7月22日(日)に、日野市消防団ポンプ操法審査会(ポンプ車の部)が、市民の森ふれあいホール駐車場で行われました。

 

 

日野市の消防団は8分団あり、各分団のポンプ車配備されている部、全8チームが大会に出場しますが、第1分団は第1部がポンプ車をお持ちのため、夜間や休日も練習で大変です。

我が第1分団第2部は、充水係担当のため、歩道にある消火栓から6本のホースを繋いで、会場にお届けする役目です。

 

 

消火栓のある歩道を通る自転車や歩行者の皆様に、足元の注意を喚起し誘導するのも役割ですが、なにしろ当日は気温37度くらいなので、熱中症対策もしなければなりません。

こんなに暑いと、出場選手も汗だくで大変だなぁ...

 

 

大会は9時から12時50分までですが、ポンプ操法終了後は即ホース6本を積んで詰所に戻り、即ホースを干して、即お昼を食べました。

この片ずけの速さが、消防団で日頃培った鍛錬の成果ですかね。

 

干した6本のホースも3日後には、ホース巻き器でぐるぐるやって即収納です。

 

 

 

 

 

福子倶楽部会員の羽生(はぶ)家ツアー、いよいよメインの屋敷見学です。

 

バスに乗り遅れた分際なのに、傘をさして歩くこともなく羽生家に先に着いてしまってゴメンなさい。

羽生家に着くと三階建の大きな蔵と大きな門が見えます。その大門の前にバス停から3分ほど歩いてきた皆様も揃いました。(この門が本当にでかい!)

 

 

羽生謙五さんも出て来られたので、福子が先ずお墓参りをしたい旨を告げると、了解されお墓へ案内してくれました。

 

清源寺の横をすぎ、奥の奥に羽生家のお墓がたくさん並んでいました。

羽生さんが説明を始めると福子がお酒を手前にあった羽生家のお墓に供えましたが、そこが上羽生家とは限らないので、まだ早いんじゃない?というと案の定、他の羽生さんの墓でした。

 

並んだお墓の正面中央が、羽生家初代伊賀守夫妻と二代目大膳夫妻(両家共通)の墓標で、右が上羽生家、左が中羽生家のお墓だそうです。夫婦一代ごとに歴代お墓を建てているようです。

 

羽生さんのご説明の様子。

彦五郎らを匿ったときの当主、14代羽生傳蔵さんのお墓にお酒を供えました。

 

 

お墓を後にして、油屋地蔵尊では絵馬などを交え、ご説明がありました。

 

天然記念物の「ヒメザゼンソウ」探しでは(これは本当に探すのが困難)諦めかけたとき、Kさんが見つけ次から次に見つかりました。さすがKさんです!

 

中羽生家も長屋門から中へ入って説明を受けました。

 

そんなこんなで、ついに上羽生家の中へご案内されます。

正面の大門は普段使用しておらず、通用門から入りました。

 

屋敷の東側にある通用門

 

蔵が6戸前もありますが、明治15年、大久野村一体が大火事になった時、残ったのが蔵だったことから「大事なものは蔵へ」という習わしになったそうです。

 

 

 

米蔵と味噌蔵を開けていただきご説明がありました。

 

奥へ奥へと裏庭の方へ行きましたが、とにかく敷地が広いのです。東京ドーム半個分はありそうです。

 

ガス灯跡

 

三階建の蔵

 

主屋の西側には書院があります

 

門の内側です。

 

大門のところでは、せっかくだから開けましょうということで、年一回開けるかどうかの門を開けていただきました。

 

 

開いた門から屋敷内

 

とにかく人間と比べても、かなり大きいことが分かります

 

小雨がぱらついていましたが、門から見る屋敷一帯を見ながら、「雨の風景も色が際立っていいものですね...」と羽生さんが言われました。

ああ、今日は雨で良かったんだぁ、、、という気持ちに即なりました。(^ε^)♪

しっとりとした雨の情景に感謝!です!!

ただ、また見学させてもらえるとすれば、晴れでお願いします(_ _。)

 

 

主屋の正面玄関から座敷に入れていただきましたが、中を見せて頂けるとのことでしたが、上げて頂けるとは思ってなくて驚きと感激でした!

