お宝映画・番組私的見聞録 -109ページ目

川部修詩の「活狂エイガ学校」その8 新東宝誕生

東宝撮影所従業員組合(通称・第三組合)の闘争委員長に就任したのが、等欄で何回か登場した安達英三郎である。この人なくしては新東宝の誕生はなかったのだ。もっとも、東宝から独立するつもりではなかったのだが。
十人の旗の会や新組合結成の話は、すぐに映画界にも広まり、旧日活社長である堀久作から渡辺邦男監督の下に「ジュウニンノハタヒキウケタ」という電報があったという。実際に日活が映画製作を再開するのは54年のことだが、堀は既に復活を狙っていたのであろう。
渡辺は安達と森岩雄にこの電報を見せたが、3人だけの秘密ということにし、大沢善夫社長にもこのことは伏せていた。大沢社長は常に「第三組合員全員の第一組合復帰」というスタンスであった。
映画製作を再開しても第三組合員には「戻らなければ給料は払わない」という態度であったという。そこで、安達は長谷川一夫に大沢社長との交渉を依頼した。これには大沢社長は俳優には一目おく人だから、長谷川なら承知するという、安達の目論見があった。この作戦が功を奏し、給料は支払われたという。
翌47年、第三組合は森田信義を責任者に東宝撮影所・第二制作部として砧の第一撮影所から少し離れた小高い場所にある第三撮影所への入所が決まった。もっとも建物はお粗末なバラックだったという。その第一回作品となったのが「東宝千一夜」である。
しかし安達は、今後第二制作部として仕事を進めていくのは困難だと判断していた。第一、第三組合の団結も不可能となると、新会社を設立するしかないと考えたのである。しかも、ことを急がなければ、前述した堀久作の誘いのように、スタアやスタッフが流出する恐れもあった。
安達は改めて、大沢社長に直談判したのである。その内容は東宝が全株を所有する新会社の設立というものであった。給料に関しては東宝から支払われる形で、ようするに子会社みたいなものである。
「しかし新会社の設立はそれほど簡単ではないぞ」と大沢が言うと、安達は眠っている会社を利用すると言い出したのである。
戦時中である41年、東宝と提携していた大宝映画が改組し、東映商事株式会社として東宝と合流した。安達はそこに会計課長として在籍していたのである。
しかし、映画製作は実質的に不可能であり、食堂経営などを試みてみたが物資不足もあり、すぐに閉鎖。それ以来、この東映商事は忘れられた会社になっていたのである。これを利用した一種のトンネル会社を作るというのが安達の提案だった。
大沢も「それなら株主総会でも承認されるだろう」と、了承したのであった。
47年3月、こうして誕生したのが、株式会社新東宝映画製作所である。ところが、間もなく独占禁止法が制定されたことにより、翌48年6月、株式会社新東宝映画製作所の一切を継承して、新たに株式会社新東宝が誕生し、東宝から完全独立したのである。

