塊はベッドの上で体中に取り付けられた
様々な色のプラグやコードを眺めていた。

そのコードの先には、およそこれ以上無いであろうと思える程の、
ありとあらゆる種類のモニターが並べられ、
それぞれが淡々と数字や波形を描いていた。

恐らくそこには塊の感情以外の体の全てのデータが
リアルタイムに表示され記録されているのだろうけど、
当の本人には一切分からない。
それはただの数字や波形の羅列に過ぎなかった。

塊の体の検査は3日間続けられた。
全てが正常値であり、異常なのは、
その塊の感情表現の乏しさだけだった。
何を聞かれても『はい』と答えた。
たまに『いいえ』と答えるのは、反抗心からではなく
その質問に対しての単純な否定を意味するものだった。
その3日間は一切集中治療室から出る事無く、
外部との接触は一切断たれた。

徹底的な検査で正常が確認されると、一般病棟に移った。
一般病棟では、過度な情報が待ち受けていた。

一般病棟に移るなり、例のバーのオーナーを始め、
非常に多くの面会者が来てくれた。

申し合わせるようにみんな同じ反応を見せた。
外傷の少なさと、淡々とした冷静な受け答えに
あからさまな違和感を示し、それが却って私を混乱させた。

『こういう時どうすれば良いのか?』と…。


どうもこうも無い。
塊は面会者の期待に添えないし、それを示すのは
悲劇のヒロインを演じてるようで嫌だったのだ。

何も感じない事には何も伝えられないのだ。


しかし一本の電話が塊の心に大きな変化をもたらす。


看護婦が身振り手振りで、私を受付に導く。

受付には電話機を持った別の看護婦が待っていた。
取り敢えずこれに出ろと言うのだ。

私は誰からの電話かも知らされていなかったので、
何と切り出して良いのか分からず、
『Hello』と言うと、
電話の向こうから『○○?(私の名前)』
と、聞き慣れた声が聞こえる。
『うん、そうだけど』と答えると、
必死に涙をこらえ、言葉にならない者の姿が
くっきりと浮かび上がった。

それは紛れも無い母の声である。

30秒位の沈黙の後、
『元気?』と、何とか明るく振舞おうとする母の声に、
塊の心は崩れ始める。





頬を流れ落ちる温かい感触。

それは紛れも無い涙であった。

私は少しの間を置いて
『元気だよ』と答える。

また長い沈黙を置いて、
『良かった…』の声が漏れる。

母は涙でぐしゃぐしゃだった。
もはや隠し切れる状態では無かった。

それは私に於いても同じであった。
ツーっと流れてた涙は、もはや顔中を濡らしていた。

ダムは決壊された。
塊はその役目を終えようとしていた。

二人に言葉は必要無かった。
ただ受話器越しに聞こえる、涙をこらえる咽び声が
全てを語っていた。


『お父さんに代わるね』と、言う言葉の後、
受話器の向こうにはっきりとした父親の姿が現れる。

父親は至って冷静だった。
心の揺れは一切感じられない。
たまに実家に電話をした時の声とおよそ変わらない。

私の父親はとても厳格な人である。
九州の出身で、九州男児をそのまま具現化した人だ。
何度殴られたか分からない。
20歳になったその時でも、父親は怖い存在だった。
私はそれまでも、そして今でも父親には敬語を使う。


