1882年7月23日(光緒8年6月8日)壬午事変が起きる。
朝鮮の漢城で興宣大院君らの煽動を受けた兵士が反乱が起こし、閔妃一族や日本公使館員らを殺害した事件。
壬午事変(じんごじへん)は、1882年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である。
壬午軍乱(じんごぐんらん)、朝鮮国事変(ちょうせんこくじへん)、あるいは単に朝鮮事変(ちょうせんじへん)とも呼ぶ。
以下に示す理由から大院君の乱と言うものもある。
江華島事件以来、当時の朝鮮は、朝鮮は清朝の冊封国(または属邦)としての朝鮮のままであるべきであるという「守旧派」(事大党ともいう)と、現状を憂い朝鮮の近代化を目指す「開化派」(独立党ともいう)とに分かれていた。
加えて、宮中では政治の実権を巡って、高宗の実父である興宣大院君らと、高宗の妃である閔妃らとが、激しく対立していた。
興宣大院君
開国して5年目の1881年5月、朝鮮国王高宗の后閔妃の一族が実権を握っていた朝鮮政府は、大幅な軍政改革に着手した。
閔妃一族が開化派の筆頭となり日本と同じく近代的な軍隊を目指した。
近代化に対しては一日の長がある日本から、軍事顧問(堀本禮造陸軍工兵少尉)を招きその指導の下に旧軍とは別に、新式の編成で新式の装備を有する「別技軍」を組織し、日本の指導の元に西洋式の訓練を行ったり日本に留学させたりと、努力を続けていた。
開化派は軍の近代化を目指していたため、当然武器や用具等も新式が支給され、隊員も両班の子弟が中心だったことから、守旧派と待遇が違うのは当然だったが、守旧派の軍隊は開化派の軍隊との待遇が違うことに不満があった。
以下の説明は、『新版韓国の歴史 - 国定韓国高等学校歴史教科書』(世界の教科書シリーズ 1)明石書店2000年による説明と合致したものである。
それに加え、当時朝鮮では財政難で軍隊への、当時は米で支払われていた給料(俸給米)の支給が13ヶ月も遅れていた。
そして7月23日にやっと支払われた俸給米の中には、支給に当たった倉庫係が砂で水増しして、残りを着服しようとした為砂などが入っていた。
これに激怒した守旧派の兵士達は倉庫係を暴行した後、倉庫に監禁した。
いったんこの暴動は収まったが、その後、暴行の首魁が捕縛され処刑されることとなった。
そのため、再度兵士らが暴動を起こした。
これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭である大院君の陰謀であった。
事件発生時の漢城の状況
反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、貧民や浮浪者も加わった暴徒は別技軍の軍事教官であった堀本少尉や漢城在住の日本人語学生等にも危害を加えた。
また王宮たる昌徳宮に難を逃れていた閔妃の実の甥で別技軍教練所長だった閔泳翊は重傷を負い、閔妃一族を中心とした開化派高官達の屋敷も暴徒の襲撃を受け、閔謙鎬や閔台鎬、閔昌植など多数が虐殺された。
日本公使館員の脱出行
以下の記述は公使館駐留武官だった水野大尉の報告を基にしている。
朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館護衛を強く要請した。
しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕は無く、暴徒の襲撃を受けた日本公使館は已む無く自ら応戦することになった。
花房義質
当日はなんとか自衛でしのいだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって公使館は窮地に陥っていた。
朝鮮政府が護衛の兵を差し向けて来る気配は無く、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の花房義質は公使館の放棄を決断。
避難先を京畿観察使(首都治安担当者)の陣営と定めて花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した。
負傷者を出しながらも無事京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内は既に暴徒によって占領されており、京畿観察使金輔鉉は既に殺害された後だった。
公使館一行は次いで王宮へ向かおうとするが南大門は固く閉じられていて開かない。
ついには漢城脱出を決意し、漢江を渡って仁川府に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃される。
襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら済物浦から小舟で脱出した。
その後、海上を漂流しているところを英国の測量船フライングフィッシュに保護された一行は長崎へと帰還することになる。
袁世凱
事変を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の力を借り窮地を脱した。
事変を煽動した大院君側は、閔妃を捕り逃がしたものの、高宗から政権を譲り受け、企みは成功したかに見えた。
しかし、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された清国軍が漢城に駐留し、鎮圧活動を行った上で乱の首謀者と目される大院君を軟禁。
これによって政権は閔妃一族に戻り、事変は終息した。
以後、朝鮮の内政・外交は清国の代理人たる袁世凱の手に握られることになった。
大院君は清に連行され査問会にかけられ、天津に幽閉された。
それに対して高宗は「朝鮮国王李熙陳情表」を清国皇帝に提出し、大院君の赦免を陳情したが効無く、大院君の幽閉は3年間続き、帰国は駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共とだった。
高島鞆之助陸軍少将
事変によって多数の日本人が殺傷された日本政府は花房公使を全権委員として、高島鞆之助陸軍少将及び仁礼景範海軍少将の指揮する、軍艦5隻、歩兵第11連隊の1個歩兵大隊及び海軍陸戦隊を伴わせ、朝鮮に派遣する。
日本と朝鮮は済物浦条約を結び、日本軍による日本公使館の警備を約束し、日本は朝鮮に軍隊を置くことになった。
このことは、朝鮮は清の冊封国であるという姿勢の清を牽制する意味もあった。
こうして、朝鮮半島で対峙した日清両軍の軍事衝突を避けることができたが、朝鮮への影響力を確保したい日本と、冊封体制を維持したい清との対立が高まることになり、やがてこの対立が日清戦争へと結びつくことになる。
殺害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇徒によって殺害された以下の日本人男性は、軍人であると否とにかかわらず、戦没者に準じて靖国神社に合祀されている。
大院君は清に連行され、李鴻章による査問会の後、天津に幽閉された(1882年8月)。
「大逆不道罪」で、官吏である鄭顕徳・趙妥夏・許焜・張順吉、儒学者の白楽寛、金長孫・鄭義吉・姜命俊・洪千石・柳朴葛・許民同・尹尚龍・鄭双吉は凌遅刑により処刑され、遺体は3日間曝された。
なお、その家族一族郎党も斬首刑となった(1882年10月)。
靖国神社遊就館では、事変で殉職した英霊の顕彰が行われており、壬午事変時に日本公使館に掲げられていた日の丸が併せて展示されている。