お宝映画・番組私的見聞録 -107ページ目

大映俳優録8 浜田ゆう子

今回は浜田ゆう子である。大映第12期ニューフェースとして入社し、若尾文子主演の「薔薇の木にバラの花咲く」(59年)でデビューしている。
眠狂四郎シリーズで雷蔵の相手をしていたかと思えば、黒シリーズで田宮二郎の相手をしていたりと、時代劇、現代劇と固定されることなく出演していた。69年まで在籍していたようだが、在籍期間の割りに出演本数は50本程度と、あまり多くはない。
60年代終盤になると「蛇娘と白髪魔」や「ガメラ対大悪獣ギロン」など特撮での母親役も多くなっている。
話は変わるが、東宝に1字違いの浜田百合子という女優がいた。戦後まもなくデビューし、黒澤映画の名プロデューサーだった本木荘二郎と結婚している(後に離婚)。
彼女の引退は58年で、入れ替わるように翌59年に浜田ゆう子がデビューしている。浜田ゆう子という芸名が浜田百合子を基にしているかどうかは不明だが、無関係とも思えない。
そういえば、浜田ゆう子の田を抜けば浜ゆう子→浜木綿子になる。その当時の浜木綿子は宝塚歌劇で活躍中である。田宮二郎が野球選手の田宮謙次郎から付けられたように、浜木綿子に肖った可能性もなくはない(勝手な想像)。
さて浜田ゆう子だが、72年に葉山良二と結婚している。葉山は日活所属だったので、大映在籍時に接点はなかったと思われるが、共に70年代は東映の作品に出演することが多かったので、その頃に知り合ったのではないだろうか。
大映時代は本郷功次郎と付き合っていたというが、彼の浮気ぐせが原因で別れたという。
浜田ゆう子がいつ頃まで活動していたのかはっきりしないが、出演記録からは77年で一旦途切れて、90年に復活して、97年の「新・部長刑事アーバンポリス24」が最後となっている。
77年の最後の番組というのが「特捜最前線」なのだが、本郷がレギュラー入りする前のゲスト出演であった。葉山が末期にレギュラー入りした「特別機動捜査隊」にも数回ゲスト出演しているが、夫婦共演はなかったようである。
「スタアのいた季節」の著書中島賢によると、浜田ゆう子は昨年(14年)亡くなったとのことである。本郷も13年に死去、夫だった葉山は93年に亡くなっている。

大映俳優録7 近藤美恵子

初代ミス日本から53年に大映入りして大スターとなったのが山本富士子だが、54年のミス日本でありミス・ユニバース・ジャパンでもあったという経歴を持って大映入りしたのが近藤美恵子である。
共に63年に大映を退社しており、映画界での活動期間はほぼ一緒(山本富士子もこれ以降映画には出演していない)ということになるが、その印象度は随分違う。
近藤美恵子は「娘の人生案内」(55年)で映画デビュー(当時19歳)。デビュー当時は青春映画が多かったようだが、翌年あたりから時代劇中心となっている。メインヒロインも当然あるが、準ヒロイン的なポジションの役が多く(クレジット順が4~6番目くらい)、これは引退時まで続いている。
時代劇中心なので、長谷川一夫や市川雷蔵、勝新太郎などの相手役をつとめることも多く、84本もの作品に出演しているが、今一つ印象は薄い気がする。
「スタアのいた季節」の著者である中島賢をして、主演作品として目立つ作品は思い当たらないが…、などと書かれているので、インパクトを与えるような役にはめぐまれなかったいうことになるのだろうか。
この時代のミス・ユニバース日本代表といえば、「八頭身美人」と言われた53年の伊東絹子とか、世界大会で優勝した59年の児島明子(後に宝田明と結婚)の方が一般的には有名あろう。
ミス日本やミス・ユニバース・ジャパンから女優やタレントになった人というのは以外に少ない。成功したといえるのは、ミス日本では叶姉妹の叶美香(当時は玉井美香)と藤原紀香くらいだろうか。ミス・ユニバース・ジャパンでは、萬田久子、写真家だが織作峰子、最近では知花くららが知られているくらいか。
以前書いたのだが、変り種では、ジャニーズ事務所女性タレント1号となった飯野矢住代、2号となった島田純はそれぞれ68年、70年のミスユニバース日本代表である。
飯野は事務所を辞めた後、妊娠出産なども経験し(子供はすぐに死亡)、71年に21歳の若さで一酸化炭素中毒で亡くなっている。幼馴染だったという池田秀一のマンションで、彼の不在中に風呂の空焚きによる事故死であったという。
島田はフォーリーブスのミュージカルなどに出演。その縁からかメンバーの青山孝と77年に結婚している(後に離婚)。

