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takacciの「見た・観た・聴いた・読んだ」

音楽に関すること、観たこと、読んだことへの感想などを書いていきます。(文中敬称略) 2019年4月より別サイトで掲載していた写真の記事も同居させましたが、20年7月に元に戻しました。

本ブログの無断転載はお断り致します。

も~本当にアマオケは多くて、日曜日に聴きに行ったこの演奏会もどういう人たちがやっているのか、腕前がどのくらいなのだか、全く分からないまま出掛けて行った。チラシから分かっていたのは、東北に所縁のあるアマチュア音楽家が設立し、所縁のある仙台にちなんで伊達という名を付けた、ということくらい。東北の楽団が東京に来て演奏会を開いたのではなさそうだった。

 

 

日時・会場: 12月16日14時よりサンパール荒川にて

指揮: 大井駿

曲目: コリオラン序曲、運命、田園

 

演奏を聴いて先ず思ったのは、6本のコントラバスが効いていてずっしりと重量感のある響きの楽団だなということだった。最近聴いてきたアマオケでは3~4本の楽団が多く、それはそれで全体の響きが薄くなり各声部が良く見通せるからいいなと思っていたのだけれど、今回の演奏からは充実感というか高級感というか、うまく言えないけど何か本格的なものが迫ってくるようだった。

 

それでもコリオランは暗すぎて好きになれない曲。運命の方は迫力でひしひしと迫ってくる演奏だった。どのパートも上手で安定している。しかしテンポが速いせいか運命の動機が「ジャジャジャジャーン」と聞こえず、「ジャアーージャン」のように潰れてしまったように聞こえたのは私だけだろうか。第一楽章の中で何カ所かはジャジャジャジャンと聞こえたけれど、前の部分からテンポが詰まってしまったような部分はほぼ全部ジャアアジャンかジャジャージャンに聞こえて、正直なところ気持ち良くなかった。(歳のせいでこちらの耳が悪いという可能性も否定できない)

 

あと気になったのは聞こえるべき外声部が響きの厚みに埋もれてしまうことが多かった点。運命でも田園でもそうだった。その辺りのバランスの悪さは指揮者のせいなのかなと思う。せっかく腕達者が集まって熱演したのにもったいなかった。

 

こう書いてくると、我ながら演奏から悪い印象を受けたように読めてしまう、と気付き、はっとしている。全体的にとても楽しめたのである。レベルが高い演奏に接すると、つい少し物足りなかった部分を言いたくなるらしい。田園の嵐の描写部分のコントラバスは凄かった。ややもすると他の楽器に消されたりパート内が揃って居なくて輪郭が聞き取れなくなったりするものだが、これだけはっきり活躍が聞こえてきたのは初めてだった。

 

次回は6月22日にラフマニノフのピアノ協奏曲とボロディン2番を演奏するとのこと。

先般「倭の五王」を読んだ感想文をアップした折、友人から「根拠のある古代史に触れたければ考古学的証拠に基づいた研究を読まないと分からないよ。」と助言をいただき、この本を紹介されて読んだ。弥生時代後半から6世紀前半に掛けての朝鮮半島南部と西日本の交流を、主として古墳の形式、出土品の性格、墓制の特徴の分析から推測しようとしている本であり、その中から新羅・百済の圧迫にさらされ懸命に生き残りを図る伽耶の国々や栄山江流域の人々が倭国との関係を強めようとしている姿が浮かび上がってきており、印象的だった。「吉備の反乱」、「磐井の乱」に付いても、当時の朝鮮半島南部の政治情勢や倭国側の勢力分布の絡みを説く流れで説明されていて、ためになる読書をすることができたと思う。

 

考古学資料を、これまでの研究で積み上げてきた定説(今現在一番信頼できるだろうと考えられている説)により解釈し、その時代に関する推理を勧めているので、発掘などで新たな証拠が出て定説がひっくり返ることもあり得るわけだ。私は気が短いからか、そういうのじゃなくて確かなことが知りたいの!と叫びたくなるのだが、それが出来ないから皆さん苦労して地道に研究し続けているのだ。私の生きている間にどのくらい研究が進むのか分からないが、どのくらい発展するのか、楽しみにウォッチして行きたい。

