前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト -31ページ目

「無党派という入れ物」の中身

政治、特に政党支持率に関する報道を見るに、世の中雑な議論が行き渡っているなあ、と思うのだけれど「ざくっと無党派」という大きな入れ物があるわけではない。

逆に有権者も「自分は無党派」とは思っても、その無党派がどういう無党派を意味するのかというと、これは一様ではない。

 

以前、パチンコ好きのセンセイが「山が動いた」とかつて述べたが、当時の社会党と自民党の間にある山がちょっと社会党に寄っただけのことである。「山がちょこっとずれた」という程度の話。

無党派といっても、有産か無産か、ローカルか非ローカルか、など、いくつかの切り口で見ると、一つの「無党派層」ではない、ということがすぐにわかるはず。自民に近い無党派もあれば、立憲に近い無党派もある。共産と立憲の間の無党派もある。立憲と維新は結構近いクラスターを食い合っている。

もとより、自民と立憲は対象とするクラスターは隣同士なのだから、そりゃ票が行ったり来たりする。

野党共闘で立憲が共産と組むと、立憲と自民の間の無党派が離れる、というのも同じような構造。それでも野党共闘は与野党両者が拮抗している選挙区では絶大な効果があるのだから、野党の戦略的には必須の選択肢ということになる。

逆に自民サイドからすると、野党共闘させないために、連合と親和的な政策を打ち出す、というのは非常に合理的だ。自民はもともと有産者の政党だが、過半数の議席を安定的に維持するためには「有産」の定義のハードルを下げ、ウイングを広げるということになるし、事実、それをやっている。

ちなみに、連合の現会長は共産嫌いだが、自分たちは労働者(≒無産者)の代表である、という意識があるのだろうか。おそらく、あの御仁がまともにそこを自問自答したことはないだろう。

共産は連合の仇敵である労連と一体だが、労連もまた、労働者の組織なのである。憎むとしてもそれは労連という組織であって、より労働者サイドに立ちうる議員を増やす、ということこそが連合の目的にかなうことを理解できないのであれば、それはもはや労働者の見方でも何でもない。ただの労働貴族である。

いずれにしても、無党派層が丸ごと右往左往している、というイメージの流布は有権者をバカにしている、としか言いようがない。

出所 地域政党サミット「情報オープン・しがらみフリーの新勢力」(CAP)より,松本作成

8月6日、広島は鎮魂の日。

広島は鎮魂の日。私の現在の勤務先の学校は大きな被害を被り、そこから立ち上がった歴史を持っています。

匹見町道川の鑪場を中心とする江戸時代の町おこし

匹見にある美濃地邸の展示に、「浜田藩による道川の村おこし」と言う展示がある。
現代的な町おこし、村おこしにも通ずるものがあるので引用してみよう。
江戸時代にも現代と似たような悩みがあり、当時、すでにここまでやっていたのか、と感じられるのではないかと思う。
僻地があるとして、どうすれば住めるのか、持続可能な生業とはどんなものなのか。まさに地方創生の課題。

(以下引用)
江戸時代初期、道川村は浜田藩領内でも最奥部の僻地に位置することから積雪も多く、田畑も少ないため、わずかな夏作農業以外には手の施しようもありませんでした。転入を希望する者も稀で、住民の中には次第に郷土を離散しようとするものが多く出始めました。これを放置しておいては農民の大半が離村する恐れもあるため、藩としても面目をかけてこの地の住民を守る必要がありました。
そこで藩は、豊富な広葉落葉樹林の活用こそが村の盛衰を左右するものと考え、益田の藤井氏と合同出資による鑪場(たたら場)を新事業として起こし、経営は藤井氏に委ねます。美濃地氏は、その支配人として現地で采配を振るいました。
鑪は、砂鉄の運搬、松や雑木の伐採、薪炭の製造、竈(かま)の製造、鑪方と鍛冶屋方によるおびただしい炭量の消費、そしてそれらを賄うことに関わる人員、さらに錬鉄を馬の背に乗せて益田まで運ぶ際の馬も毎日70から80頭を要したといいます。従って鑪製鉄には、少なくとも3百から4百人、多い場合は2千人が従事していたと言われています。
また大量の木材を必要とするため、密林を5から8年ごとに転々としました。この間、道川の住民は鑪の仕事に関わりながら、ときには副業として蓑・縄・菰・草履・藁沓などを作り、これを相当な値段で鑪所が買い入れました。さらに馬も1戸あたりに2頭をあて預け、私用を許す等の恩恵を授けたため、荒地も肥沃になるなど生活が安定し、匹見組の中でも模範の村となりました。




