お宝映画・番組私的見聞録 -105ページ目

大映俳優録28 三夏伸(紳)

前回の阿部脩と同様に「ガメラ対バルゴン」では、船員の役をやっていたのが三夏伸(現・三夏紳)である。
この人のことは以前にも書いたことがある。脇役専門ではあるが、チョイ役であることは少ない。目立つ悪役が多いわりには、その名はあまり浸透していない感じがする。
やはり「三夏(みなつ)」という聴き慣れない姓のためだろうか。本名とも芸名とも書かれている資料はないのだが、苗字サイトで調べると「三夏」という姓の人は存在しないようなので、芸名で間違いないだろう。
三夏伸は41年生まれ。日本大学芸術学部在学中の61年に大映第15期ニューフェースに合格して入社。男10名、女10名の20名が合格したが、同期で世に出たのは誰もいないという。
ニューフェースも基本的には養成所終了後は大部屋に入れられるが、そこには古参の厳しい先輩たちがおり、彼らにしごかれたため、みんな早い時期の辞めてしまったという。
三夏は大部屋から契約俳優になるのには4年かかったという。
「陸軍中野学校」(66年)では、切腹する中野学校生の役だったのだが、驚いて「ハアッ!?」と一言いうだけのところで、監督の増村保造に「気に入らない」と九時間に渡りダメ出しされ続けたという。
完全に混乱状態に陥っていたところ、主演の市川雷蔵が「ひっくりかえったれ」と助言をくれ、ひっくり返らんばかりに言ったところ、やっとOKが出たという。
翌日は演技をすること自体が怖くなっていた状態で、切腹シーンを演じたところ今度は一発でOKが出たという。
その夜、市川雷蔵が飲みに連れていってくれて、「今日のための伏線だよ、昨日は」と言われたという。つまり前日から今日の演技を作られていたということである。その後、増村は自分の作品に三夏を良く起用するようになったという。
この「陸軍中野学校」が、デビュー作となっている資料もあるが、62年には三夏の名がクレジットされている作品があるので、デビュー作ではないだろう。
前述のガメラシリーズでは、5作品に出演しており、「ガメラ対ギャオス」(67年)では、ギャオスに喰われてしまうカメラマンを演じた。
大映東京所属ということもあり、大映時代は専ら現代劇が多かった三夏だが、元々勝新太郎に似ている言われていたこともあってか、大映倒産後はテレビ時代劇への出演が多くなっている。
「怪傑ズバット」(77年)の地獄市という役は、勝新の座頭市をイメージしたもので、直に三夏に話が来たという。
個人的には「ザ・ガードマン」などのチンピラ悪役のイメージが強く、歳を重ねてからは、あまり見た記憶がないのだが、調べてみると「大江戸捜査網」「水戸黄門」などに良く出演しており、今世紀に入ってからは、悪徳商人の役などもやっているようだ。
未だに現役として活躍中だが、「三夏紳」の名は浸透しているのだろうか。

大映俳優録27 阿部脩

「ガメラ対バルゴン」で、浜口喜博が操舵士の役と書いたが、その船の船員役の一人が阿部脩である。
浜口喜博が、水泳界からの転進俳優なら、阿部脩はプロレス界出身の脇役俳優である。
実は中島賢の「スタアにいた季節」に阿部脩が載っていたのだが、それでその存在を初めて知ったのである。プロレスラーらしい大柄な体とヒゲ面で、チョイ役でも目立つはずなのだが、何故か見かけた記憶がなかったのである。まあ自分がプロレスに疎いせいもあるかもしれないが。
あんまり詳しいプロフィールはわからなかったのだが、25年生まれで、元大相撲の力士「大成山」であった。力道山や豊登のようにプロレスに転向。日本プロレスの創世記から活躍、ということなので53年あたりからプロレス界にいたと思われる。
58年の「巨人と玩具」から出演記録があるので、現役レスラーを続けながら役者をやっていた、ということだろう。ここでの役柄はそのまんまプロレスラーである。これがきっかけになったのか、大映作品にちょくちょく顔を出すようになっている。ちなみに、本作では浜口喜博は「運転手C」、田宮二郎が「学生」の役であった。
実はそれ以前に東映の「怒れ!力道山」(56年)にも、藤田山、芳の里などとともに本人の役で出ていたようである。ただネット上で調べると「脩」の字がなくて、ただの「阿部」になっている。本当に「阿部」だけでクレジットされたかどうかは不明だが、いずれにしろ二音では語呂が悪いと思うのだけれども。ちなみに、この映画にはあの大投手ヴィクトル・スタルヒンも出演したりしている。
ヒロイン役の小宮光枝、スタルヒン、そして力道山と早死にした人が多い映画である。
阿部のプロフィールに戻ると、豊登の東京プロレスの旗揚げに参加し、その東京プロが国際プロレスと合体するとレフェリーに転向したという。それが66年~67年にかけての出来事だ(間違ってるかもしれない)。
66年を調べてみると忙しかったのか、阿部脩の映画出演歴が見当たらない(出演していた可能性もあるが)。
本郷功次郎は、デビュー当時はもの凄い人気で、「本郷功次郎まつり」なるキャンペーンが各地で開催されたりもした。阿部脩はその司会を務めている。
その時期の阿部脩は本郷の主演映画に結構出演しているのである。『犬』シリーズなど、田宮二郎主演作品への出演も多い。
大映がダメになり、プロレスに戻ることも叶わず、阿部は博多でレストランを開いたという。その後、病に倒れひっそりと亡くなったという。心臓病だったらしい。ただ、それがいつ、何歳で亡くなったのかは不明である。

