京都の朝は綺麗に晴れていた。清々しい空気の中で、自然に背筋を正したくなるような気分だった。今日は小学校からの友達の結婚式である。駅前から出発する式場へ直接向かうシャトルバスに一人乗り込む。知り合いはいないのだ。
昨晩も駅前のビジネスホテルに泊まった。新郎が一つ部屋を挟んで同じ階に泊まっていた。式に遅刻しない為の保険らしい。僕は夜、ホテルに着くと彼の部屋を尋ねた。缶ビールとドンタコスを買って待っていてくれた。
「いよいよ、来たよぉ」
と、彼はその言葉を何回も何回も口にした。昔から見ているが、こんな彼を見るのは初めてだった。緊張している。風貌はおおらかな感じで、緊張など余りしないタイプと思っていた。話を聞いていると彼の新婦に対する思いがまっすぐで胸を打った。この日の為に二人で準備してきた苦労話も素晴らしい物語を紡いでいたのだ。
彼の元には明日、お世話になる友人からひっきりなしに電話がかかってきていた。男二人、ビジネスホテルの狭い一室で僕と缶ビールを飲んでいて良いのかと恐縮したが、僕と独身最後の夜に一緒に飲むことを選んでくれたことがとても嬉しかった。2本目からは僕の祝いだ!ということで、しばらくいろんな話をし ながらサシで飲んだ。そろそろいい時間になってきたので、良い一日になるといいなと思いながら、
「寝坊するなよ!」
と、僕は自分の部屋へと帰っていった。
昔聞いた詩がある
どんなだったかどうしても思い出せない
でも覚えてるんだ
そっくりなんだ、僕の心と
きっと、こういうことだったんだね
あの人の寝顔に子ども時代を夢みるって
どんなだったかどうしても思い出せない
でも覚えてるんだ
そっくりなんだ、僕の心と
きっと、こういうことだったんだね
あの人の寝顔に子ども時代を夢みるって
世界の果てで蠢く何か巨大なもの
それを構成する物質は固定されてもおらず
自由に行きかっているが液体でも気体でもない
色もなく
暗黒でも透明でもない
世界の果てからやってくる巨大なものは
人の心に寄生してしまう
人は必死に溜息をつき
それを体内から吐き出そうとするが
巨大なものが持つ容赦ない手が
人の中心を掴んで放しはしない
世界の果てに向かい
静かに流れる無意識の時間の河が
流れ出すまでは
それを構成する物質は固定されてもおらず
自由に行きかっているが液体でも気体でもない
色もなく
暗黒でも透明でもない
世界の果てからやってくる巨大なものは
人の心に寄生してしまう
人は必死に溜息をつき
それを体内から吐き出そうとするが
巨大なものが持つ容赦ない手が
人の中心を掴んで放しはしない
世界の果てに向かい
静かに流れる無意識の時間の河が
流れ出すまでは
鋼鉄の鎧で固めた身が切り裂かれる
守ろうとしても守りきれない気持ち
ちょうど思春期とよばれる季節に人は感じたという
あの頃に感じなかった痛みが
ギリギリと錆びついた音を立てて忍び寄ってくる
存在をそれとわかるように
守ろうとしても守りきれない気持ち
ちょうど思春期とよばれる季節に人は感じたという
あの頃に感じなかった痛みが
ギリギリと錆びついた音を立てて忍び寄ってくる
存在をそれとわかるように
輝き続ける人間のどこにその光源があるのか
その人は光源など持っていやしない
持っているのは深い深い
とてつもなく静かな漆黒の闇だ
その闇が得体の知れない不気味な何かで
人は眼を背けたくなる
ただそれだけ
その人は光源など持っていやしない
持っているのは深い深い
とてつもなく静かな漆黒の闇だ
その闇が得体の知れない不気味な何かで
人は眼を背けたくなる
ただそれだけ
自分史の作成を始めた。履歴書を作成するためなのだが、詳しくやっていると忘れていたことも思い出せたりして自分が今まで何をしてきたかを思い出すことができてとても面白い。
この日記ではノンフィクション、フィクションが入り乱れ、心に移りゆ くよしなしごとをそこはかとなく書きつづっている。したがってある程度はその時に僕がどういう心境だったかは反映されている。でも時に事実ではなかったり、心境と逆のことを書くことによって自分の心を覆い隠そうともしている。意識的、無意識的を問わず。
自分史を目に見える形で文章にすると客観的な事実がわかってくる。一人一人が自分史を持っていて、どんな人も違う物語の主人公である。なんとも人生は知り尽くせないわけだ。
この日記ではノンフィクション、フィクションが入り乱れ、心に移りゆ くよしなしごとをそこはかとなく書きつづっている。したがってある程度はその時に僕がどういう心境だったかは反映されている。でも時に事実ではなかったり、心境と逆のことを書くことによって自分の心を覆い隠そうともしている。意識的、無意識的を問わず。
自分史を目に見える形で文章にすると客観的な事実がわかってくる。一人一人が自分史を持っていて、どんな人も違う物語の主人公である。なんとも人生は知り尽くせないわけだ。
全国のいろいろな県で教員採用試験の募集内容が公表されだした。僕が受験しようと思っている県も詳しく出てきた。詳しく出てきた分、受験できると思っていたところが、実は一日違いで受験資格を満たすことができず出願できないというところもあった。
来年の今頃は僕はどこで何をしているのだろう?すべては今日から繋がっている。ワープでもステップでも、階段でもない。すべてはなだらかなスロープのような登り坂なんだろう。