立派な書がいくつかあって、これが何々の書です...と説明はあったものの、無知過ぎて、分かったのは、三条実美の書だけでしたあせる

襖も豪華で説明を受けましたが、金屏風、金に漢詩書の襖、金に墨絵の襖、春夏秋冬が描かれた襖、どれもこれも素晴らしいものでした。

 

さてさて、今回、羽生家が所蔵している「近藤勇の書簡」を見せて貰えるのではないかという話もありましたが、、、

じゃーん!羽生さんが近藤勇の書簡を手に持たれているじゃないですか!

和紙の包みから取り出された近藤勇手簡は、当時のままの状態で保存されていました。

 

 

これを広げてくださいと羽生さんからのお言葉があり、皆さんが「それなら福子さんしかいない」ということで、広げることに。

この手紙のやり取りは、150年経った名主同士の子孫ですが、幕末にタイムスリップしたかのようでした。

 

手紙を広げたとたん、あちこちからカメラを持った手が出てきて、シャッターを切り始めました。

近藤勇の手紙を、ガラス越しではなく直に、許可も得ずに勝手に撮るなんて、なんと贅沢なことでしょう?

こんなこと有り得ないと心で叫び、僕もシャッターを切っていました(笑)

 

近藤勇の手紙と書き添え。下の書は当時、羽生家の方が書いて残したものと思われます。

「関東之魁傑近藤勇手簡」と書き添えてあります。

 

当家の伝承では、勝沼戦争で惨敗し、日野に戻ってすぐ新選組関係の文書類を手分けして持って逃げたとありますので、混乱した中、彦五郎が羽生家に置いていったものとされておりますが、多くの説が『羽生家に潜伏していた時期があったことから、近藤勇の書簡を預かっていた彦五郎が、置いていったものと推定される』とあります。

なぜ近藤勇の手紙を羽生さんに預けたと思われますか?の問いに羽生さんは、

羽生家も同じく、徳川に準ずる幕府側でしたので、「(羽生家が)口が固かったからと考えられます」ということでした。

明治15年、大久野村大火災の時も守られてきた近藤の手紙です。

新選組の文書は、幕府側の羽生家にとって、また佐藤家にとっても処分などできない、大切なものだったのですね。

 

この手紙の宛名は、「三浦休太郎様 近藤勇 机下」とあります。

 

三浦休太郎とは、坂本龍馬を暗殺した中のひとりとして考えられました。その仇をとるのでは?と三浦は命の危険を感じ、会津藩を通じて新選組に警護を依頼します。

これじゃあ、何のことやら分からないと思いますが、「いろは丸事件」「天満屋事件」をキーワードに探してみて下さい。

 

手紙の主旨は、伊東甲子太郎が新選組と分裂したあと、斎藤一を間者として伊東の御陵衛士に潜入させました。近藤勇、土方歳三の暗殺の情報を得ると御陵衛士を脱走し新選組に伝え、名前も山口二郎と変えました。二郎は三浦休太郎の警護として潜伏しましたが、近藤勇も伊東甲子太郎一派の暗殺を目論み、事情も知り、腕の立つ二郎を断りもなく引き取ったことへのお詫びの手紙です。

 

羽生謙五さんと近藤勇の手紙

 

羽生家訪問は、念願でもありましたが、羽生謙五さんのご好意で、夢のような時間を過ごさせていただくことが出来ました。このような機会を持たせて頂き感謝申し上げます。

 

 

※帰り道だったので、彦五郎一行が羽生家に案内される前に立ち寄った二宮村に行くことになり、希望者4名と五日市線の武蔵五日市駅から列車で東秋留駅へ。

ここに二宮神社と井上才一の天然理心流の碑があります。

 

 

 

 

7月1日(日)開館日、

2018年、ひのパレのミスター土方さんが来館されました。

受付で、あれ?土方歳三??と思い、訊いたら、やはり土方歳三ご本人でした。ニコニコ

 

ミスター土方の時は、隊服のせいもあってか雄々しくて背も高い印象でしたが、ご本人は女性らしい綺麗な方で、背も思ったほど高くなくて、161センチだそう、、、

他のお客さんも、「女優さんみたいだ」とか、「もっと背が高いと思った」とか言ってました。

ブーツは26センチもあったので、中敷を入れたりして少し高くなったそうですが、歴代のミスター土方では一番背が低かったとのことです。

コンテストでは最後の4人に絞られてからも、まさかミスター土方に選ばれるなんて思ってなかったようで、決まった時はびっくりだったそうです。

 

まつり当日、パレードは例年は2周ですが、「雨のため1周だけで中止になってしまったことが本当に残念だった」と言ってました。

資料館の前をパレードしてくれるので楽しみだっただけに、こちらも残念でした。ショック!