大映俳優録26 浜口喜博

大映俳優録だが、ずっと女優でやっていたので、少し男優も取り上げてみたいと思う。
浜口喜博で検索すると同姓同名のバイクレーサーがまず出てくるが、もちろんここでは大映の俳優だった浜口喜博のことである。
知っている人も多いかもしれないが、元競泳の選手で、52年のヘルシンキオリンピック男子800m自由形リレーの銀メダリストである。水泳を本格的に始めたのは21歳のときだったという。
大学卒業後は日本鋼管に入社したが、永田雅一にすすめられ、水泳選手から俳優になったジョニー・ワイズミュラーにならって、「和製ターザン」として55年大映入社している。29歳であった。
永田とは49年のロスアンジェルスの全米水上選手権大会に参加した際に一緒になったことがあったらしい。
浜口主演の日本版ターザン映画が「ブルーバ」(55年)である。本家の「ターザン」はアメリカのゴールドウィン社が製作していたが、永田は同社と懇意にしていたので、「ブルーバ」の撮影はアメリカの同社のジャングルセットを借りて行われたという。

しかし、このデビュー作が浜口にとっては代表作になってしまう。「ブルーバ」はシリーズ化せず、和製ターザン的な役など、そうそうあるわけもないので、アクション映画などの脇役にまわるようになる。
「九時間の恐怖」(57年)の潜水夫という特技を生かしての出演もあったが、どんどん端役に追いやられていき、62年には事務方に移ったという。
ちなみにこの「九時間の恐怖」は、大映東京俳優部147名総出演のノンスターキャスト作品だという。藤山浩一、杉田康、石井竜一、夏木章、星ひかるなどお馴染みの名前もあるが、大半はわからない名が並んでいる。柴田吾郎だった頃の田宮二郎も<静岡中央署巡査B>という名もなき役で出演している。
記録上では、前回の西尋子(賀川雪絵)にはデビュー作であった「ガメラ対バルゴン」(66年)が最後の出演作になっている。ちなみに役柄は<あわじ丸の操舵士>というものであった。
役者としては萎んで行った浜口であったが、大映社内では演技研究所の主事を務めたり、大映テレビの営業部長にもなっている。
一方で、水泳界とも関わり続け、77年には日本水泳連盟競泳委員長となり、78年西独の世界水泳選手権には日本選手団の監督として参加したりしている。その後は、水泳連盟の常任理事となり、11年に85歳で亡くなった時も、肩書きは日本水泳連盟顧問であった。

大映俳優録25 三木本賀代、西尋子(賀川雪絵)

