福子倶楽部会員の羽生(はぶ)家ツアー、いよいよメインの屋敷見学です。

 

バスに乗り遅れた分際なのに、傘をさして歩くこともなく羽生家に先に着いてしまってゴメンなさい。

羽生家に着くと三階建の大きな蔵と大きな門が見えます。その大門の前にバス停から3分ほど歩いてきた皆様も揃いました。(この門が本当にでかい!)

 

 

羽生謙五さんも出て来られたので、福子が先ずお墓参りをしたい旨を告げると、了解されお墓へ案内してくれました。

 

清源寺の横をすぎ、奥の奥に羽生家のお墓がたくさん並んでいました。

羽生さんが説明を始めると福子がお酒を手前にあった羽生家のお墓に供えましたが、そこが上羽生家とは限らないので、まだ早いんじゃない?というと案の定、他の羽生さんの墓でした。

 

並んだお墓の正面中央が、羽生家初代伊賀守夫妻と二代目大膳夫妻(両家共通)の墓標で、右が上羽生家、左が中羽生家のお墓だそうです。夫婦一代ごとに歴代お墓を建てているようです。

 

羽生さんのご説明の様子。

彦五郎らを匿ったときの当主、14代羽生傳蔵さんのお墓にお酒を供えました。

 

 

お墓を後にして、油屋地蔵尊では絵馬などを交え、ご説明がありました。

 

天然記念物の「ヒメザゼンソウ」探しでは(これは本当に探すのが困難)諦めかけたとき、Kさんが見つけ次から次に見つかりました。さすがKさんです!

 

中羽生家も長屋門から中へ入って説明を受けました。

 

そんなこんなで、ついに上羽生家の中へご案内されます。

正面の大門は普段使用しておらず、通用門から入りました。

 

屋敷の東側にある通用門

 

蔵が6戸前もありますが、明治15年、大久野村一体が大火事になった時、残ったのが蔵だったことから「大事なものは蔵へ」という習わしになったそうです。

 

 

 

米蔵と味噌蔵を開けていただきご説明がありました。

 

奥へ奥へと裏庭の方へ行きましたが、とにかく敷地が広いのです。東京ドーム半個分はありそうです。

 

ガス灯跡

 

三階建の蔵

 

主屋の西側には書院があります

 

門の内側です。

 

大門のところでは、せっかくだから開けましょうということで、年一回開けるかどうかの門を開けていただきました。

 

 

開いた門から屋敷内

 

とにかく人間と比べても、かなり大きいことが分かります

 

小雨がぱらついていましたが、門から見る屋敷一帯を見ながら、「雨の風景も色が際立っていいものですね...」と羽生さんが言われました。

ああ、今日は雨で良かったんだぁ、、、という気持ちに即なりました。(^ε^)♪

しっとりとした雨の情景に感謝!です!!

ただ、また見学させてもらえるとすれば、晴れでお願いします(_ _。)

 

 

主屋の正面玄関から座敷に入れていただきましたが、中を見せて頂けるとのことでしたが、上げて頂けるとは思ってなくて驚きと感激でした!

立派な書がいくつかあって、これが何々の書です...と説明はあったものの、無知過ぎて、分かったのは、三条実美の書だけでしたあせる

襖も豪華で説明を受けましたが、金屏風、金に漢詩書の襖、金に墨絵の襖、春夏秋冬が描かれた襖、どれもこれも素晴らしいものでした。

 

さてさて、今回、羽生家が所蔵している「近藤勇の書簡」を見せて貰えるのではないかという話もありましたが、、、

じゃーん!羽生さんが近藤勇の書簡を手に持たれているじゃないですか!

和紙の包みから取り出された近藤勇手簡は、当時のままの状態で保存されていました。

 

 

これを広げてくださいと羽生さんからのお言葉があり、皆さんが「それなら福子さんしかいない」ということで、広げることに。

この手紙のやり取りは、150年経った名主同士の子孫ですが、幕末にタイムスリップしたかのようでした。

 

手紙を広げたとたん、あちこちからカメラを持った手が出てきて、シャッターを切り始めました。

近藤勇の手紙を、ガラス越しではなく直に、許可も得ずに勝手に撮るなんて、なんと贅沢なことでしょう?

こんなこと有り得ないと心で叫び、僕もシャッターを切っていました(笑)

 

近藤勇の手紙と書き添え。下の書は当時、羽生家の方が書いて残したものと思われます。

「関東之魁傑近藤勇手簡」と書き添えてあります。

 

当家の伝承では、勝沼戦争で惨敗し、日野に戻ってすぐ新選組関係の文書類を手分けして持って逃げたとありますので、混乱した中、彦五郎が羽生家に置いていったものとされておりますが、多くの説が『羽生家に潜伏していた時期があったことから、近藤勇の書簡を預かっていた彦五郎が、置いていったものと推定される』とあります。

なぜ近藤勇の手紙を羽生さんに預けたと思われますか?の問いに羽生さんは、

羽生家も同じく、徳川に準ずる幕府側でしたので、「(羽生家が)口が固かったからと考えられます」ということでした。

明治15年、大久野村大火災の時も守られてきた近藤の手紙です。

新選組の文書は、幕府側の羽生家にとって、また佐藤家にとっても処分などできない、大切なものだったのですね。

 

この手紙の宛名は、「三浦休太郎様 近藤勇 机下」とあります。

 

三浦休太郎とは、坂本龍馬を暗殺した中のひとりとして考えられました。その仇をとるのでは?と三浦は命の危険を感じ、会津藩を通じて新選組に警護を依頼します。

これじゃあ、何のことやら分からないと思いますが、「いろは丸事件」「天満屋事件」をキーワードに探してみて下さい。

 

手紙の主旨は、伊東甲子太郎が新選組と分裂したあと、斎藤一を間者として伊東の御陵衛士に潜入させました。近藤勇、土方歳三の暗殺の情報を得ると御陵衛士を脱走し新選組に伝え、名前も山口二郎と変えました。二郎は三浦休太郎の警護として潜伏しましたが、近藤勇も伊東甲子太郎一派の暗殺を目論み、事情も知り、腕の立つ二郎を断りもなく引き取ったことへのお詫びの手紙です。

 

羽生謙五さんと近藤勇の手紙

 

羽生家訪問は、念願でもありましたが、羽生謙五さんのご好意で、夢のような時間を過ごさせていただくことが出来ました。このような機会を持たせて頂き感謝申し上げます。

 

 

※帰り道だったので、彦五郎一行が羽生家に案内される前に立ち寄った二宮村に行くことになり、希望者4名と五日市線の武蔵五日市駅から列車で東秋留駅へ。

ここに二宮神社と井上才一の天然理心流の碑があります。