 

 

 

今日は、コンテストの隊士役の皆さんと沖田総司忌に参加してから、別行動で日野まで来られたそうです。

ありがとうございます!

 

昨年のひの新選組まつりでは、沖田総司役を射止めて、その後、隊士役の皆さんと当資料館にもご挨拶に来られましたが、その時もギャップがあったことを話すと、沖田総司役の場合、メイクさんが可愛いイメージで仕上げることになっているらしいです。

「沖田総司」と「ミスター土方」両方選ばれるなんて、すごいですね!

 

 

遠くて大変かと思いますが、機会があったら、隊士役の皆さんともまたご来館ください。

 

 

明治2年5月11日は、新暦1869年6月20日。土方歳三の命日です。

 

 

新暦に替わったのが、明治6年元日からとなりますが、

旧暦の明治2年5月11日、1869年6月20日が土方歳三の命日にあたります。

歳三の最期の時、また市村鉄之助が脱出したのもそんな季節だったので、

函館に居ると、より肌で感じられることと思います。

初夏の函館は、とてもいい季節です。

 

歳三の命を受け、市村鉄之助は箱館五稜郭を脱出、船の中で出航を待つこととなります。出航したのが6月20日過ぎになります。

中島登の記録には、市村鉄之助、行方不明とあります。

 

数日かけての航行で、6月末に横浜に着いたと思われます。

到着後、間もなく質屋に立ち寄ったという記録があります。

当時、目的地に行くのも簡単ではない筈です。身を潜めながら佐藤家までやってくるとなれば、数日は要すると思います。

 

佐藤家に着いたのが、新暦の7月3日との説があります。

この時期は梅雨の真っただ中。

鉄之助は、歳三の命を受けて持ち運んだ遺品・・・写真、遺髪、刀、書き付け・・・

「使の者の身の上 頼み上げ候 義豊」

いつもの署名、土方歳三ではありません・・・

そして戦況を伝える手紙は書いていませんでした。

 

 

賊軍となってから、筆まめだった歳三が、そこから手紙を一切出さなくなりました。

父母のように慕った彦五郎やノブに、いらぬ嫌疑がかかってはならないと、証拠に残る手紙を書けなかった。何をやらせても、そつなく出来た歳三は彦五郎、ノブへの配慮も忘れませんでした。

北へ向かう会津、仙台、箱館。もっと手紙を出したかったことでしょう。そんな歳三の気持を考えると可哀想だったなと思います。

歳三の一番大切な身内への心遣いは、市村鉄之助に伝言としてもたらされました。

 

「われ、日野佐藤兄に対し、何ひとつ、恥ずるべきことなきゆえ、どうかご安心を」

 

 

 

 

旧暦と新暦、その年によって、多少の誤差が生じます。

例えば、歳三が生れたとされる天保6年5月5日は、1835年5月31日となります。

 

歳三の命日は、東京(当時、多摩辺りは神奈川県)では梅雨の時期だったなんて考えてみて、当時へ思いを馳せるとより実感できるかもしれません。

 

旧暦と新暦を調べて、あの時は現在ではこんな季節だったのだな~なんて考えてみると、おもしろいものです。

 

当家は、歳三のすぐ上の姉ノブの直系の子孫にあたりますが

弟思いだったノブでしたので、市村鉄之助から歳三の戦死を知らされた時のことを思うと、なんと忍びないことか。

歳三の冥福をお祈りいたします。

6月10日(日)

羽生家ツアーを行いました。

 

 

 

10時に福生駅に集合。

小雨の中、バスで「塩沢秋川霊園」まで向かいました。

ここでは、「塩澤山寳光寺」と「鹿野大仏」を見学します。

 