少し古めの時代の人が続いたので、新たらしめ(といっても60年代だが)に戻したい。
平泉成は大映ニューフェースの4期という書き方をされることがあるが、じゃあ10期の田宮二郎や12期の本郷功次郎よりベテランなのか?ということになるが、もちろん違う。
平泉成は大映京都の4期というのが正解で、東京でいえば17期が同期にあたるという。以前、書いたがあの美川憲一も17期のニューフェースである。
やはり同期ニューフェースである宗近一によれば、美川は「役者より歌をやりたい」と養成所の卒業後に離れていったという。つまり、歌手デビュー以前に映画出演などすることはなかったということだろう。
さて、平泉のいた64年入社の京都撮影所4期ニューフェースで最も期待されていたというのが三木本賀代である。一瞬、「サンボンギ」に見えるが「ミキモト」である。
デビュー作は「座頭市逆手斬り」(65年)で、これはチョイ役であったが、その「座頭市シリーズ」に3本、「眠狂四郎シリーズ」に4本、「大魔神怒る」(66年)などに出演。時代劇だけではなく、「性犯罪法入門」(69年)といった現代劇にも顔をだしている。
彼女がデビューした頃に大映入りした安田(大楠)道代との共演が多く、安田が主演の「秘録おんな蔵」「尼くずれ」(68年)や最後の映画出演となった「女左膳・濡れ燕片手斬り」(69年)も安田との共演であった。
三木本賀代は、結局約5年で20数本の映画に出演して姿を消してしまった。彼女に関しては、これ以降のことなどは一切不明である。
で、やはり京都4期ニューフェースの同期となるのが賀川雪絵こと西尋子である。賀川雪絵って、東映の女優じゃないの?と思う人も多いであろうが、実は大映に出身だったのである。
彼女は中学卒業と同時に関西芸能学院に入り、その在学中から大映作品に端役で出演していたという(市川雷蔵の「剣」など)。大映ニューフェースとなってからのデビュー作は「ガメラ対バルゴン」(66年)で、ニューギニアの村の娘を演じた。ちなみに大映時代は本名の西尋子名義であった。同期生が島の娘役でたくさん出演していたというが、喋れないが(口が利けないという設定)、江波杏子との絡みも多かった賀川は、他の同期より優遇された役だったといえる。
その後、「ごんたくれ」(66年)や「早射ち犬」(67年)などに出演したが、68年に東映に移籍し賀川雪絵(現・ゆき絵)になってからの活躍は知っている人も多いと思う。
まあ、この欄に大映の女優として載せるのは違和感があるけれども。

大映俳優録24 荒川さつき

荒川さつきで検索すると「荒川さつき会館」とか「荒川さつき幼稚園」とかが出てくるが、これは荒川区にあるからで、荒川さつきとは多分、無関係であろう。
本題に入るが、荒川さつきを大雑把に分類するとヴァンプ女優ということになるのであろうか。
彼女は、48年に鎌倉由比ケ浜で行われたミス・カマクラコンテストで優勝(彼女は鎌倉の人ではない)。翌49年に21歳で大映に入社している。それまで、4年間山本安英に師事していたという。
翌50年の「私は狙われている」で、二本柳寛の相手役としてデビュー。つまりヒロインである。ちなみに本作はプロデューサーシステムを採用した大映東京の第一回作品ということになるようだ。
出演3作目となる「密林の女豹」(50年)では、タイトルの野生娘を演じたのである。役名もそのまんま「密林の女豹」だ。密林といっても日本アルプスが舞台らしい。他の出演者は小林桂樹や柳家金語楼などである。
原作は井田探で、後に日活の監督として活躍するが、当時は大映の助監督であった。モチーフは「ターザン」であろう。シリーズの一作に「密林の豹女」(46年)というのがあったりするし。当時の宣伝コピーには、「裸女」などと書かれていたらしいが、せいぜいジェーンスタイル?というか、足を見せるのが精一杯ではなかったのではないだろうか。
大映では、それなりの役を得ていたが、53年に新東宝に移籍する。
当初は「密林」で共演した金語楼の映画などに出演していたが、大蔵貢が社長に就任すると、当然のようにヴァンプ役、汚れ役が多くなる。
荒川さつきなんて出ていたっけ?と思ったのだが、「女の防波堤」「薔薇と女拳銃王」(58年)や「十代の曲り角」(59年)などは、ポスターに名前も出ていた。60年に東映に移籍するので、約7年の間、新東宝に居たことになるが、彼女が新東宝女優としてピックアップされることは、あまりない気がする。なので、新東宝の女優というよりは大映女優として扱わせてもらった。
東映では主に第二東映(ニュー東映)の作品に出演するが、ほぼ完全に脇役である。「ずべ公天使」(60年)では<女将>の役だし、「波止場野郎」(60年)とか「赤い影の男」(61年)では、どちらも<マダム>の役で、最終作となった「黄色い風土」(61年)でも<バーのマダム>の役であった。
その後のことは不明である。