大映俳優録6 若松和子&紺野ユカ

前回の姿美千子・橘和子姉妹は大映、日活と別々の会社だったが、同じ大映に所属していたのが若松和子・紺野ユカ姉妹である。
芸名に全く共通点がないので、顔は似てても姉妹と気付かない人もいたかもしれない。姉は出身の会津若松にちなんだ名前だが、妹の方は永田秀雅副社長の命名だそうである。その意味ついてはわからない。
地元では美人4姉妹として有名だったそうで、若松が長女、6歳下の紺野は末の四女である。本名は「星」であり、まさしくスタアなのだが、何故か芸名には使われていない。大映にはベテラン星ひかるがいたからというわけでもあるまい。男だし。
デビューは若松が56年で、紺野が58年。共に松竹歌劇団出身であるが、紺野の方は10ヶ月ほどで退団して、大映入りしている。ちなみに16歳であった。
正直、この二人に関しても個人的には印象がないに等しいのだが、これは60年代に入ると、二人ともほぼ脇役だったからではないだろうか(もちろんメインに近い役もあるようだが)。ウィキペディアにも共に個人の項目はなかったりするので、大雑把なことしかわからないのが実情だ。
紺野ユカは、叶順子版の「痴人の愛」(60年)、安田道代版の「痴人の愛」(67年)の両方に出演しているが、後者は最後に女優を引退している。これは、前者の監督でもあった木村恵吾に「次のシャシンでは、お前に裸になってもらうから」と言われたので、即座に大映を辞めたのだという。
元々、セクシー女優候補として発掘され、前述の通り永田秀雅に芸名を与えられるくらいに期待されていた存在だったわけだが、本当に裸になるのは嫌だったようである。その後、実家の料亭の女将へと転身し、その後は福岡で暮らしていたというが、現在はタレント事務所にその名前・写真が載っていたりするので、芸能活動を再開させているようである。ちなみに現在73歳だ。
若松和子は大映等産後も女優を続け、80年代前半まではドラマに出演していた記録がある。経緯は不明だが、食生活ジャーナリスト・岸朝子の兄である宮城昌康(競馬評論家)と結婚。生まれた娘はJRAの騎手であった中舘英二と結婚している。ちなみに中舘は通算1869勝を挙げ、今年1月に引退し、3月から調教師となり厩舎を開業している。

大映俳優録5 姿美千子

今回は、予想がついていた方もいたかもしれないが、「1フジ(藤由紀子)、2タキ(滝瑛子)、3スガタ」に従って姿美千子である。個人的には初耳だったが、ほぼ同時期に大映に入社した三人はこういうキャッチフレーズで売り出されたという。
姿美千子という芸名からは、女柔道家あるいは演歌歌手というイメージを抱くのは私だけではあるまい。彼女の本名は橘郁子といい、そのままでもいけそうな名前だが、デビュー前から「姿美千子」になることは決定事項だったのである。
前年に「潮来笠」でデビューして一躍人気歌手になった橋幸夫、初の主演作となる「すっ飛び仁義」(61年)の相手役を一般から募集することになり、その優勝者に与えられる芸名が「姿美千子」と決まっていたのである。
中島賢「スタアのいた季節」によれば、北海道の候補だった当時16歳の橘郁子と九州地区の吉村さんという人の一騎打ちと予想されていたのだが、その吉村さんが親の反対で最終審査を辞退ということになり、橘郁子に決定したのであった。
この61年、大映では橋幸夫が出演している作品が「潮来笠」(こちらは映画のタイトル)を皮切りに9本も制作されている。しかし、主演は小林勝彦だったり、雷蔵だったり勝新だったりであった。
そして7本目の「すっ飛び仁義」でついに主演を得たのだ。と思ったら、6本目の「磯ぶし源太」でも主役だったようである。源太役だし。とにかく「すっ飛び仁義」で、姿は中村玉緒とのダブルヒロイン扱いでのデビューとなったのである。
やはり橋の出演する「明日を呼ぶ港」「花の兄弟」、翌62年の「悲恋の若武者」と共演が続くが、「若い樹々」(63年)からは倉石功とのコンビによる青春映画が多くなっている。
テレビ出演にも積極的で、大映テレビ室製作の「ザ・ガードマン」(65~71年)には8回ほど出演している。撮影のテンポの良さや反響がわかりやすいところが気に入っていたという。
順調だった女優生活であったが、大映がセクシー路線に転じると、そういった役柄にあまり縁のなかった彼女の出演機会は減り68年に大映を退社し、テレビ界に転じている。
妹はご存知の方も多いと思うが、日活入りした橘和子である。5歳年下の彼女は姉と同じように16歳のとき(66年)、渡哲也の相手役としてデビュー。しかし、わずか三年で読売ジャイアンツ、左のエースと言われた高橋一三と結婚して引退。実は妹の方が先に結婚引退しているのである。
おそらくこの縁で、姿美千子もジャイアンツの投手である倉田誠と結婚して71年に引退した。倉田と高橋は誕生日が6日違いの同い年であった。高橋一三は今年69歳で亡くなっている。