実際は独立するまでも、いろいろ悶着があったのだが、その辺はネット上でも調べられると思うのでここでは省略。

川部修詩の「活狂エイガ学校」その7 第三組合結成

前回の続きである。
國光園に集まったのは427名。この話し合いで、日映演を脱退し、新組合を結成することが決定された。
この2日後に十人の旗の会のメンバーであった山田五十鈴が脱退している。これは、山田のもとに川口松太郎からの手紙が届き、そこに「貴女の場合は芸だけに徹し、組合活動などやるべきではない」ということが書かれていたのである。
これはかなりの達筆で名文だったらしく、山田も辞めないわけにはいかなくなったらしい。三谷幸子に続く脱退で、十人の旗の会は行動を起こしたときには実質八人だったわけである。
46年11月22日に、東宝撮影所従業員組合(通称・第三組合)の結成式が行われた。ちなみに、第一組合とは日映演東宝支部、第二組合とは本社営業部を中心とする日映演脱退グループのことをそう呼んでいた。
この結成式で騒ぎを起こしのが、ほかならぬこの本の著者である川部修詩と、友人である江見俊太郎、高木昇の三人であった。
三人は「新組合の結成は好ましくない、もう一度考え直そう」というようなことを壇上で叫んだのである。周囲が騒然とする中、三人に近づいてきたのが藤田進であった。
藤田は「今日になって何を言う!馬鹿者ッ、これじゃああっちの組合が喜ぶだけだぞ、それがわからんのか!」と軍人役が多かったそのイメージ通りの口調でどやしつけた。
そこへ、渡辺邦男監督と大河内傳次郎も飛んできた。「まあまあ、藤田君、後は我々が話し合うから」と藤田をなだめた。
渡辺は「皆さん大丈夫です。この青年たちは我々の同志です。話せばわかります」と人々に呼びかけた。
三人とも新組合結成しか道がないことはよくわかってはいたのだが、あまりにも早急に事が運ばれたことに不安を感じ、今回のことに及んでしまったのであった。
渡辺監督と大河内に諭された三人は頭を下げた。解散時、藤田が今度は笑顔で三人に近づいた。「人間疲れていると、妙なことを行ったりするものだ。今夜は俺につきあえよ」
藤田は三人を三軒茶屋の店に連れて行き、その頃は貴重だった酢がきやとんかつ、日本酒などを振舞ったのであった。
藤田進は当時34歳。東宝入社は39年で役者としてはまだ7年目くらいであったが、黒澤明の第一回監督作品「姿三四郎」で主役に起用されるなどスターの地位を確立していた。
こうして第三組合が結成され、これが新会社である新東宝に発展するわけだが、そのいきさつは次回に(多分)。

川部修詩の「活狂エイガ学校」その6 東宝大争議

東宝争議の続きである。
46年11月に行われた「拡大職場大会」で大河内傳次郎が壇上に立ち、幹部の更迭、争議の中止、撮影の即時再開を訴えた。
これには「裏切り者!」「反動分子!」といった声もあったが、それ以上に「賛成!」「スト中止!」と言った声があがったという。
これには、大河内文書をあまり問題にしていなかった組合の執行部員も驚き、すぐに闘争本部へ連絡に走った。それを察知した当時助監督の古沢憲吾が電話線を切断したりしたが、一足遅かったようだった。
駆けつけた闘争本部常任委員である山田典吾を壇上に上げ、大河内が啖呵を切った。「私は君にも再三言ってきた。無意味なストはやめろと」「この現状を見つめ、速やかにストを中止し給え!」
この時の大河内には不思議と例の「シェイは丹下、名はシャジェン」といったような大河内節はなかったという。興奮すると普段でも映画のような口調になっていたらしい。
形勢不利と見た執行部は「本日の大会は本部に未届けだったので、全て無効である」と流会を宣言した。「民主主義に反し、クーデーターに等しい」とまで言われ、押し切られてしまったのである。
翌日夕方から「臨時分会総会」が開かれ、スト中止か否かが話し合われた。大河内の姿はなかったが、黒川弥太郎、藤田進、高峰秀子、原節子といった「十人の旗の会」のメンバーの姿はあった。
議論は日付が変わっても続き、13時間かかってようやく決戦投票に漕ぎ着けた。この時、執行部から「五分間の休憩」が提議され、決起組も了承した。
しかし、決起組が会場を出たわずかの間に共産系幹部と執行部は壇上の前面周辺を全て青年行動隊、党員の面々に占めさせてしまったのである。つまり「五分間の休憩」は、決戦投票は不利と判断した共産系幹部が仕掛けた罠だったのである。
再開と同時に、彼らは渡辺邦男監督や光一(山室耕)らを指名登壇させ、諮問を開始した。その証言に廻りを固めた面々が非難を浴びせ、決起組の発言はかき消される形となったのである。挙句の果てに執行部はまたしても流会を宣言したのである。
「敗北」し会場を去ろうとする決起組に、その中心である安達英三郎(総務部会計課長)が「志を同じにする方はダビングルームに集まって下さい」と声を掛けていた。時間も朝の4時で、ほとんど集まらないのではないかと安達や藤田進は思っていたという。
しかし、ダビングルームには決起組のほとんどが集まっていたという。驚いていた安達や藤田に、暗がりから声をかけてきたのが大河内傳次郎と長谷川一夫だった。大河内は相手を刺激してはいけないと思い、会合には出なかったのだが、やはり気になり長谷川と共に暗くなってから試写室脇の暗がりに潜んでいたのだという。
大河内の結論は「組合を脱退する以外にない」というものだった。安達もそう思ったが、「今ここでそれを相談するのは危ないし、もう撮影所内で集まることもおそらくできない。これだけの人数を集められる場所もないでしょう」と言うと、長谷川が「それなら國光園を使いましょう」と提案した。國光園は長谷川一夫が日舞の稽古に場所を借りている所である。
これだけの打ち合わせを立ち話ですませ、大河内と長谷川は闇にまぎれて帰っていったという。
こうして、決起組一同は翌日、砧の國光園に集結することになったのである。

