はみだし講師ラテン系! -11ページ目

Yes,we can.

アメリカが“Change”しましたね。
こんなに早く米国大統領に黒人というか、
“wasp”プロテスタントのアングロサクソン系白人以外が、
大統領になるとは思いませんでした。
就任演説の中で、
60年前、レストランでサービスを断られた黒人の息子が、
最も神聖な誓いをしているという行に、
米国が変化を求めた結果が実現したんだと思いました。
そして、
労働と誠実さ、勇気、フェアプレー、
忍耐、好奇心、忠誠心や愛国心、
に米国の再建がかかっていると、話していました。

今の日本にも欠けていることではないのでしょうか?

そして、あんなに大きな国が変われるのなら、
色んなことが変われるのだと実感しました。
少なくとも、黒人の大統領が誕生したことだけでも、
大きな変化だと思います。

僕たちにも出来ます。
僕も、労働と誠実さ、勇気、フェアプレー、
忍耐、好奇心、忠誠心や愛国心、を持ち続け、
色んなことに頑張りたいと思います。

2009年

新しい年になりました。
一年の計は、と言いますが、それに習って今年の目標を立てたいと思います。

まず、昨年度の反省点、講師管理を今年はしっかりしていきたいと思います。
結局、これがずっと引っかかって、年末までおかしくなりました。
きちんと働いてもらうことの難しさを改めて感じた一年でした。

昨年度は2教室の運営、4教室の管理ということで、一昨年までと勝手が違い、
生徒に自分の思いを伝え切れなかったと実感しました。
今年はそんなことにならないよう、もっともっと思いを伝え、
それぞれが、自分も生徒も講師も、すべきこととをしっかりやるという、
当たり前のことから、立て直していきます。

うれしいことに新しい事業を任されました。
その期待に応えるべく、自らを律して、仕事に邁進します。

今年は経済も冷え込むでしょうが、これをチャンスに変えられるよう、
健康であることに感謝し、摂生に努めて、頑張っていきます。

冬期講習

今年もこの時期になりましたが、不況の影響が出ていると思います。
例年に比べ受講者数、受講率ともにどの教室もダウンしているようです。

僕の任されている教室も例外ではありませんが、
通ってくれている生徒のために、一所懸命にやるだけです。

失敗もします、うまくいかない時の方が多いかもしれませんが、
いつか、うまくいくことを願って、頑張りたいと思います。



僕の運営している教室の一つで、
来年から導入する自宅学習システム【すらら】の成功が来年度を左右します。
何とか成功させて、他教室にも導入できるようがんばりたいと思います。

今年もあと二日です。がんばります。

(Just Like) Starting Over

今日はジョンが永遠になって、28年目の日です。

今年もたくさんの悲しい出来事が起きましたね。
年末に近づいて、失業者が増えて、
日本も社会が不安定になりそうですね。

米国もビッグ3の経営危機は、
大きな変革をもたらすでしょうが、
全く先の見えない時代になるかも知れませんね。

平和を願わない人はいないはずのに・・・

どこかで、やり直さなないと・・・

Our life together is so precious together
We have grown, we have grown
Although our love is still special
Let's take a chance and fly away somewhere alone

It's been too long since we took the time
No-one's to blame, I know time flies so quickly
But when I see you darling
It's like we both are falling in love again
It'll be just like starting over, starting over

Everyday we used to make it love
Why can't we be making love nice and easy
It's time to spread our wings and fly
Don't let another day go by my love
It'll be just like starting over, starting over

Why don't we take off alone
Take a trip somewhere far, far away
We'll be together all alone again
Like we used to in the early days
Well, well, well darling

It's been too long since we took the time
No-one's to blame, I know time flies so quickly
But when I see you darling
It's like we both are falling in love again
It'll be just like starting over, starting over

Our life together is so precious together
We have grown, we have grown
Although our love is still special
Let's take a chance and fly away somewhere

Starting over

今年も一度だけ行きました。
http://www.taisei.co.jp/museum/

21世紀に生きる君たちへ 


司馬 遼太郎

私は、歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。
歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。
 かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」
と答えることにしている。

私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、
私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。
この楽しさは・・・もし君たちさえそう望むなら・・・おすそ分けしてあげたいものである。

ただ、さびしく思うことがある。
私が持っていなくて、君たちが持っている大きなものがある。
未来というものである。私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
例えば、21世紀というものを見ることができないにちがいない。

君たちは、ちがう。
21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。

もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。
「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、
ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。

だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。 
ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。

昔も今も、また未来においても変わらないことがある。
そこに空気と水、それに土などという自然があって、
人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、
それに依存しつつ生きているということである。
自然こそ不変の価値なのである。
なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、
水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。
さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。
人間は、・・・くり返すようだが・・・自然によって生かされてきた。
古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。
このことは、少しも誤っていないのである。
歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、
自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
・・・・人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。
21世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。

同時に、人間は決しておろかではない。
思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。
つまり私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。

このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。
ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、
20世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、
古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、
21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。

「人間は、自分で生きているのではく、大きな存在によって生かされている。」と、
中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。
この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように、
近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。
この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。
そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。
そうなれば、21世紀の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。
そして、自然の一部である人間どうしについても、
前世紀にもまして尊敬し合うようになるにちがいない。
そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。

さて、君たち自身のことである。
君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
・・・自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。
そして、すなおでかしこい自己を。
21世紀においては、特にそのことが重要である。
21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。
科学・技術が、こう水のように人間をのみこんでしまってはならない。
川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、科学と技術を支配し、
よい方向に持っていってほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。
自己といっても、自己中心におちいってはならない。
人間は、助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。
ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。
社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。
それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、
たがいに助け合いながら生きているのである。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようなにはつくられていない。

このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。

「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」

みな似たような言葉である。
この3つの言葉は、もともと1つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。
だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。
例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、
そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、
他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、
21世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるにちがいない。
鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。
人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。
人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。

もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。
自分に厳しく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。
それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。
そして”たのもしい君たち”になっていくのである。

以上のことは、いつの時代になっても、
人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。
君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。
私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているに感じた。    

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こんなに素晴らしい言葉を遺してくれる人もいれば、
そうでない人もいます。
僕はこの文章を読んで、本当に勉強の大切さを感じました。

日本だけではありませんが、今、本当におかしなことばかり、続いています。
再生への扉は、まだ、開いているのでしょうか・・・

もっと、もっと勉強して、色々なことを知りたいと思います。

私信

頑張ってね。

闇の子供たち

http://www.yami-kodomo.jp/

先日、映画を観てきました。
悲しくなり、虚しくなり、
憎しみと怒りに、
涙が止まりませんでした。

ショッキングな内容なので、
無理にお勧めすることは出来ませんが、
大人には観てもらいたいと、
真実の一部を知ってもらいたいと、
願っています。

世界は、本当は悲しみに満ちています。
いったい、どうしたらいいのか、
改めて考えさせられました。

一人の力は小さいけれど、
一人が二人に、二人が四人に・・・、
そうなれば、大きな力になると信じたいです。

産業革命以後の先進国のもたらした経済至上主義に、
嫌気がさします。
でも、自分もその中にいるんだと、
実感せざるを得ないのです。

自分の認識のなさにも、情けない気持ちになりました。

「省吾さんが観たら、どう思うのだろう?」
と思いました。

救いは自分の中にあるはずの“愛”でした。が、
I am“The Pretender”.
なのかも知れません。

世界が変わった日

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%8C%E6%99%82%E5%A4%9A%E7%99%BA%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

21世紀に入って、すぐに起こってしまった出来事。

ショックでした。テレビの映像に映し出された光景は、今でも信じられません。

真相はどうなんでしょうか?

米国主導では、人類の幸福は、ないでしょうね。

7年経って、何が変わったのか、もう一度、見つめ直してみたいと思います。

“樹”

人もまた、一本の樹ではなかろうか。
樹の自己主張が枝を張り出すように
人のそれも、見えない枝を四方に張り出す。

身近な者同士、許し合えぬことが多いのは
枝と枝とが深く交差するからだ。
それとは知らず、いらだって身をよじり
互いに傷つき折れたりもする。

仕方のないことだ
枝を張らない自我なんて、ない。
しかも人は、生きるために歩き回る樹
互いに刃をまじえぬ筈がない。

枝の繁茂しすぎた山野の樹は
風の力を借りて梢を激しく打ち合わせ
密生した枝を払い落とす——と
庭師の語るのを聞いたことがある。

人は、どうなのだろう?
剪定鋏を私自身の内部に入れ、小暗い自我を
刈りこんだ記憶は、まだ、ないけれど。



これも吉野弘さんの詩です。
そして、次の詩もそうです。

“虹の足”

雨があがって
雲間から
乾麺みたいに真直な
陽差しがたくさん地上に刺さり
行手に榛名山が見えたころ
山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
眼下にひろがる田圃の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!
その虹の足の底に
小さな村といくつかの家が
すっぽりと抱かれて染められていたのだ。
それなのに
家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。
———おーい、君の家が虹の中にあるぞォ
乗客たちは頬を火照らせ
野面に立った虹の足に見とれた。
多分、あれはバスの中の僕らには見えて
村の人々には見えないのだ。
そんなこともあるのだろう
他人には見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることが———。



幸せってどこにあるのか、
自分では分からないんだなってことを、
この詩を読んで、初めて考えました。

上の詩は今日初めて読みました。
人の中にあるエゴイズム、自我を枝にたとえ、
どうやってその枝を切り落とすのかという、
そういうことを描いたものなのです。

人と生きていく以上、自我を曲げること無く、
生きていくことは出来ません。
人との調和を考えなければなりません。
僕も頑固です。でも、自分を成長させるって、
必要な枝を残して、あとは捨てていくことなのかも、
知れないと思いました。
僕自身は、剪定鋏を心の中に入れて、
小暗い自我を刈りこんだことがあると思っています。
それは自己をより高く成長させるためだと、
そう信じています。

詩も散文も僕にとっては、かけがえのない先生です。
もちろん、全てが、です。

北京五輪に思うこと

http://www.pubanzen.mofa.go.jp/kaian_search/newest_T.asp

“一つの世界 一つの夢”を掲げる今回の北京大会ですが、
オリンピックって、いったい何なのでしょうか?
少なくとも、アメリカ合衆国をはじめ、
戦争に足を突っ込んでいる国には、参加資格は無いと、
そう思います。日本も参加出来ないと思います。

オリンピックが商業的になり、
今や商業大国の中国が開催するなんて、
まさに現代オリンピックと呼ぶべきですね。

しかしながら、谷亮子さんの試合後のコメントは、
素晴らしいと思いました。
彼女は、日本を代表する立派な選手だと、
思います。もちろん、彼女だけでなく、
全ての選手は美しい汗と涙を流していると思います。
努力する姿は本当に素晴らしいです。

でも、これで、この形の開催でいいのかと、
ふと、思ってしまいました。
小学校の運動会ではないのだから、
開会式も豪華で構いません。
でも、なにか、違和感を感じています。
中国に感じているだけではありません。

素直に見られない自分がいます。

東京でオリンピックなんて、
開催して欲しくありません。

でも、選手に罪はありません。応援したいと思います。
どの選手も同じように。