美濃地氏の屋敷前にて


茅の葺き替えは片面がおよそ六千万円



製鉄の残渣。いわゆる金糞


客間の欄間の造形が豊かさを物語る


囲炉裏の手前に主人が座ったのだろう


鳳凰の造形が美しい。


御用提灯を掛けた棚


雛人形が怖い(笑)


豪華な漆器


地域の人々の結婚式にも屋敷が提供されたと言う


神楽のお面






茅葺の道具


安倍晋三元総理殺害事件は「民主主義への挑戦」ではないが民主主義の現場は変わる

参議院選の投票が終わったので、あらためて安倍晋三元総理の殺害事件について、整理しておきます。

あらためて政治家界隈から出ていた単線的な「民主主義の根幹を揺るがす行為」「民主主義への冒涜行為」的な表現には違和感があります。
もちろん、民主主義のシステムの根幹の部分である選挙における街頭演説という場が犯罪の現場となったことは事実です。
しかしながら、これまでの容疑者の調査状況を踏まえると、民主主義うんぬんよりも、どちらかと言うと個人的な被害感情を踏まえた安倍晋三元総理個人への殺意が根っこになっているわけですから、事件の整理としては、怨恨による犯罪行為という考え方が正しいと思います。
もっとも、それでもなお、この事件は、政府の要人クラスであっても、政治家であれば街頭演説は必ず行うわけであり、今回の容疑者のように対象につきまとい、わずかな隙があればそれをついて殺害しうる、という事実が明らかになった、ということがポイントです。犯人の意図自体は民主主義への挑戦や冒涜と言う性質のものではありませんが、事件が民主主義の根幹である選挙のあり方を大きく変え得る、また政治家と国民のインターフェースの1つである選挙運動における政治家と有権者の距離を引き離し得るものであることには変わりはありません。
つまり、今回の事件は個人の恨みと言うレベルの犯罪でありながら、民主主義の根幹を揺るがす、また民主主義のあり方の転換点となり得る事件であるという、まさに容疑者の意図を超えた事件となったのではないかと思われます。
安倍晋三元総理は、非常に鷹揚な人間性というか、心の広い面のある人物であり、例えば政治家との付き合いの中でも、相手がどのようなウィングの政治家であってもわりと時間をかけて意見を聞き、またご自身の見解を返す方でした。和光市に視察に来られた時にも市民との形式的ではない交流を強く望まれました。それはまさに、エリート家系に生まれながらも大衆政治家として国民から愛された安倍晋三と言う政治家の強みであり、また今回の事件を結果論から語るなら、その鷹揚さが事件と無関係ではないと言う点を踏まえると、複雑な気分にならざるを得ない、というのが偽らざる気持ちです。
今回の事件を機に、多くの政治家の選挙活動が変わらざるを得ないでしょう。しばらくは様子見をしながら、慎重な政治家は街頭で有権者との距離を置く方向に、また、大胆な政治家や無神経な政治家は平然と街頭に立ち続けるでしょう。そして、当面は今回ほどでは無いにしても、街頭での小競り合いや今回ほどは大きくない事件がいくつか起きるのではないかと推測します。
さらには、要人警備と言う観点からは、主要な政治家に関しては、街頭に出ることを抑制するような要請が醤家事務方から出る事は間違いありません。
私が13年前に和光市長になった時「徒歩で通勤する」と秘書に言うと、警備の観点からそれはやめてほしいという意見がありました。正直なところ、そこまで言われると当初は怖くなくもなかったのですが、実際問題として事件など起こりようがなかったですし、当然のことながらそれ(送迎なし)で12年間を過ごしました。
ただし、それはこの事件が発生する前の話です。これからの世の中が、この歴史に残る大事件を経てどう変わるかは誰にもわかりません。ただ、現時点で言うとリスクは大きく跳ね上がっています。
政治家の方々、特に、有名であったりあるいは、選挙区の当選者が1人でターゲットになりやすい方については、ご注意を願います。
コロナ禍により、それまで繁栄の象徴だった「人の賑わい」や「人混み」が「怖いもの」に変わりました。そして、今回の事件により、その人混みに改めて危険な人物が潜み得ること、また、誰もが危険人物になりうるノウハウをインターネットから仕入れ得ると言う事が周知されたわけです。これは、警備にしろ、選挙にしろ、立候補にしろ、人が何らかの行動する際に必ず考慮に入れなければならない新たなポイントと言えるでしょう。
一方で、今回の警備の歴史的な失態を見るに、このような事件が起こりうる素地は従来からあったことも忘れてはなりません。

”安倍総理と和光市、そして…”

安倍晋三元総理のご冥福をお祈りいたします。