川部修詩の「活狂エイガ学校」その5 十人の旗の会

さて、今回は世に言う東宝争議についてである。
46年2月に「全東宝従業員組合」が結成される。委員長はプロデューサーの伊藤武郎で、早速第一次要求を提出している。
3月の第一次ストは、二週間程度で終わっており、水面下で動きはあったものの10月までストが行われることはなかった。
しかし10月15日、日映演・東宝支部は国鉄のゼネストに呼応し、組合員の総意と称してゼネストに突入し、第二次東宝争議の幕が開いたのである。このゼネストには大映、松竹など各映画会社の労組も参加している。
ゼネスト突入以降、撮影所従業員のほとんどは、連日各労組支援に駆り出された。口にこそ出さなかったものの、みんなストには嫌気を抱いていた。翌11月には、大映や松竹はストが打ち切られたが、東宝にその様子はなかった。
ストを続けることに疑問、異議を感じ始めた川部と江見俊太郎、高木昇はストを終結させるための声明を演技科で発表しよう、と話し合っていた。
そんな時、偶然彼らは成城駅で早撮りで有名な渡辺邦男監督に出会った。最初は組合の青年行動隊かと警戒していた渡辺だったが、彼らの話を聞くと「同じ考えの者がいっぱいおり、近々立ち上がる」とのことだった。
渡辺の家を訪ねると、当時は助監督だった松林宗恵、古沢憲吾、俳優の永井柳太郎、光一(山室耕)などがおり、みんな同じ考えであることがわかったのである。
そんな中、川部らの家に大河内傳次郎からの書簡が届けられた。これを読んで返事を頂きたいとのことだった。「一、今回のストは初めから反対であった。一、片寄った独裁政治的制厭的な組合は軍国時代の苦き経験でもうこりごりだ。一、一刻も早くストを解いて兎も角働きたい」というような14項目が書かれており、要するにストを辞めるべきだという声明文である。
大河内は、重役である森岩雄の自宅を訪ね「この騒ぎを片付ける命を賭けるくらいの重役はいないのか」となじったという。
相談を受けた総務部会計課長だった安達英三郎は「思い切って行動を起こしましょう」と大河内に働きかけるが、彼はかつて襲撃を受け顔を切られた長谷川一夫のようなことにならないかを危惧していた。「十人の旗の会」としながら、表に出ている名前が大河内だけなのはそのためでもあった。
大河内と安達の話し合いにより、表面には監督の渡辺邦男をたてるが実際に行動するのは安達であることを決めた。大河内も前述のように声明書を書き、組合員に発送したのである。
「大河内文書」原文に署名捺印した「十人の旗の会」の十人とは、大河内傳次郎、長谷川一夫、黒川弥太郎、藤田進、山田五十鈴、原節子、高峰秀子、花井蘭子、山根寿子、三谷幸子である。
この中ではやはり三谷幸子って誰?っていうことになると思う。役には恵まれなかったようだが、60年代の半ばまでは映画出演を続けていた女優である。
大河内主演の「閣下」(40年)で共演して以来、大河内は彼女を娘のように可愛がっており、それでメンバーに加えたが、後になって実情を知り、恐らく怖くなったのか、「メンバーから外してください」と頼み、大河内も了承したという。
一般的には、入江たか子になっていることが多いようだが(他にも轟夕起子、岸井明、中村彰などの説があった)、実は三谷幸子で、すぐに抜けてしまったため実質は九人だったのである。この原文自体は公表されなかったため、正確なメンバーを知っている人は極めて少なかったのである。