日時場所: 12月2日(日)、川崎市多摩市民館大ホール

指揮: 今井治人

曲目: カリンニコフ第一番と「英雄」

 

この日に聴きに行く演奏会は前日にチラシをめくって検討し決めた。最終的な対立候補は私がファンである松田理奈がブルッフの独奏を受け持つ横浜でのコンサートだったのだが、横浜の会場は遠いし駅からかなり歩く。こちらは向ヶ丘遊園駅から徒歩5分と近く、しかも無料だった。カリンニコフの曲を体験できるのも何か発見がありそうで興味深い。「英雄」は大好きなのだが、実は実際の演奏会で強く感銘を受けたことがまだ無い。名前を聴くのも初めての楽団だけれど、どんな演奏を聴かせていただけるのかな。

 

例によって開場時間の少し前に着き、100人に満たなそうな列に並んでから入場すると、その時点での入りはとても少なそうだった。開演時でも3~4割程度に見えた。

 

カリンニコフが始まると、そのメロディーは何回か聴いたことがあった。しかめ面をした分かりにくい曲ではないことがすぐ分かった。第一楽章は活発に終わる。第二、第三楽章はいささか単調だったのか、うとうとした。そして何故か終楽章が始まるとぱっちり目が覚め、熱演に目を見張る思いがした。それでも、いかにも定番の盛り上げ方の曲であり、これを聴くことに主眼を置いて演奏会に行くことは無さそうだと思った。

 

さて「英雄」である。出だしはあまり印象が良くなかったけど、提示部が繰り返された辺りから次第に引き込まれていき、あとは終楽章が終わるまで緊張感が持続し、集中して楽しむことができた。正直言って、私が聴いたきた中で一番引き込まれた演奏となった。ミスが結構あったし、時としてバランスが悪いと感じた部分もあったけれど、それが何だ。これでやるのだ、という居直りに感じられるほどの確信をもって演奏しているように感じられた。そしてどのパートも表現意欲に満ちていた。さすがにリード楽器特有のブピーッ!と割れる音が何回も出てくるとひやっとしたのだけど、大崩れには至らなかったし、楽団が目指す演奏に邁進する迫力の力で帳消しになったのではないだろうか。(私の中学時代=50年以上前のブラバンでは約15秒おきにあれが聞こえた。)

大体からして、1stヴァイオリン7名とそれに釣り合う弦楽合奏でこういう高い水準の合奏を聴かせるというのは大変なことなのではないか。

 

この日は対向配置の布陣で、舞台に向かって左から1stV、チェロ、ヴィオラ、2ndVの並びだった。コントラバスは1stVの更に左奥に3本。この配置が「英雄」では実に効果的だった。特に葬送行進曲の絶対的傑作的フーガの出だしや終楽章の変奏曲で2ndVが主役に躍り出ると、その忠実でひたむきなパートソロが目立ち、ヴィオラや1stVとの掛け合いも他の配置で聴くよりはっきりくっきり聞こえて良かった。ほれぼれした。コントラバスがチェロと分かれて左端に置かれるのもやはり分離して聞こえるという意味で面白かったけれど、やってるほうは大変なのでは?

 

作曲家って演奏家が苦しむのを見込んで曲を作っているのではないか、ということも思いながら聴いた。昔話で恐縮だが、学生時代にコダイのミサブレヴィスを選曲候補として練習したとき、仲間のソプラノソロが懸命に絞り出す上のCの歌声に異常な緊張感を感じたのに、ディスクで聴いた演奏では声楽家が楽々と歌っていて全く緊張感が無かった、ということを思い出したのである。例えばプロの上手な楽団が余裕で演奏する「英雄」はベートーヴェンの意図とそぐわないのかも。とにかくこの日の演奏を聴けて嬉しかった。次回は6月1日、ブルックナーの4番を演奏するとのこと。是非聴きたいものだが狛江とは、、、ちょっと遠いなあ~。

11月24日(土)、和光市民文化センターサンアゼリア大ホールにて

演目: ドビュッシー「民謡主題によるスコットランド風行進曲」、「白鳥の湖」より、ブラームス第1番

指揮: 平川範幸

 