短い会話の最後に、
『そっちに行こうと思う』
と、父親はぼそっと言った。

『え?』と、とても驚いたけど、
何か分からないまま電話は切られた。

『ツー、ツー』と終話を伝える受話器を片手に
私は立ち尽くしていた。

気が付くと、周りには驚きの表情を浮かべた
看護婦で溢れていた。
私ははっと、後ろを向いて顔中の涙を袖でぬぐった。


ダムは決壊した。
塊はその役目を終えようとしていた。

続く。
パトカーとはまた違う色の警光灯を輝かせ、
レスキュー隊はやってきた。

アメリカのレスキュー隊のそれを、そのまま
持ち出したような仰々しい車両や、はしご車のような
車両など、実に多くの車両が細い山道に大挙した。

その車両の数は明らかに多過ぎた。
あの警官が無線に向かって何を伝えたのか分からないが、
その細い山道ではそれぞれの能力を殺しあっていた。

しかし何よりその救助の力を阻止していたのは、
警官とそれぞれのレスキュー隊の緊張感の欠如だった。

中国では互いの親交を深めるのにタバコを差し出し合う。
数10分前に警官が塊に示した行動もそれだった。

申し合わせるように、塊はそれらの行動に噛み付いた。
その手は、差し出し合うタバコというタバコを地面に叩き落して、
一刻も早い救助を求め叫び続けた。

それが塊だったのか私だったのかは分からない。
しかしただ一人、日本語で罵倒し続けていたのは、
紛れも無い被害にあった一人の日本人だった。


苦笑と呆れ顔が混ざる中、救助は始まった。
はしご車はキリンのように、その長い首を伸ばし、
眼下に広がる暗闇の中にエサを求めていた。

尚も塊は罵倒し続ける。
仕舞いには、塊はレスキュー隊の後に続いていた救急車に
無理やり押し込まれると、再び暗闇の中に消えていった。

次の瞬間、私は集中治療室のベッドに横になっていた。

続く。
塊はパトカーが照らし出すヘッドライトの軌跡を
注意深く見ていた。

いきなり地獄に放り出されたその場所が、あの暗闇と静寂、
更に言えば、塊が創り出した異次元の空間にあって、
全く分からなかったのだ。

付け加えるのであれば、パトカーのスピードと塊の足が
刻んだその足跡の差異がどの位のものなのかも分からなかった。

だから塊の目は、パトカーのヘッドライトが照らし出す、
砂利道の変化を、注視していた。

パトカーは唯でさえ細く、ガードレールも無い山道を
ゆっくりと走っていた。

塊がその砂利道に確かな変化を認めたのは、塊が思っていた所よりも
遥に離れた山道のカーブの入り口だった。

砂利道にはバスが進むべきラインを踏み外した痕跡が
くっきりと残っていた。

それは山が作り出した自然の軌跡と、完全に異なっていた。
運転手が急いで強くブレーキを踏んだであろう痕跡まで
容易に想像できる程、生々しくくっきりと刻まれていた。

私達は車を降りる。
そして警官が持つ大型の懐中電灯で崖の下を照らしてみたけれど、
その光は崖の中腹あたりで彷徨っていた。
車の位置を変えて、何とかヘッドライトで照らし出せないかと
何度も試みたものの、結果は同じだった。

転落箇所を特定するのは、予想以上に難しかった。
警官は次第に面倒臭そうに首をすくめ、
『夜明けを待つしかないな』と言った。

『夜明け?』
あの弱々しいうめき声が、夜明けを迎えれるのであろうか?
答えは完全に『No』である。

塊は警官にレスキュー隊の要請を切り出した。
当然である。
このまま二人で探しても、そして仮に探し出せたとしても
私達に一体何が出来るのであろうか?

いずれにしてもレスキュー隊が必要である。
私はポーカー程の少ない中国語のボキャブラリーと、
筆談と、必死の身振り手振りで、警官にそれを伝えた。

しかし警官は、それを分からなかったのか、分かっていても
面倒だったからなのか、中々レスキュー隊の要請に応じない。

次第に警官は苛立ちを表し始め、遂に地面に座って
タバコを吸い始め、塊にも一本薦めてきた。

塊の間に合わせの感情ですらそれには激高し、
タバコを差し出した警官の手を思いっ切りはじくと、
その手をねじるように強く掴んで、
はっきりとした日本語でレスキュー隊の要請をした。

終始冷静を装ってきた塊のその反応に驚いて、警官はパトカーに
向かうと、無線らしい黒いプラスチックに向かって
何かを話し続けた。


レスキュー隊が到着したのは、暗闇の濃度が減衰してきた
ある夜の終わり近くである。

続く。
何度も横を通り過ぎていった塊の前に、
ヘッドライトを煌々と照らした一台の車が止まった。

塊は完全にその車が停止した事を確認すると、
そろそろと運転席に近付く。

運転席のウインドウが静かにおりる。
細い銀縁の眼鏡を掛けた女性が姿を現す。

つたない中国語と筆談で必死にその運転手に
事の顛末を伝える。

彼女は冷静に私の話を聞き、確認の言葉を添えると、
鞄の中から携帯電話を取り出し、警察に電話をする。
とても簡潔に、その状況を伝え終わると、携帯電話を鞄にしまい
助手席に乗るようにと、ドアを開けてくれる。

