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tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

『神様ありがとうございます』
『神様ありがとうございます』
『神様ありがとうございます』


この祈りを祈ると、無条件に涙がでてきます。
理由は分かりませんが、「かたじけない」というフィーリングだと思います。
最初の『神様ありがとうございます』
は、自分の中にすでに存在する神、神性、神意識への感謝。
次の『神様ありがとうございます』
は、自分を導き守っている神霊への感謝。
その次の『神様ありがとうございます』
は、宇宙すべてにみなぎっている力、エネルギー、法則、叡智への感謝。
これを順番に祈り続けているうちに、わけが分からなくなって、ただ『神様ありがとうございます』になります。
理屈抜きに、この祈りはとても深く、高く、シンプルで、いいひびき、真言なのですね

そのままうけいれること
御心のままに、とすべてをゆだねること
この魂
この感情
この想い
この身体
どうぞあなた様のお好きなようにお使いください
、と自分を捨てしまう
私はあなただけを心に住まわせます
どうぞあなた様のみ心のままにお使いください
ただつねに愛に満ちていますように
らくらくと愛を行じることができますように


『 悟りとは、本心と自分とが、全く一つになるということなのであります。
 迷ったり、起こったり、恨んだり、妬んだり、恐れたり執着したりする想念というものを、はっきり自分ではないと、思い定めることなのです。
 自分とは、神と一つである本心そのものであり、諸諸の想念は、過去における自分の迷いの足跡が、今現われて消えてゆく姿である、と思い定めることなのであります。
自分が、自分の創造主であることを知ること、つまり、自分が神の使命達成の一員として、神の世界(天)から天降って、この地上界に神の生命を華咲かせつつある者であることを知ることなのです。
悟り、とは、自己の本心を光り揮せること。生命を礙りなく、生かしきれる状態をいうのです。悟りといっても、種々と段階のあることで瞬間的に、自己の本心を現わしたり、生命を生かし切つたりすることも、悟りでありますが、常に変りなく、本心そのままで生きぬいている人があるとすれば、その人は釈尊と同じような正覚を得た人というべきでありましょう。
本心そのままで生きている人の状態は、どのようかと申しますと、慈悲(愛)深く、喜怒哀楽に迷わされず、すべての恐怖なく、他人の本心と想念をも、はつきり区別してわかり、おのずと人々の想念を浄めている、といつたような人になるわけです。』


これは五井昌久師の「霊性の開発」という本の一節です。

しかし、幼いことから宗教の門をたたき、修行に修行をねた重ねた大僧正といわれるような人でも、五井先生のものに「どうしたら悟れるでしょうか?」と相談にこられる方がずいぶんいらっしゃるとのことです。

悟りといっても無限の段階があるのですね。
ちなみに過去の日本の聖者では
空海、法然、道元、そして五井昌久
この4方のみが正覚(直霊と一体)の悟りに達していた、ということでした。

人間は、本当にエネルギーを無駄づかいしていると思う。
あらゆることで想いが停滞している。新陳代謝が悪い。
それが積み重なると、気がにごってくる。それが病気という形になる。

それは、『あなたの心の使い方が間違ってますよ』というただの信号なのだ。

「ちがう使い方してみて!」ということなのだ。しかし、その人は医者に行ったり、ヒーラーの元へ行く。違うのだ。

心の使い方を自分でマスターしなければ、何度でも同じことが繰り返される。
五井先生は神様のことを「洗濯じいさん」とおっしゃっていたけれど、みんな遠慮して、自分の力で自分の汚れを消そうともがいて、疲れて、絶望しているように見える。

人間の心の汚れを洗濯する専属の守護霊、守護神を無視して、自分の力でやろうとする。ここに多くのこころの無駄が発生してくる。
五井先生いわく『ちゃんちゃらおかしい』ということになる。
守護の神霊の働きを真実知り、感謝をささげている人間ほど守りやすいものはないのだ。

それが慣れてくると、全託という実感になってくると思う。こ

れほどお金のかからない、やさしい悟りの方法はないと思う。
うそだと思ったら、みなさんやってみてください。
寝るとき、『守護霊様、私の心をお掃除してください』と祈りながら寝てみてください。

きっと実感できるでしょう。

『この守護霊の働きは、真に感謝しなければならぬものである。
 守護霊は、幽界、霊界、肉体界と三界を通して働ける者なので、幽界において、できつつある運命、すでにできあがって、時間の経過につれて自然に肉体界(現界)の運命として現われようとする悪想念の結果(因縁)をあらゆる手段をもって、その人間の運命として現れぬように修正してゆく。
この守護霊の働きを、知っている人、感じている人は実に少なくて、肉体人間の大半が、この影の働きを知らないのである。守護霊はその肉体人間が、守護霊の守護の力を知ろうと知るまいと、それは問わず、ただひたすら、運命の修正に全力を挙げているのである。』