川部修詩の「活狂エイガ学校」その4 東宝入社

さて、軍から解放された川部修詩はその20日後には日大芸術学部時代の恩師・田中栄三の紹介により、東宝の常務だった森岩雄の自宅へ向かった。
森岩雄は「田中さんから話は聞いている。電話を入れておくから撮影所の森田信義君のところへ行き給え」というので、東宝の砧撮影所に向かった。森はこの後、公職追放で東宝を離れるが数年後に復帰し、制作本部長となる。森田は敏腕プロデューサーの一人である。川部はなんと即日入社が決まり演技部に籍を置くこととなった。
終戦直後である45年9月~10月、東宝では黒澤明監督の「虎の尾を踏む男達」、阿部豊監督の「歌へ!太陽」の撮影が行われていた。入社してまもない川部の仕事は、それらを見学することであった。
まだ、復員していない俳優やスタッフも多く、男優はほとんどが中年以上か二十歳前後の人ばかりだったという。
「虎の尾を踏む男達」は男しか出てこない作品だが、実は若い女優が陣笠を被って雑兵に扮して年配あるいは十代の男優と出演していたという。
その雑兵の中に当時10代だった増山健吉という役者がいた。川部より年下だが、先輩であるので彼を立てたのだが、「やめて下さいよ」と照れながらも面倒を見てくれたという。彼はこの9年後、大映の「花の白虎隊」で花柳武始として、市川雷蔵、勝新太郎とともにデビューを飾るのである。
デビューと書いたが、実はそれ以前にも数本の東宝映画に本名で出演していたのである。もっとも、すぐに映画界を離れ父(花柳章太郎)に弟子入りし、新派の役者として活動していくのである。
ご存知の人も多いかと思うが「虎の尾を踏む男達」は、GHQから公開差し止めをくらい、52年になってようやく公開されたのである。ゆえに、終戦から45年中に公開された東宝の新作は「歌へ!太陽」の一作だけであった。
当時、川部がよく行動を共にしていたのが江見渉、後の俊太郎である。川部と同じ学徒出陣組で12月に東宝に入社していた。ちなみに神風特攻隊出身で階級は少尉であった。そして同年輩の高木昇。高木は戦前は前進座で嵐秀之助の名で活動しており、既に映画出演の経験もあった。後に「わが青春に悔いなし」や「野良犬」といった黒澤作品にも端役ではあるが出演している。
江見俊太郎は悪役として有名になるが、じつは眠狂四郎を演じた(57年、61年のテレビドラマ)こともあるのだ。高木昇はまもなく引退してしまったらしく、名前がクレジットされた作品もほとんどない。
東宝では、45年11月の社長公約により、手あてが一気に跳ね上がったという。川部も月手当て150円が一気に千円になったという。そして、労働組合も作られたのだが、この組合がやがて「東宝大争議」、「新東宝設立」という問題に発展しようとは、誰も予想できなかったと思われる。

