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tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

まだ世界平和の祈りを始めて間がないころ、当時市川にあった白光の聖ケ丘道場に通うため、小岩の古いアパートに住んでいました。
ある夜、自分のなかに今までになくくらーい、絶望的な気分になるのです。
自分でも「おかしーなー。こんな気持ちになったことないのになー」と思っているうちに、締め付けられような重さ、重圧を感じてどうしようもなくなってしまいました。
そこで意を決し徹夜で祈りを繰り返すことにしました。すると2,3時間すると、女性の声が自分の中から聞こえてきて「私は○○というものです。ありがとうございました。」とお礼をいってこられました。どうもその部屋でなくなった女性のようでした。
あまり霊感らしきものがない私が感じたのですから、よっぽど伝えたかったのでしょう。
はからずも一人の未浄化の女性を供養してしまったわけです。
そこで感じました。
「祈りとは自分が光ることであり、それはそのまま宇宙に光を放射していることであり、生きとし生けるもの、形あるもの、形なきものを供養していることなんだなー」と {/hiyo_do/}
            
         世界人類が平和でありますように

本心

“地球の未来を輝かすために
 人類が是非共知らなければならぬ事がある
 それは御身たちの真実が
 御身たちの本心が
 肉体生活にまつわる欲望と恐怖と
 そして悲哀と憎悪と云う
 黒い翼に蔽われていると云う事である
 それよりも亦一層深くしらなければならない事は
 御身たちの本心は
 御身たちの真実は
 宇宙を動かしている大いなる智慧
 無比絶対なるエネルギーの源泉に
 その基を置いていると云う事である
 御身たちの本心は常に神と一つであり
 御身たちの真実は神から発する光であり
 そして御身たちは嘗ては本心そのものであったという事である

 欲望 恐怖 悲哀 憎悪
 そうした業生の想念は
 御身たちが神の光の世界から
 肉体と云う形の世界に自己限定したときから起こったのも
 現れては消え去る大海の泡沫
 夢幻が画く一夜の劇

 人間が争っているのではない
 人間たちが迷っているのではない
 争っている想いが
 迷っている想いが
 今 消え去ろうとして人類の前を 通り過ぎてゆくところなのだ

 御身たちは只黙って
 御身たちの本心が神と座を一つにしている事を想っているがよい
 光り耀く神と本心とをみつめつづけるがよい
 心を落ちつけ 想いを静め
 只只神の大光明を観じているがよい
 そうしている時が一番
 様々な業生の想いが消え去り易い時なのだ
 御身たちよ
 消え去る業生を止める事はない
 夢幻の苦痛を想いかえす事はない
 御身たちが止めさえしなければ
 想い返しさへしなければ
 業生は再び御身たちの下に戻ってくる事はない
 御身たちは今
 本心そのものである
 神の大光明と一つの者である
 地球世界を光一色で描き出すものである”


上記は五井先生の「本心」という詩で、私の大好きな詩ですが、
「この詩を仏前で読んであげればいっぺんにきよまっちゃう」と五井先生はおっしゃってましたので、お彼岸には、お墓参りのとき、あるいは仏前で仏様によんであげれば、とてもよろこぶと思います。
                  参考まで

“ 人類を大調和せしめ、真の統一せしめる為には、まず人間の一人一人が、自己の業想念を神に返上して、改めて、神の生命として、この世に生れ更わらなければ、その目的を達成し得ません。即ち、真の祈りをなさなければ、世界は救われることが出来ないのです。
私が、何事をも超えて、祈りを強調しているのは、人類の犠牲を、世界の惨事を、より少く済ませたいからなのです。
真の祈りなくしては、この人類はかってない最大の惨事を味あわされるのは明らかなのです。
では、真の祈りとは如何なる方法でやればよいのでしよう。
それは、私が提唱している″世界平和の祈り″なのであります。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様、守護神様ありがとうございます
という称え言です。
この称え言は、世界人類を救済しようと働いておられる、マイトレーヤ仏(これは、釈尊が予言された、最後の救世主弥勒仏なのであります)を中心にした守護神たちと、私共の祖先の悟つた霊魂たちとの協力団体即ち、人類救世の大光明に私共肉体人間が直結する祈りなのであります。これは神霊側と約束されたことなのであります。むずかしい宗教理論も、現世利益の宗教も、もはや今の急場には無用になりつつあります。現世利益即悟りであり、悟り即人類救済でなければ、急迫したこの世になんの役にも立ちません。
 私は、こうした末法の世に役立つ為に、この世に存在しているのです。
私が、今こうして書いている文章も、常に話している言葉も、肉体の五井昌久が、個人として書いているのでも、話しているのでもありません。私は、常に神の器として文章を書き、法話をしているのであります。”


