私は雲一つ無い空に浮かぶ月を見上げていた。
月は鋭利な弧を描き、その妖しい光は見る者の心を奪う。

私は『綺麗な月だなあ』と、ぼんやりと眺めていた。


『フェードイン』
少しずつ5感に情報が流れ込んでくる。
痛みや恐怖を訴えるうめき声。
鼻をつく強烈なガソリンの匂い。
もはや原型をとどめない鉄くずの山。

そして私を襲った惨劇が頭の中でプレイバックする。

まず激しい遠心力で私は目を覚ました。
次の瞬間、一瞬体が宙を舞ったかと思うと、激しい音と衝撃が
次々に表情を変えながら全てを巻き込んでいった。

『フェードアウト』
体の至る所から入り込んでくる情報とは反比例して
私というアイデンティティは損なわれていった。
私の頭は私を捨てたのだ。

『覚醒』
これが一番その時の私の思考回路を表した言葉だと思う。
頭の中にひんやりとした冷たい空気のようなものが流れ込む。
次の瞬間、まるで打放しコンクリートのようなもので出来た、
とても大きな空間が頭の中に生まれる。
そこに新しい自己が生まれ、かつて無い程神経が研ぎ澄まされていく。
どこまでもクリアで、無機質な世界。

代わりに全ての感情や無駄な思考回路が排除されていく。

もうその体は私の体ではない。
私はその肉の塊をとても冷静に背後から眺めていた。
やがてその塊は淡々と計算をし始めた。


『バスハオチタ』
それがその塊が導き出した最初の答えだった。
そして早くも次の計算を始めた。



『オトヲタテルナ』
周りから発せられる無数のうめき声を、その塊は生存者のしるしと捉え
その命の灯火を他でもないその塊が救うのだと判断した。

救急措置が出来ない者が出来る事。
この事態を誰かに知らせ、一秒でも早く救助を呼ぶ事。
そしてその際に気を付けなくてはいけない事。
致命的な傷を負っていない生存者の存在に気付かれる事。
それに気付かれたらたちまち混乱が生まれる。
私を助けてくれと、無数の手がその塊を捉えるであろう。

そう、音を立てるな。
塊はがれきの山をまるでそれまでにも何回もそうしてきたように、
しなやかに慣れた身のこなしでするすると音を立てずに離れていった。



『ガケヲノボレ』
その塊に付いた二つの目は、がれきの山でも月でも無く、
目の前に敢然とそびえ立つ、真っ黒な崖を捉えていた。
しかしその崖は限りなく直角に近い。
とてもフリーハンドで登れるものではない。



『ガケヲノボレ』
それでもその塊はその判断を譲らない。
暗闇に目が慣れてくるとその黒い壁にわずかなコントラストが
浮き出てきた。

樹木の存在である。



『キヲツタッテノボレ』
塊は淡々と最短ルートをはじき出す。
次の瞬間、切り立った真っ黒な壁はその全貌を現し、
そこに明確な道が現れる。
それと同時に塊は崖を昇り始めた。


続く。
バス停に着くと目的のバスを探す。
ラオスとの国境の町、西双版納行きのバス。

目的のバスにはまだ乗客がほとんど乗っていなくて
走り出す気配は一切無い。

中国の長距離バスは、乗客が8割近く埋まらないと走らない。
時刻表こそあれど、そんなのは一切機能していない。
更に言えば、発車時刻を大幅に過ぎて乗客の乗っていないバスは、
運転手に直接交渉すると、半額、上手くいけば7~8割安の
運賃で乗る事が出来る。
つまり、運転手は一円でも多く稼ぎたいのであり、乗客の少ない、
すなわちお金にならないバスを走らせる気なんて無いのだ。

私はそれを確認すると良く行っていたラーメン屋さんに向かう。
48時間近い乗車時間だから何も食べずに乗るとしんどいのは、
上海から乗った56時間の長距離列車から学んでいた。

知っている方も多いと思うが、日本のラーメンと
中国のラーメンは大きく異なる。
日本のラーメンは独自の進化を遂げているのであり、
もはや中国の歴史や影は完全に姿を消している。

中国のラーメンは麺もコシが無く、本場だと期待して食べると、
肩透かしを食らう。
それでもそこのラーメン屋は独特の味で気に入っていた。

ラーメンを食べて再びバス停に向かうと、席は半分近く埋まっていた。
そろそろ潮時だなと思い、運転手に交渉してみる。
何度言っても2割までと、強気である。
このバスは唯一西双版納まで直接行くバスなので結構人気があり、
恐らくそこまで負けなくても乗客が乗るであろうと思っているのだ。