川部修詩の「活狂エイガ学校」その3 巡回慰問映画班

さて、巡回映画班にまわされた川部修詩だが、もちろん最前線に送られて銃を撃ったりするよりは、はるかに楽であろうが、これはこれで重労働なのであった。
先輩の宮川上等兵、この人が将校集会所での映写をやっていたのだが、そのお供で日本橋三越に向かった。その六階ホールは、社団法人映画配給社(翌年、映画公社と改称)の試写室となっていた。後の三越劇場である。当時のデパートは売るものがなく、ほとんどが開店休業状態であった。
応召したアメリカ映画を保管していたのは芝浦の敵産管理事務所倉庫で、そこでフィルム借用と返還を行うのである。
一通り宮川から引き継ぐと、川部は一等兵となり、移動映写用トランク型トーキー映写機、フィルム巻き取り機、編集機材、映写幕などと共に二人の初年兵が助手として付けられた。
44年の7月、巡回慰問に出発したのだが、車で行くのではない。それぞれがフィルム缶を背負い、機材を積んだリヤカーを一人が引っ張り、二人が押すのである。
つまり歩いて千葉にあった12の中隊を1カ月かけて廻るのである。各中隊は村の小学校や役場の集会所、お寺などを宿舎としており、校庭やら広場やら境内にスクリーンを設置し、日が暮れてから上映を開始、兵士だけでなく近所の人も見にきていたという。
当時、分散各中隊の仕事は、軍事用松根油を作るための松の根株掘り、枝採集、運ばれてきた軍事物資収蔵のための壕掘り作業といったものばかりで、兵の殆どが年配の招集兵だったため、彼らにとっては重労働であった。そのため、巡回映写は唯一の楽しみと言っても良かった。
どんな映画を持って廻ったかというと、大半がアメリカ映画であった。何が見たいか事前にアンケートを取った結果、第一位はジョン・フォードの「駅馬車」だったという。日本映画では「無法松の一生」「婦系図」「伊那の勘太郎」「鞍馬天狗」などで、いわゆる国策映画は「加藤隼戦闘隊」などに数票あった程度だった。
そんな中、5回目の巡回でゲーリー・クーパー主演の「ボー・ジェスト」という作品を上映して廻って戻ってきた直後、部隊本部から川部は呼び出された。
本部に行くと、部隊長の黒田大佐以下、幹部将校がずらりと並んでおり、嫌な雰囲気だったという。黒田大佐は「巡回慰問勤務、ご苦労。だが、貴官(一等兵だが)は専ら敵性映画を映し、反戦思想の映画をやったというが、それはどんな考えからか」と問い詰めた。
川部は「エラいことになった」と一瞬思い膝が震えたというが、咄嗟に「孫子には、『彼を知り、己を知り、百戦して殆からず』とあります。つまり、敵アメリカを知るため、アメリカ映画を上映したのであります」というようなことを言ったという。
暫く間があったが、黒田大佐は「わかった貴官は立派である。これからも任務に精励せよ」で、事なきを得たのである。
ちなみに「ボー・ジェスト」には、冷酷無比な軍曹が登場し、これを主人公ボーの弟ジョンが殺すという場面があり、それが問題視されたらしい。
11月には東京初空襲があり、戦局は悪化する一方であったが、そんな中で映画の巡回慰問を続けられたのは、場所が千葉などの町を離れた辺鄙なところだったからといえるだろう。
最後のフィルム借用は、45年の7月で、川部は上等兵に、助手の二人も一等兵になっていたという。そして8月15日、千葉の農家で三人は終戦を迎えたのである。その10日後に廃墟となった日本橋に残った三越にある映画公社にフィルムを返納し、続いて機材などを本部に収め、9月の初旬には「巡回慰問映画班」としての終戦処理を完了し、三人は握手を交わしながら別れたのであった。

