2014/2/27
“石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。”
この書き出しで始まる『幻住庵記』は、松尾芭蕉が自身の
半生を綴ったものです。
「奥の細道」の旅を終えた翌年の元禄3年(1690年)3月頃
から、芭蕉は膳所の義仲寺無名庵に滞在していました。
門人の菅沼曲水の奨めで同年4月6日から7月23日の約4ヶ月間、
滋賀県大津市にある幻住庵に隠棲します。
『幻住庵記』は、ここで書かれました。
“かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむ
とにはあらず。
やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。
つらつら年月の移り来し拙き身の料を思ふに、ある時は任官
懸命の地をうらやみ、一たびは仏離祖室の扉に入らむとせし
も、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばら
く生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこ
の一筋につながる。
「楽天は五臓の神を破り、老杜は痩せたり。賢愚文質の等し
からざるも、いづれか幻の住みかならずや」と、思ひ捨てて
臥しぬ。”
【口語訳】
(こう言うからといって、ひたすら静かで寂しいことを好み山
野に姿を隠そうとしているのではない。まあ病にかかって人
に倦んで、世を厭うている人に似ている。
つらつら長年過ごしてきた拙き身の罪を思うに、ある時は任官
して領土を得ることをうらやみ、ある時は仏門に入ろうとした
りしたが、行き先定めぬ風雲の旅に身を苦しめ、花鳥を愛でる
ことに心を使い、ついに生涯のこととなり、無能・無才にして
ただこの俳諧という一筋につながることとなった。
「白楽天は詩作に苦しんで全身を弱らせ、杜甫は詩作に苦しん
で痩せたとまでいう。私は白楽天や杜甫の才能には遠く及ばな
いが、どちらも幻の住みかのようなものだ」と思い捨てて、臥
した。)
葛飾北斎や与謝蕪村の肖像画の影響からか、随分と長生きをし
たような印象がありますが、芭蕉は50歳でこの世を去っています。
松尾芭蕉の本領は中年と言われる年代にあります。
『幻住庵記』も47歳の作です。
こうして上記の文章を読むと、うつ病に悩む中年男の像が立ち
上ってくるような気もします。
芭蕉が辿り着いた「不易流行」とは蕉風俳諧の根本理念の一つと
されています。
自然に四季の変化(流行)と実体の存続(不易)があるように、
俳諧にも変わらない部分(不易)と一時的な形(流行)があり、
両者を「風雅の誠」で統一、止揚することを言っています。
隠棲、無常観。
芭蕉は遠く『方丈記』に心を寄せていたのかもしれません。
幻住庵はお気に入りだったようで、『幻住庵記』唯一の句は
こうあります。
先づ頼む 椎の木も有り 夏木立
同年代の身には、芭蕉の心情に近いものがあります。
時には寄りかかり、頼りに出来る木が欲しくなるのです。