この週末は日曜にブルックナーを聴きに行こうと思っていたのだけど、この日の昼近くになって何処かの演奏会に行きたくなり、i-Amabireを調べてこの演奏会に決めた。学生のオケだから練習十分だろうし、少し前に聴いたこの楽団OBが立ち上げたオケの演奏に感銘を受けた覚えがあり、良い演奏を聴けるような気がしたからである。場所が遠い割りに東京メトロだけの利用で行けるから交通費負担が軽くて助かる。行くことに決めてから時間を計算すると、あと10分で家を出れば悠々間に合うことが分かり、大急ぎで出た。

 

最寄り駅の和光市駅からは徒歩10分強。立ち並ぶ中層の団地と公立学校に挟まれた人通りの少ない道を100mほど入ると会場があった。

 

ロビーに入ると「足立区のほうです。」と会場係が話す声が耳に入った。聴きに来た人が学校の場所を訊いたのだろう。その所在地にしては随分と離れた場所でやる演奏会だ。その距離感のせいだと思うけど、会場の入りは悪く、3~4割くらいに見えた。

 

演奏はとても楽しめた。ドビュッシーのマーチってのは初めてであり面白かった。

白鳥は大いに感激。演奏曲はほぼ組曲のものであり、独奏が主役の曲が省かれその代わりに終りの方の「情景」が入れられていた感じだった。冒頭の有名な「情景」が始まるとぐいっと曲の世界に引き込まれワクワクしてきた。これに美しい白鳥が舞台で舞っていたならどんなにゾクゾクしたことだろうか。会場の残響が程よく、その大きな空間はオケの強音を適度に和らげてくれていた。

ブラームスでは緩徐楽章で多少乱れた感があったけど全般的に練習の行き届いた演奏を聴かせていただいた。

少ない聴衆に鑑み私は一生懸命に拍手したのだけれど、全体の拍手が好演に見合うまでに至っていたかどうかとなると心もとなかった。

 

会場: 江戸川区総合文化センター大ホール

指揮: 田部井剛

曲目: 「未完成」、ブルックナー8番

 

先日の日曜日にこの演奏会を選んだのはブルックナーの8番をやることと指揮者名でピンと来たからだった。

演奏会後調べてみたら、最近二回、この方の指揮する素晴らしい演奏を聴いていて、このブログにも感想文を書いていた。

興味ありましたらリンクはこちらです。→ ①ポロニア ②ザッツ

 

さてこの日の演奏を聴いてどう思ったか。

実はどちらの曲もあまり楽しめなかったのだった。こういうこともあるのだろう。私のコンディションのどこかに問題があったのかも。

ケチな話で恐縮だが、1000円の入場料を払ったから聴く際の要求基準が上がった? これに付いて何度も考えてみたけれども、そうとは思えなかった。

 

ブル8は長大な曲だから、乗れなかった私にはきついものがあった。頑張って演奏しているのに何故私は乗れないの? 思い当たったのは場面転換だ。悪く言えば分裂症のようにガラッと曲想が変わって進行する曲だと思うのだけれど、その変わるときに十分変わっていなかったのでは? ばっさりぶった切って、新たに次のセクションを始めるくらいの分断を頻繁に入れれば良かったのでは? (素人考えです)

 

演奏後幾人かの聴衆がスタンディングオベーションをしていた。(こういうのは初めて見た。) と言うことは、私の聴き方に問題があったのだろう。身内同様のおらがオーケストラが長大な難曲を演奏し切った、と思えばこういう反応の仕方も理解できる。

 

いずれまた何処かでお会いすることになる指揮者だろう。その時が楽しみだ。

去年この楽団の演奏を聴いた時、良い演奏なのに聴衆が少なくてもったいない、との感想文を書いてます。(こちら
 

今回はラベル・チクルス。

11月17日、江戸川区総合文化センター大ホールにて

演目: 道化師の朝の歌、ピアノ協ト長調、クープランの墓、ダフニスとクロエ第2組曲

指揮: 橘直貴

ピアノ独奏: 原島小也可

 

実はこの日は夜の演奏会に行こうとしていたのだが、個人的な祝い事の会が入ったため急遽昼の演奏会に替えた。

私は「牧神の午後」以外のフランス近代音楽には感度が鈍く、幾ら前回良かったからと言ってもどうなのかな、と思いながら、路線バスを乗り継いで会場に向かった。

 