もう少し待とうとバス停のベンチに座っていると、同じ歳位の
中国人が親しげに話し掛けてきた。

中国語は例のバーのオーナーから英語で教えてもらっていたので、
必要最低限の会話は出来たので、話をしていると、
どうやら例のバーの近くの中華料理屋に働いていたらしいのだ。
それで演奏をしていた私を知っていたのだ。

これから休みをもらって実家に帰るので一緒に来ないか?と誘ってくる。
ビザの期限もギリギリなので、やんわりと断っていると、
しつこく誘ってくる。
本当にしつこい。
30分位食い下がってくるのだ。

このままではらちがあかないので、はっきりとこう伝えた。
『あなたが私を知っていても、私はあなたを知らない。更に言えば
私があなたの実家に行く事に何の意味があるのだろうか?
私は旅をしている。申し訳無いけれど私の旅の予定にあなたの実家はない』

これでようやく分かってくれるだろうと思ったが、まだ彼は諦めない。
私は本当に困ってしまい、2割安の西双版納行きのバスに乗った。
運転手の笑顔がいらつく。
空いてる席を見つけ荷物を置いて外を見ると、まだ彼は諦めておらず
何か大きな声で私に叫んでいる。
いよいよ気持ちが悪くなってくる。

そのバスは寝台バスなので、ベッドに寝転んで彼のアプローチを
完全にシャットダウンした。

間も無く席は乗客で埋まって、大きなクラクションを鳴らすと、
沈む太陽を背にしてバスは走り始めた。

やがて夜がやってきて、外の風景を完全に消し去ってしまうと、
私は小さな鞄の中からCDウォークマンを取り出して、CDを入れ替えると
Bjorkの優しい歌声と共に夢の世界へおちていった。



私はその列車に乗り込んだのだ。
列車は私が乗車したのを確認すると、いびつな笑みを浮かべながら遂に走り始めた。あとはそのポイントまで淡々と向かっていくだけだ。

続く。
私のパーティは店を閉め切って、常連客や仲良くしていた
友達等、ごく親しい身内だけを招待して行われた。

パーティは終始楽しい雰囲気で進んでいった。
私はいつものギターの代わりにグラスを持ち、
仲良くしていた友達との会話を楽しんでいた。

それは一見ありふれたフェアウェルパーティだったけれど
何か違う要素が含まれている事を私は感じていた。
『出て行かないで』ではなく『出て行くな』という空気。

決定的だったのは、仲良くしていた中国人の友達が口にした、
『南に行かない方が良い』という言葉。
私が南に向かう事は、オーナーと演奏を共にした彼しか
知らない筈である。
少なくとも彼らが話してなければと言う事だが。

折角のパーティだし、別れ際を嫌なものにしたくなかったから、
私はそれに気付いていない様に明るく振る舞った。

夜が深さを増し、闇が大きな口を開けて全てを飲み込む頃、
パーティは終わった。

シャッターは硬く閉じられ、いつものように僕たち(3人)は
カウンターに肩を並べ、下らないジョークで盛り上がった。

バーを出てから宿に帰って目を閉じるまで、
さっきのパーティで感じた違和感、『出て行くな』という空気は
喉に刺さった魚の骨のようにいつまでも頭から離れる事は無かった。

翌日、荷物をまとめて、みんなと最後のお別れをすると、
ラオスの国境の町まで走る、長距離バスが発車するバス停に向かった。



破滅へのレールは既にきちんとつながっている。
行き先の決まった列車はエンジンを温めながら私が乗るのを待っている。

続く。
彼女は観客からオーダーされたお酒を、
無駄の無い実に見事な手さばきで作り上げ、
僕たちは、二人で新しい音楽を空間の中に見付け奏で続けた。

それは大きなムーブメントを生み出し、
瞬く間に街一番のホットな空間へと変貌を遂げた。

僕たちは楽しくて仕方が無かった。
何だって出来る気がした。

それでも終わりはやってくる。
私のビザの期限がぎりぎりのところまできていたのだ。
砂時計はさらさらと流れ落ち、残された砂はわずかだった。

私はその突きつけられた事実をどうやって
2人に伝えようかと思い悩んでいた。

結局その話を切り出したのは私ではなくて、
バーのオーナーの彼女だった。

彼女は私の何気ないしぐさや表情からそれを見抜いていた。
恐らく通過点としてここを離れて行く数え切れない観光客を
見続けてきた彼女は、その何かを私の中に認めたのだと思う。