大映俳優録23 橘喜久子、小林加奈枝

「日本映画俳優全集・女優編」では、橘公子の一つ前、読みでは一文字違いなのが橘喜久子だが、彼女も大映の脇役女優の一人である。
年齢的には、橘公子の一周り上、1909年生まれで掲載されている写真も晩年のものであるらしく、こう言っては何だか、ただのおばさんに見える。
以前、ここで紹介した雑誌「ノーサイド」にも、若き日の写真が載っていたりするが、時代劇メイクで美女かどうか判断しづらい1枚である。
その経歴だが、24年に松竹下加茂に入社。つまり15歳のとき「繞る秘密」でデビュー。実川延松の相手役という大役スタートだった。
松竹蒲田、ヤマト映画を経て、28年河合映画に入社。
山本礼三郎、海江田譲二、雲井竜之介などの相手役として活躍し、主演作も撮られている。河合映画が大都映画と改称後も、準主役や脇役として活躍している。
42年に大都が大映と合併となってからは、大映東京に所属した。東京と京都の違いはあるが、大映所属になった時期は橘公子と一緒である。
大映所属になってからは、中年役、老け役が多くなり、「近松物語」(54年)、「鯨神」(59年)、「鉄砲犬」(65年)などに助演、67年「早射ち犬」を最後に引退したが、翌68年に亡くなっている。59歳であった。ちなみに、実妹は名前どおりのおデブ女優・大山デブ子であり、体格の上では全く似ていない姉妹であった。
W橘は戦前は主演級だったわけだが、当初から大部屋女優と位置付けられていたのが小林加奈枝である。1907年生まれなので、橘喜久子より2歳年長である。
彼女の叔父は、日活の古参監督である小林弥六で、その叔父の家に住んでいたことから、子役として尾上松之助の映画によくかりだされていた。
母が女優・酒井米子の家の管理人をすることになり、加奈枝もそこに移り住む。その酒井米子に「スターだけでは活動写真はできない、大部屋女優にも大事な役割がある」と口説かれ、加奈枝は24年に日活大将軍撮影所に入社したのである。
当時、時代劇部の大部屋女優というのは彼女と大谷良子の二人だけだったという。以来、大部屋女優として出演を続け、42年に日活が大映に合併しても、その大映で倒産まで出演を続けた。つまり、大部屋女優の中の大部屋女優という人である。ちなみに、当初は本名の小林叶江で、54年から小林加奈枝となっている。
大映倒産後は、映像京都に所属し「本陣殺人事件」や「愛のコリーダ」などに出演。テレビも「銭形平次」や「必殺仕掛人」などに出演している。ただ、「蔵の中」(81年)を最後に彼女の情報はない。
大部屋一筋50年以上とはいっても、おそらく小林加奈枝の名前や顔を知っている人はほとんどいないのではないか。正直、自分もわからない。

大映俳優録22 橘公子

前回に続き脇役にスポットをあててみたい。
前回例にもあげた「秘剣破り」(69年)という松方弘樹の大映初出演作品において、クレジット上は近江輝子と小柳圭子に挟まれているのが橘公子である。
つまり、近江、小柳と同じようなポジションにいる女優なのだが、オールドファンなら知っているかもしれないが実は橘公子は戦前は、主演も務めたスター女優だったのである。
橘公子は21年生まれで、近江輝子の1歳下である。12歳にして両親をなくし、遠縁である日活太秦の脚本部員だった松本有義の養女となる。その松本の薦めで、36年に日活多摩川に入社し、「嫁入り前の娘達」でデビューした。
通学していた青山高等女学部は芸能活動を認めず中退となったが、翌37年に「お父さんの歌時計」で初主演。当初は日活現代劇で活躍した。39年に「三味線武士」で嵐寛寿郎の相手役を務め、好評だったことから、翌40年に日活京都へ移籍し時代劇に転じた。
42年に戦時統合で新設の大映京都に移籍しても、阪妻、右太衛門、戸上城太郎などの相手役を務めるなど、ヒロインとして活躍していたが、戦後まもない46年、池田富保監督の大同映画創立に応じたため、会社側の心証を悪くし役を落とされ、大映を退社する。
しかし大同映画は結局、映画製作には至らず、公子は舞台で活動するようになる。
50年、大映プロデューサー亀田耕司の薦めで、大映京都に復帰した。この時点でまだ29歳、かつてのヒロイン女優であったが、以降は脇役に徹している。そのまま大映に倒産直前まで所属し、「おさな妻」(70年)を最後に退社した。それまでの映画出演本数は280本にのぼるという。
その後は、テレビに数本出演。記録では「破れ傘刀舟悪人狩り」(74年)へのゲスト出演が最後となっている。
76年の「映画の日」に永年勤続者として高峰秀子、沢村貞子らと表彰されたという。
個人的には、若い頃の写真しか見たことがなく、歳を重ねてからの姿を見た記憶がないなと思っていたら、つい最近CSで放送された「特別機動捜査隊」の498話(71年)に出ていたことがわかった。早速、見直してみるとメインゲストである久慈あさみの友人役で、丁度50歳だが写真から大きく変わっているということはなく、エンドクレジットもピンであった。ちなみに、この回で主演の波島進は降板し、芸能界を引退している。
ウィキペディアでは1942年に結婚となっているが、「日本映画俳優全集・女優編」では67年結婚となっている。67年=昭和42年なので、ウィキペディアが間違っているのではないだろうか(逆の可能性もあるけれども)。