彼女はとても優しく私を迎えてくれる。
『今、警察に電話した。すぐ来るから何も心配する事は無い』

しかし塊はその束の間の安心を許さない。
まだ何も解決していないと、体と心を結ぶ緊張の糸を引っ張る。

二つの目はしっかりと車のライトが照らすその先を見据え、
感情は一切の起伏を示さなかった。
塊はいたって冷静を保つ。

彼女はその私の様子に言葉にこそしなかったが、
少なからず感情の揺れを車内に響かせていた。
『これが落下事故の崖から這い上がってきた者が示す反応だろうか?』と。

それはそのまま私の表層の感情を刺激する。
これが地獄の底から這い上がり、取り敢えずの安心を手に入れた
者が示す反応だろうかと。

そう、塊はどこまでもドライで、現実的な解決を求めていた。
バスに乗車した全ての乗客の安全。

やや間をおいて、けたたましいサイレンと派手な警光灯を鳴らした
パトカーがやってきた。
警官はパトカーを降りると、車に近付いてきて
私を車の外に連れ出し、煌々と暗闇を破るヘッドライトで
つま先から頭のてっぺんまで検分する。

着衣に若干の汚れや破れこそあったが、私の容態の無事を確認すると
『事故現場まで誘導してくれ』とパトカーの助手席のドアを開ける。

私は警察を呼んでくれた女性にお礼を言うとパトカーに乗り込む。

パトカーはサイレンと警光灯を消すと、
どこまでも続く細い山道を進んで行く。

続く。
崖を登る事は困難を極めた。

およそ空に向かって真っ直ぐそびえ立つ
大きな壁は、簡単に登る事を許さない。

それでも塊は登る事を諦めない。
諦めないどころか、殊更冷静に上を目指す。

肉体としてではなく、自己としての私は、
そんなもう一つの自己を恐れていた。

言うまでも無くあの惨劇に一切動じる事無く、淡々と今すべき事を模索し、何より、助けを求める人を、事も無く置き去りにしたからである。

勿論、それは無視したのでは無く、最善を期す為にした行動であったが、少なくともそれを、ほんの数秒で判断した事は私にとってショックであった。

そして何より恐ろしかったのは、そんなもう一つの自己を冷静に眺めている本当の自己の存在であった。

少しも動じていない。
何で私はあの惨劇の直後、恐怖もうめき声を上げる者達への慈悲も一切感じなかったのであろう?
泣いたっていい。叫んだっていい。恐怖におののいたっていい。
いや、むしろそうあるべきだと感じていた。

今こうやって崖を登りながらも、こんな風に冷静にいられる私は一体何なのであろう?
感情というものが一切無くなってしまった私を、私は恐れた。



『トニカクノボルンダ』
色々考える自己としての私を塊は飲み込もうとする。


『ウエヲ』


『ウエヲ』


『ウエヲ』・・・・・・・・・





どの位時間が経ったのだろう?

直角に切り立った崖の頂上が見えてきた。
それでも心は全くぶれない。
確実に上へ上へと手は伸びる。


遂に私は崖を登り終えた。

それでも心は全くぶれない。
今登ってきた崖の下を覗こうともしない。



『ヒトヲサガセ』
崖を登り終えた塊は次の命令を下す。



崖の頂上は山の中腹に造られた原始的な山道だった。
もちろん舗装なんてされていない。
ただただ、くねくねと細い砂利道が続く。



『ヤマヲクダレ』
二つの選択が一つに絞られる。
山道を下りながら、いつ出会うか分からない人を探す。


30分?1時間?
暗闇と静寂が創り出す世界が
時間という概念をぐにゃりとひね曲げていく。
見えるものはただ自分の足だけ。
聞こえるのはその砂利道を蹴り上げる音だけ。


しかし微かに何かが砂利を跳ね上げる音と、
山道をくねくねと照らす光を私は認める。
それは確実に私との距離を縮めてくる。
音は大きく、光はその強さを増していく。



『クルマ』
私よりも早く塊はその近付くものの名前を読み上げた。



『ソレヲトメロ』
近付く音と光を放つそれを、塊は逃すなと言うのだ。


気付けば音と光を放つそれは目の前にやってきていた。
私は細い山道の真ん中に立って、手を大きく振る。

それは止まらない。
いやむしろスピードを上げ塊に近付いてくる。

もはや光は目の前にあり、塊はそれをよける事を決断する。

その光の主は塊の真横を、触れるか触れないかぎりぎりの
ところを猛スピードで通り過ぎていった。

それは確実に塊を認識し、意図的にそうしたのだ。

それでも塊は人を求めていた。
その状況を伝え、救助部隊を読んでくれる誰かを。

そんな事が3回繰り返された後、遂に塊は光を捕える。

続く。