出撃前に自宅の上空をわざわざ・・・、愛だね・・・。
以下産経ニュースより転載
九九式襲撃機が突然、飛来した。
昭和20年3月27日午前8時半ごろ、埼玉県桶川町(現桶川市)の上空。襲撃機は高度を下げると、1軒の民家の屋根と接触しそうなほどの低空飛行で3回旋回した。
風防ガラスを開け、手を振る操縦士の姿があった。
その後、別れを告げるように翼を左右に振ると、西の空に消えた。
操縦桿(かん)を握っていたのは、5日後の4月1日に第23振武(しんぶ)隊の隊長として鹿児島県の知覧飛行場を出撃し、沖縄近海で戦死した伍井芳夫大尉=当時(32)、戦死後中佐=だった。
自宅上空の旋回は時間にして数分。
その間、妻の園子さんは家の中でうずくまり、両手で耳をふさいで襲撃機が飛び去るのを待っていた。
当時、特攻隊員の妻は夫の出撃を胸を張って見送ることが務めだったといわれる。
次女の臼田智子さん(71)は言う。「送り出す側と送られる側、ともに心の中で激しい葛藤があったと思う。
軍神の妻として人前で乱れることは許されなかった時代でしょうが、母は毅然(きぜん)としている自信がなかったのでしょう。別れのつらさと、それを人に見せられないつらさが相まって、姿を見せることができなかったのでしょう」
伍井大尉は上空旋回の2日前、自宅を訪ねていた。
子供は2人の娘と約4カ月前に生まれたばかりの長男。
3人の子供を一人一人抱き上げると記念写真を撮り、長男には「大きくなったら、お父さんの代わりにお母さんを守ってあげるんだ」と何度も話しかけたという。
別れ際、園子さんが「非常時、お国のためなら当然のことです。3人の子供をしっかり育てていきます。心置きなく出発してきてください。武運を祈ります」と告げると、大尉は「それでは任務に邁進(まいしん)致します」と答え、用意していた爪と髪の毛を渡した。
夫婦で交わした最後の会話だった。
園子さんが伍井大尉と結婚したのは14年3月。6年間の結婚生活だった。
特攻要員の内命が下ったのは19年12月19日。
当時、大尉は熊谷陸軍飛行学校桶川分教所で、見習士官や少年飛行兵の教育にあたっていた。
園子さんは、妻と3人の子供がいる夫には特攻命令が出るはずがないと信じていた。
しかし…。
戦後、智子さんに「教え子が特攻出撃することを黙って見ていられなかったのでは」と夫の心情を推し量っていた。
夫の死を知った園子さんに追い打ちをかけるような悲劇が襲った。
大尉が特攻出撃して3カ月余り過ぎた20年7月21日、長男が自家中毒症で息を引き取ったのだ。
2人の娘を育てるため、夫と息子を失った悲しみを抱えながら厳しい戦後が始まった。
「母は、父の部下だった人やご遺族とは極力付き合わないようにしていた。戦争を忘れよう、後ろは振り向かないと考えていたのだと思う。父の話は家庭内でも禁句だった」。
智子さんは当時を振り返る。
園子さんは桶川国民学校(現桶川小学校)の教師として教壇に立った。
穏やかな園子さんだったが、子供たちが戦争映画を見て「かっこいい」と言ったとき、必ず叱っていたという。
園子さんは智子さんに「時がたつにつれ、特攻も美化されていくような気がして、たまらなく不安になった」と話していた。
園子さんは54年に教員を退職してから毎年、大尉の命日の4月1日に靖国神社に参拝した。
毎年5月に知覧で開かれる特攻慰霊祭に参列したのは翌55年から。
沖縄には一度慰霊に出向いたが「体が震えてしまう」と二度と行かなかった。
園子さんが68歳で息を引き取った3月25日は、くしくも、大尉が特攻出撃を控え、別れの挨拶のため最後に自宅に戻った日だった。
智子さんは今でも、園子さんが病床で「私は激動の時代に生きた。人間としていろいろなことを経験した。人間として悔いはない」と話していたのをはっきりと覚えている。
(編集委員 宮本雅史)
(産経ニュース)
ベテランのパイロット将校が幼い家族を遺して出撃前にした行動と、遺された家族の思いとは必ずしも同じではなかったのかも知れない。
とっても悲しい話であるが、伍井芳夫中佐が決して家族を忘れることなく自宅上空を飛んだことは生との決別だったのかもね。
特攻というものの本質がある話なのかも知れない。
遺された者にはただ生きて欲しかったんだろうね。