川部修詩の「活狂エイガ学校」その2

川部修詩は小学生の頃からタイトルにある「活狂(カツキチ)」と呼ばれていたくらい映画好き、いや映画キチガイだったそうである。
中学生になると「キネマ旬報」を買い、映画のために早退することもよくあったという。大学も日大芸術学部へ進学している。
川部は、この二年生のとき(43年)に、映画俳優登録認可審査を受けている。これは「映画界に身をおくなら、俳優の資格を持っておいた方が君の場合は良いだろう」という、講師だった田中栄三に薦められたからである。
俳優になるのに、登録認可が必要なのかというと、これは39年に施行された「映画法」のためである。当時既に俳優、監督、カメラマンになっていた者も認可申請を受ける必要があったのである。もっとも、この法律は戦後まもなく廃止されている。
さて、川部が受けた第4次技能審査においての審査員の顔ぶれは、小津安二郎、田坂具隆、内田吐夢といった監督や、佐分利信、高田稔、小杉勇といった俳優が並んでいたという。その結果、43年7月に川部は俳優として登録認可を受けたのである。
しかし、それもつかの間戦局は悪化し、学徒出陣・徴兵猶予停止ということで川部も軍に入隊し、無線暗号班に配属された。
入隊して半月ほど経ったある日、川部は将校集会所において、毎晩おそくアメリカ映画を上映し、幹部将校たちだけが観ていることを知ってしまったのである。
太平洋戦争開始以来、アメリカ映画は一般上映は禁止されていたので、川部といえども、二年間見ていないかったのである。知ってしまった以上、見たくて我慢できなくなり、毎夜消灯ラッパが鳴るのを待ち、密かに内務班を抜け出し、将校集会所に忍びこんだという。
もちろん、見つかったら大変なことになるので、映写開始後暫くしてから忍び込み、後方に一番暗い所に立って観る。そしてラスト近くになると外に忍び出て、内務班に戻るということをやっていたという。この時に「ガリヴァー旅行記」や「風と共に去りぬ」などを観ることができたという。
しかし、そんなことがいつまでも成功するわけはなく、2ヵ月目にばれてしまい、上等兵に殴られたという。
他にも川部は幹部候補生の試験なども白紙で提出していたこともあり、毎月のように部隊を転属させられていたのである。そして44年5月に再び元の部隊に返ってきた際、各隊慰問の巡回映画班に廻されたのであった。
千葉県を中心に分散している部隊を映画上映で慰問するのが任務である。それまで担当していた宮川上等兵という人から、川部は映写技術の指導を受けることになった。この人もかなりの「活狂」で、フィルムが切れたときの繋ぎ方など編集まで教え込まれたといい、川部は軍にいながら映写の仕事に終戦まで携わることになったのである。

