カナダでの虐待と発達障害への対応(参考文献3)
ここまでの話は、世間には多くの発達障害の若者や大人がいる。世間の人々が、このような発達障害の基本を理解して、虐待やニグレクト、無理な強制教育をしなければ立派な社会人になる。けれども、そうでなければ人格障害などの二次障害を起こし無差別殺傷やその他の事件が発生するというものでした。
ここでは、さらに文献を取り上げていろいろと考えていくことに
します。
●M/世界の、憂鬱な先端 吉岡 忍
この本は、幼女殺害で有名な「宮崎勤」を扱った本です。これも神戸の少年Aと同じ生活を強要されたとしています。そして、動物虐待をつづけ、最終的には少女をつぎからつぎへの誘拐して殺害したことでも有名です。
同じ親から同じしつけを受けるにしても、要領のいい子供は手がかからないから、親は怒ることが少ない。でも、発達障害児のように、自分をコントロールしにくい子供は、親が怒ったり叩く行為が多くなってしまいます。しかも、宮崎は生まれつき右手の手首が自由に曲がらないということで、大人になって相当コンプレックスを持っていたようです。だから、いつも、右手はズボンのポットに入れて歩いていたといいます。
この親から厳しく躾けられたことと、右手のコンプレックス、本書ではこの2つによって宮崎のその後の行動傾向が作られたことを書いています。
幼稚園のときは、親しく付き合う友人がたくさんいたようですが、小学生になってから、友人がほとんどいなくて、放課後に相手をしてくれるのは祖父と一人の知的障害のお兄さん。この祖父が亡くなって、お兄さんがどこかに連れて行かれて、宮崎の症状が現れました。
まず、友人が欲しくて、多くのビデオを交換したり、写真を交換したり。でも、他人の気持ちがわからなくて、一方的につっけんどんに付き合ったということで排除されました。
そんな孤独な状況で、親切に相手にしてくれたのが少女たちです。「幼稚園でのように楽しく付き合える」と最初は公園などで話していたのが、いつの間にか誰もいないところに連れて行って一緒に遊び始めます。
けれども、夕方遅くなって、少女が「家に帰る」といった時点でパニックが起きて、少女を殺します。そして、首を切断してしばらく放置する。こういうことが連続的に起きると同時に、数日間放置して、腐敗した少女の首を水道水で洗ったところ「髪の毛がサラサラと落ちて、最後に骸骨だけになった」とされています。
さて、この本は、このような事件の背後を別の角度から書いていきます。著者の吉岡忍氏によれば、この宮崎が逮捕されたときに、精神科医4人による鑑定が行われましたが、4人とも人格障害を認めながら、1人は「責任能力がない」としたのにたいして、3人が「責任能力がある」と認めました。
人格障害というのは、どのような症状であれ、一定の衝動的暴力や殺人に対して 自分をコントロールできないから犯行に及ぶという意味で、精神耗弱(こうじゃく)と同じです。したがって、普通は「責任能力がない」と判断を下します。
また、裁判官も「責任能力がある」ことを支持し、結果的に死刑判決を下し、最近、死刑執行となりました。
さて、それではなぜ3人の精神科医は「責任能力がある」として、しかも裁判官もそれを支持したのかを吉岡氏は書きます。それは、
もし「責任能力がない」とすると無罪になり、世間からの猛烈な批判や攻撃、ときには恐喝があるからだ
といいます。
この国では、死刑制度を国民の約85%が支持しており、しかも被害者遺族の心情を斟酌して、犯罪者はいかなる状況であっても「殺す」ことを希望します。
けれども、吉岡氏によれば(私も同意見)、このような犯罪が起きた場合には、殺さないで
・なぜ、そのような人格障害になったのかと原因を極め
・社会全体で、その原因を解決する
このことが、将来にわたって犯罪の抑止力になるといいます。つまり、多くの法律家は、死刑制度は犯罪の抑止になるといいますが、それは間違いで、実際には犯罪は減らないというわけです。このことは、われわれ日本人がよく考えることです。
ここでカナダの実例を載せておきます。
カナダでは、1975年に死刑を廃止しましたが、その年は人口10万人当たり3.09件でしたが、それから27年後の2003年には殺人率は人口10万人当たり1.73件、1975年よりも44パーセント低くなったといいます。
これは、死刑を廃止したから殺人率が下がったということではなく、私が本ブログの「その4」で書いたように、児童の頃から発達障害への対応がきちんとしていたからだといわれています。
日本では、死刑制度を継続しているけれども、その根本問題を解決しないから、無差別殺人は減りません。
カナダでは、死刑制度を廃止し、発達障害への対応をきちんとして、人格障害を発症させないようにしたら殺人率を44%も減ったということです。