大映俳優録21 近江輝子、小柳圭子

今回は知る人ぞ知る脇役をピックアップしてみた。顔はよくわからない人も多いだろうが、時代劇のキャストとかを見ていると頻繁に見かける名前である。
近江輝子は、37年に宝塚音楽学校に入学。同期に日高澄子や宮城千賀子がいた。翌年から宝塚少女歌劇団に所属し、大宮輝子を名乗った。しかし、戦時中に「宮」の字を用いるのは不敬であるとして、大美輝子と改名させられた。宮田とか宮崎とかが本名の人はどうしていたのだろう。
その後霧立のぼるのロマン座を経て、48年12月に大映に入社した。28歳のときである。その年末に公開された「三十三の足跡」でデビューし、71年の倒産まで大映京都に所属し続けたのである。
59年の「山田長政・王者の剣」から近江輝子に改名。なので、読み方は「おうみ」ではなく「おおみ」が正しいようだ。
時代劇のイメージが強いが、「陸軍中野学校」や「しびれくらげ」などの現代劇にも顔をだしている。
72年以降は松竹芸能に所属し、テレビ中心に活動を続けていた。亡くなったのは4年ほど前で、90歳に達していたという。
小柳圭子は、戦後まもなくは大阪府庁に勤務していたが、単調な仕事が肌に合わず、たまたま見た舞台に触発され、新劇女優を目指したという。大映ニューフェースの1期生として49年に入社。京マチ子主演の「痴人の愛」でデビューと「日本映画俳優全集・女優篇」ではなっているが、「最後に笑う男」が先のようである。彼女も近江輝子同様、71年の倒産まで大映京都に所属し続けた。
実は溝口健二監督作品の常連で、「雨月物語」「山椒大夫」「噂の女」「近松物語」等、顔を出している。
大映倒産後はフリーとなり、テレビや舞台を中心に活躍。テレビ時代劇などでは、重要な役をやることはほぼないが、かなりの頻度でその名を見かける女優である。
息子である武見龍麿は、劇団を主宰している俳優兼演出家である。
もちろん、この二人の共演も非常に多いと思われる。
たとえば、前述の「雨月物語」(53年)では、二人揃って遊女の役だし、「いれずみ乳房」(61年)とか、「秘剣破り」(69年)とか大映末期の「穴場あらし」(71年)は二人のクレジットが並んでいるようだし、時代を追ってランダムに調べたが、ずっと出演し続けていたことがわかる。ちなみに、最後の「穴場あらし」は時代劇ではない。