大映俳優録4 滝瑛子(+久保田紀子)

前回の藤由紀子と同じような時期(62年)に、やはり他社から移籍してきたのが滝瑛子である。
あの浅丘ルリ子を生み出した日活の「緑はるかに」(55年)の最終審査に残ったのが山東昭子、桑野みゆき、田村奈巳(いずれも当時12歳)、榊ひろみ(当時13歳)、そして最年少の滝瑛子(本名・高城瑛子/当時10歳)であった。彼女たちはノンクレジットで「緑はるかに」に出演しているようだ。
ちなみに、上原美佐(当時17歳)もこのオーディションには参加したようである。浅丘ルリ子と最後まで争ったのは久保田紀子(当時15歳)で、彼女はその後大映に入社している。
57~60年にかけて、20数本の大映作品に出演しているが、ほとんどが端役であった。あの浅丘ルリ子と争ったという経歴を持ちながら、ひっそりと消えていったようである。
さて、上記の中で義理堅く?日活に進んだのは高城瑛子だけである。58年に行われた日活第4期ニューフェースに合格している。当時13歳か14歳である。「日活映画」誌に載っている合格した21人の集合写真では最前列の真ん中にいるのが彼女だ。
この時の同期で、スタアになったのは赤木圭一郎だけで、後はピンク映画で有名になる香取環(久木登紀子)くらいだろうか。
wikiでは60年入社とかになっているが、58年の「夜の狼」などに高城瑛子の名があるので、58年入社ということになるのではないだろうか(当時まだ中学生なので卒業しないと正式な入社扱いにならない、とかいうなら別だが)。
年齢もあってか、日活ではそれほど大きな役も得られず、61年に日活を退社する。実は彼女の母親は大映の洋画部に勤務していたのだが、それが縁となり日米合作の「あしやからの飛行」(64年)に出演することになる。しかもジョージ・チャキリスの妻役である。
クランクインは62年であり、それと同時に彼女は大映に入社し、滝瑛子となったのである。本名のもじりだが、実はそれ以前に滝瑛子という松竹女優がいたのである。
当時すでに大滝英洧子と改名していたのでかぶらずにすんでいる。ちなみにその妹は女優の藤代鮎子とスリー・キャッツの上原由里である。
さて、大映に入社した滝瑛子だが、その顔立ちから悪女役が多かった。「座頭市シリーズ」や「兵隊やくざ」など勝新主演の作品が多い。大映に母親というコネがありなあがら、すぐに入社しなかったのは勿体無かったかもしれない。
68年にNET(現テレビ朝日)のディレクターと結婚して引退したが、三年で離婚しまた芸能界復帰したらしいが、はっきりと記録にあるのは「特別機動捜査隊」(75年)へのゲスト出演くらいであり、その後のことは不明である。