開演の10分ほど前に到着すると、やはり会場の入りは少ない。しかしながら演奏が始まるとそのレベルの高さにあっと言う間に引き込まれた。練習が行き届いていて心地良く、指揮者の意図する音楽が立ち上っているように感じられ、この演奏会を聴き逃さずに居られたことをとてもラッキーだと思った。ラベルの管弦楽曲をこんなに楽しんだのは初めて。

 

ピアノ協奏曲でもオケの快調は続き、現役東大生の独奏者はこちらも光っており大いに楽しめた。

 

休憩後のクープランはオケの編成が小さくなり、曲もおとなしいせいか少々うとうとした。

そしてダフニスとクロエは再び前ステージの活気が戻り、「おお、これなら」と思ったものの、さすがにラベルばかりが連続すると私にはきつくなってきた。

 

前回に続く今回の出来で、私はすっかり橘さんのファンになってしまった。プログラムで紹介されている次回と次々回のコンサートには登場されないようだけれど、またどこかで聴けるだろうから楽しみにします。

会場を出ようとすると出口付近で、演奏を終えたばかりのその指揮者が「どうもありがとうございました。」と帰る客に笑顔で挨拶をしていた。あの有能な指揮者がこんな近くで!? 近寄って握手したり「素晴らしかったですよ。」などと言えば良かったのに、ここでもやはり気後れが先に出てしまい通り過ぎてしまったのである。しかし一層親しみが湧いたのは確かで、少なくとも彼の活躍と躍進を祈りたくなった。

 

それからベトオケさんへ、こんな素晴らしい音楽会を無料で聴かせてくれてどうもありがとうございました。

副題: 王位継承と五世紀の東アジア

 

この本では倭という国が半島にプレゼンスを保ち、当時は何度も兵を送って戦をしていたことを定説として受け入れている。私の記憶では、半島側の研究者はそういう事実は無かったと言っていたのだが、この問題はすでに決着しているのだろうか。この本では南下を図る高句麗から半島南部の鉄鋼資源の利権を護るために百済を支援し、新興の新羅を(牽制のため?)攻撃したとしている。

 

高句麗の強大化に伴う半島情勢の緊迫化と興亡が激しかった中国王朝。この流動的な東アジアの辺境で、倭も中国王朝の冊封を受けるべく使節を派遣し、官爵を授けられる形で存在を認められた上で、半島の勢力と交渉をもったそうだ。

 

中国史料を読み解くと、当時の巨大古墳群が造られる地域の変遷も考え合わせることで、五王の時代の倭の王権の権力構造も垣間見えてくるとのこと。のちの代に編纂された古事記・日本書紀の記述とこの中国史料を読み合わせることで、「記・紀」が何を隠し何を主張したかったか浮かび上がってきて興味深かった。

 

五王が大和朝廷側による系譜のどの天皇に当たるのか。著者は数個の現在有力な説を挙げ、それぞれに対し問題点を指摘して吟味し、大体がどのあたりの代の天皇、とは言えるものの、はっきり断定することはできない、としている。

私はべつに歴史フリークではなく、今現在で当時のことがどのくらい分かっているのかな、という興味からこの本を読んだ。そのレベルの私であるから、いろいろと説を挙げては紙上で詳細検討を繰り広げるというスタイルのこの本は、読み終わってみればそれなりに面白かったのだけども、それにしても少々難しかった。

ISPは"Innovation in Sounds Philharmonic"という正式楽団名の略

 

11月10日19時10分開演、大田区民ホール・アプリコにて

指揮: 田中健

演目: 「ジュピター」、「威風堂々」全5曲、組曲「火の鳥」1919年版

 

開場時間の10分ほど前に会場に着いたが、開場を待つ人の数が少なかった。人数は演奏会場に入ってからも少なめで推移。私はこれに対し、これまであちこちのアマオケを聴いてきた経験から考えると、上手な演奏をする団体なのではないかと推測した。舞台から10列ほどの客席はかぶりつき席を除くとほぼ空席。2階以上を閉め切ったうえでの一階席は全体で5割前後の入りだったろうか。そして推測は当たり、演奏は大いに楽しめた。以前に「もったいない演奏会」として紹介した体験の時と同じになった。

 

