安倍晋三元総理殺害事件は「民主主義への挑戦」ではないが民主主義の現場は変わる | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

安倍晋三元総理殺害事件は「民主主義への挑戦」ではないが民主主義の現場は変わる

参議院選の投票が終わったので、あらためて安倍晋三元総理の殺害事件について、整理しておきます。

あらためて政治家界隈から出ていた単線的な「民主主義の根幹を揺るがす行為」「民主主義への冒涜行為」的な表現には違和感があります。
もちろん、民主主義のシステムの根幹の部分である選挙における街頭演説という場が犯罪の現場となったことは事実です。
しかしながら、これまでの容疑者の調査状況を踏まえると、民主主義うんぬんよりも、どちらかと言うと個人的な被害感情を踏まえた安倍晋三元総理個人への殺意が根っこになっているわけですから、事件の整理としては、怨恨による犯罪行為という考え方が正しいと思います。
もっとも、それでもなお、この事件は、政府の要人クラスであっても、政治家であれば街頭演説は必ず行うわけであり、今回の容疑者のように対象につきまとい、わずかな隙があればそれをついて殺害しうる、という事実が明らかになった、ということがポイントです。犯人の意図自体は民主主義への挑戦や冒涜と言う性質のものではありませんが、事件が民主主義の根幹である選挙のあり方を大きく変え得る、また政治家と国民のインターフェースの1つである選挙運動における政治家と有権者の距離を引き離し得るものであることには変わりはありません。
つまり、今回の事件は個人の恨みと言うレベルの犯罪でありながら、民主主義の根幹を揺るがす、また民主主義のあり方の転換点となり得る事件であるという、まさに容疑者の意図を超えた事件となったのではないかと思われます。
安倍晋三元総理は、非常に鷹揚な人間性というか、心の広い面のある人物であり、例えば政治家との付き合いの中でも、相手がどのようなウィングの政治家であってもわりと時間をかけて意見を聞き、またご自身の見解を返す方でした。和光市に視察に来られた時にも市民との形式的ではない交流を強く望まれました。それはまさに、エリート家系に生まれながらも大衆政治家として国民から愛された安倍晋三と言う政治家の強みであり、また今回の事件を結果論から語るなら、その鷹揚さが事件と無関係ではないと言う点を踏まえると、複雑な気分にならざるを得ない、というのが偽らざる気持ちです。
今回の事件を機に、多くの政治家の選挙活動が変わらざるを得ないでしょう。しばらくは様子見をしながら、慎重な政治家は街頭で有権者との距離を置く方向に、また、大胆な政治家や無神経な政治家は平然と街頭に立ち続けるでしょう。そして、当面は今回ほどでは無いにしても、街頭での小競り合いや今回ほどは大きくない事件がいくつか起きるのではないかと推測します。
さらには、要人警備と言う観点からは、主要な政治家に関しては、街頭に出ることを抑制するような要請が醤家事務方から出る事は間違いありません。
私が13年前に和光市長になった時「徒歩で通勤する」と秘書に言うと、警備の観点からそれはやめてほしいという意見がありました。正直なところ、そこまで言われると当初は怖くなくもなかったのですが、実際問題として事件など起こりようがなかったですし、当然のことながらそれ(送迎なし)で12年間を過ごしました。
ただし、それはこの事件が発生する前の話です。これからの世の中が、この歴史に残る大事件を経てどう変わるかは誰にもわかりません。ただ、現時点で言うとリスクは大きく跳ね上がっています。
政治家の方々、特に、有名であったりあるいは、選挙区の当選者が1人でターゲットになりやすい方については、ご注意を願います。
コロナ禍により、それまで繁栄の象徴だった「人の賑わい」や「人混み」が「怖いもの」に変わりました。そして、今回の事件により、その人混みに改めて危険な人物が潜み得ること、また、誰もが危険人物になりうるノウハウをインターネットから仕入れ得ると言う事が周知されたわけです。これは、警備にしろ、選挙にしろ、立候補にしろ、人が何らかの行動する際に必ず考慮に入れなければならない新たなポイントと言えるでしょう。
一方で、今回の警備の歴史的な失態を見るに、このような事件が起こりうる素地は従来からあったことも忘れてはなりません。