上記は五井先生の「霊性の開発」の中の一節ですが、マイトレーヤと世界平和の祈りのことが端的に書かれています。
最近よくマイトレーヤという言葉を本や雑誌で見かけますので、載せてみました。
  参考にしていただければ幸いです。

“私など、霊的にいつも老子と一緒にいるのですが、老子の光のひびきの烈しさと云おうか、強さと云おうか、一瞬にして、如何なる業想念をも打ち破ってしま う、その光明波動には、只々敬意を表しているばかりでありまして、文字に現わ し、言葉に現わしていることのもどかしささえ感じているのです。
大象を執りて天下を往けば、というこの章の始めの言葉のように、老子はまさに大象なのであります。老子は大象の中から地球界の救済に現われ、これと思う 人々を大象の中に引きいれて、その人々を大象そのものとして仕立上げようとしているのです。私などもその一人として、光明波動の老子が私の霊体に合体して きて、肉体身の方の私までもそのまま大象の中にひき入れてしまったのでありま す。老子合体のその時から、神界の私も、肉体界の私も、全く大象の中の働きと して、何等の差異もなくなって、この地球世界を、光明遍照の世界に高めあげる大神業を成し遂げる為の働きをつづけているわけなのであります
神界の自分と肉体界の自分とが全く一つになって働き出す時、その人の力は偉 大な働きとなって現われるのです。そうした神我一体の人を創りあげてくれるの が、老子であり、釈尊であり、イエスであり、各守護の神霊の方々なのでありま す。皆さんは、老子が昔の昔中国にいた聖者であった、という想いを捨てなければなりません。老子は今救世の大光明の中で、その烈しい強い光明波動を皆さんの一人一人に送りこんでいるのであります。老子は生き生きと生きているのです。大道の中心に立って、房々とした白光の白髪をなびかせて、皆さんの心の中をじっと見つめているのであります。”


“私は老子の光明体をしっかり私の中に同化させています。老子の教えの無為の道を、はっきり自己のものとした人は、誰も老子の光明体と一つになっているのです。もっとつっこんで言えば、老子をも含めた大光明波動の中で生きていることになるのです。老子は無為の人であり、大調和の人であります。それはそのまま、この世の平和達成の為の先人であります。その老子が光明体となって、私共の世界平和の祈りの運動の中で、その光明力を発揮させているのです。
私共が世界平和の祈りを祈る時には、そうした老子の光明力をも含めた、人類救済の為に働いて来られた、諸神善霊の大光明力が、地球隅なく放射されるのであります。
世界平和の祈りをする私たち肉体身は、大光明波動を地球人類に放射する、一つ一つの場となっているのです。老子のいう無為、釈尊の説く空の境地には急速になり得ぬ人々も、世界平和の祈り言によって、大光明波動の器となることは容易なのであります。こうした容易な祈りの運動が、人類の波動調整の役目となり、暗い誤った人類の波動を光明波動で浄め去ってゆき、大宇宙法則に人類の心を乗せてゆこうとしているのです。道にしっかりと乗せてゆく、そういう道筋を世界平和の祈りがつけてゆくのであります。一人一人の人が、自己の修業で、空になり、無為になってゆくのは大変なことであり、急速にできることではないのは、誰しもが思うことであります。
無為ヘの道、空への道に至る、そういう道筋をはっきりつけて、しかも容易に行きつかせるそういう方法が無ければ、この地球人類は到底救われるわけにはゆかないのです。老子が現代に肉身として存在したら、やはり私と同じことを考え、同じような祈りの道を発見したことは間違いありません。何故ならば、私の発見した世界平和の祈りの道に、老子は天界から天降ってきて、私の大きな力となってくれていることからしても言えることなのです。”

上記は五井昌久師の「老子講義」の一節ですが、老子がこの祈りの中で生き生きと働き、その強力な光を祈る人を通して地球世界に投げかけているのがよく分かると思います。
   参考まで

老子の話
たのしんでください(*^。^*)