入口にある立派な総門から、たくさん羅漢像の並ぶ坂を登り、立派な階段を上がると立派な山門が。

山門をくぐると立派な庭園と立派な梵鐘があり、正面には立派な本堂があります。

この立派なお寺を抜けると山の上には、立派な大仏があります。

みんなバランバランとまとまらずに緩やかな坂道を登ってゆきます。

 

(わかりにくいですが、両側に羅漢像が2〜30も並んでいます)

 

(大きな山門。両側に仁王像みたいな像が。裏側には2体ずつ)

 

(カエル像。この梅雨の時期は欠かせませんね)

 

(結構でかい鹿野大仏)

 

さて、早く着いた人はいいのですが、タラタラ登ってきた人はゆっくりできずに、雨の大仏もみんなで集合写真を撮ったらそこそこに、バス停まで一気に下ります。

 

(寳光寺の横道を下ってバス停に向かいます)

 

バス停に戻ると、今度は「武蔵五日市駅」まで一気にバスで進みます。

 

ここで予約していたレストランに入りましたが、人数分のテーブルがセットしてありました。

ここは、ランチがスムーズに済むように、事前に「薬膳カレーライス」と「ホワイトオムライス」の2種に絞り、いずれか希望をとって予約しておきました。

僕の予想ですと、

12:00に18人が席に着く→12:05にすぐ料理が運ばれてくる→12:06食べ始める→12:30食べ終わる→ヒマを持て余す→12:50バスに乗る→13:00バスが出るというシナリオでした。でも実際は違いました(-_-;)

 

 

 

僕は奥の端っこに座り、右隣がSさんで向かいが清水先生でした。

Sさんが「羽生家の敷地は広いんでしょう?」と訊いてきたので

「はい、だいたい東京ドーム3個分くらいです」と言うと

向かいの清水先生が「ええー、そんなに広いの?」と驚きの声。

むむ、この冗談、キレが悪かったのか?反省いたしました、、、(~_~;)

 

さて、駅前のレストランなので、道路を渡った3番バス停で13時発のバスに乗ることになっていましたが、乗り遅れが2人でました。

先の僕の予想とは違い、18人分、サラダと小さなスープが既に用意されており、また違うスープが運ばれ、先にカレーが運ばれましたが、カレーも12人分だと時間がかかります。その後、オムライスが運ばれ、食事が終わった人からそれぞれに、好みの飲み物が運ばれましたが、コーヒーがなかなか来ず、僕にコーヒーが運ばれたのは12:45くらいでした。予定だと『ヒマを持て余す』がそろそろ終わる時間です。

50分くらいから、トイレに並び始め、会計が並び始め、バス停にも並び始め、もう13時前なので「皆さんバスに乗って、大久野中学校バス停で降りてください」と告げ、レストランを見たら、遅れ人待ちの福子と遅れの2人がいました。

 

その後、4人はタクシーで羽生家へ向かいました。

バスを降りて雨の中、羽生家に向かって歩いている人たちを、タクシーは追い抜いて行くのでした。スミマセン💦

 

甲陽鎮撫隊は甲州勝沼の戦いで官軍に敗れ、共に戦った日野農兵隊(春日隊)を率いた隊長・佐藤彦五郎は敗走し、日野に戻るも官軍に命を狙われてしまいます。

彦五郎は妻・ノブと女中の娘に末娘・トモ(5歳)を背負わせ、尼僧寺「大蔵院」に匿われますが、追ってに知られてしまい、間一髪、闇の中を逃走し、二宮村の茂平宅に身を寄せました。

その後さらに、茂平の案内で大久野村の羽生家に身を隠しました。

 

今回の経路は逆になりますが、羽生家から武蔵五日市駅へ行き、お昼が予約できるお店を探しました。人数も15〜6名くらいかなと予想して。

武蔵五日市駅からバスで2つ目の停留所の近くにある、福子の提案で新聞にも紹介されていた塩おむすび定食のお店へ行きましたが、おむすび?っていうのとキャパが無理そうかなというので、他を探しました。

 

 

武蔵五日市駅から徒歩4分くらいの、寿庵「忠右衛門」は、裏に茅葺の別棟がある雰囲気のある蕎麦屋で、ちょいと粋に地酒と蕎麦をすすりたいところでしたが、懐石コース料理のみ予約可ということで、別のお店へ。