来年の今頃は僕はどこで何をしているのだろう?すべては今日から繋がっている。ワープでもステップでも、階段でもない。すべてはなだらかなスロープのような登り坂なんだろう。
1966年公開で、監督はジョン・ヒューストン。旧約聖書のエピソードを映像化している。天地創造に始まり、ノアの箱船の物語までを今回観た。この後に、バベルの塔、ソドムとゴモラの滅亡と物語は続くのだが今回は時間がなく観なかった。
旧約聖書の「創世記」は大学時代に読んでみたのだが、どうもピンとこなかった。今回映像で観ることによりその物語が整理することができそうである。
特にノアの息子の「セム」と「ハム」にハッとした。世界史を勉強してきて、古代オリエント世界には様々な民族が登場しては滅亡し、その「語族」を試験対策としては覚えざるを得なかった。その時覚えたのが3つの分類で「セム系語族」「ハム系語族」「インド・ヨーロッパ語族」である。ノアの息子である「セム」と「ハム」がその由来だったのだ!とてもすっきりした気持ちになった。今後、なぜ彼らの名が由来となったのかを調べてみようと思う。
旧約聖書の「創世記」は大学時代に読んでみたのだが、どうもピンとこなかった。今回映像で観ることによりその物語が整理することができそうである。
特にノアの息子の「セム」と「ハム」にハッとした。世界史を勉強してきて、古代オリエント世界には様々な民族が登場しては滅亡し、その「語族」を試験対策としては覚えざるを得なかった。その時覚えたのが3つの分類で「セム系語族」「ハム系語族」「インド・ヨーロッパ語族」である。ノアの息子である「セム」と「ハム」がその由来だったのだ!とてもすっきりした気持ちになった。今後、なぜ彼らの名が由来となったのかを調べてみようと思う。
来週からドタバタといろいろ予定が入ってくるので、近所に散髪に行った。予約をする為電話をかけたところ、「何時くらいがイイですか?」と聞いてくるのでジッと携帯電話のデジタル表示を見つめ「じゃあ、1時くらいで」と。その時表示されていたのは12時55分。ものすごく近所の美容院だ。
そして今年に入って初めて「暑い」と感じる日だった。これで空気が入れ替わったように思う。季節の変わり目は気分も入れ替えやすい。日本ならば四季があり4回も気分転換をでき易い時がある。その時々で良い衣替えをしたいものである。
そして今年に入って初めて「暑い」と感じる日だった。これで空気が入れ替わったように思う。季節の変わり目は気分も入れ替えやすい。日本ならば四季があり4回も気分転換をでき易い時がある。その時々で良い衣替えをしたいものである。
こどもの日である。大阪のヤンキー三兄弟が自分たちの日だとか言ってボクシングの試合が組まれていた。結局、長男と次男どちらも勝ったらしい。次男に至っては見事KO勝ちすることができたので試合後にハウンドドッグの「ff(フォルテッシモ)」を熱唱しちゃった。
ボクシングって僕はスポーツだと思っていたが、やはりプロとなると興行的な要素の方が大きくなってくるのだろうか。以前ボクシングの修行をしている人とメキシコで出会った。その時、彼はボクシングの強さについて「オリンピックで金メダルを取るボクサーはプロより遙かに強い」と話していた。素人の僕のイメージだと世界チャンピオンが一番強そうな感じがするのだがどうやら違うらしい。プロになると所属するジムの力で対戦相手も決まってくるからだろう。
そうなると現在マスコミが狂ったように持ち上げているヤンキー三兄弟の本当の実力も絶対的なモノではない。スポーツとしてボクシングを見れば明らかな反則でも、プロの興業としてのボクシングだとその反則も見過ごされ、出来レースのような試合になってしまうのか。
この三兄弟はマスコミに踊らされるだけ踊らされて、どこで恥をかくことになるのだろう。きっと恥に気づくことなく、何の臆面もなくメンチを切り続けるような気がする。
僕はプロであってもスポーツとしてのボクシングを見たい。これから先も、彼らの試合を熱くなって見ることはないだろう 。単なる茶番に時間は割けない。
ボクシングって僕はスポーツだと思っていたが、やはりプロとなると興行的な要素の方が大きくなってくるのだろうか。以前ボクシングの修行をしている人とメキシコで出会った。その時、彼はボクシングの強さについて「オリンピックで金メダルを取るボクサーはプロより遙かに強い」と話していた。素人の僕のイメージだと世界チャンピオンが一番強そうな感じがするのだがどうやら違うらしい。プロになると所属するジムの力で対戦相手も決まってくるからだろう。
そうなると現在マスコミが狂ったように持ち上げているヤンキー三兄弟の本当の実力も絶対的なモノではない。スポーツとしてボクシングを見れば明らかな反則でも、プロの興業としてのボクシングだとその反則も見過ごされ、出来レースのような試合になってしまうのか。
この三兄弟はマスコミに踊らされるだけ踊らされて、どこで恥をかくことになるのだろう。きっと恥に気づくことなく、何の臆面もなくメンチを切り続けるような気がする。
僕はプロであってもスポーツとしてのボクシングを見たい。これから先も、彼らの試合を熱くなって見ることはないだろう 。単なる茶番に時間は割けない。