「ジュピター」は意表を突くようなゆったりしたテンポとソフトな歌いまわしで始まり、指揮者の意図が行き届いた、統制の取れた演奏だった。エルガーのマーチは聴き慣れた第一番こそうきうきしたものの、同じ作曲家のマーチを5曲連続で聴くと少々辛かった。しかし最後の火の鳥はメリハリが聴いており、この日で一番感銘を受けた。これまでに聴いた何回かの演奏で私が持っていたこの曲の印象を、良い方向に更新して頂けた。恐らく一番練習されていたのでは。もちろん指揮が的確だったこともあるのだろう。

 

この楽団の変わった名称は、音楽を通して新しい「価値視点」を実験する楽団であることに由来しているらしい。演奏会は練習成果を発表する場ではなく、聴衆とともにホールに響く音楽と緊張感を共有し、最後の「実験」をおこないたい、と語る団長挨拶を読むと姿勢が見えてくる。この団の新しい価値視点とは、アマオケの中で「当たり前」と言われる事に対し、新たな角度からの視点(着想)を指し、実験とは失敗も考慮の上、着想を行動に移すことを意味します、とも書かれており、どこか不明瞭ではありながらも、とても結構な姿勢である、と共感を覚えた。今や形式化、硬直化が見られるクラシック音楽の演奏会の在り方に一石を投じるものであるから、今後も発信を続けていただきたいと思った。アマチュアだからこそ発信できる事柄に違いない。

但しこういう考え方が演奏の醸し出す響きに反映されていたとは思えないし、この日の客の入りと無関係であって欲しいとも思う。

 

開演前の舞台に団員が三々五々現れ思い思いの練習をする。そして舞台に照明が当たると静まり指揮者が出てくる。これは他の演奏会でアメリカンスタイルと呼ばれていたように思うが、緊張の本番に突入する前の良い前段階ではないかと感じた。これが新しい「価値視点」なのかな。

 

アンコール無し、というのもはっきりしていて良いのではないか。但し、これには聴衆側の主体的反応も要請されるだろう。良かったのならそれに応じて称賛する、それほどでもなかったらさっさと拍手を止めて席を立つ。こんな感じになったらいいな。あわよくばもう一曲聴けるから、と思って形式的に最後まで手を叩き続ける習慣は無くなって欲しい。

日曜日は東京理科大学管弦楽団第59回定期演奏会を聴きに森のホール21(松戸市文化会館)まで行ってきた。

指揮: 川合良一

演目: 「魔笛」序曲、ベートーベン7番、シューマン「春」

 

これまで週末を迎える毎に手元に溜まったチラシをめくり、どの演奏会に行こうかと考えてきた。この森のホール21での演奏会も何回か私の最終候補のひとつに残ったのだけれど、結局最後は他の候補に負けてしまうのだった。その原因は交通費。会場最寄り駅の新八柱駅には乗り換えなしで行けるから所要時間は大して掛からないのだが、JRは距離が遠くなるとどんどん高くなる。新八柱は我が家から横浜に行くのと同額だった。

先日クラシック音楽好きの方のブログ記事を読んでいて衝撃を受けた。その方は毎日のように演奏会に通っておられるのだが、入場料1万円以下の席のことを「安席」と呼んでいた。 「どんだけー!」 こちらはその安席でさえ年に数回しか聴きに行けないんだどー! (と言っても、他にも金の掛かる趣味が私にはあるし、高い演奏会が即良い演奏会であるとも限らないのだが) このことを思うと、公共交通で行ける範囲でさえケチってるのが少々情けない。でも遠い演奏会場に行く時はいつでも考えてしまう問題だ。毎週末(時には連休の時も)複数回あちこち出掛けるとなれば無職の財布には堪える。

 

そんなことを言いながら今回出掛けて行ったのは、チラシを提示すれば入場無料にしてくれる演奏会だったからだ。

駅から徒歩15分と書かれていた距離は、平坦で人通りも少なく、全然苦にならなかった。

 

最初の魔笛序曲を聴き、縦の線が揃った気持ち良い演奏だと感じた。賛助出演者の数がごく少ないのにこれだけ演奏できるとはねえ。やはりアマオケは学生オケの方が社会人のより上手いのかな、練習が積み易いのかな、などと思いながら聴いた。次のベートーベン7番を聴いていても同様で、楽器群間のバランスもいいし、管楽器の音が抜けてしまう頻度も他より少なかった。こういう演奏を無料で楽しめるとは何とも有難いことだ。