 

 

観光案内で聞いて、他にも5〜6軒当たりましたが、なかなか予約の出来るいいお店がなくて、結局、駅前のお店を予約することにしました。

 

 

さて、彦五郎らが立ち寄った二宮へ逆のコースを辿ります。

ここからは、また別の日にちょこっと行きました。

武蔵五日市駅から、五日市線「東秋留駅」で降りると、近くに二宮神社があります。

ここに彦五郎らが訪れたかどうかわかりませんが、当時は家も少なかったことでしょうし目立った存在だったと思うので立ち寄ったかも。

 

 

 

 

神社近くには、この地に心武館を開いた天然理心流・井上才市の碑があります。

 

 

二代目近藤三助の後、近藤周助〜近藤勇の近藤系とは別に、松崎系の松崎正作〜松崎和太五郎〜井上才市が継承します。

井上才市は心武館を開き初代に。

そういえば、五日市線「東秋留駅」から二つ目の「拝島駅」に行くと、拝島大師がありますが、そこに井上才市が大正2年に天然理心流奉納額を納め、98年後、平成23年(2011年)に新たな天然理心流奉納額が納められました。その奉納額に賛助員として佐藤福子の名が刻まれています。

 

 

 

またここには、自然の魅力がたっぷりの遊歩道があります。ウォーキング・コースも「かたらいコース」とか「汗かき鍛錬コース」とか色々あるらしいですが、彦五郎らはたぶん「汗かき逃走コース」だったと思います。

ここから、茂平の案内で羽生家に向かいました。

ただ、ここで気になったのですが、末娘トモを背負った女中の娘さん。トモは満4歳かと思いますが、日野から大蔵院へ、さらに真っ暗な尾根道を逃げ二宮へ、さらに羽生家へ、女中さんがずっとおんぶ紐で背負って、逃げて行ったのでしょうか?それとも強靭で足腰も強かったであろう彦五郎が「お前も大変であろう。ここはわしがトモを背負っていこう...」と男気のある優男だったのか。

とにかく十代の娘が4歳の子を背負って、日野から羽生家まで逃げていったらヘロヘロになります。

 

「東秋留駅」から隣の「秋川駅」に戻り、八王子方面のバスに乗って「バス停・戸吹」で下車するとすぐそばに、桂福寺があります。

 

 

このお寺には、天然理心流の開祖近藤内蔵之助と二代目近藤三助の墓が、屋根付きであります。

 

 

 

屋根付きお墓の左奥には、奉納額がありました。

 

大仏〜羽生家〜今回の二宮、桂福寺と、だいたい、以上のようなところを見てきましたが、全てまわるのは当日は時間の関係もあるので無理かと、、、

もしかしたら羽生家で何かあって3時間くらい滞在になってしまうかもしれないのです。

 

 

寳光寺、鹿野大仏のある平井地区から西に進むと「日の出町大久野」があります。

元々「大久野村(おおぐのむら)」というところでしたが、平井村と合併して日の出村、現在は日の出町となりました。

 

羽生というバス停があり、少し先の脇道を入っていくと羽生家がありますが、そのまま行くと秋川街道にぶつかり、左に進むと右に山小屋風の「きりんかん」という喫茶店があります。

ここで偶然、近所の材木屋?のおじさんが自作のバイオリンで演奏してくれました。

 

さらに進むと和菓子の「幸神堂」があります。ここに「ロンヤス饅頭」が売っていました。

ロンヤスとは、アメリカのレーガン大統領と中曽根総理大臣のこと。

ロンとはロナルド・レーガンの愛称らしい、、、そういやぁ昔、うちにロンという犬がいたな、、、

かつて日の出町にあった中曽根総理の別荘「日の出山荘」で、ロンとヤスが日米首脳会談をしましたが、ロンヤス会談と言われ、それを記念して作られたのが幸神堂の「ロンヤス饅頭」です。

しかし、ここでは団子を食べました。

 

 

さらに進むとログハウス造りの「大久野郵便局」。外観は「きりんかん」と似たような感じです。

中に入ると普通の郵便局で、特に暖炉があるとか、鹿の頭が壁に飾ってあるとか、そういったこだわりはないようです。

 

 

郵便局の駐車場の奥には、白い洋館があります。元郵便局だったそうで、現在「星宿Cafe」となっていました。

入口のドアには、金曜日OPEN、ランチ&ケーキセットとプレートがかけてありました。

この日は火曜日で閉まっていましたが、金曜日だけ営業するということかな?

