「無党派という入れ物」の中身 | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

「無党派という入れ物」の中身

政治、特に政党支持率に関する報道を見るに、世の中雑な議論が行き渡っているなあ、と思うのだけれど「ざくっと無党派」という大きな入れ物があるわけではない。

逆に有権者も「自分は無党派」とは思っても、その無党派がどういう無党派を意味するのかというと、これは一様ではない。

 

以前、パチンコ好きのセンセイが「山が動いた」とかつて述べたが、当時の社会党と自民党の間にある山がちょっと社会党に寄っただけのことである。「山がちょこっとずれた」という程度の話。

無党派といっても、有産か無産か、ローカルか非ローカルか、など、いくつかの切り口で見ると、一つの「無党派層」ではない、ということがすぐにわかるはず。自民に近い無党派もあれば、立憲に近い無党派もある。共産と立憲の間の無党派もある。立憲と維新は結構近いクラスターを食い合っている。

もとより、自民と立憲は対象とするクラスターは隣同士なのだから、そりゃ票が行ったり来たりする。

野党共闘で立憲が共産と組むと、立憲と自民の間の無党派が離れる、というのも同じような構造。それでも野党共闘は与野党両者が拮抗している選挙区では絶大な効果があるのだから、野党の戦略的には必須の選択肢ということになる。

逆に自民サイドからすると、野党共闘させないために、連合と親和的な政策を打ち出す、というのは非常に合理的だ。自民はもともと有産者の政党だが、過半数の議席を安定的に維持するためには「有産」の定義のハードルを下げ、ウイングを広げるということになるし、事実、それをやっている。

ちなみに、連合の現会長は共産嫌いだが、自分たちは労働者(≒無産者)の代表である、という意識があるのだろうか。おそらく、あの御仁がまともにそこを自問自答したことはないだろう。

共産は連合の仇敵である労連と一体だが、労連もまた、労働者の組織なのである。憎むとしてもそれは労連という組織であって、より労働者サイドに立ちうる議員を増やす、ということこそが連合の目的にかなうことを理解できないのであれば、それはもはや労働者の見方でも何でもない。ただの労働貴族である。

いずれにしても、無党派層が丸ごと右往左往している、というイメージの流布は有権者をバカにしている、としか言いようがない。

出所 地域政党サミット「情報オープン・しがらみフリーの新勢力」(CAP)より,松本作成