 

ベートーベンの7とラストの「春」は私にとってまだ良さが分からない曲であり、今回の演奏会でも「おー、こんなに良い曲だったか。」と思い直すようなショックは受けなかった。「またこのフレーズの繰り返しか」と思うとついうとうとしてしまうこと数回。それでも生演奏を聴くと得るところが多くて、例えば7番のスケルツォのトリオのところ、ホルンが経過句的な付点のリズムのフレーズを楽器の最低音付近?で辛抱強く繰り返すのを発見してちょいと感激。あれだけ低いと音程を取りにくいだろうな、目立つ箇所が延々と続くのによく頑張っているな、と思いながら聴いた。こういう発見は楽曲鑑賞に意外なほど効果的だ。昨晩聴いた7番の録音(N響4月25日の実況中継を録っておいたもの)でも、同じ個所に来たらそのことを思い出した。しかしそれは他のメディアで流れるものと同じく、ホルンの音だと気づかないほど地味で「背景」音に徹した演奏だった。

 

演奏会の感想は以上ですが、ここ数か月で7番の気に入った演奏に二つ出会えたので、ついでに書いておきます。

一つはアンドレ・クリュイタンスとベルリンフィルの演奏。とても遅いテンポで曲の魅力を引き出しており説得力に富む。FM放送で聴いた時に録音も気に入ったので中古CDを購入したところ、新技術でマスターから拾い出した音質の良さにも驚くことになった。

もう一つは本文にも書いたN響の演奏。指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットの醸し出す音楽は早めのテンポであり、前のめりにぐいぐい突っ込んでいくドライブ感が素晴らしかった。それを粗野にならず上品に演奏してしまう楽団の力量も凄いと思った。

 

さて来週末はどんな演奏に接することになりますか、、、

この日の一~二か月前に、頼んだ覚えのない招待のメールが届き、聴きに行った演奏会。
入場の際頂いたプログラムによると、「大田区民ホール・アプリコ開館20周年記念事業 大田区アマチュアオーケストラの祭典 2018」という趣旨の会であり、松井雅司指揮大田フィルハーモニー管弦楽団に二つの合唱団、一つの児童合唱団、それに二期会と藤原歌劇団からソリストが加わっての祝祭色溢れる演奏会だった。

実はメインのカルメン抜粋より前ステージのアルルの女第二組曲を楽しみにして行ったのだけれども、これはある出来事により集中して聴けない状況となり、楽しめなかった。残念! 何が起きたのか。開演5分前を知らせるベルが鳴っても自分の席に戻れなくなったご婦人が、演奏が始まっても通路を前に後ろにうろうろし続けたのだった。とても真剣に席を探していて、こういう状況で迷子となり彷徨ったら後日必ず悪夢にうなされるだろうなと思ったものの、こんなことは初めてであり、周りの人も大いに戸惑っただろう。組曲最後のファランドールの時にご婦人は私の横を通り過ぎ後方に上がって行き、私はようやく音楽に集中することができ、この組曲のクライマックスだけは何とか楽しんだ。

休憩時間に会場係に付き添われて席探しを続けていると、もう一つの通路の方から「こっち、こっち!」と手が振られ、ようやく迷子は席に戻ることができた。

 

思うに、あのような状態になって演奏が始まってしまったら、席探しを諦めて外に出るべきだったのではないか。彷徨中に会場係が(居なかったから?)何もしなかったのも問題だ。入場無料の演奏会でなかったら相当なクレームが出ただろう。

 

カルメンは通常の演奏会のようにオケと合唱が舞台に配置され、ソリストはオケと合唱団のど真ん中に作られた3mほどのスペースで演技し歌うというスタイルで演奏された。ほぼ演奏会形式の上演に近い形だ。抜粋とはいえさすがはカルメン。次から次へと繰り出される美しいメロディーに癒された。歌劇全体の筋を知らなければ曲と曲の関連が分からなかっただろうと思うけど、当初縦の線が揃っていなかったオケの演奏も次第に気にならなくなり、ついにはカルメンの悲鳴に巻き込まれたように劇的フィナーレとなった。正直なところ玉石混淆の異色の演奏会だったけれど、ビゼーの天才性に感動することができたのだからありがたかった。