 

 

さらに進むと、幸神の信号を斜め右に入り進んで行くと、理容所美容室100選に選ばれた「藤太軒理容所」があります。店内も昭和の佇まいだそうで、昭和3年開業、建物は築90年経ちます。ここは店の前が工事中だったためか休業でした。

 

 

 

「羽生家(上羽生家)」

代々名主を務めていた羽生家。官軍に追われた彦五郎、ノブ、女中さんに背負われた末娘トモが羽生家に潜伏しました。

一ヶ月後、佐藤家一家差し構えなしと許されて戻りましたが、そのとき、置いていったとされる近藤勇の手紙が羽生家に所蔵されています。

 

 

隣が「中羽生家」と呼ばれているそうで、長屋門がありました。

 

 

そのまた隣に「羽生人形店」があり、その向かいには「ヒメザゼンソウ」そいう珍しい花が見られるそうです。

 

 

しかし、探したけど分かりませんでした。

 

次回は、武蔵五日市駅方面へ

 

先日、今、話題となっている寳光寺の鹿野大仏(ろくやだいぶつ)に行ってきました。

 

そういえば、金閣寺に行った時、鹿苑寺(ろくおんじ)って寺名が大きな石に彫ってあって、え?金閣寺は鹿苑寺っていうのが正式名称なの?って思ったけど、この時、鹿を「ろく」と読むことを学んだのでした(°∀°)b

 

鹿野大仏は多摩大仏とも云われるらしいですが、今年の4月に公開となったとのことで、知り合いのお爺さんももう既に行きましたと言ってました。

平日でしたが、結構見物客も来られてました。

 

行ってみると、思っていたより大きかったのです。この「思っていた」がクセ者で、奈良の大仏は、自分の中で「でかい!」という前評判がインプットされすぎて、いざ見てみると思っていたほどではないなぁ...となってしまうのですが、鹿野大仏には期待感ゼロだったせいか、大きくみえました。

 

 

ちなみに仏像自体の高さは、奈良の大仏は約15メートル(台座が3m)。鹿野大仏が約12メートル(台座が6mで全体で18mは奈良の大仏とほぼ同じ)で約3メートルの差、さすが修学旅行でも定番の奈良の大仏だなぁといったところでしょうか。

さらに鎌倉の大仏が約11.3メートルで、座像仏では、僅かの差で鹿野大仏が第2位ということだそうです。

高さの誤りや他に座像で高いのがあったらゴメンナサイm(_ _ )m

 

小学生の修学旅行では、ここも定番なのか鎌倉の大仏に行きました。

ああ、そうか、奈良も鎌倉も歴史のある町、古都ということで修学旅行の定番になり、その中に象徴的な大仏というものがあるから、見学ということになり、その前で集合写真ということなるんでしょう。奈良の場合、大仏を収めた東大寺の前だったけど、鹿も集合写真に参加していました。

 

鹿野大仏を作る時、鎌倉の大仏の高さを意識したんでしょうねぇ、、、たぶん

ただ修学旅行で見学となると、少ないかも知れません。

 

 

なにやら太陽の光が射して、神々しい大仏です。

 

 

 

手前にある寳光寺を上がっていくと、たくさんの石仏が並んでいます。

山門は結構立派で、両側には金剛力士像みたいなのが二対ありました。裏側にもいくつか仏像があります。

 

 

 

 

山門の向こうには本堂があり、左側に梵鐘など。

 

池のある庭園もあって、ちょこちょこ見せ場があります。

 

次は羽生家です。

 

 

 

 

2018年5月13日(日)ひの新選組まつり本番でした。

 

ひの新選組まつり2日目

さて、一夜明けた「まつり」の2日目ですが、

今日は、テントも昨日組み立てたままだったので、もう安心!

