旭日旗は日本の旗です | 戦車のブログ

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札幌は雨降ったり止んだり。

 

台風が近づいてきていることもあり天気は良くないね。

 

防災グッズ売れているようで・・・。

 

北海道は

痛い思いをしたばかりだからね。

 

 

大型台風にやられた翌日に雷雲と大きな地震・・・・。

 

被害がなければいいけれど・・・。

 

関西も前回の台風で大変な目に遭ったばかりだから心配だね。

 

 

 

目がね・・・痛い・・・・。

 

なのでブログを書いたり読んだりは正直しんどいです。

 

本も読めない状態で・・・・。

 

旭日旗について少し説明したいと思う。

 

 

旭日旗は、太陽および太陽光(旭光)を意匠化した旗。光線(光条)が22.5度で開く16条のもの(十六条旭日旗)がよく知られている。 

1870年に大日本帝国陸軍の陸軍御国旗(軍旗)として初めて使用され、1889年に大日本帝国海軍の軍艦旗としても採用された。

 

 

現在は、陸上自衛隊で自衛隊旗、海上自衛隊で自衛艦旗として使用されている。

 

 

このような沿革から、戦前・戦中(日本軍)から戦後(自衛隊)までを通じた、日本の軍事を象徴する旗と見做されることがある

また、日本では、旭日旗と同様・類似の意匠は、戦前からを含め、現在に至るまで、商工業、商品デザイン、広告、スポーツ応援、その他の軍と無関係な民間・民生の分野においても広く普及しており、また、政府機関・公的機関においても、勲章や警察章などでも使用されている。

 

 

第二次世界大戦後においては、1954年の自衛隊の発足に伴い陸上自衛隊において「自衛隊旗」、海上自衛隊において「自衛艦旗」として旭日旗が採用されている。

 

 

この陸軍御国旗として考案された旭日旗は光線が16条(十六条旭日旗)であるが、いわゆる旭日旗全体では他にも4条・8条・12条・24条など光線の本数が多彩に渡るものが存在しており、これらも統一して旭日旗と称される。

 

 

軍旗・自衛隊旗等に限らず、戦前戦後を通じ旭日の意匠が表現する「ハレ」・めでたさ・景気の良さにあやかり、民間においても祝事や企業・商品のロゴ、大漁旗、スポーツの試合などで使用されてきた。

 

 

1879年(明治12年)12月2日、「明治12年太政官布告第130号」によって、従来の陸軍御国旗は旭日の意匠と竿頭の菊花紋章はそのままに、縦横の寸法を1m以下にし四方に房を付けたものにされ、名称を一般呼称であった「軍旗」と変え改めて制定し直された(「陸軍御国旗」を指して「軍旗」と称す事はかねてより一般的であった)。

 

この軍旗は歩兵連隊および騎兵連隊に授与されたことから、俗称として「連隊旗(聯隊旗)」とも呼称されている。

 

 

その陸軍に遅れること19年後の1889年(明治22年)、「明治22年勅令第111号」で従来の日章旗から変更されるかたちで、海軍は陸軍の軍旗の意匠(旭日旗)を流用・模倣し、日章位置が旗竿側に寄る旭日旗を「軍艦旗」として制定している。

 

 

 

第二次世界大戦敗戦に伴い、日本の陸海軍は解体され軍旗としての旭日旗の歴史が一旦途切れるも、1954年(昭和29年)に発足した陸上自衛隊では旧陸軍時代の軍旗を元に考案された八条旭日旗の「自衛隊旗(連隊旗)」が、同じく同年発足の海上自衛隊では旧海軍時代の軍艦旗と同じ意匠の「自衛艦旗」が採用され、旭日旗の使用が復活した。

 

この自衛隊旗と自衛艦旗の選定にあたり、保安庁の両幕僚監部は専門家に意見を伺うなどをしている。

 

 

選定の庁議では艦旗が旧軍艦旗と同一であったことに懸念の声もあったが、保安庁次長の増原惠吉は「(両旗は)旭光を中心とした点で保安庁としての思想は一致している」としてそのままでの決定となった。

 