大映俳優録3 藤由紀子

田宮二郎の妻といえば、藤由紀子である。その結婚であっという間に引退してしまったのは、ご存知であろう。
藤由紀子のデビューは61年。本名は佐藤幸子(もちろん旧姓)という、百人くらい同姓同名のいそうな名だったわけだが、「佐」をとって「幸」の漢字を変えただけで、随分印象が変わるものである。
松竹音楽舞踊学校(SKDの劇団員養成機関)に通っていたので、高校卒業後に松竹に入社している。デビュー作は端役だったが、次の木下恵介監督「永遠の人」では、高峰秀子の娘役に抜擢、「めぐり逢う日まで」では、ヒロインを演じている。このときの相手役が山下洵二、後の山下洵一郎だが、彼も数年後に大映に転じており「黒の切り札」で再共演することになる。
松竹で5本ほどの映画に出演、ある程度というか結構、期待されていた存在だったと思われるが、テレビドラマの出演をめぐって会社と対立し、翌62年に松竹を退社した。まだ19歳である。
彼女が、フリーの立場で出演したテレビドラマが三島由紀夫原作の「お嬢さん」(62年)である。全6回で彼女が主演、他に浅香春彦、高倉みゆきなどが出演している。これが退社原因のドラマかどうかは不明だが、時期的にそうではないだろうか。
実はこの「お嬢さん」、前年(61年)に大映が映画化している。主演は若尾文子、川口浩、野添ひとみ、そして田宮二郎も若尾にふられる役で出ている。
中島賢の「スタアのいた季節」によれば、62年夏に、大映福岡支社にいた中島のもとに「藤由紀子が今沖縄にいる。福岡で降ろすことにしたからそっちで預かってくれ」という電話があったという。大映が彼女を引き取る話し合いを松竹とするにあたり、本人は東京にいない方がいいと本社が判断した、と直感したという。
そして、12月再デビューの形で、20歳の藤由紀子は大映に入社している。
さて、田宮と藤といえば黒シリーズの印象だが(実際黒シリーズしか共演はないようだ)、初共演は「夜の配当」(63年)である。タイトルに「黒」はないが、黒シリーズだという意見もある作品だ。特別、田宮と共演が多かったわけではなく、宇津井健、市川雷蔵、勝新太郎も同じくらいである。
先の中島によれば、藤は田宮のことを「ああいう人は好きじゃない。私はあんな人と結婚はしないわ」と言っていたという。本心かポーズだったかはわからないが、中島にとっては二人の結婚は驚きだったという。ちなみに、勝新と中村玉緒の結婚も意外だったという。
65年5月二人は結婚し、藤は引退した。松竹時代から通算しても、わずか4年半の女優生活であった。

大映俳優録2 叶順子

さて、大映女優シリーズ第2弾だが、毛利郁子と同期入社である叶順子にした。
個人的には正直言って全く馴染みのない女優で、彼女の出演している映画も何本かは見ているはずだが、はっきりとした顔認識ができていない状態である。
おそらく引退したのが63年で、こっちが物心つく前にいなくなってしまったからであろう。
大映ニューフェース10期は、毛利郁子、田宮二郎と悲劇をたどった人物がいるが、叶順子も早々と引退に追い込まれている。引退の理由が強い照明の影響で目に異常を感じるようになり、このまま女優を続けると失明の恐れがあるからというものであった。
当時、大映宣伝課の中島賢によれば、それが直接の原因ではないのではないか、と思ったという。休養して復帰するという手もあったはずだし、会社ともめていたという噂もあったらしい。
翌64年に結婚したようなので、これが一番の原因ではと個人的には思ったりするのだが。
さて、叶順子は54年18歳のとき「ミス資生堂」に選ばれ、同社に入社する。同社の美容部長であった藤原あきの推薦で、56年大映に入社している。
デビュー作は「朝の口笛」(57年)で、前項の「透明人間と蠅男」(57年)にも出演している。毛利郁子は殺される役だったが、叶順子はヒロイン役であった。
「細雪」(59年)では、四姉妹の四女役に抜擢。姉役は上から、轟夕起子、京マチ子、山本富士子という錚々たる顔ぶれだ。50年の新東宝版「細雪」では、花井蘭子、轟夕起子、山根寿子、高峰秀子となっており、轟は次女から長女へ昇格。彼女以外の三人は「十人の旗の会」のメンバーである。話がそれたが、叶順子は高峰秀子と同じ役を演じたのである。
「痴人の愛」(60年)でも主演のナオミ役を演じた。
引退少し前には「温泉芸者」「温泉あんま」(63年)という東映でやりそうな作品で主演を演じた。前者の内容が不具者の性器は上味だとして、芸のない芸者がニセの唖をかたって売れっ子になるというもの。参議院文教委員会が人権蔑視だと取り上げた問題作だそうだ。
最終出演作となったのが「風速七十五米」(63年)。共演の多かった宇津井健、田宮二郎との共演でしめくくった。日活で裕次郎が主演したのは「風速40米」(58年)であり、台風が来るというテーマは一緒である。大映の方は暴風雨と洪水の特撮が見せ場になっている。
叶順子、大映に在籍した7年弱で出演作は80本近くに及ぶ。そのまま健康に女優を続けられていれば、かなりの位置までいけたのではないだろうか。関係ないが、88年に叶順子という名のAV女優が二人デビューしている。