川部修詩の「活狂エイガ学校」

新東宝に、川部修詩という脇役俳優がいたのをご存知だろうか。新東宝には、その誕生から終焉まで在籍していたが、端役がほとんどであり、ポスターにのるような大きな役には恵まれていない。
個人的に彼を認識したのは確か映画ではなく、「恐怖のミイラ」(61年)というドラマだったと思う(当時ではなく、ビデオ等が発売されてからの話)。新東宝が倒産した直後に放送されたドラマで新東宝の役者が大挙出演しているのである。主演はその末期スターだった松原緑郎(光二)で、三条魔子、若杉嘉津子、舟橋元といった面々が出演しており、川部も刑事役で結構目立っていたように思う。
その川部が本を何冊か出していた。自分が今回古本屋で手に入れたのは「活狂エイガ学校」という本で、「活狂」の部分には「かつどうきちがい」と振り仮名がふってある。
ご存知のとおり、現代でこのタイトルで出版するのは不可能に近いだろう。「きちがい」はCSでは、そのまま放送されることもあるが、地上波ではもちろんのこと、基本的には音声カットされるか、ピー音が入る言葉である。
そういう扱いになって、随分たつようなイメージだが、この本の発売は87年で、この頃はまだ許されていたということだろう。再販するなら、改題が必要となるだろうが、手に入れたのは初版であった。ハードカバーでもないのに、当時の価格が2400円というのはかなり高いと思う(今回は千円で購入)。
さて、その「活狂エイガ学校」の中には、新東宝時代のエピソードは意外と少ない。しかし、その中に前回も書いた志村敏夫監督とのエピソードが書かれていた。
「怒涛の兄弟」(57年)に、川部は新聞記者の役で出演していた。裁判所の中で、川部が同僚の記者と囁きかわすシーンで、志村が「おい川部、声が小さい。何をボソボソ言っているんだ」と怒鳴ったという。
川部は「このセリフは余り大きい声で言うもんじゃありません」と言い返すと、志村は「マイクに入るような声で喋れといっているんだ、それじゃマイクに採れない」と怒る。
しかし、録音技師は「監督、川部君のセリフ採れていますよ」というので、志村は言葉に詰まってしまった。そこで「録音部が採れているというんならそれでいいよ。だが、問題は川部、お前の芝居だ。何年役者やっているんだ。少しもうまくならねえ」
これにカッときた川部は「お互い様でしょ。あんたこそ何年監督やってるんだ。少しもよいシャシン撮ってないじゃないですか」とやってしまったのである。
それから、半年の間、川部は完全に干されてしまったという。やはり役者の立場は弱いのである。

新東宝監督秘話 志村敏夫その2

瀬川昌治という監督を知っているだろうか。有名にところでは、渥美清の「列車シリーズ」(東映)やフランキー堺の「旅行シリーズ」(松竹)といった喜劇作品の多い人である。「乾杯!ごきげん映画人生」というような著書もあり、今回はそこからのネタである。
瀬川は東映や松竹で活躍しているのだが、スタートは新東宝で、49年に入社している。
助監督として活動していたが、大蔵貢が社長に就任すると、その人柄が好きになれず、次第に撮影所から足が遠のいたという。助監督の仕事を断り続け、他社の脚本を書いていたのである。
そんな矢先に志村敏夫監督から声がかかったという。友人である渡辺祐介(彼も後に名監督となる)にも、「ここは一本やっておいた方がいいのでは」と忠告され、半年ぶりに制作部に出頭したという。そこで、台本を2冊渡される。「君ひとすじに」と「新妻鏡」(56年)というタイトルであった。キャスト表を見ると主演は、前者が宇津井健と久保菜穂子、後者が高島忠夫と池内淳子となっていた。大蔵好みの古臭いメロドラマであったが、化け猫とか裸の海女はでてこない珍しくマジメな作品であった。
瀬川の心を動かしたのは、「新妻鏡」の主演に密かにファンだった池内淳子の名があったことである。一度一緒に仕事をしてみたいと思っていたこともあり、助監督に復帰することにしたのであった。
監督の志村敏夫は、親分肌で経営陣に対しても組合の先頭にたって闘っていたような人物であった。映画には素人だった服部前社長に対して「倉庫の主は変わっても倉庫の鼠は変わらねえんだ」と啖呵を切った話は有名らしい。
志村の前作は新人だった前田通子を起用した「女真珠王の復讐」(56年)である。前田の全裸シーン(月明かりにたたずむ後ろ姿である)が話題となり大ヒットしていた。主役ではないが「君ひとすじに」と「新妻鏡」にも前田は顔を出しており、正確にはわからないが志村と前田は結構速い段階からデキていたようである。
現場に行き、瀬川は志村の言葉に驚かされる。2本を同時に撮影する、スケジュールは1本分だという。当時の新東宝では一本を約20日で撮っていたが、それでも他社より10日は短かったのである。
早撮りといえば、渡辺邦男が有名だが、志村も中々の早撮りだったという。小田急の湯本行きの特急半車両借り切って「君ひとすじに」のヒロイン久保菜穂子の撮影を一発オーケーで撮り終えたと思ったら、その反対側のシートには「新妻鏡」のヒロイン池内淳子が座っており、今度はそっちの撮影を始めるのである。
この二本が同時公開というわけではないし(といっても1カ月しか違わないが)、ホームビデオのないこの時代にこのからくりは中々わかるものではないだろう。

