『 悟りとは、本心と自分とが、全く一つになるということなのであります。
迷ったり、起こったり、恨んだり、妬んだり、恐れたり執着したりする想念というものを、はっきり自分ではないと、思い定めることなのです。
自分とは、神と一つである本心そのものであり、諸諸の想念は、過去における自分の迷いの足跡が、今現われて消えてゆく姿である、と思い定めることなのであります。
自分が、自分の創造主であることを知ること、つまり、自分が神の使命達成の一員として、神の世界(天)から天降って、この地上界に神の生命を華咲かせつつある者であることを知ることなのです。
悟り、とは、自己の本心を光り揮せること。生命を礙りなく、生かしきれる状態をいうのです。悟りといっても、種々と段階のあることで瞬間的に、自己の本心を現わしたり、生命を生かし切つたりすることも、悟りでありますが、常に変りなく、本心そのままで生きぬいている人があるとすれば、その人は釈尊と同じような正覚を得た人というべきでありましょう。
本心そのままで生きている人の状態は、どのようかと申しますと、慈悲(愛)深く、喜怒哀楽に迷わされず、すべての恐怖なく、他人の本心と想念をも、はつきり区別してわかり、おのずと人々の想念を浄めている、といつたような人になるわけです。』
これは五井昌久師の「霊性の開発」という本の一節です。
しかし、幼いことから宗教の門をたたき、修行に修行をねた重ねた大僧正といわれるような人でも、五井先生のものに「どうしたら悟れるでしょうか?」と相談にこられる方がずいぶんいらっしゃるとのことです。
悟りといっても無限の段階があるのですね。
ちなみに過去の日本の聖者では
空海、法然、道元、そして五井昌久
この4方のみが正覚(直霊と一体)の悟りに達していた、ということでした。