1953年(昭和28年)後半になると、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により解体された日本軍の役割を実質的に引き継ぐための自衛隊創設の機運が高まってきた。

 

 

これを受けて従来の組織編成や旗章、服装などが見直されるようになり、警備隊では警備隊旗に代わる新しい旗章を制定するとして各部に研究を依頼した。しかし、大方の意見は旧軍艦旗を支持するものであった。

 

第二幕僚監部でも検討を重ねたが旧軍艦旗の採用は国内外に軍国主義の復活を予感させるとして二の足を踏んだ。

 

このころ、第一幕僚監部が隊旗選定のため指導を受けていた東京芸術大学に意見を求めると「部隊の旗として旧海軍の軍艦旗は最上のものであった。

 

 

国旗との関連、色彩の単純鮮明、海の色との調和、士気の高揚などすべての条件を満たしている」との回答を受け取った。

 

さらに画家の米内穂豊に、旭光を主体とする新しい自衛艦旗の図案を依頼したところ、「旧海軍の軍艦旗は黄金分割によるその形状、日章の大きさ、位置光線の配合など実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがない。

 

それで、旧軍艦旗そのままの寸法で1枚書き上げた。

 

お気に召さなければご辞退致します。画家としての良心が許しませんので」との申し出をうけた。

 

 

 

1954年(昭和29年)6月上旬に保安庁で旗章制定の審議が開かれた。

 

旧海軍と同一の旗を用いるか否かに議論が集中したが、最終的には原案支持との結論に達した。

 

 

6月9日の第5次吉田内閣の閣議で正式に決定され、自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)により帝国海軍と同じ規格の「自衛艦旗」が制定された。

 

 

後日、吉田茂首相が「世界中でこの旗を知らない国はない。どこの海にあっても日本の艦(ふね)であることが一目瞭然で誠に結構だ。旧海軍の良い伝統を受け継いで、海国日本の護りをしっかりやってもらいたい」と述べた。

 

 

自衛艦旗は引渡式に続いて行われる自衛艦旗授与式により内閣総理大臣から交付され、除籍又は支援船に区分変更される際に返納されることとなっている。

 

 

自衛艦旗授与式では儀礼曲『海のさきもり』が演奏される。

 

 

 

日本の軍艦旗は、このように日本陸軍旗(連隊旗)と同様に考えられている側面もあるが、陸上で部隊指揮官や司令部(特に連隊長や連隊本部)の所在地を示す軍旗とは異なり、国際法上の船舶の国籍を表示する機能が重要であることから扱いは異なっていた。

 

 

日本陸軍の軍旗は連隊の象徴として編成時に陸海軍の大元帥たる天皇陛下から親授されるものであったため、再交付は原則として行われなかった。

 

 

そのため損傷したり褪色しても修理や再染色をしないことが多いどころか、むしろ酷く損傷していればいるほど、数多の激戦を経験して積み上げてきた確固たる伝統の証として、内外ともに広く認証及び珍重されていた。

 

 

そのため連隊旗は房だけになり、旗自体の識別が困難で標識の体裁をなしていないものも珍しくなかった。

 

 

 

これに対して軍艦旗は常時、雨や日光、潮風に晒されるため劣化が早く、あくまで消耗品として割り切られており、艦内には常に複数枚の予備が積み込まれていた(破損した軍艦旗は軍需部で交換された)。

 

 

これは常に鮮明な旗を掲げることで、海上でも不備なく国籍確認が行われることが重視されていたからである。

 

 

しかしながら、シンボルとしての軍艦旗は連隊旗程ではなくとも尊崇される存在であり、艦艇の総員退艦・沈没時には軍艦旗降下を経て回収することが求められていた。

 

 

旭日旗は戦後改めてデザインされ「自衛艦旗」として採用された。

 

当時の吉田首相の言葉のように「世界中でこの旗を知らない国はない。どこの海にあっても日本の艦(ふね)であることが一目瞭然で誠に結構だ。」なのだが、どこぞの国が旭日旗を貶め「戦犯旗」なとどと呼ぶ。

 

旭日旗は決して他国に貶められたり軽んじられる旗ではないのだ。