大映俳優録20 川上康子、三木裕子

元々、大映の宣伝部員だった中島賢の「スタアのいた季節・わが青春の大映回顧録」を見て始めた大映俳優録だが、ここ数回はそちらでは触れられてない役者を取り上げていた。今回は「スタアのいた季節」に戻って、まだこっちで取り上げてない役者を選んだ。
川上康子は、53年に高校卒業後、大映ニューフェース7期生として入社。大映女優にはあまりいない丸顔で子供っぽい顔立ちである。
映画デビューは「母千草」(54年)で、次作の「川のある下町の話」(55年)で、根上淳をめぐる三人の女の一人に抜擢される。原作者の川端康成から二字を貰って川上康子と名付けられた。
当初は、「十代の反抗」(55年)、「裁かれる十代」(56年)などその顔立ちもあり女子高生の役が多かった。
大映では30本ほどの映画に出演しているが、「初夜なき結婚」(59年)を最後に姿を消してしまった。その後の消息は不明だという。
その川上康子と入れ替わるように入社したのが三木裕子である。
三木裕子は劇団若草の出身で、18歳のとき本名の堀込文子で「巨人と玩具」「不敵な男」(58年)に出演。60年に大映東京に入社して三木裕子となった。
三木裕子としてのデビュー作は叶順子、田宮二郎主演の「嫌い嫌い嫌い」(60年)で、前回ここで取り上げた金田一敦子や宮川和子も出演している。三木の役は金田一の友人というものであった。
大瀬康一、大辻伺郎主演の「弾痕街の友情」(60年)では、ヒロイン役に抜擢されている。「手錠にかけた恋」「新夫婦読本 若奥様は売れっ子」(61年)と主演に抜擢されたが、この61年の後半からは脇に回ることが多くなる。
結局「ぐれん隊純情派」(63年)まで、22本の大映作品に出演したところで映画界を去っている。引退後は、普通の主婦として人生を歩んだというが、09年に68歳で亡くなったという。


※宮川和子の項で、高松英郎と宮川和子が夫婦だというのは間違いではないかと書いたが、自分は見落としていたのだがネタの出所はこの「スタアのいる季節」にそう書かれているからのようだ。
「高松の妻は宮川和子である」と断言的に書かれているが、となると一旦離婚しなければならないのだが、そういう情報は前にも書いたとおり見つからない。
高松のマネージャーとして就いていたのを、中島氏が勘違いした可能性もあるし、晩年は本当に一緒になっていたのかもしれない。

大映俳優録19 金田一敦子、市田ひろみ

大映10期ニューフェースには、田宮二郎の他、ここで取り上げた叶順子、毛利郁子、そして金田一敦子、市田ひろみもいた。
金田一敦子はその名のとおり、言語学者金田一京助の娘、ではなく血縁者である。「日本映画俳優全集・女優篇」には、父の叔父と書いてある。近いのか遠いのかよくわからんが、京助は1882年生まれである(敦子は1939年)。
叔母が女優の三宅邦子で、その薦めで大映ニューフェースを受けたという。三宅邦子は松竹のイメージが強いが、この57~58年は大映と契約していたのである。
金田一敦子は「忘れじの午後8時13分」(57年)で端役デビュー。続いて、彼女が英語を話せるということでフィリピン映画「ツーリスト」に出演したりして、話題になった。
「恋を掏った女」(58年)や田宮二郎(当時は柴田吾郎)の相手役を務めた「恋と花火と消化弾」といった主演作もあるが、専ら助演が多く、役柄も大人しい良家のお嬢さんというのが多かった。
前述の「俳優全集」にも、作品的にも恵まれず強く印象に残るものはない、と書かれている。
60年に次回作に予定されていた「すれすれ」の役柄が、どぎつくベットシーンまであることがわかると、あっさり女優を引退してしまったのである。これは紺野ユカのパターンと同じである。
「すれすれ」は、川口浩が主演で、弓恵子、宮川和子や若松和子、紺野ユカ姉妹、東宝の春川ますみなどが出演しており、誰が金田一敦子の代わりなのかは未見なので不明である。あと、江波杏子がノンクレジットのチョイ役で出演しているという。また、叔母である三宅邦子も出演していたりする。
市田ひろみは、ヤンマーディーゼル勤務中にスカウトされ、大映入りするという経歴も持つ。24歳という遅いスタートであったが、脇役として重宝された。
「暗黒街№1」(63年)を最後に大映を退社し、芸能界を去るが、ここから彼女の快進撃は始まる。

美容院の経営で成功し、服飾研究家としてもテレビに出演するようになったのである。彼女が再びクローズアップされるのは、90年代にサントリー緑茶のCMに出演してからであろう。かつての大映女優市田ひろみを知る人はあまりいなかったと思われる。
「あの女性は誰?」と脚光を浴び、タレント業や女優業を再開させている。現在80歳を越えるが結果的に最も長く活躍している人ということになる。20冊を超える著書もあり、マルチな才能を発揮している。