大映俳優録1 毛利郁子

長らく東宝関係の話題が続いたが、月も替わったことだし、大映関係の話で行こうと思う。市川雷蔵や勝新太郎個々のことを書いた資料や本は結構ある気がするが、大映そのものを語った資料というのはあまりない気がする。
そんな中、最近の話だが「スタアのいた季節 わが青春の大映回顧録」という本が発売された。著者の中島賢は、大映の宣伝課にいた人であり、役者のプライベートの姿なども知っている人物である。
最初は誰を取り上げようかと思ったが、毛利郁子で行くことにした。殺人を犯した現役女優として、覚えている人もいるだろう。最近テレビで、名前は伏せられていたが事件の経緯を再現していた。
毛利郁子は大分の旅館で働いていたときに「ミス温泉」に選ばれている。56年に大映10期俳優研修生として大映入社とwikiにはあるが、これはニューフェース同義なのだろうか。同じ年に入社の田宮二郎、叶順子、市田ひろみらは大映10期ニューフェースと言われている。
彼女は出演映画からして猟奇的なものが多かった。デビュー作からして「透明人間と蠅男」(57年)だったりして、蠅男に殺されるダンサーの役だ。ちなみに、蠅男役は中条静夫で後年からは考えられない役だ。蠅男の黒幕で、自らも蠅男になるのが伊沢一郎で、こちらも後年は刑事役のイメージが強い。
話がそれたが、毛利郁子は蛇女優としても知られる。裸で大蛇をまとったりしており、「青蛇風呂」(59年)では主演の座を得たりしている。蛇を飼っていたのは事実らしいが、そこまで好きということはなかったと思われる。
「座頭市シリーズ」や「眠狂四郎シリーズ」にも出演し、特に「眠狂四郎・多情剣」(65年)の菊姫役では、顔に火傷を負った姿で登場。「妖怪百物語」や「妖怪大戦争」(ともに68年)では、ろくろ首の役ととにかく妖怪めいた(妖怪そのものの役もあるが)役が多かったのが特徴だ。
69年、そんな中で先の事件は起こった。妻子のある興行師の男に騙され、愛人となり子供までもうけたが、(テレビの再現ドラマどおりだとすると)子供の養育費のことで迫ると、「お前が勝手に産んだだから知らん」と言われ、持っていた包丁で突き刺したのであった。
しかし、殺人罪では異例ともいえる三年で出所することになる。社長の永田雅一や勝新太郎などが減刑嘆願書を提出したりするなどもあったが、殺された男の妻が裁判で「寛大な処置をお願いします」と証言したことも大きかったようだ。
妻は夫のやっていたことを当初から知っていたのである。これも再現ドラマどおりだとすれば、男は死ぬまぎわに「自分で刺した」と言い、毛利が刺したとは言わなかったそうだ。せめてもの罪ほろぼしだったのであろうか。
彼女は出所後、芸能界に戻るはずもなく、結婚して平穏に暮らしているという。ちなみに彼女の裁判中に大映は倒産している。