『守護霊はその被守護体の睡っている時から醒めている時、休んでいる時、いついかなる時間にも、この人間を守りつづけているのである。そして、この人間の発する悪想念の蓄積を浄めるため、たゆまざる努力をつづけているのである。もっとも、肉体界(現界)の救いとしては、この人間にでき得るかぎりの努力を、経験をさせつつ、いざという時に助けるのである。
 ここで、大いに考えねばならぬことは、守護霊にとって一番働きやすい、肉体人間の状態は、常に守護霊の方に心を向けていてくれることである。
 守護霊の存在のいかに重大であるかを知って、常に守護霊に感謝を捧げている子孫ほど守りやすい肉体はないのである。』


上は五井昌久師の「神と人間」の一節ですが、何度も読んでいるのに自覚の深さが年々変わってくるのが不思議です。
本当に自覚して、寝てもさめても感謝するのが、守護霊に対する礼儀なんですね。

そして、霊界に行ったとき(臨終の間際からですが)、とても益することが多いということです。

“悟るということは、何も特殊なことではないのです。
何故なら、人間は本来神の分霊であって、人間の内なる本質は神そのものであり、本来悟っているものだからです。
とは言っても、人間は肉体という器をまとい、この物質波動の粗雑な世界に生きているため、どうしてもこの肉体に囚れ、肉体を唯一の存在と信じ、いつの間にか自己の本質が神であることを忘れてしまったのです。
ですから、悟りはこれから求めるものではなく、自己の本質は神であることを自覚し、それを肉体身を通して、行動として表せることにあるのです。つまり、悟りは今ここに、自分が在ることの真の存在理由を知ることなのです。
そうした本質的な立場から、この現象世界を観れば、人間が病んだり、争ったり、様々な苦悩や歓喜の中で泣いたり笑ったり、一喜一憂していますが、それらはすべて、因縁生を浄化して、この世界をより善くしてゆくための働きの姿である、ということになるのです。そして、浄化のために現れた、様々な因縁生に振り廻されてしまっているのです。
そこで、悟るためにはまず、この肉体という束縛から脱却しなければいけない、ということで昔から様々な方法がとられてきました。それが悟りへの自力的な修行方法となったのです。そのため、悟りというものが特殊で、難かしいものとなり、一般大衆とは無縁のものとなってしまったのです。
今日まで、様々な瞑想や統一方法が説かれていますが、「人間は本来神の分霊である」という、根本の真理をぬきにしては、真の悟りは得られるものではありません。
釈尊が「人身得難し」と謂っている、この肉体の存在価値を、ここであらためて考えてみましょう。この世界を浄化し、霊質化させていくためには、神がどんなに無限の力を持っておられようと、直接この世界に働きかけることはできないのです。次元が違うからです。この粗い物質波動の世界に働きかけていくためには、物質波動である肉体という器が必要なのです。この肉体は、単なる霊の器(入れもの)としてあるのではなく、この世界の業を吸収し浄化していく、浄化器のような働きをしているものなのです。そこで、この肉体をどう扱うかが大事なことになるのです。
この肉体波動が粗く、鈍重であったら、いかに本心が神そのものの無限の可能性を持っていたとしても、思うように働くことはできません。従って、この肉体を霊質化することが大事なのです。つまり、肉体の波動をより細やかに、精妙に、高めていけばいくほど、内なる本心〈神)が働きやすくなり、無限の可能性が開かれ、力も才能も、知恵も引き出されてくるのです。そのためにも、統一(瞑想)が必要になるのです。
 何故なら統一とは、自己(肉体)の内なる真実(神の分霊としての本心)を見詰め、同化し、高め、ひろげていくことだからです。
人間の肉体に与えられた目的は、より高次元のバイヴレーション(光)を、曇りなく放射できる通路となること、つまり光を伝達できる人になるということです。また、この世の業を吸収し、光に変えていける器となることなのです。
私たちは、肉体感覚に慣らされてしまっていますから、毎日少しづつでも、自己の本質を見詰めるための時間をとりましょう。それが統一(瞑想)なのです。
 こうして、自己の波動を高め、感覚を磨いていけば、それだけ、自覚の領域が自分の中に深く入っていけますし、また外に向ってもどこまでも広がっていきます。そうなれば、今までのように、考えながら事を運んでいたことが、感じることのほうが強くなって、物事の奥に入っていけるようになるのです。そうなると直感的な生き方になっていきます。
そこで悟りとは、一切のものは神のみ心のはからいによって、在ることを自覚し、一切の現れを、それが病気であれ、争いであれ、不幸な出来事であれ、すべては必ず善くなるため、つまり大調和世界顕現のための働きとして、よしと全肯定できることなのです。
 愛とは、今、この瞬間、すべてを無条件でどれだけ受け入れることができるか。そして悟りもまた、すべてを善しと、受け入れることのできた状態ならば、愛も悟りも一つであって、全肯定なのです。”