彼女はビザの期限の近付いたある午後に、
心地の良い陽だまりの中で昼寝をしている私に
そっと手を伸ばし問い掛けた。

『いつになったらあなたは私達にここを離れる事を
話してくれるのかしら?』

彼女は私が起きている事も、自分の声が私に
聞こえている事も分かっていた。
それが分かっていたから、私は柔らかい芝生から背中を立てて
起き上がると、真っ直ぐに目を据えて答えた。

『明日の夕方のバスに乗らなきゃいけない』

『覚悟はしていたけれど思っていたより早いのね』

『話さなきゃいけないとずっと思っていたけど、
あんな楽しい席でどうやって切り出せただろう?』

『あなたは気を使い過ぎなのよ。私達がいつあなたに
ここから離れないでと言った?あなたはあなたの道を行き、
私は私の道を歩む。勿論彼にだって彼の道がある。
この束の間の時間はたまたま3人が同じ交差点に立っていただけ。
信号が変わればみんなそれぞれの道を歩むのよ。』

何も答えられなかった。
彼女はとてもはっきりと気丈にそれを話し終えると、
『今夜はお祝いパーティね!楽しくやりましょ!』
と言って私の背中をポンっと叩いて、街の方へと歩いて行った。

それがどれだけ私を思ってくれた言葉なのかと思うと、
何とも言えない思いがこみあげてきて、再び芝生に背中を下ろして、
ただ流れ行く雲をいつまでも眺めていた。


続く。
時刻は深夜の3時過ぎ。

僕たちは、閉店後のバーのカウンターに並んで、簡単なつまみと
ビールを飲みながら、下らないジョークで盛り上がっていた。

さっきまでの熱気が嘘のようだった。

そう、ほんの10分位前には、惜しみない拍手と歓声の中に
僕たちはいたのだ。

明確な曲目も無いその演奏はおよそ2時間位続けられた。
何の決まりも予定も無いその空間。

途中で飽きて出て行ってしまった人もいただろうし、
あまりの人だかりに興味をそそられて来た人もいただろう。
いずれにしてもシャッターを下ろすその瞬間には、
狭いバーには到底収まり切れない程の人がそこにはいた。
そして前述のように惜しみない拍手と歓声の中、
即席の演奏は幕を閉じた。

そもそものところ私の存在は予定に無かったのだ。
それは私にとっても予定外だったのだから。
ただ何となく始まった二人の遊びが2時間続いた、
ただそれだけの事だったのだ。

そんなサプライズをあたかも予定通りに進めたかのように
振舞った事が僕たちにはおかしくて仕方なかったのだ。

『僕たち』は3人だった。
演奏をした2人とそのバーのオーナー。
オーナーと言っても、若干25歳位の小柄な中国人の女性。

彼女はとてもスマートだった。
完璧な英語を話し、人が喜ぶ術を心得ていた。
そこには計算されたようないやらしさは無く、
そこにいる全ての人を笑顔にさせた。

『スマート』

こんなにこの言葉が似合う人はあまりいない。
この簡単なつまみさえも、彼女の手に掛かると、
とても手の掛かった立派な料理になる。

みんなを笑顔にさせるジョークも何もかも
とにかく彼女はスマートだったのだ。

そんな楽しい席で、彼女は意味有り気に一呼吸あけてこう言った。
『今夜は最高のものだった。もし良かったらこれからも2人で
演奏してくれない?』と。

それまでの楽しい雰囲気が一転、空気が固まる。
私はあまりに突然の事で何と答えて良いか分からない。

沈黙が続く。

最初にその沈黙を破ったのはタイ人の彼だった。
彼は私の肩に腕をまわしながら、『とても良いアイディアだ。
こんな面白い事は滅多に無い。○○(私の名前)はどうだい?』
やや間を空けながらも、私も同意する。
確かに良いアイディアだし、面白くなりそうだ。

『じゃあ決まりね!』と彼女は笑顔で言うと、
改めて僕たちは乾杯をする。


がしゃんと、レールは確実に破滅へとその列車を導いていく。

続く。