東宝芸能学校とは その3

さて、東宝芸能学校の1期生というのが弓恵子である。彼女の映画デビューは55年「赤いカンナの花咲けば」という作品だが、学校にかよったのはその後だったという。
卒業後に所属したのは東宝ではなく、系列の東京映画だった。所属は1年くらいだったといい、出演プロフィールから58年のことと思われる。当時の芸名が光丘ひろみで、これは父である潮万太郎がつけたものである。もっとも、最初は丘ひろみのはずだったらしいが、初日のロケから帰ってきたら何故か光丘になっていたという。
翌59年には、父と共に大映に移籍。そこで、伊藤大輔監督に弓恵子と名付けられたのである。
彼女は演劇科だが、同期で舞踏科に在籍していたというのが藤村俊二であった。藤村の場合は、早稲田大学を中退して東宝芸能学校に通ったらしい。卒業後、日劇ダンシングチームに入団したが、60年に振付師に転向した。声優の白石冬美も正確な時期は不明だが、東宝芸能学校から日劇ダンシングチームというルートを歩んでいる。
キネマ旬報の「日本映画俳優全集・男優編」によれば、藤村は55年に早大を中退し、57年に東宝芸能学校卒業とある。弓恵子も東宝芸能学校に55~57年在籍なら辻褄があう。
しかし、やはりこの1期生で卒業後は東宝に所属した津田彰、毛利幸子の談話が話がややこしくする。
毛利は東宝の大部屋女優として長く活躍したが、学校は1年制だったという。実際デビューは56年のようである。津田も56年に東宝に入社したという。
1年制と2年制という人が混在しているのだが、どうやら夜間部というのがあったようで、推測だが昼間なら1年、夜間なら2年というようになっていたのではないだろうか。少人数制の学校で津田も毛利も同期として弓恵子の名を挙げてないのは不自然な気もするので、実際ほとんど顔を合わせてはいないのではないだろうか(違う科である藤村の名は挙げているのだけれども)。
「ウルトラマン研究読本」のインタビューで、津田彰は56年に東宝ニューフェース8期として入社したと語っているが、8期だと年度が合わないのでこれは間違いであろう。56年なら11期になるはずである。
さて、ニューフェースとして入社した津田だが、7年ほどを結局大部屋で過ごした後、円谷プロの演技事務へ転職した。義兄が東宝の経理部長で円谷英二と親しかったことから紹介されたという。
ニューフェースの後輩となる新野悟も同じ道を辿っている。新野悟の名は「傷だらけの天使」(74年)のプロデューサー補としても見ることができる。

東宝芸能学校とは その2

前回話題が出たついでに東宝芸能学校の出身者について調べてみた。
まず、入学年度とかもはっきりしているのが、古谷敏、二瓶正也のウルトラマンコンビである。
この二人は、58年に入学し、60年には共に第15期東宝ニューフェースに合格しているのである。以前にも書いたが、東宝においては「ニューフェース」の呼称が使われたのは、この15期までである。翌年からは、「ニュータレント」の呼称が使われており、その第1期に、やはり「ウルトラマン」に出演する桜井浩子がいる。
とまあ、東宝ニューフェースでウィキペディアに書かれている説明の参考文献となっているのが、驚くことにこのブログだったりするのである。
それはさておき、ニューフェースで入社しながら、あまりパッとしなかった二人だが、古谷は長身でそのスラリとした体形を見込まれ、本人は抵抗したが「ウルトラマン」のスーツアクターとして、抜擢される。
また最初は石川進で撮影がスタートしたイデ隊員役だが、ギャラなどの関係で2日で降板となり、急遽起用されたのが二瓶だったのである。
そして、前回も少し触れたが、あの美川憲一も東宝芸能学校の出身なのであった。63年入学となっている資料等もあるが、2年制だとすれば62年の入学ではないだろうか。なぜなら、64年に美川は大映ニューフェースに合格しているのである。ここまで、美川は俳優を目指していたのだろうか。
翌65年に歌手・美川憲一としてデビュー。大映ニューフェースとして活動したかどうかは不明である。
彼と東宝芸能学校で同期だったというのが、笠原玲子である。45年生まれの彼女が17歳で高校を中退して入学したというから、やはり62年であろう。美川も16歳で高校を中退しての入学だったようだ。
彼女の場合は64年に上記の東宝ニュータレントに合格。第4期ということになるのだろうか。しかし、病気で倒れてしまい、65年に改めて大映の演技研究所に入所し、66年大映に入社している。
大映では「ガメラ」シリーズ3本に出演。70年に大映がセクシー路線に行くと彼女も渥美マリ、南美川洋子などと共にそいいった映画に出演している。
もう一人彼らと同期だったというのが須永慶。どちらかというと2000年以降の活躍が目立つ役者のようだ。だから個人的にはよく知らないけれども。
須永によると、当時の美川の本名は立石由一。しかし、現在は百瀬由一となっている。美川によれば、生みの母と育ての母(実の姉妹)がいたのだという。おそらく百瀬として生まれたが、病気のため立石家で育てられ、その育ての母が先に亡くなったので、百瀬に戻ったのではないだろうか。
あと、オネエ振付師でダンサーの真島茂樹が、東宝芸能学校で美川の一年後輩だったという。年齢非公表だが、現69歳の美川に近い年齢であることは確かだろう。