 

そんなこんなで、朝からクッキーに貼るシールを作っていたら、開館1時間も前の9時頃、サインを求める方々が並び、また書き始めました。

御朱印を書いていたら、ライブが行われる第一小学校から、リハーサルなのか歌声が聞こえてきて、いよいよ新選組まつり本番の雰囲気が盛り上がってきました。おねがい

 

 

長女(パティシエ)が焼きました!

 

朝一番で、中島登ご子孫・中島岳大さんご兄妹が来館されました。

中島様には、お父様もそうですが、いつも大変お気遣いいただいております。感謝申し上げます。

(中島岳大さん、館長、岳大さんの妹さん)

 

 

その後、沖田総司・姉ご子孫が来館されました。

(沖田総司・姉ミツさんのご子孫ご家族と。右端は歳三・姉のぶの子孫、福子。姉の子孫同士ですね)

 

しかし、今日も昨日同様、朝から御朱印書きばかりで、午後のパレードもほとんど見られなかったのですが、館長はパレードの隊士たちに手を振ったりしていたようです。

 

 

 

 

 

(パレード画像は、福子倶楽部会員の方からお借りしました)

 

僕の予想より早く14時頃から雨も降ってきましたが、やっとのこと一小の特設ステージへと、雨中のさくらゆきライブを観にいきました。

うちの女性スタッフに小栗さくらさんに興味のある人がいて、午前と午後の両ステージとも観たい!ということで、午後のステージも既に観に行っていました。

結構な雨だったので、僕が傘をさして特設ステージに行ってみると、傘もささず、雨の中、熱心にライヴを観ているスタッフの姿がありました。

 

いやぁ、小栗さくらさんに興味があるとは聞いていましたが、ここまでのファンとは知りませんでした。

 

さくらゆきのお二人も、雨に濡れて熱唱しておりましたが、やはりガチファンとしては「さくらゆきさんと同じようにびしょ濡れになりたい!」という純粋な気持ちだったんでしょうねぇ。頭が下がります。

びちょびちょに濡れながらも応援する姿は美しく、心打たれるものがありました。

ファンの鑑とはこういうことを言うんでしょうなぁ・・・

まさに雨も滴るいい女でした。

 

 

(涙をさそう朗読)

(ファンも一緒にノリノリ!)

(結構強めの雨にも拘わらず、笑顔で熱唱するさくらゆきの二人。感動に涙するファンも!)

 

資料館に戻ると、何かと忙しくて、お昼を食べたのも15時過ぎでした。

結局昨日同様、ほとんど御朱印書きで2日目が終わりました。ああ切ないな...ショボーン

 

ただ、どんどん字が上手くなっていきました!にひひ

 

 

2018年5月12日(土)〜13日(日)ひの新選組まつりでした。

 

ひの新選組まつり初日

初日はスタンプラリーがあるため、うちのテントを提供して、グッズ等の販売のテーブルには、知り合いの方から大きめのテントを借りておきました。

 

今日の福子は、土方歳三忌、隊士コンテストの審査でほとんど留守です。

(今朝は近藤勇・兄ご子孫、宮川清志さんが来館され、その後、土方歳三忌法要、コンテストにご一緒したとのことです。スラッと背が高く体格のよい方ですね)

 

さて、朝早く、テントを持ってきていただいていたので、早速組み立ててみようとしましたが、骨組がバラバラだったので、それを繋げる作業から始めました。

ところがナットが無いのでしっかりネジが止まらず、4人で30分以上も格闘した結果、手を金具に挟んだりして痛い思いをしたにも拘わらず、結局できない!ということになり、持ち主の方に連絡したところ、午後1時にならないと来られないという悲しい返事。

 

今更、スタンプラリーのおばさん達にうちのテント返してとも言えず、娘夫婦はプチ暑い中で販売を始めました。

(1時になって来られましたが、結局、持ち主の方もテントを組み立てることが出来きなかったため、別のテントを持ち主の方々5〜6人の方々が組み立て、販売所に設営して頂きました。皆様、お忙しい中、ありがとうございました!)

 

 

僕といえば、ほとんど筆で御朱印(娘が「サイン会」と呼んでいましたが...笑)書きまくりで、お昼も食べられないという切ない結果に......

やっと4時ころ食べられましたが、テント事件から始まり、サイン会ばかりの全く楽しくない初日が終わりました。ショック

 

ひの新選組まつり_2日目につづく......