匹見町道川の鑪場を中心とする江戸時代の町おこし
匹見にある美濃地邸の展示に、「浜田藩による道川の村おこし」と言う展示がある。
現代的な町おこし、村おこしにも通ずるものがあるので引用してみよう。
江戸時代にも現代と似たような悩みがあり、当時、すでにここまでやっていたのか、と感じられるのではないかと思う。
僻地があるとして、どうすれば住めるのか、持続可能な生業とはどんなものなのか。まさに地方創生の課題。
(以下引用)
江戸時代初期、道川村は浜田藩領内でも最奥部の僻地に位置することから積雪も多く、田畑も少ないため、わずかな夏作農業以外には手の施しようもありませんでした。転入を希望する者も稀で、住民の中には次第に郷土を離散しようとするものが多く出始めました。これを放置しておいては農民の大半が離村する恐れもあるため、藩としても面目をかけてこの地の住民を守る必要がありました。
そこで藩は、豊富な広葉落葉樹林の活用こそが村の盛衰を左右するものと考え、益田の藤井氏と合同出資による鑪場(たたら場)を新事業として起こし、経営は藤井氏に委ねます。美濃地氏は、その支配人として現地で采配を振るいました。
鑪は、砂鉄の運搬、松や雑木の伐採、薪炭の製造、竈(かま)の製造、鑪方と鍛冶屋方によるおびただしい炭量の消費、そしてそれらを賄うことに関わる人員、さらに錬鉄を馬の背に乗せて益田まで運ぶ際の馬も毎日70から80頭を要したといいます。従って鑪製鉄には、少なくとも3百から4百人、多い場合は2千人が従事していたと言われています。
また大量の木材を必要とするため、密林を5から8年ごとに転々としました。この間、道川の住民は鑪の仕事に関わりながら、ときには副業として蓑・縄・菰・草履・藁沓などを作り、これを相当な値段で鑪所が買い入れました。さらに馬も1戸あたりに2頭をあて預け、私用を許す等の恩恵を授けたため、荒地も肥沃になるなど生活が安定し、匹見組の中でも模範の村となりました。