の結婚を期に退団しているが、18歳での退団は他に事情があったのかも。ちなみに浪子は102歳まで生きていたそうである。
さて、坪内ミキ子は大映では30本程の作品に出演。66年頃からテレビ中心の活動になり、映画は年に1~2本のペースになっているが、大映末期の「ガメラ対深海怪獣ジグラ」(71年)にも主人公の少年役の坂上也寸志(坂上忍の実兄)の母親役で出演している。
彼女は大映宣伝部の櫻井正伍と結婚。宣伝部仲間でもあった中島賢によれば、坪内ミキ子は現在でも藤村志保や雷蔵夫人(永田雅一の養女である雅子)とは毎日のように会ったりしているという。