坊ちゃんシリーズ

近江俊郎監督でシリーズものといえば、「坊ちゃんシリーズ」(56~59年)がある。全8作あるが、それだけ人気も需要もあったということなのだろう。だいぶ前にここでも取り上げたと思うが、流れついでに改めて。
新東宝で坊っちゃんの雰囲気を持つ男といえば、高島忠夫である。実際の彼もイメージどおり調子のいいところがあったようだ。
第1弾「坊ちゃんの逆襲」(56年)。脚本に近江に加え、川内康範の名がある。高島演じる会社員(実は子爵)が、悪徳重役やギャングと戦うらしい。ヒロインは池内淳子で、他に江畑絢子、坊屋三郎、古川緑波、コロムビア・トップ/ライト、高島とスターレット同期の松本朝夫らが共演。藤村有弘は本作が公称デビュー作とのこと。
第2弾「坊ちゃんの特ダネ記者」(57年)。前作から半年以上が経過しており、しかも主演は何故か坊っちゃんという雰囲気から程遠い男・宇津井健である。この時点ではシリーズにする気はなかったのかもしれない。サスペンスコメディというタッチの作品のようだ。ヒロインは久保菜穂子、三ツ矢歌子、他に角梨枝子、三村俊夫(村上不二夫)、柳家金語楼、藤間紫など。前作同様、ロッパ、坊屋、トップ・ライトといった芸人たちが出演している。
第3弾「坊ちゃんの主将」(57年)。主演に高島忠夫が復帰。何の主将かというと大学のボート部である。ヒロインは三ツ矢歌子で、近江俊郎も顔を出している。
第4弾「坊ちゃん天国」(58年)。大学の音楽部キャプテンが高島で、その妹役で大空真弓がデビュー。他に久保菜穂子、北沢典子に加え、三木のり平、清川虹子なども顔を出している。出演者の音羽美子は小野田嘉幹(新東宝監督、三ツ矢歌子と結婚)、平田昭彦兄弟の妹である。
第5弾「坊ちゃんの野球王」(58年)。タイトル通り大学の野球部主将が高島で、その妹は大空真弓。ヒロイン役は三ツ矢歌子で、他の万里昌代、松本朝夫、由利徹、南利明、トニー谷など。
第6弾「高島忠夫の坊ぼん罷り通る」(58年)。これだけタイトル形式が違っている。「坊っちゃん罷り通る」じゃダメだったのだろうか。大学ではなく化粧品会社が舞台。ヒロインは大蔵貢に(一方的に)好かれていた高倉みゆきで、その妹が大空真弓。高島とスターレット同期の天知茂も出演。由利、南、そして八波むと志の「脱線トリオ」が揃って顔を出している・
第7弾「坊ちゃんに惚れた七人娘」(59年)。高島は今回は獣医の役で、大空真弓が妹役から嫁候補に昇格。七人娘は大空の他、池内淳子、北沢典子、万里昌代、若水ヤエ子、大原栄子、花岡菊子。
第8弾「坊ちゃんとワンマン親爺」(59年)。最終作である。タイトルにある高島の父親役を由利徹が演じる。ヒロインは久保菜穂子で、他に万里昌代、南利明、江木俊夫など。
近江俊郎がどこまで、自分で演出をしていたかはわからないが、前回までに書いたスクリプター三森逸子の話からすれば、基本的には役者に丸投げしていたのかもしれない。その為に、どの作品でもアドリブに強い数人の喜劇役者を起用していたのである。