 上記は波動勉強会の一節ですが、先生の一言はいつも自覚を喚起してくれます。そして体現されてますので説得力があります。


 参考まで

以前、愛について瞑想しながら、祈りながら寝るということを習慣にしていたとき、「愛の対極にあるのはエゴ」という言葉が出てきました。エゴ・・自己中心です。
そして、自分の心の動きを観察していると、やはりまさに自己中心でありました。
宗教的な自己中心なんですね。

人より霊性を高くしたい。優れていたいというエゴ。「無限なる赦し」
そのいやしいこころの正体を見たとき、祈りが変わりました。
『愛と一つでありますように』となりました。
そして、愛と自由が一つであることが観えました。
この祈りの中には『私』という言葉が入りません。
神様~と神様の中に飛び込む感じで祈ると、とても自我がなくなってゆく感じがします。
おためしあれ

古い白光の会員の方はご存知だと思いますが、ほとんどの人は知らないと思いますので、書かせていただきます。
昭和45年、京都で宗教者世界平和会議が行われました。
そのとき、当時の白光真宏会の会長、五井昌久師が日本人の代表としては異例の若さで選出されました。

やはり、人間としての完成度の高さがその判断の基準だったようです。
その会議に、霊覚者であり、神智学会の会員でもあるイギリスのバスビー師も出席されていました。
五井昌久師のスピーチに感動されたバスビー師は、後日奥様同伴で、当時市川にあった白光の本部を訪ねられました。そして、五井昌久師がバスビーさんを拍手でお浄めをしていたとき、突然、バスビーさんがトランス状態に入られ、クートフーミ大師がその口を借りてお話をされました。


内容を要約すると
『この子等(バスビー夫妻)をここに導いたのは、我々である。この世界平和の祈り、五井先生の運動が地下シャンバラのキーポイントである。また、この道場が世界の中心である。みなで協力して世界を平和に導きましょう。
ここにおられるみなさま、特に偉大で輝かしき五井先生に愛と祝福を送る』


というものでした。 そのときの録音テープが白光本部で保管されていると思います。
その他の聖者、モリヤ大師、マイトレーヤ大師もやはりトランス状態の霊媒を借りて、五井先生と交流されておりました。
マイトレーヤという聖者のまわりを7人の聖者が取り巻き、その他、われわれの先祖の悟った霊たちがまた地球を守り、そのほかに星星を監督し、完成に導く役目の守護神、宇宙天使たちが力を注ぎ、肉体を持った霊性の高い人たちに感応し、平和運動をさせている。それを救世の大光明霊団、ハイラーキー、聖白色同朋団とかいいます。
それがこの『祈りによる世界平和運動』になっています。
もし参加していただける方は、日常の生活の中で『世界人類が平和でありますように』と心の中でお祈りしていただけると、ヨガの7大聖他、守護の神霊の方々に同調することが出来、強力なるお守りをいただけ、魂のステージを上げることが出来、しかも地球の光明化のために大きくはたらかせていただけます。
 
 世界人類が平和でありますように
 私達の天命が完うされますように

エドガ・ケイシーの言葉に「口に入るものより口から出るものが魂を汚す」という意味の言葉があります。

口から入るものは食べもので、口から出るものは言葉です。

五井先生の言葉にも、「どんなものをいただくにしても感謝していただくのが本当です。

動物を食べるときでも、感謝してお祈りして食べれば、その動物は人間の肉体の一部となってはたらくことが出来、命がいきるのです。

人間の肉に昇格するのです」という内容のものがあります。

何を食べるかではなく、どう食べるか、その意識の方に重点を置くのが、今の社会生活ではよろしいのではないかと思います。

また社会が変われば食事のないようもどんどん高度なものに変わるともいますが。


                       参考まで

以前、治療の勉強のためにケイシー療法の日本の第一人者であられる福田先生のところでお世話になったんですが、
「相手が病気だと認めない」
「悪いところを悪いと認めない」
「悪いところを治そうとしない」
「ひたすら祈りと光の実感に徹する」、とよくおっしゃってました。

癒しとは、相手の完全性を認める、実感する、完全性に同調すること。
相手の完全性を褒め称えること。光を認めることなんですね。
そうすると、イメージの中で「きらきら光り輝く○○さん、ありがとうございます」という祈りができます。

その人がきれいな光できらきら輝いている姿を想像します。
すると即座に相手の体に反映されるのです。それを実際に確認した経験があります。

物でも、動物でも、人間でも、、地球でも、あらゆる命は波動エネルギーですから有効だと思います。

福田先生、あるいは永安先生のところでは、そういうイメージの力、言葉の力を活用する、真の癒しというものを教えてくださっています。